3章 緑色の残陽(2)


 アブサンは、すっかり樹戸をとりこにしたようである。

 十二月に入った頃には、十弗の暖簾をくぐるのが休日前夜の恒例となっていた。

 樹戸のお気に入りは、シャンパンとアブサンで作る「午後の死」という名のカクテルである。

「ヘミングウェイの小説から命名されているんだ。もともとは火薬をシャンパンで割った過激な飲み物だったらしいけどね」と樹戸は薀蓄うんちくを傾ける。晴史はヘミングウェイがどこの国の人間かすら知らなかった。

「わざわざそんな臭いがきつい酒、飲まなくったっていいのに」

「竹林さんも言ってたろ、その神秘性に名だたる芸術家や作家が惹かれた、てさ。僕がアブサンを飲むのは先人にあやかって、この酒から霊性を得たいがためさ」

 樹戸は宙を漂うアイディアを巻き取るかのように、頭の上で指をくるくると回した。

 程よく酒が回ったのか、彼の口は滑らかである。

「いい作品作りには、卓抜したインスピレーションが欠かせない。まさにその通りさ。アルコール漬けになったふらふらの脳がアブサンの強烈な香気と化学反応を起こして、それまで考え得なかった新しいアイディアを生み出すんだ。アブサンは芸術や文芸と親和性が高いのさ。僕は酒の力を借りてでも、僕の中に欠けているピースを埋めたいんだ。当時と成分組成が違っているせいなのか、それとも僕が女性にモテない体質なのか、緑色の貴婦人も耳元でささやく妖精も一向に姿を見せてはくれないけどね」

 自虐混じりのジョークに、晴史は何と答えたらいいか分からなかった。

 樹戸はカウンターに両肘を乗せ、とろんとした目を晴史に向けた。

「だけど、飲まずにはいられないんだ。先人の狂気じみた精神性への憧れが、僕にアブサンを飲ませるのさ。どこかがイカレていないと傑作は作れない。常識の範疇はんちゅうに収まるまともな精神だけじゃ、陳腐な物語しか生み出せないんだよ」

 樹戸はシャンパングラスのステムを三本の指で摘んで、ゆっくり回す。

 黄緑色の「午後の死」がグラスの底で軽やかに躍った。

「小説ってのはね、不特定多数に向けたラブコールなんだ。僕の人生観、僕の価値観、僕の哲学から生じたメッセージが不特定の読み手に伝わらなければ、書いている意味さえ無い。ただ、それを成し得るには、僕独りの力量だけではまるで足りないんだ。悔しいけどね。だから、こいつの力を借りようってわけさ。でなきゃこんな強い酒、進んで飲んだりしないよ」

「樹戸さんは、どんな話を書こうとしてるの?」

 晴史が訊ねると、樹戸は白い歯をこぼした。

「それは作品を読んでからのお楽しみ。先にばらしたら、つまらないだろ?」

 その晩もいつものように、煙草の煙で目が痛くなるまでカウンターに居座り、日付が変わった頃に解散した。

 できるだけ明るい通りを選んで家路を急ぐと、通り掛かった十四番街の通路で、茣蓙ござを敷いてわいわいと酒盛りをする年老いた一団に出くわした。空いた一升瓶が何本か床に転がっている。七輪の上で干物が焼ける香りが漂ってきた。

 あれは影待ちよ。

 竹林たけばやし老人が生きていた頃、そう教わったことがある。

 ――庚申待こうしんまちとも言うけどね。年に何回か集まって、夜通しお酒を飲むの。道教だか何だかではね、六十日に一度巡ってくる庚申の日の夜に眠ると、三尸っていう虫が体から這い出して宿主の寿命を縮めるって考え方があるの。だからああして、お日様が昇るまで起き続けて、虫が体から出て行かないように見張ってるのよ。

 そこまで説明して、竹林老人は呆れたような顔をする。

 ――ってのは酒を飲むための口実で、誰もそんな迷信信じちゃいないわ。あの連中はどんちゃん騒ぎがしたいだけなのよ。第一、お酒なんか飲んだりしたら、朝が来る前に酔い潰れちゃって本末転倒じゃないの。

 酒盛りの座が、にわかにどよめいた。

「おい、クロじゃねえか。ここんとこ見ねえと思ってたけど、どこ行ってたんだ」

「あっちにふらふらこっちにふらふら。知らねえやつが見たら腰抜かすぜ」

「クロには、首輪付けらんねえからなあ」

 茣蓙の上をよたよたと歩き回るクロは、影だった。

 酔客たちは誰一人として、影を疎んだり気味悪がったりしていなかった。

「不気味っちゃ不気味だけど、ぶらぶらしてるだけで何もしねえからな、クロは」

「餌をねだったり吠え掛からねえぶん、犬っころよりよっぽどいいやな」

「影待ちしてて、お日様が来る前に影が来たってんじゃ、まるで落語だな」

 月見でも花見でもねえ影見酒だなや、と誰かが言うと笑いが上がった。

 クロは何かを探すかのように、だらんと垂らした頭を左右に振っている。

「寺じゃ引き取ってくれねえのか」

「無理だ無理だ。骨が無えんじゃどうしようもねえ」

「おおかた、シナズを知らねえどこかの莫迦が、骨を川に流しちまったんだろうなあ」

 酒宴に長居することなく、クロは頼りない足取りでビル奥の暗がりへと消えた。

「どこに行こうとしてんのかな、あいつはよ」

 しんみりとしたしわがれ声が呟いた。

「あんなんなっちまっても、イタギリから離れたくねえのかもしんねえなあ」

 さざめきに包まれる影待ちの一団を背に、晴史は通路を抜けて表路地へ出た。

 空には青白い三日月が懸かっていた。雲の影はどこにも見えない。この分なら明日は晴れだろう。ビルの屋上に立てば、東の空から昇る太陽だってよく見えるはずである。

 ――影も、朝日を見たいと思ったりするのかな。

 七番街までの道の上で、ふとそんな事を考えた。


 家に帰ると、父のいびき声が晴史を出迎えた。

 父を起こさないようにと、晴史は足音を忍ばせてキッチンへ進み、シンク下の収納扉をそっと開けた。排水管から滲み出すドブ臭さに顔を顰めながら、顔を突っ込まなければ見付けられない位置に貼り付けてある封筒に右手を伸ばす。左の手には、しわくちゃの千円札が一枚握られていた。

 晴史がへそくりを蓄え始めたのは、樹戸から将来の夢について訊かれたすぐ後である。昼飯代を切り詰め、時にはさらし布代わりのラップをぎゅうぎゅうに巻いて胃の辺りを締め付け、腹がたぷたぷになるまで水を飲んで空腹をしのいだ。軍手や革手袋は完全に破けてしまうまで使い倒し、穴が空いたらガムテープで補強した。

 爪に火を点す思いで切り詰めても、蓄えに回せるのは週にいいとこ千円札が一枚か二枚に過ぎなかったし、具体的な使い途も思い付かなかったが、まだ見ぬ将来に向かって一歩ずつ前進している確かなあかしが欲しかった。

 封筒に紙幣を辷りこませるたび、晴史は図書館で読んだバベルの塔の話を思い出す。

 天を目指して巨塔の建造に勤しむ人間の目論見は、神の逆鱗に触れたことで潰えてしまった。もし神がその行為を是としていたなら、塔はどこまで伸びていたのだろう。煉瓦を積む古代人の姿に、晴史は自分の姿を重ね合わせていた。

 指で挾んだ封筒の薄さに、心臓を冷たいものが流れた。

 周章狼狽しながら袋をひっくり返したが、いくら振っても綿埃わたぼこり一つ落ちなかった。

 彼が築いた塔は、瓦礫すら残さず消え去っていた。

 ――どうして、金が無くなっているんだ?

 疑問が、晴史の頭で渦を巻いた。

 鍵をかけ忘れた? 有り得ない。毎朝家を出る時は、二重扉の両方に施錠されていることを確かめるように心掛けている。

 窓の柵にも異状はない。晴史の家はビルの七階にある。よほどの軽業師でもなければ、壁をよじ登って忍びこむこと自体が自殺行為に等しい。

 無論、神の怒りに触れて中身が灰も残さず消え失せたはずもない。

 あらゆる可能性を潰した結果、残ったのはただ一つの答えだった。

 晴史は茶の間に踏む込み、布団の膨らみを荒々しく揺すった。

「父ちゃん。なあ父ちゃん、起きろよ!」

 酒やけした顔を手で擦りながら身を起こした父に、晴史は空の封筒を突きつけた。

「どういうことだよ、これ。盗んだのは、父ちゃんか?」

「――それがどうした」

 唸るような声で、父は晴史と目を合わせようとしない。

「どうしたもこうしたも無いだろ。俺が貯めた金なんだぞ。どうして盗んだんだよ?」

「盗んだんじゃねえ。ここは俺の家だ。たまたま流しの下を開けてみたら、たまたまそこにあったから使った。俺の家にある物は、全部俺の物だ。どう使おうが俺の勝手だ」

「そんな無茶苦茶な理屈があるかよ! 俺がどんな思いであの金を貯めたのか知ってるのかよ。何に使ったんだよ、一体」

 父は濁った視線を、自分の膝頭に落とした。

「酒場のツケだ。払わねえならもう飲ませねえって言われたんだ」

 父がツケで飲んでいるなど、思いも寄らなかった。

「ツケなんて、さっさと払えばいいだろ。ちょっとしか家に金を入れてないんだから」

 そう言いながら晴史は、この月の生活費を父から受け取っていないことに気付いた。

「だいたいからして、ツケがあるなんて一度も言ったこと――」

「あるわけねえだろ、今まではちゃんと飲み代を払ってたんだからよ」

「じゃあ、なんで払えなくなったんだよ?」

 晴史が問い詰めると、父は不貞腐れたように口をへの字に曲げた。

 ぴりぴりと張り詰めた沈黙の中で、晴史の心にある推測が生まれた。

 もし、本当にその通りだったとしたら。

 考えれば考えるほど、胸がむかむかした。

「なあ、父ちゃん」

 父が顔を上げた。

「仕事、行ってるのか?」

 父はじっと晴史の目を覗き込んでいたが、ふいと下を向き耳の後ろをがりがり掻いた。

「こないだ馘首くびになった。新しい機械を売り付けられちまったから、バリ取りと掃除しか能が無い凡骨を置いておく余裕は無えんだとよ。仕方ねえやな」

「仕方ねえ、じゃないだろ! なんでそんな大事なこと、教えてくれなかったんだよ」

 父はのっそり立ち上がり、押さえつけるような目付きで晴史を見下ろした。

「そうしたら、お前が何とかしてくれたってのか? 工場に乗り込んで、どうか父ちゃんを置いてやってください、て地べたに額を擦り付けるのか? 他人を気に掛けたり、他人の為に動ける大層な身分なのかよお前は」

 一息に捲し立てると、父はさも偉そうにふんぞり返った。

「お前は世の中の道理すら分からねえ、ごみを運ぶことしか能が無いただのガキだ。それなのに、一丁前のこましゃくれた面しやがってよ。そりゃあれか、簡単な仕事しかできねえ俺への当て付けか? お前がでかい面してるお陰でめちゃくちゃだ」

 頭の中がぐらぐら煮える。背中が、肩が、ぎりぎりと強張るのが分かる。喉から熱い塊が込み上げ、言葉にならない怒号となって口からせり出した。

 野獣のごとく跳びかかった晴史の鳩尾みぞおちに、父の前蹴りが飛んだ。ひっくり返った拍子に箪笥たんすにぶつかってうめく晴史を、父のかかとがしつこく打ち据える。頭を両腕でかばいながら、晴史は父の足蹴をじっと耐えた。

 気が済んだのか、それとも体力が尽きたのか。

 狼藉ろうぜきが去った部屋の中に、父の荒い息遣いだけがあった。

「喧嘩の仕方もろくに知らねえくせして粋がるんじゃねえ、糞餓鬼が」

 両腕の隙間から敵意の篭った眼差しを父に据えた晴史だったが、同じ空気を吸うことが堪え難くなり、部屋を飛び出した。「どいつもこいつも、俺を虚仮にしやがって」と暗く吐き捨てる声を聞いたような気がした。

 晴史は深夜の路地をあてど無く駆けた。通りに面した窓のほとんどから、灯りは消えている。普段は晴史にとって居心地の良い色の乏しい世界も、その一切が目に入らない。空気をかき分けるようにしてしばらく走り、肺が悲鳴をあげた頃になって、ようやく彼の疾駆は止まった。激しい鼓動と荒い呼吸が欝陶うっとうしい。鎮まれ鎮まれと頭で命じてみたが、体はひたすらに新鮮な酸素を求め続けた。

 熱を持った体に、初冬の夜風が有り難かった。

 休んでいるうちに、肺に流れ込む空気の冷たさを味わう余裕も生まれていた。

 気が付けば、極楽通りが目と鼻の先にあった。シズクに会いたいとも思ったが、父に折檻せっかんされて家を飛び出した惨めな姿を彼女に見られたくはなかった。

 ――これからどうしよう。

 まごつく晴史の耳が、不揃いの靴音を拾った。

 考えるより早く、目が音に反応した。

 四足の異形が、水銀灯に照らされた路地をふらふらと歩いている。

 よくよく目を凝らせば、それは二人の人間がぴったりと寄り添うシルエットだった。

 背が低いほうはコートを羽織った女である。ウェーブがかかったショートヘアの毛先が、歩に合わせて躍っている。女は隣を歩く男の腕にしなだれかかっていた。仲睦まじいカップルが夜道を逍遙していると、誰しもが思うだろう。

 男の背はひょろりと高い。髪はぺったりと下ろしている。

 細身の上半身に羽織った黒色が、街灯の白光を弾いて濡羽のような光沢を放っている。

 歩くことが面倒臭いと言わんばかりの足取りと、顔を前に突き出す極端な猫背。

 全ての特徴に見覚えがあった。

 ――樹戸さん?

 樹戸は黒いレインコートを着ていた。竹林老人が死神みたいだと嫌がった、ロク運びのユニフォーム。

 あの女の人は臭いが気にならないのかな、と疑問が頭を掠めた。

 朴念仁の樹戸と色恋沙汰。砂漠に降る雪と同じくらい不調和な取り合わせに感じたが、イタギリに来る前に彼が結婚していたという過去を晴史は思い出す。

 樹戸が女を連れてどこへ行こうとしているのか、むやみに気になった。

 息を殺し、気付かれないようにと離れた距離から跡をつけたが、八番街と九番街の境目を過ぎた辺りで見失ってしまった。

 きょろきょろと視線を四方に飛ばしながら、晴史は心がすうっと醒めていくのを感じた。幼稚な探偵ごっこで気持ちを紛らわそうとしていたことが、急に恥ずかしくなった。

 家で父が待っていることを考えると気が重かったが、他に行く場所もない。

 観念して、七番街へ足を向ける。

 汗が一筋、すっかり冷えた背中を伝った。

 九番街の死体回収を猫塚から打診されるのは、その四日後のことである。



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