3章 緑色の残陽(5)


 ゴミ屋が片付ける死体は、死肉や臓物ぞうもつが残っているものばかりではない。風化して骨だけ残った死体や、街に入り込んだ野良犬に食い散らかされた死体もある。

 この日、晴史たちが回収したのは、鼡の巣になった赤ん坊だった。八番街の捨て場から集積場へ向かう途中、偶然発見したのである。組合からの要請でなければ手当は出ないから、見て見ぬふりで通り過ぎるのが得ではあったのだが、小さなむくろが食い荒らされている痛ましさに足を止めざるを得なかった。

「赤ちゃんの死体は、居たたまれない気分にさせられるね。まだ善悪も分からない幼子がどれだけ恐怖で震えたのかとか、他所よそで生まれていたらこんな目に遭わずに済んだのかとか想像すると、胸が引き裂かれそうになるよ」

 細切れの腕をトングで拾う樹戸の憐憫れんびんが、どこまで本心なのかは測りかねた。

 嬰児えいじの死体はその半分以上が喰われていたこともあり、焼却炉を稼働させる時間はいつもよりもずっと短かった。

 骨とリヤカーの片付けに「いつも君にばかり押し付けて申し訳ないから」と珍しく樹戸が同行を申し出たが、晴史はぼんやりしていて聞き流してしまった。荷台を後ろから押す樹戸の存在を晴史がようやく意識したのは、極楽通りまであと十メートルほどに差し掛かった地点だった。

「どうしたんだい、晴史はるふみくん?」

 思わず足を止めると、怪訝けげんそうな声が背後から掛かる。焼却棟からの帰りに極楽通りを使うことは、樹戸には秘密にしていた。

「何でもない、ごめん」

 誤魔化ごまかしはしたものの、心臓を大きな舌で舐め回されたような不快が胸に広がった。

 車輪が路地を擦る音とフレームが甲高く軋む音を曳きながら、二人は極楽通りを行く。年の瀬が近いせいか、通りには男たちの姿がいつもより多い。集まる視線の痛みには慣れているはずなのに、この日ばかりは黒いレインコートがいやに疎ましかった。

 黄ばんだ街灯に照らされた通りを半ばまで進むと、街娼の姿も目立って増える。野良花や物売りは、ゴミ屋の二人組には見向きもしない。男扱いしてくれるのは闇鍋だけで、暗がりから「どう? 七千円」といささかの艶っぽさもなしに呼び掛けてくる。

「あ、似顔絵の子がいるよ」

 一番避けたい遭遇が間近なことを、有り難迷惑にも樹戸が教えてくれた。通りを見つめたまま鉛筆を動かすシズクの姿をはっきり捉えた。「今日の体は売り切れです」と言わんばかりの地味な出で立ちは、通りで見かける普段の通りの彼女だった。

「ねえ君、前にも会ったよね」

 気付かぬふりでやり過ごそうとした晴史の心など知らず、樹戸がシズクに声を掛けた。

 晴史の姿を認めたシズクは二、三度瞬きをしただけで、表情のないまま首を軽く傾げた。

「ほら、これくらいの背が低いお爺さんを描いてもらった、あの時だよ」

 身振り手振りを交えた樹戸のアピールにも、シズクは「毎日たくさん描いてるから」と鰾膠にべもない。

「せっかくだから僕らも描いてもらおうよ、晴史くん」

「俺はいいってば。ほら、行くよ」

 晴史は取り合わず一歩踏み出した。

「まあまあ、いいからいいから」

 荷台を掴まれ、がくんと後ろに仰け反る。

 晴史が文句を言うより早く、樹戸はシズクの前に屈みこんだ。

「一枚描いてもらえないかな」

「わたし物売りなんだけど」

「ああ、そうかそうか。じゃあ、絵だけで」

 樹戸を見るシズクの表情がかすかに曇ったのを、晴史は見逃さなかった。

 三分後、描き上がった自分の肖像画を見て、樹戸が感嘆の吐息を漏らした。黒いレインコートを着た細面の壮年男が、白黒の世界の中でうっすら笑っている。

「あれ、今日は一言書かないのかい?」

 画用紙の表面を指でなぞりつつ、樹戸は隠された暗号を探すように絵をめ回した。彼が指摘した通り、余白は余白のままだった。

「いつも、聞こえるとは限らないから」

「聞こえるって、何が?」

 樹戸の問いに、シズクは口を噤んだ。

 彼女の瞳には、余計なことを口走ってしまった後悔がちらついていた。

「ふうん、よく分からないけど」

 絵を手にして、樹戸が立ち上がった。

「僕はひとまず、命の危険を心配する必要はなさそうだ」

 シズクは顔を上げて、樹戸をまじまじと見つめた。

「一体何のこと」

「竹林さんの似顔絵を眺めながら、考えてみたんだ。竹林さんの絵には、妙な文字が書いてあった。それからすぐに竹林さんは死んだ。この二つの事柄に何かしら結びつきがあると考えてもおかしくないんじゃないかな」

「ただの偶然じゃないの」

 シズクが耳元の髪をかき上げる。

「偶然にしては出来過ぎているってことさ」

 樹戸は演技がかった重々しい面持ちで腕組みをした。

「だけど、たった一つの事例だけで結論付けるのは妥当じゃない。複数のサンプルをクロスチェックして共通項を抽出し、類推と分析を重ねた上で再現検証をしてこそ、帰納的に理論付けが可能になる。現状ではまだ、絵に記された文字の有無という相違が見られたという事実しか提示されていない。これだけじゃ判断材料は十分とは言えない」

 樹戸は晴史に顔を向けた。

「というわけで、晴史くんも描いてもらいなよ。サンプルは出来得る限り、多く集めたほうがいいからね」

「だから、俺はいいってば」

「どうしたんだ、そんなに頑なに拒むなんて。もしかして、怖いのかい?」

 樹戸が嗜虐的な目で、晴史の顔を覗き込む。

「俺が何を怖がってるっていうのさ」

「もちろん、彼女が絵に文字を書き入れることをだよ。竹林さんのときみたいに、自分の絵にも何かしらの文字が書かれて、災いが身に降り掛かったらどうしよう、なんて怯えているんじゃないかい?」

 ――そんなわけないさ。

 抗言が喉から出掛かったが、シズクの予知能力を知った今となっては、巧く誤魔化せる自信がない。

「それとも君が怖いのは、彼女に顔を描かれること、そのものなのかな? 彼女の眼には自分がどんな風に映っているのか、彼女が自分に抱いている印象がどう絵に表れるのか、知るのを恐れているのかな? とんでもない醜男ぶおとこの似顔絵が出来上がったらどうしよう、て危惧しているとか?」

 二人の仲を知った上でからかっているかのような口振りが腹立たしかった。

 晴史はシズクの眼前にしゃがみ込んだ。

「描いて、俺の顔も」

 挑発に乗ってしまうのはしゃくだったが、収まりが付かなかった。

 シズクは躊躇ためらうような素振りを一瞬だけ見せたが、鉛筆を手にとって描写を始めた。

 眼や鼻、耳の穴、口の中、頭の奥まで愛撫されるようなむず痒さをじっと堪える。

 シズクの双眸が不安で揺れていることに晴史は気付き、軽く彼女に頷いてみせた。

「できた」

 晴史の受忍は、きっちり百五十秒で終わった。

「へえ、やっぱりよく描けてる」

 差し出された絵を、背後から樹戸が覗き込んできた。

 描かれていたのは、眉をハの字に曲げた少年の肖像だった。

「なんて顔してるんだ。まるで描かれるのを嫌がっているみたいだ」

「嫌がってるだなんて――」

「あれ、こっちも文字が無いな。これじゃ検証のしようもない」

 樹戸はシズクの顔を意地悪そうに覗き込んだ。

「それとも本当は書くべき言葉があったけど、わざと書かなかったとか?」

 シズクの瞳が揺れたとき、昼白色の閃光が視界を切り裂いた。

 青い残光が極楽通りの情景を塗りつぶす。

「おー、ナイスショット。って、あれ、ナイスショットって写真で使う言葉だっけ?」

 情報端末機を顔の前にかざす月丸を認めて、樹戸が不快を露わにする。

「勝手に撮らないでもらえますかね。写真は嫌いです」

「別にお前らを狙ったわけじゃねえよ。あちこち撮って回ってるんだ」

 月丸は明後日の方向へ端末機を向け、「ナイスショーット!」とシャッターを切った。

「こうして撮った写真を後で見直せば、怪しいもんが写り込んでるかもしれねえだろ? まだイカレ野郎が捕まってねえんだからな、やれる事は何でもやっとかねえと」

 月丸は端末機を何やら操作すると、「それじゃな」と立ち去りかけたが、何事かを思い出したように晴史の許へ小走りで駆け寄った。

「例のアレ、ばっちり進んでるぜ」

 それだけ言い残すと、月丸は今度こそ箱入りの店へ飛び込んだ。

 浮き立つ月丸の姿に、晴史はじわじわと充足感が心に広がるのを感じた。

 学校に行かず、同年代のコミュニティに入れなかった彼はいじめの的にされていた。心無い言葉を浴びせられ、小突かれ、疎外された。そんな晴史をかばい立て、可愛がってくれたのが月丸である。

「俺もガッコーに行ってないからよ。父ちゃんも母ちゃんもいねえんだ」

 照れくさそうに笑った月丸を、彼は今でも昨日の事のように思い出す。

 月丸に報恩できていることが、晴史には何よりの嬉しみであった。

「相変わらず賑やかな人だな。正直なところ、ちょっと苦手だよ」

 樹戸が苦い顔で頭を掻いた。

 もし樹戸に昔の話を聞かせたら、彼は月丸への評価を改めてくれるだろうか。

「じゃあ、そろそろ行こうか。絵をありがとう」

 路地の三分の一を塞いでいたリヤカーが再び動き出す。通行人や物売りの迷惑顔が、やっと動く気になったか、と言いたげに弛緩した。

 路面の細かい凹凸がごりごりと、ハンドルを通って晴史の手に伝わってくる。錆びた包丁で切った手からも長芋顔に切られた肩からも糸は抜かれていて、痛むことはほとんど無くなっていたが、その夜に限ってはいやに傷跡が疼いた。

「結局、竹林さんの絵に書かれた文字の謎は分からずじまいか」

 落胆の声を上げた樹戸に、晴史は振り返った。

「そんなこと知って、どうしようっての?」

「物書きとしての、純粋な好奇心さ。最も忌まわしく、しかし絶対的に不可避な死という現象を事前に察知できる能力が実在するとしたら、とても面白いと思わないかい?」

「いや、俺は別に」

 晴史が見せた不粋に、樹戸はわざとらしく嘆息した。

「つまらないな、晴史くんは。好奇心は知識の源泉だよ。見聞きしたことに関心を抱かないようじゃ、人間として終わってる。食物を排泄する管でしかないよ」

 強弁を張る樹戸の肩越しに、目を細めて往来を眺めるシズクの姿が見える。いつもと変わらず沈着としながらも、どこか不機嫌そうだった。

「彼女は実に興味深い子だ。今度、取材を申し込んでみようかな」

 樹戸は舌舐めずりするような薄ら笑いを浮かべた。

 その顔を見た途端、神経がざわつく気味の悪さを覚え、晴史は前に向き直った。

 ハンドルを握る手に、自然と力が篭もる。

 組合の屋舎に到着するまでの間、樹戸はあれこれとのべつ話し掛けてきたが、晴史は後ろを振り向くことができなかった。


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