4章 青色の夜明け(1)
翌日、午前中の仕事に
朝礼が解散してからも二十分ほど待ってみたがついに彼は姿を見せず、晴史は膨大なごみを独りで収集せざるを得なかった。
リヤカーを片付けていそいそと図書館へ向かう。体調を崩したのかと樹戸の身を案じはしたものの、見舞う気は毛ほども起こらない。昼の二時を過ぎていたにもかかわらず、不思議と空腹は感じなかった。
からからに渇いた心が、シズクを求めていた。
息せき切って館内に駆け込んだが、シズクはいなかった。すぐさま屋上へ向かうも、
月丸がモンタージュの作成をシズクに依頼すると言っていたのを思い出し、極楽通りへ足を向けた。
昼の極楽通りは、壁を埋め尽くす看板にうらぶれた
物売りたちの群れにシズクの顔を捜すが、どこにも見当たらない。
「なに、買うの? 買わないの?」
路地を行きつ戻りつしていると、白のダウンジャケットを着た物売りの少女が不機嫌そうに声をかけてきた。シズクと同じか、あるいはもう少し年若い、のっぺりした地味顔を化粧で覆った少女である。彼女の足元には、街の工場で作られている爪切りが不揃いに並べられている。
じろじろと睨まれながらも、思い切ってシズクについて訊ねてみた。
「シズクって、絵を描いてる子だよね。うん、今日は隣にいたけど。一時間ちょっと前くらいに客取ってたよ。そうだよね?」
爪切り売りの少女が、左隣に座る黄色いパーカーの少女に話を振る。段ボールで作った看板には、丸っこい手書き文字で『肩たたき一回五百円 特別サービスもあるよ!』とあった。
「ああ、海苔巻きだったね、あの客。私服だったから気付かなかったけど、あの幸薄そうな顔は確かに海苔巻きで間違いないわ」
「海苔巻きって?」
割り込んだ晴史に、爪切り売りが茶髪の毛先をいじりながら答える。
「二ヶ月くらい前から、ちょくちょく見るようになったんだよ。ひょろっと背が高くて、いつも黒いレインコート着てるから、海苔巻きみたいだね、て話してたの」
「そうそうそう。顔をすっぽりフードで隠してさ、なにあいつって噂になってたよね」
ロク運びのゴミ屋だけが着る、黒いレインコート。
物売りの口に上るほど背が高いゴミ屋といえば、思い当たるのは一人だ。
「そういえばうち、あの子の絵預かってたんだ。海苔巻きが持って行かなかったからさ」
爪切り売りが、裏返してあった画用紙を晴史に差し出した。
コンテで描かれた肖像画に、晴史は目を瞠った。
血が残らず氷の粒に変わったような、ざらつく悪寒が体を駆け巡る。
心の中で「まさか」が「やはり」にひっくり返る。
どんより濁った陰湿な目で、樹戸が晴史を睨んでいた。
「それで、シズクは? どこに行ったの?」
詰問するように晴史が訊ねると、肩たたきの少女はたじろぎの表情を見せた。
「そこまでは知らないよ。けど、どこでヤるか揉めてたっぽい。ちらっと、じゃあ君の家で、とか言ってたような言わなかったような?」
晴史の顔が、ビルに阻まれて見えない二番街を向いた。
ありがとう、と礼を述べると、晴史は弾かれたように走りだした。「ちょっとおい、買わねえのかよ!」と爪切り売りの罵言が噛み付いてきたが、晴史は振り向きもせず、二番街を目指して駆け出した。
ジグザグに折れ曲がる狭い路地を、倒けつ転びつしながら走り抜ける。角の雑貨屋を通り過ぎるとき、パーマ頭の肥えた中年女とぶつかりそうになった。「どこ見てんのよ!」と声を荒らげる中年女を尻目に、ひたすら走り続ける。
細切れの空から乾いた陽射しがイタギリに降り注ぐ。窓に干した
イタギリの風景が、音が、臭いが、次から次へと押し寄せては背後へ飛び去っていく。
冬の風にそよぐ洗濯物。道端に落ちたセルロイドの人形。製粉機械が稼働する音。路上に散らかるごみ。赤ん坊の泣き声。聳え立つビルは真冬の太陽をすっぽり隠している。
人の気配が薄い二番街に着いたときには、すっかり息が上がっていた。
丑首ビルの入り口で膝に手を当て、喘ぎながら213号室の窓を見上げる。閉ざされた窓の擦りガラス越しでは、部屋の様子を窺うことはできない。
呼吸もろくに整わないまま、一段ずつ足元を確かめるようにして二階へ上る。
階下から漏れ聞こえるデスメタルのバスドラムよりも速いテンポで、胸の鼓動が肋骨を叩き続ける。早く確かめなければという焦りが足を速めようとしたが、同時に、この先に待ち構えている何者かへの懼れが足を鈍らせる。
213号室に到着した。ドアに耳を寄せる。物音は聞こえない。
ノックしようと握った手を解き、ドアノブを回す。
鍵は開いていた。
ゆっくり押し開けたつもりだったが、
短い廊下の奥、茶の間の窓から射し込む光は前に訪れた時と同じく白い。
壁の陰から、黒いシルエットが上体だけ出して晴史を認めた。
角ばった撫で肩。短い髪。平らな胸。細身のシルエット。
「よくここにいるって分かったね」
半年近くを共にして散々聞いた、穏やかだがどこか
「ここで何してるの、樹戸さん?」
「僕はこれまで、精一杯我慢していたんだよ」
「だから、何してるって訊いてんだよ!」
樹戸がゆらりと立ち上がる。
全くの裸だった。
「彼女が君のお気に入りだと知っていたから、僕は我慢して、我慢して、我慢して、我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢に我慢を重ねて、自分の欲望に全力で抗っていたんだ」
裸の右手も、胸も、腹も、薄闇より濃い黒に濡れている。
逆光のせいで、表情はよく見えない。
「だけど駄目だった。我慢は限界点に達した。
途轍もなく厭な予感が、晴史の脳天を貫いた。
靴を脱ぐのももどかしく上がり込み、樹戸を押し退けて六畳間に飛び込む。
古いチェスト。写真立て。窓際に座る包帯姿の母親。畳の上に散らばる画材。
敷きっぱなしの布団だけが、以前見たときと異なっていた。
「若い子はいいものだね。感触が違う。弾力が違う。年増の商売女とは大違いだよ」
シズクが一糸も纒わない姿で横たわっていた。
滅多刺しの腹に刺さったままの太いナイフを柱に、血の大輪が咲いている。
なんだよ、これ。
頭が真っ白になりかける中で、ぞわりと身の毛がよだつ気配を左半身に感じた。
「僕だけの傑作を書くための準備作業さ」
樹戸の粘っこい薄ら笑みが、すぐ真横にあった。
「優れた作家は、独特の価値観や美意識を持っている。人並みではない経験や特殊な
「だから僕は、自分の中に不足しているものを埋めるための行動を起こすことにしたんだ。都合良く、三行半を突き付けられてたしね。僕は妻を殺した。娘も殺した。母親と離れ離れにしたんじゃ可哀想だろ? 二人とも殺して、山に埋めてやった。罪悪感は全然無かった。彼女たちは僕の人生の足枷でしかなかったから。けど、最期の最期で僕の役に立ってくれたよ。圧倒的な死のリアリティを僕に提供してくれたんだ」
樹戸がさらに顔を寄せてきた。
生暖かく生臭い息が頬にかかり、思わず顔を背ける。
「だけど、日を追うにつれて妻と娘を殺した時の記憶が薄れてしまったんだ。無我夢中で殺したせいもあるのかな。この街に住み始めた頃には、あれほど厭だった凡夫にすっかり逆戻りさ。こんなんじゃ傑作を生むなんて夢のまた夢。焦燥感は募るばかりだ。どうしたものかと思って、花瓶に活けてあった花を使って占ってみたんだよ。花びらを毟りながら、殺す殺さない殺す殺さない殺す殺さない殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。全部の花を毟っても結果は殺すだったから、じゃあそうしようってね。闇鍋に声を掛けて物陰に連れ込んで口を塞いで首を切って胸を刺して腹の中を引っ掻き回した。竹林さんはおかしなことを考えるなと暗に釘を刺してきたけど、応援するって言ったのもあの人じゃないか。理不尽極まりない。だから退場してもらった。竹林さんの過去を聞いたときには、失笑しそうになったよ。僕に偉そうな説教しておきながら、自分も激情にかられて人を殺していたんじゃないか、てね」
耳元で、樹戸がくっくと含み笑いを漏らす。
「そうしてるうちに僕の中で新たな欲が芽生えてきたんだ。じっくり知りたくなったんだよ人がどうやって死ぬのかを。兇暴な殺意を突きつけられてどんな風に人が怯えるかを。死の恐怖は人間の本質に大きく関わっているからね。絞殺。刺殺。撲殺。浴槽で溺死させたこともあった。腹に刃を差し込んだらどんな感触が手に伝わるのか。悲鳴はどれくらいの高さで上がるのか。それとも恐怖と苦痛で息が詰まって声が出せなくなるのか。喉をどう切れば悲鳴を殺せるのか。どれだけ強く絞めれば首の骨が折れるのか。頭蓋骨はどこが一番脆いのか。血の生温さと粘り気と臭い。動脈と静脈とで流れている血の赤みはどれほど違うのか。最期の息は吸気か呼気か。生と死の分水嶺は果たしてどこにあるのか。全てを冷静に観察して五感で確かめて納得いくまで脳の奥にすり込みたいんだ。その感触が頭から離れてしまわないように僕は闇鍋を殺して回った。何人も殺して何人も腹を割いてやった。時には卵巣を口に含んで味を確かめたりもした。あれは苦くて食えたものじゃないね」
樹戸が肩に手を回してきた。
首筋に当たる冷たい感触に、うなじが震える。
「君は無知だけどいい奴だ。君と争いたくはない。大切な仕事仲間であると同時に掛け替えのない友人だ。獲物は取り逃がしても新しい獲物を探せばいい。しかし一度壊れてしまった友情は修復し難い。君の入れ知恵で僕は仕事がしにくくなったけれどそれについては大目に見よう。僕は寛容だからね。僕はこれから彼女の体で心ゆくまで欲望を吐き出すつもりだ。若い子は初めてだから腕が鳴るよ。見物したいならそれも結構。邪魔されないように『それなりのこと』はさせてもらうがね」
樹戸がまたぞろ低く嗤った。
逃げなければ。
意思に反して、足は根を張ったように動かない。
益体もないアドレナリンの分泌が、徒に鼓動を跳ね上げる。
樹戸が、つい、と身を離す。
その刹那、視界の隅で影が躍った。
刃の煌めきが樹戸の首筋を深々と抉る。
太陽の紅炎のごとく、血の飛沫が噴き上がった。
一滴もこぼすまいと樹戸が添えた手の隙間から止めどなく血は溢れ、褪せた畳をびたびたと濡らす。
「なんで……そうか、君は……」
愕然と見開かれた樹戸の右眼を、鋭い切っ先が啄んだ。
血と絶叫を撒き散らしながら、樹戸が膝を折る。
刃がその首筋をさらに切り裂いた。
新たな鮮血が一筋。
眼球がぐるんと上を向き、樹戸は床に倒れ伏した。
「話、長い。隙だらけ」
裸の腹を濃紅に染めたシズクが、ナイフを握って立っていた。
黒目がちの双眸が犬の糞を見るように樹戸を見下ろす。
切断された動脈から流れ出る血はとろとろと、勢いを失っていた。
何が起きたのか把捉できず、晴史はただただ唖然とするばかりだった。
シズクの腹を抉り樹戸を切り裂いたナイフが、細い手の中から滑り落ちた。
頽れるシズクの体を、倒れこむ寸前で晴史が抱き止めた。
グレーの作業着が、血でみるみる染まる。
「不便だね、わたしの力。こうなるって全然分からなかった。自分の顔くらい描いておけばよかった」
「喋るなよ、傷に障るから」
乳房、腹、鳩尾、脇腹、臍下。
赤黒い暴虐の痕跡が、シズクの柔肌に刻み込まれていた。
「医者を呼んでやるから、もうちょっと頑張ってくれよ」
腰を浮かしかけた晴史の作業着の裾を、シズクがそっと掴んだ。
「呼ばなくていいよ。たぶんもう手遅れ」
「手遅れって、何言ってるんだよ! 大丈夫、絶対に助かるから」
シズクが首を横に振り、晴史の右手を胸の膨らみへ導く。
ゴミ屋の仕事でがさがさになった指先が血に濡れる。
あるべき脈動は、白い胸のどこにも見つからなかった。
「シナズ……」
呟いた晴史の背中に、何者かが伸し掛かってきた。
短いシズクの悲鳴。
重みで胸が押され、息が詰まる。
首を捻ると、血走った左眼を大きく見開いた樹戸の蒼白な細面があった。
右の眼窩からどろりと粘っこい血が溢れ出し、晴史の横顔に落ちた。
「樹戸さんも……」
「何故僕の邪魔をしたっ!」
樹戸は怨嗟と憤激に染まった顔をシズクへ向けた。
頚動脈からの夥しい出血は、彼の肩と胸板に樹枝状の模様を作っていた。
「君はとんでもない事をしてくれた。君の蛮行は僕への、いや、文芸そのものへの叛逆だ。君のせいで僕は忌まわしい体に成り下がった。いずれこの体は腐ってしまう。もう間に合わない。書き上げる時間が足りない。君は罪人だ。永遠に残る傑作を完成させる機会を奪った大いなる罪だ」
涎と血が混ざった飛沫が、樹戸の薄い唇から飛ぶ。
「だから僕は君から大事なものを奪う。君が僕から命を奪ったようにね。等価交換だよ。さっきみたいな不意打ちはもう通じない。だって僕はもう死んでいるんだからね。指を銜えて君の大切な少年が殺される様を眺めるといい」
樹戸の手が晴史の首に掛かる。
抗う晴史を嘲笑うように、指が首筋にみしみしと食い込んでいく。
狂気でぎらつく樹戸の隻眼が、晴史の顔を覗き込む。
新たな血が絶え間なくぼたぼたと降った。
「知っているかい晴史くん。古代アステカでは戦いの勝利を祈念するとき捕虜の心臓を神に捧げたんだ。そうだ、そうだ、そうだ、君を殺して胸を割いてまだ生暖かい心臓をほじくりだして神へ捧げる供物にしよう。神に赦しを乞うのさ。作品を完成させるだけの時間を授からなければならないからね。これは復活の儀式さ」
樹戸の支離滅裂な言葉に、血が凍りつく。
絞め上げられた喉から、げえ、と音が漏れる。
シズクが樹戸に背後から組み付いたが、呆気なく振り払われた。
――駄目かもしれない。
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