4章 青色の夜明け(2)

視界が一瞬、真っ暗になる。

 遠退きかけた意識の中で、晴史は何かが破裂したような音を聞いた。

 靴底が床を蹴る、荒々しい足音。

 衝撃が晴史と樹戸をまとめてなぎ倒し、次の瞬間には首からいましめが消えていた。

 咳き込む晴史の前に、仁王のごとく屹立きつりつする月丸の姿があった。

「この野郎、猿芝居打ちやがって。なにが、どこかでお会いしましたっけ、だ!」

 怒号とともに、樹戸の顔面めがけて前蹴りが放たれた。

 弾き飛ばされた樹戸の体が安楽椅子にぶち当たり、座っていたシズクの母ごと畳の上を転がった。膝の上にあった壺は壁まで転がり、中身が辺りに散らばった。

 樹戸に伸し掛かった月丸の拳が、樹戸の頭を、肩を、胸を、腹を、一片の情けも容赦もなく打ちのめす。樹戸も応酬はするものの、さすがに相手が悪すぎた。肉食獣に組み敷かれて息も絶え絶えとなった小さな草食動物を見るようであった。晴史を圧倒した膂力も、荒事慣れした月丸の前では赤子の無力に等しい。

 やがて樹戸は、ぐったりと殴られるがままになった。顔面はあざにまみれ、くの字に曲がった鼻の穴からは血が流れ出していた。

「手間かけさせやがって、この変態が」

 肩で息をしながら月丸は太いケーブルタイを尻のポケットから抜き、樹戸の手首と足首を縛り上げた。遠慮は不要とばかりにきつく締めると、樹戸は低い呻きを漏らした。

「遅くなって悪かったな、ハル。手間取っちまった」

「ほんと遅い。わたし刺された」

 うつ伏せに倒れたままのシズクが不満を垂れると、月丸はようやくシズクが血まみれであることに気付いたようで、「シナズが二人、か」と苦々しげに独り言ちた。

「これもお前の予言のうちか?」

 渋面の月丸に、シズクは首を縦に振る。

「この男の結末を聞いたの。くびめったざし。きっとこの男は、わたしに殺されるんだって思った。巧くやれる自信もあった。だから誘った。まさかわたしまで滅多刺しにされるとは思わなかったけど」

「予言を聞いたから刺した、てか?」

 月丸は片眉をぴくりと上げ、冷たい視線をシズクに当てた。

「何考えてんだかさっぱりだけど、お前も随分とイカレてんな」

「それより、どうして月丸さんがここに?」

 絞め上げられた首元をさすりながら、晴史が声を絞り出した。

 転がしたままの樹戸を、塀にぶちまけられた反吐へどを見るような目で月丸が睨む。

「こいつとさっき極楽通りで鉢合わせたんだけどな、こいつ、俺が忘れやすいのをいいことに、他人のふりをしてしらばっくれてやがったんだ」

「どうして……さっき会うまで、君とは何日も会ってなかったはずだ」

 頬に血の紅色をこびりつかせた樹戸が、苦々しく唸った。

「ああ、そうさ。だから最初は気付けなかった。けど、それから飯を食って、出入りしてる店に何軒か顔出して、道端で小便をしてる最中に、頭の隅っこでチリッと何かが引っ掛かる感じがしたんだ。もしかすると神様がくれた、ちょっと遅めのお年玉なのかもしんねえ。ザルみてえな俺の頭が、ほんの欠片程度で素性も分からねえけど、忘れてたはずの人間を思い出すことができたんだからな」

「だけど、そんな些末な違和感と勘で、僕を特定できるはずがないだろう」

「勘じゃねえ。この写真と覚え書きのおかげだ」

 メモ代わりの端末機の画面には、極楽通りで月丸が撮影した三人の写真が表示されていた。

 手書きのメッセージを書き入れられるアプリケーションを使っているようで、樹戸の顔の近くには、赤いバツが大きく添えられている。

「いつ撮ったのかはもう、憶えちゃいないけどな。おおかた、この頃に商売女から集めた証言と重なるもんがあったけど、証拠が固まってなかったから疑うだけに留めたんだろうな。神様だけじゃねえ、過去の俺にも感謝だ」

 月丸は得意気に小鼻を膨らませた。

「物売りにこいつを見せたら、また海苔巻きの話か、てうんざり顔になってな。詳しく聞いてみたら、ちょっと前に同じように訊ねてきたガキが、事情を聞くなり血相変えて走ってったって言うじゃねえか。ピンと来てよ、仕事をほっぽって駆けつけてみたら見事にビンゴってわけだ」

 月丸が端末機を操作すると、顔を突き合わせる三人を写した画像が、ディスプレイの中へ吸い込まれるようにして消えた。

「おっといけねえ、報告報告」

 月丸はどこかに電話を掛けた。「そうッス、そうッス。捕まえたッス」と話しているところを見ると、相手は地回りのようである。

「んで、このミイラは何なんだ?」

 通話を切ると月丸は、横ざまに倒れたまま動こうとしないシズクの母へ視線を移す。

「わたしのお母さん」

「占いママか。あんだけの騒ぎがあったのに、暢気のんきなもんだ。つうか、なんで包帯なんか巻いてんだ?」

「一年前から病気で、調子が悪いの。包帯を巻いたのは、肌がただれているから」

「ふうん、病気ねえ」

 月丸が遠慮会釈もなく、占いママの肩を指でつつく。

 腹這いのままでシズクが「やめて」と鋭く一言を発した。

「つうかよお、これ死んでね?」

 シズクが目を見開く。占いママは何も答えない。

「死んでない。お母さんは生きてる。体の調子が悪いから、自力で起き上がることができないの。だから、変なことしないで」

「だってよ、こうして俺たちが話してるってのに、石ころみてえにまるで反応しねえじゃねえか。俺が触っても、ぴくりとも動かねえ。つうかほら、脈も無えじゃねえか。これのどこが生きてるっつうんだ?」

「そんなことない! 休んでいれば、いずれよくなるの。適当なこと言わないで!」

 声を尖らせたシズクに、月丸が首を振る。

「適当じゃねえ。俺が使いっ走りだった頃からな、占いママはやばいって言われてたんだ。いつかありゃあ死ぬぞ、てな。その頃の俺には、それがどういう意味だかよく分からなかった。やばいやばい言う割には、占いの依頼を止めることはなかったしな」

「いつか死ぬって、月丸さん、それどういう意味?」

 ようやく喉が落ち着き、晴史は会話に割り込んだ。

「今朝な、地回り連中が茶飲みがてらに占いママの話をしてたから訊いてみたんだ。またかこれで何度目だ、てうんざりされたけどな。なあハル、この部屋ってよ、やけに物が少ないと思わねえか?」

 月丸が言う通り、213号室には日用品や調度が少ない。貧乏くさいチェストと、占いママが座る安楽椅子のほかは、家電製品も無ければ箪笥も座卓すらも無い。

「占いママは、べらぼうな金を取っていたんだ。それこそ、ここいらの人間が頼もうものなら、何ヶ月かは飲まず食わずを覚悟しなきゃならねえ額だ。にもかかわらず、この家には金の匂いが全くしねえ。どうしてだと思う?」

「お薬が……高かったから」

 答えたのはシズクだった。「そう、お薬だ」と月丸が引き取る。

「薬は薬でも、体を治す薬じゃねえ。壊すほうの薬だ。占いママは、覚せい剤にぞっこんだったんだ。あれはハマるとちょっとの量じゃ満足できなくなるから、金がいくらあっても足りやしねえ。占いで稼いだ金を、そっくりシャブにつぎ込んじまう。吐いたゲロを飲み込んでまた吐いてを繰り返してるみたいなもんだ。組合も地回りもこれ幸いと、占いママをじゃんじゃん利用した。ヤクも手掛けてるからな、連中は。いくら依頼料が高くてもそっくり懐に戻って来るんだから、使わねえ手はねえな」

「イカレた女の子の母親はシャブに首ったけ。この娘にしてこの母あり、だね」

 わらう樹戸の顎に、月丸の蹴りが飛んだ。

「シャブは禁断症状がひでえ。薬が切れたらどうしようもなくイライラしたり不安になるから、逃げるためにまた打つ。いくら打っても終わりがねえ。気付かねえうちに、頭も体もぼろぼろよ。おおかた占いママも、シャブの打ち過ぎで脳みその血管が切れたか、内臓がやられちまったかして死んだんだろうよ」

 月丸が舐めるように包帯姿の占いママを眺め回す。

「やめて、お願い」と、シズクは呻くような声で懇願こんがんした。

「たぶんこの下は、からからに乾いた肉がぎっしり詰まってるはずだ。よくもまあ、人間の形を留めてるもんだ。包帯でぎちぎちに巻いたおかげかね」

「でも、声は聞こえるの。世話をしてくれてありがとう、とか、こんな体でごめんね、とか。滅多に話しかけてくれないけど、たまにそう言うの。お母さんが良くなったらどこかに行きたい、てわたしが言うと、そうね行けるといいね、て答えてくれるの」

 聞き分けのない子どもを諭す大人の顔で、月丸がシズクを見返す。

「なあ、いい加減認めちまえよ。死んじまったことは、ずっと前から気付いてたんだろ? 気付かねえわけねえよな、同じ部屋にいるのに。母親がまだ生きているって、自分に嘘ついて一人芝居をしていただけだ。母親の死体を人形代わりにしてな。違うか?」

 シズクは下唇を噛み締めて険しい目を向けたが、月丸はその視線を受け止めてもなお落ち着いていた。

「声が聞こえたっつうけどよ、そりゃお前の願望が聞かせた幻聴だ。占いママはそこまで慎み深い女じゃねえよ。シャブで正気も性根もぶっ壊れちまった因業ババアだ。死んだのをいいことに、お前は理想の母親をでっち上げてるだけだ。病気で肌がただれたって? 言葉を間違えんなよ。腐ったっていうんだぜ、それはよ」

「そんなこと――」

「止めろよ!」

 見かねた晴史が叫ぶと、月丸の口が止まった。

「それ以上、何も言うな! もう止めろ!」

 晴史の剣幕に月丸は鼻白んだが、しかめ面をしてがりがりと頭を掻いただけで、占いママについてそれより触れはしなかった。

 シズクの顔は今にも泣き出しそうなほどクシャクシャだったが、シナズになって涙腺が機能しなくなっているのか、彼女の眦からは一滴の涙もこぼれなかった。

 白けきった顔をぶら下げて、月丸はすっくと立ち上がった。

「とにかくまあ、俺はこの変態を組合に突き出す。シナズだから『手切り』はねえだろうが、証拠は持っていかねえとな」

 樹戸を軽々と肩に担ぎ上げて部屋を去りかけたところで、「おっといけねえ」と月丸は端末機を取り出し、片手だけで文字を打ち込み始めた。

 晴史に見せた画面には、《ハルとこんど めしを食う》と記されていた。

「そんじゃハル、またな」

 いつもより静かな調子で別れを告げると、月丸は部屋を去った。

 六畳間には晴史とシズク、横たわるミイラだけが残された。

 階下の騒々しい楽曲はメロディアスなバラードに変わっていた。

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