3章 緑色の残陽(3)


「よう、ハルじゃねえか」

 集積場で空にしたリヤカーをいて戻る折、路地の向こうで月丸つきまるが手を挙げていた。彼を極楽通りの外で見かけるのは珍しい。

 十二月も半ばを過ぎているというのに、いつもの通り季節感がまるで無い薄着姿は、見ているほうが寒くなってくる。

「カマジジイがいねえな。病気か?」

「チンさんは先々月に死んだよ」

 月丸が目を大きく張る。

「え、本当かっ? どうしてまた」

「部屋の中で倒れて……て、これ何度目だっけ?」

「前にも聞いたっけか? 悪い悪い。すっかり忘れていた」

 この二ヶ月の間でどれだけ説明しただろう。晴史はすっかり閉口した。

 月丸の大雑把な性格はいつもの通りだが、野性的な顔立ちには影が差している。虎が猫に化けたようである。何かしらの厄介事を抱えているのは覆うべくもない。

「何かあったの?」

「難題を押し付けられててなあ」

 大仰おおぎょうに溜息をついて、月丸は話を切り出した。

「お前の耳に入ってるかどうか分からねえけど、ここのとこ商売女ばかりがバラされてんだ。んで、それの犯人捜しをさせられてるってわけよ」

 その話も既に三回聞いていることは、黙っておくことにした。

「事の発端は二ヶ月前、十六番街で見つかった商売女の死体だ」

 端末機のアンチョコを見ながら、月丸が四度目の説明を始める。

 竹林老人が空しくなって数日後、娼婦たちの中から新たな犠牲者が出た。

 両の乳房を抉られた姿で十六番街に棄てられていたのは、極楽通りに来てからひと月も経っていない闇鍋だった。内臓は手付かずだった。

「お前がタコにしたっつう貧相な男な、あいつを地回りが監禁してヤキを入れることにしたんだよ。あれもこれもぜーんぶ俺の仕業です、と吐かせるためにな。それを抜きにしても、犯人を捕まえたんだからこれで女が殺されることもないだろうって、誰もが考えたんだ」

 そこまで言って、月丸は顔を曇らせた。

「ところがその二週間後に、また闇鍋が殺された。ビルとビルの間に挾まった恰好かっこうで、腹やら胸やら滅多突きよ。喉笛のどぶえも掻っ切られてたから、声が出せないまま殺されたんだろうな。こいつも内臓を一個も抜き取られてなかったから、肝喰きもくいの仕業じゃねえ」

「あの男は、なんて?」

 先を知ってはいたが、話を早く切り上げさせるために晴史は話題を誘導した。

「何も聞き出せなかった。とっくに『出荷』されちまってたからよ。ガシマの莫迦が先走ったせいでな」

 月丸が語るところによればガシマは極度のサディストで、人間を切り刻む行為で勃起するという素敵な嗜好の持ち主だという。何の間違いか、監視の当番役をこのガシマが命じられたのは、囚われの長芋顔にとって不運の極みであった。「吐くまでは脅かすだけだからな」という上意を聞いてか聞かずか、ガシマは長芋顔を残忍な手段で痛めつけた。けたたましい悲鳴と苦痛に歪んだ表情を前に、サディストの血が騒ぐのを抑えきれなくなったようである。絶叫を聞きつけた交代要員が駆け込むも時既に遅く、哀れな長芋顔は血の海に転がっていたという。

「肉や臓物の出荷先は料理屋だ。金になるからな。とっくにステーキやシチューにでもなって、どこかの金持ちの胃袋に収まったろうぜ」

 初回の説明の折にそう教えられたとき、樹戸は「予想はしていたけれど、極楽通りの『料理』って、やっぱりそういうことか」と独り言ちていた。

「ガシマがバラしちまった野郎が、何人も殺してたのは間違いねえ。シナズだったんだ、あいつ。胸から下をミンチにされて顔もずたずただったけど、店に運んでる最中もずっともぞもぞ動いてたからな。けど、あいつがいなくなってからも殺しは止まらねえ。肝喰いともう一人のイカレ野郎がまだ街に居座ってやがるってわけだ」

 二人目の闇鍋が殺されたのを皮切りにして、惨殺された娼婦の死体は空しく増え続けた。その数は、晴史が知り及んでいるだけでも六体に及ぶ。ターゲットは闇鍋が主だったが、野良花や物売りの中からも爪牙に掛かる者が出た。

 その一方で、肝喰いも相変わらず凶刃を振るい続けていたが、どうやら組合や地回りはこちらにはさして熱を入れていない様子である。

「箱入りにもブルっちまう奴が出始めてな、客を引ける女がケツを割るようになっちまって、参ってんだ。店の女は大丈夫だからって宥めても聞き入れやしねえ。動じてねえのは図太い阿婆擦あばずれ女か、アーパーな物売りくらいなもんだ」

 娼婦の命が狙われるのは、イタギリでしのぐ地回りにとって死活問題である。身の危険を感じた街娼が通りに立たなくなり、明日は我が身と恐れを抱いた箱入りが足抜けを始めるのは、彼らにとって何より痛いのである。

「それで、月丸さんが引き続きで犯人を捜してるってわけ?」

「ああ、乗り掛かった船なんだからきっちり片付けろ、だとよ。お前がとっ捕まえた男が犯人だったら、今頃こんな苦労はしてねえのにな」

 責められたような気がして晴史が消沈すると、月丸に肩を叩かれた。

「しょぼくれた顔すんな、お前のせいじゃねえんだから。俺たちが不甲斐ねえってだけだ、悔しいけどよ。ったく、占いママにでも頼めりゃこんな楽な事はねえんだけどなあ」

「占いママを知ってるの?」

 ああ、と月丸が頷く。

「有名人だからな。ここらでのしてる連中で、占いママを知らない奴なんていねえさ。まだ使いっ走りだったガキの頃に、連れて行かれたこともあんだよ。性格キツそうなおばちゃんだったな。当たるは当たるが、本人の気が乗った時しか視ねえのと、べらぼうな見料を取るのとで、誰でも気軽に頼めるわけじゃなかったみてえだけどな」

 だった。なかった。

 住職と同様に月丸も、占いママを過去の人物として片付けている風であった。

「休んでるんだよ、ここ一年がとこ。突然娘が出てきてそう告げたらしいんだ。俺もな、占いママに頼めばいいんじゃねえかって真っ先に思って、地回りに持ちかけてみたんだ。そしたらそう教えられた。いい加減にしやがれ、占いママの話はこれで何度目だと思ってやがる、て怒鳴られちまったけどな」

 事件が解決しない限り、月丸がどやしつけられる回数は更新を重ねそうである。

「チョーノーリョクなんて持ってない俺らは、地べた這いずり回って、蚤取のみとり眼で手掛かりを探さなきゃなんねえ。不公平だよなあ」

 肩を落とした月丸に、「ちょっとした案があるんだけど」と、晴史は顔を寄せた。月丸から事の次第を聞いてから考え続けていたことである。何度も頭の中で検証を重ね、きっとうまく事が運ぶだろうと確信に至ったのは、この前日のことであった。

 耳語の合間に、「誰だよそれ」「いやけど、そんな話って」などと月丸が挾む口を、晴史はその都度「いいから」と閉じさせる。

 一切を聞き終えた月丸は、いぶかる表情を隠そうともしなかった。

「そんな顔しないでよ。実際に俺も体験してるんだから」

「信じるも何もよ、そんなんでうまくいくのかよ」

「分からないよ、俺にだって。だけど、この方法が一番可能性が高い気がするんだ」

「けど、根本的な解決にはならねえだろうがよ」

「解決はしないかもしれない。でも被害は無くなる。結果が一緒なら万々歳じゃないか」

 月丸は納得がいかない様子だったが、しばし考えた後で「駄目で元々、ものの試しにやってみるか」と腹を決めた。

「妙案でも思い付いたのかい?」

 月丸と別れたあとで樹戸が訊ねてきたが、「ちょっとね」と晴史は言葉を濁した。

 山吹色に染まった薄暗い路地を、暗い表情の住人たちが行き交っている。

 冬の太陽はせわしない。遅い時間にのっそりと顔を見せたかと思うと、ろくろく地表を温めもしないうちに、弱々しい赤光だけを残してさっさと西の空に隠れてしまう。

 すぐそこに迫る暮色に急き立てられて、リヤカーを曳く足が速まる。

「いつもいつも大袈裟だなあ、あの人も君も」

 呆れたような口調で、樹戸がぽつりと漏らす。

「大袈裟って、何がさ?」

「いくら極楽通りが泥水稼業で潤っているからってさ、臆病な商売女がちょっと減ったところで、地回りや組合の屋台骨が揺るぐほどの影響はないんじゃないかな。命を顧みず金のために体を売り続ける女の人は、放っておいてもいくらだって現れると思うんだよ。時間効率だけで見れば、割のいい仕事だからね。リスクマネジメントは重要ではあるけど、大事の前の小事じゃないかな。なぜ血眼になって犯人捜しをするのか、さっぱり理解できない」

「それは良い方に考えた場合の話でしょ? 悪い方に考えたら、地回りが必死になるのも無理はないよ。イタギリ全体に関わるからね」

「あの人が前に言ってた、示しが付かないってことかい?」

「それもあるけど、もっと深刻なことさ。商売女がいなくなれば、他の商売にも影響が出る。旅館はもちろんだし、飯屋や他の店だって客足は確実に減るさ。悪い方、悪い方に物事が重なれば、いずれ極楽通りが寂れちゃうんだよ」

「風が吹けば桶屋が儲かる、か」

「極楽通りが寂れたら、地回りや組合はイタギリから撤退しかねない。金にならないからね。あとに残るのは、おんぼろのビルが建ち並ぶ汚い街と大量の貧乏人さ。風紀も衛生も良くないだろ、ここ。行政や警察がずかずか入り込んできて、最悪俺達は追い出されかねない。古いビルは危険なだけだから、ひとつ残らず解体されるだろうね。あとに残るのは更地だけってわけさ」

「その推察こそ極論にすぎないよ。仮にそれが現実になったとしてもだよ、マクロな視座で見たらむしろ好ましいんじゃないかな。困るのはここの人達だけで、跡地は住宅地なり商業地なりに転用すればいいんだからさ」

「――やっぱり、樹戸さんは他所者なんだ」

 晴史は深く溜息をついた。

「樹戸さんにとって、イタギリは選択肢のうちの一つでしかないんだよね。住み着くのはここじゃなくてもいい。追い出されたら、違う土地に移ればいいだけなんだから」

 樹戸から反論は上がらなかった。

「けど、俺や月丸さんにとって、イタギリは生まれ故郷なんだ。他の街のルールでうまくやっていける自信なんて無いんだよ。綺麗な水の中では呼吸すらままならない魚みたいなものさ。この濁りきった街じゃなきゃ、まともに生きていけないんだ。事件を放っておけないのは当然のことだろ?」

 父から浴びせられた罵詈を、晴史は端無くもそっくり真似していた。

 イタギリで生まれた人間は、イタギリでしか暮らしていけない。

「それが、君たちのエートスってわけか」

 樹戸の口調は、どこか突き放すような色を帯びていた。同じ空気を吸って同じ仕事に精を出していても根底の部分では分かり合えない歯痒さを覚え、晴史は口を閉じた。

 ぎいぎいと、リヤカーの軋みが無言の時間に絡みつく。

 このリヤカーにしても、貨物運搬の役割を果たせなくなるまで使い潰される運命にある。街の外へ持ち出したところで、買い手を見つけるのは、カトリックの教会で悪魔に出くわすのと同じくらい難しいだろう。

「だけど、事件の解決は簡単にはいかなそうだね」

 樹戸が暢気な声音で話を転じた。

「面積だけでいえば、この街はさほど広くはない。けど、ビルが無秩序に建ち並んでいる上に、そのビルも平均して十階を超える高さだ。空中廊下だって無数にある。どれだけ人員を配置しても、巡回できる範囲は限界がある。それこそ人海戦術にでも乗り出さないと、犯人どころか、犠牲者の死体すら満足に捜し出せないだろうね」

 樹戸は路地の脇から続く暗がりへと目をやった。

「もしかすると、この路地の隙間にも今頃ロクが転がってるのかもね」

「やめなよ」

 たしなめられて、「ごめんごめん」と詫びながらも、樹戸に不穏な発言を省みる様子は見られない。

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