1章 黄昏色の炎(4)



「二日連続とは、まったく因果な商売ね」

 四番街への途上、竹林たけばやし老人が取って付けたような憂欝ゆううつを溜息と一緒に吐き出す。

 自分が引き受けたくせに、と晴史はるふみは心で毒づきながら、仕事内容について訊ねた。

「ええっと、同居人が風呂場で発作を起こしたまま逝ってしまったから引き取ってほしいらしいわ。ロクは湯船に浸かったままだそうよ」

「湯船から引き上げたりしないんですかね?」

 晴史に代わってリヤカーの曳き手を引き受けた樹戸が、慣れない操舵に苦戦しながら口を挾んできた。

「死体に触れるのが気味悪くて、そのままにしておくケースもよくある事よ。追い焚き中に死んじゃった、てのじゃなきゃいいけどね」

「追い焚きしてると、何があるんですか?」

「煮込まれちゃうのよ、死体が。どろどろの人肉スープで湯船がいっぱいになるの。あれってば面倒なのよねえ。残らずすくわなきゃいけないから」

 樹戸きどが胃の辺りを押さえてうめさまを、竹林老人は愉快そうに見ていた。

 現場は四番街の奥にあるビルだった。

 狭い階段を三階まで上り、手前から三番目の部屋の呼び鈴を押すと、部屋の中から「あーい」と気怠い応えがあった。

 二重の玄関扉を開けて顔を出したのは、無精髭を生やした金髪の若い男だった。すきっ歯から漏れる息が甘ったるい。

「ああ、掃除のシト? やっちゃってやっちゃって」

 惰眠をむさぼっていたのか、目脂めやにのついた目を擦りながら男はバスルームを指差した。

 晴史はレインコートの袖をぐっと手の中に握りこんで、擦りガラスがめこまれた引き戸を開けた。竹林老人の脅かしは、彼の心にもしっかり届いていた。

「なんだ、綺麗なもんじゃないの」

 拍子抜けした竹林老人の声が、狭いバスルームに反響した。

 湯船の縁にしがみつくような恰好で、全裸の若い女が水に浸かっていた。腐ってもいなければ血が飛び散った痕もない、竹林老人が発した通りの綺麗な死体だった。

 晴史と樹戸とで、死体の脇に腕を差し込んで湯船から引き上げる。命を失ってもなお豊満なままの乳房が、晴史の二の腕に柔らかな感触を残した。

 死体の膝が湯船から出たところで、竹林老人が手を貸した。正体を失くした酔客を運ぶ要領で、上体と足を三人がかりで抱きかかえて納体袋の上に寝かせる。

「陰毛が濃い女は情が深いって言うけど、この子はどうだったのかしらね」

 女性経験が無い晴史ではあったが、ロク運びで全裸死体はげっぷが出るほど目にしている。竹林老人の俗説が正しいならば、この女性は男に尽くすタイプだったのだろう。

 袋のジッパーを足元から上げた竹林老人の視線が、死体の頚部けいぶで止まった。枯れ枝のごとき指が、うっすら浮き上がった喉仏をなぞる。

「この子、殺されてるわね」

 衣擦きぬずれよりも細やかな声だったので、危うく聞き落としそうになった。

 竹林老人が指し示した箇所を見ると、確かに細いロープで絞め上げたような痕跡が、首を何周もしてくっきり残っている。

「どうするんですか?」

 樹戸の囁きに答える前に、竹林老人はジッパーを全閉にした。

「どうもこうもないわ。いい、樹戸ちゃん。ひとつ教えてあげるわ。この街では、病死以外は全部『自殺』よ」

「自殺って……だって、この痕は」

「余計な詮索はしないの」

 竹林老人の鋭い一言に突き刺され、樹戸は口をつぐんだ。

「背中にナイフが突き立てられていようが、脳みそが沸騰するまで頭をあぶられていようが、あたし達の仕事がやりやすいくらい切り刻まれていようが『自殺』でいいの。何よりこのロクは、発作ってことで申請されてるじゃないの。それとも、薮をつついて毒蛇にがぶっとまれたいのかしら?」

 返答に窮する樹戸をよそに、竹林老人はバスルームの扉を開いて上半身だけを出した。

「それじゃあ、持っていくんで。あとは組合によろしくぅ」

 再び「あーい」と眠そうな声が返ってきた。同居人の死を悼む様子などまるで感じられなかった。

 死体を担ぎ、一段飛ばしで階段を降りきったところで、晴史は大きく息を吐いた。鼓動に合わせてこめかみがびくんびくんと脈を打つ。樹戸は言葉もなく、血の気が失せた唇を震わせている。竹林老人は「いやあ、冷や冷やしたわね」と言いながらも、余裕綽々しゃくしゃくでスキットルに口を付けている。

「この仕事をやっている以上、こういう修羅場にはちょくちょく出くわすわ。ハル坊も緊張したでしょ」

「誰かに殺された死体は何度も見たけど、さすがに人殺しのすぐ近くで――」

 言いかけ、晴史は慌てて言葉を呑み込む。階段の死角で、先程の金髪男が息を詰めて聞き耳を立てる姿を想像して、身震いが起こった。

「痴情のもつれ、ですかね」

 四番街が完全に見えなくなった地点で、樹戸がようやく口を開いた。

「動機なんてどうでもいいわ。勘繰るなって何度言わせれば気が済むのよ。好奇心は猫をも殺す、てことわざがあるでしょうに」

「組合は、この件で動いたりしないんですか?」

「連中が気にするのは街の環境保全だけよ。ロクは雑菌や蛆の温床だから。人死にそのものに関しては、詳しい死因すらろくすっぽ調べやしないわ。真相を明かしたところで、損も得も無いもの」

 焼却炉へ死体を運び込み、納体袋から取り出して鉄板へ載せる。袋は高価なので、前日のごとき腐乱死体でも詰めないかぎりは、破けるまで使い回すことになっている。

「綺麗なもんね。若い女の子のロクを見るたび、燃やしちゃうのが勿体無いって思うのよ」

 青白い裸身を前にして、竹林老人が呟いた。

「昔の人間がミイラを作ったのは、復活の時を待つためだとか死後の世界で暮らすためだとか言われているけれど、本当のところは、自分の体が虫や獣に喰い散らかされたり、燃やされて骨だけになるのが耐え難かったのかもね」

「あるいは、不老不死の願望を永久保存で擬似的に叶えたのかもしれませんね。ヨーロッパには服を着たミイラが安置されている地下墓地がありますし、体組織をパラフィンやグリセリンに置き換えて保存された政治指導者の永久死体もありますから」

 樹戸が口を挾むと、竹林老人はさも不快そうに顔をしかめた。

「自分の死体が朽ち果てもせず他人の目に晒され続けるだなんて、あたしは御免ね。死んだらとっとと焼いて、海にでも撒いてほしいくらいよ」

 女の死体は無論、永久保存などされるはずもなく、陰部を覆い隠していた縮れ毛も首に残った絞め痕も全てが灰と化し、あとには白い骨だけが残った。

 骨上げを済ませて焼却棟を出ると、入り日が長い影を曳いていた。

「時間も早いし、たまにはあたしも付き合うわ。ハル坊に任せっきりだと、横着してそこらへんのドブ川に棄てかねないから」

 その日の仕事を為し終えた住人たちが、それぞれの家を目指して疲れた足を引きずっている。美味そうな匂いを乗せたモツ焼きの煙が、散骨に向かう晴史たちを追い掛けてきた。

 東の河原への途上で、男性の二人組と行き違った。

 斜め前を歩く男は背中が引き絞った弓のように丸まった小男で、強欲そうな光を目に宿していた。もう一人の男は薄汚れた服を着てはいたが、物陰に潜む猫に怯える鼡のように周囲へ目を配っていた。

 二人は晴史たちを見るなり、さっとビルの壁に張り付いて道を譲ってくれた。竹林老人が通り過ぎしなに「どうもね」と手を振る。

「先導してたのは道案内ね。ここいらではちょくちょく見かけるわ。後ろをついて歩いてたのはさしずめ、潜入取材中のルポライターってとこね」

「ぱっと見でわかるもんですか?」

「すぐ分かるわよ。昼間の店主も言ってたでしょ、匂いでわかるって」

 樹戸は鼻をひくつかせて二人の男の残り香を嗅ぎ取ろうとしたが、路地にどっしり根付いた粘っこい臭気に遮られ、試みは叶わないようであった。

「この街は巨大な立体迷路みたいなもんだから、土地勘が無いうちは迷子になりやすいのよ。ビル同士が通路や階段で繋がってる場所が多くて、今どこを歩いてるのかすら分からなくなるわ。怪しげな店だってごまんとあるしね。十年以上住んでるあたしにしたって、街を知り尽くしていると豪語するほど図々しくないわ」

「そんなにたくさん、店があるんですか」

「ええ、どんな商いをしているかが看板だけで分かる店もそうでない店も、星の数ほどね。樹戸ちゃん、あんた『簡易モレク式藝術館』とか『完全流体人形工房』とか『鼎談ていだん老人サロン』とかがどんな店か想像できるかしら?」

 樹戸が「さっぱり見当が付きません」と困り入ると、竹林老人はしれっと「あたしにも分からないわ」と返す。

「店ならまだいいけど、頭がおかしな連中だってごろごろいるわ。気を緩めてそぞろに歩こうものなら、人を人とも思わない化け物の口の中にふらふら引き寄せられてガブリよ。あんたもせいぜい気をつけなさい」

「四六時中、気を張らなきゃいけない、ということですね。やくざな連中もいますし」

「筋者連中が厄介なのは、金が絡んだ時だけ。肩で風を切って往来を歩きはするけれど、誰彼なく因縁を付けたりはしないわよ。目玉焼きを作ろうとして、中身が空っぽだって最初から分かってる卵を手に取ったりはしないでしょ?」

 肩越しに振り向くと、細路地にでも入ったのか、二人組の姿は既に消えていた。

 河原へ辿り着くと、夕陽が川向こうのビルの群れに沈みかけていた。納体袋を逆さにして、女の骨を川面かわもに撒く。大腿だいたい骨が水面を緩やかに回りながら流れに漂い、やがてうねりに呑み込まれて見えなくなった。

 背の高い雑草が繁茂する河原には、単管パイプと防水シートでこしらえた浮浪者たちの住居が蝟集いしゅうしている。イタギリの街自体が防壁となって警察の立ち退き勧告や不良たちの暴力から守ってくれるため、浮浪者たちにとってはもってこいの生活空間なのである。

「安全地帯なんですね」

「そんな軽い表現じゃ足りないわ。聖域よ。誰も手出しができないんだから」

 浮浪者たちの集落の近場には、壊れた家電や調度品を積み上げた山があった。軍手をはめた手で山をかき分ける浮浪者の姿もちらほら見える。

「がらくた山のスカベンジャーよ。売るための金属材や、自宅の家具として使えそうな目ぼしい廃品を、ああして鵜の目鷹の目で探しているのよ」

「暮らしが立つんですか、それで?」

「そこらの川底を浚って金粒を探すより少しはまし、て程度かしらね。こんな街から出る粗大ごみだもの、ろくなものは見つからないわ」

 川べりでは数人の浮浪者が手付きの鍋を掛けた焚き火を囲み、西の空を茜色に染め上げながら高層ビル群の向こう側へ去ろうとする斜陽を見つめている。

「夕焼けなんて見て、何が楽しいのかしらね」

 逆光が作り出す黒に沈んだ浮浪者たちの姿を見ながら、しかし竹林老人の口振りには、彼らをあざける色は無かった。

「二度と戻ってこない昔を、悔いながらも懐かしんでいるのかしら」

 あるいは、と深い吐息が混じった。

「沈む太陽に、残り少ない人生を重ね合わせているのかもしれないわね」

 錆びついた赤光が川面に乱反射し、ちかちかと目を射すきらめきをばらいていた。


 リヤカーを片付けて晴史が家へ帰ると、父が茶の間で部屋着に着替えている最中だった。父は右手だけを器用に使って作業着のボタンを外している。両手を使わないのは、左手首から先が喪われているためである。晴史が父の支度に手を貸すことはない。手伝おうとしても父が拒むので、晴史も節介を焼かないことにしていた。

 父の左手が無い理由を、晴史は知らない。幼い頃に何度か訊ねたこともあったが、そのたびに曖昧な言葉ではぐらかされた。

 晴史が父について知っている事柄は、古くからの知り合いが営む小さな旋盤工場で軽作業に従事していることと、以前は子煩悩であったこと、今は父親として当たり前に持ちうる愛情の一欠片さえ息子へ与えようとしない冷淡な性格の持ち主であることだけであった。父がどんな少年時代を過ごしたのか、苦難や葛藤をどうやって乗り越えて成長したのか、母とどんな出会いをして世帯を持つに至ったのか、その半生については何一つ聞かされていなかった。

 ただいまも言わずに晴史は夕食の支度を始め、鍋を火に掛けている間に読みかけの本を開く。視界の端に、父が面白くなさそうな顔で麦茶を飲んでいる姿を捉えた。

 卓袱台に湯飲み茶碗が置かれる音と、苛立たしげな舌打ちが耳朶を打った。

「そんなもん読んでも、何にもならんだろうに。ご苦労なこった」

 聞こえよがしの嫌みを、聞こえないふりで受け流す。

「なまじ知恵をつけたところで、お前に何ができるっつうんだ。ごみをもっと効率よくかき集める方法でも書いてあるってか」

 たまりかねて、晴史は本から顔を上げた。父のどんよりした眼差しが突き刺さる。

「無駄な努力だって言ってんだよ、俺は。学校を出てねえどころか戸籍すら無えお前に、輝く未来なんてあるとでも思ってるのか? この国じゃな、戸籍が無い人間は生まれてすらいないってことと一緒なんだ。一念発起して街の外に出たところで、まともな仕事にもありつけず野垂れ死ぬのがオチだ」

 ――戸籍が無いのは、俺のせいじゃないだろ。

 父の言葉に偽りはない。晴史は無戸籍児である。理由はまちまちではあるが、イタギリには戸籍を欠く者が少なからず存在する。晴史のみならず父もまた無戸籍であった。

 父の顔に、嘲るような笑みがうっすら浮かんだ。

「お前は背骨がぐねぐね曲がった魚なんだよ。陸に上がったが最後、口をパクパクさせておっ死んじまうだけだ。魚は決まった水の中でしか生きられねえ。油が浮いた藻だらけのどぶ川だろうがよ、汚え水をがぶがぶ飲みながらそこで生きてくしかねえんだよ。くだらねえ望みだの夢だのは、さっさと捨てちまえ」

 暗に、お前は一生この街から出られないんだよ、と突き付けられた気がして、頭の中がかっと熱くなった。無意識的に晴史は膝立ちになっていた。

「なんだ、その手はよ。親父を殴ろうってのか?」

 父の澱んだ目に射竦いさめられ、晴史は握った拳を振り上げることすらできず固まった。

 気勢を削がれて顔を強張らせる息子を鼻で嗤うと、父はのっそり立ち上がった。

「どこに行くんだよ」

「外で飲んでくる」

 父の酒量は、ここのところ明らかに増えていた。母親がいなくなった直後、工場勤めを始めたのを境に酒断ちをしてはいたが、数年前に辛党へ逆戻りしていた。

「飲む金があるなら、今月の生活費入れてくれよ」

 晴史が口を尖らせると、父は無言で札びらを数枚財布から抜いた。

「これで文句ねえだろ」

 叩きつけるようにして卓袱台に置き、父は荒々しい足音を立てて出て行った。渡された金は、半月分の食費にも届かなかった。

 晴史はどっかと壁にもたれ掛かり、黒ずんだ天井の羽目板を眺めた。

 幼い頃、板の木目が人間の顔に見えてひどく怯えたことがあった。見かねた父が晴史をそっと抱き取って、大丈夫大丈夫、と背中を優しく撫でてくれた。

 いつから父は、あんな風になってしまったのだろう。

 物思いに沈んでいると、焦げ臭いにおいが漂ってきた。

 ――あ、鍋!

 晴史はばたばたと台所へ走った。













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