2章 灰色の秋雨(2)

竹林老人の三白眼さんぱくがんが、探るように月丸を見据える。

「原点に戻った、そう言いたいわけ?」

「分からねえ。腹をっ捌くってとこまでは一緒だが、心臓と肝だけじゃなくて、他の臓物まで抜いてやがるんだ。肝喰きもくいの仕業とは言い切れねえ」

 犯人捜しに難渋していることは、暴くまでもない。

 臓器を持ち去る殺人鬼「肝喰い」は、もう十年以上も足取りすら掴めていない。

 よしんば商売女を手に掛けたのが肝喰いと断定されたとしても、捕らえられる保証などどこにもありはしないのである。

「女を殺したのが肝喰いなのか、それとも別のイカレ野郎がいるのかはともかく、この街を根城にしてる女からまた人死にが出ちまったのが問題なんだ。組合や地回りとしても看過ごすわけにはいかねえんだよ。コッカケンリョクが介入しない代わりに、街の治安はきっちり守らなきゃ示しが付かねえからな」

 月丸は端末機をポケットに仕舞い込むと、客を集める啖呵売のごとく両腕を広げた。

「そんなわけで、何かしらの手を打っとかなきゃならねえってわけだ。被害がこれ以上広がる前に、犯人をとっ捕まえねえとな。サキンズレバなんとかだ」

 人を制す、と樹戸が小声で付け加えた。

「闇鍋や野良花に付き纒っているとかいうそいつを捕まえればいいんじゃないの?」

「捕まえられるならとっくに捕まえて泥を吐かせてるさ。女たちが気付いて誰かを呼ぼうとする前に、さっと姿を消すっつうんだ。煙みたいに捉えようがねえ。だから怪しい奴を見掛けなかったかって、こうしてジョーホーテイキョーを呼びかけてるってわけだ」

「怪しい奴って、どんな奴さ?」

「どんなもこんなもねえ。ハルが怪しいと思えば、そいつが怪しい奴だ」

「いくらなんでも、無茶苦茶だよ」

 晴史と月丸の応酬を眺めていた竹林老人が、ふっと息を漏らした。

「ハル坊、話半分で聞いときなさいな。あんたに期待する月丸がおかしいのよ。戦時中の特高じゃあるまいし、曖昧な印象だけで嫌疑を掛けたんじゃ街中の人間が締め上げられる羽目になるわよ。さっきの繰り返しになるけど、腹に一物抱えてそうな人間なんて、一山いくらでごろごろいるわ。協力を仰ぐなら、もうちょっと情況証拠を固めてからが妥当なんじゃない?」

 竹林老人が諭すと、月丸は「だってよう」と幼い少年のように拗ねた声を出した。

「組合や地回り連中から言い付けられてるってのもあるけどよ、一日も早く何とかしてえんだよ。だってイタギリは、どこにも行けない人間が身を寄せあって生きている街だろ? あちこちで爪弾きにされたミソッカスな人間でも受け容れてくれる、拠り所だろ? ここすら安住の地じゃないとしたら、あいつらどこに行けばいいってんだよ」

「あら、殊勝な心がけじゃないの。月丸にしちゃ上々よ」

「生まれ故郷を守りたいって気持ちは、俺にだってあらあ」

 照れ隠しにそっぽを向いた月丸の肩を、竹林老人がぽんと叩いた。

 晴史の頭に、断片的な情景が蘇った。

 四番街に死体を引き取りに行ったときに会った金髪の男。湯船に浸かる女の死体にくっきりと残った索条痕さくじょうこん。川面でくるくる回りながら下流へ流されていく白い大腿骨。

「手掛かりかどうか、分からないけどさ」

 心当たりを手短に教えると月丸は「行くだけ行ってみっか」と唇を舐め、獲物を狙う肉食獣を髣髴とさせる鋭い光を眼に宿した。

 金髪男の住居を晴史から聞き取り、「そんじゃまたな」と月丸は四番街を目指して去っていった。小さくなっていく月丸の背中を見やりながら、浴槽に死体を浸けておきながらのうのうと午睡していた金髪男は罪悪感を抱いていたのだろうか、と虚ろに考えた。

「しんみりしたり喜んでみたり、忙しい男ね。お陰で楽しい気分に水を差されたわ」

 屈めて強張った腰を叩きながら竹林老人が、次いで晴史と樹戸が立ち上がる。

 通りを、一際冷たい風が渡った。

「時間を無駄にしちゃったわね。早いところお店に行きましょ」

 竹林老人は背中を丸めて小さな体を震わせた。

 宵闇と夜気に包まれた極楽通りは、平素と変わらぬ賑わいである。品定めをしながら行き交う男たち、科を作る野良花、暗がりからそっと「遊ばない?」と甘い声で囁く闇鍋。盛り場慣れしていないのか、樹戸は目の遣り場に困っているようである。

 物売りの露店もちらほら見える。自然と晴史の歩幅が大きくなる。

「あら、久しぶり。相変わらず達者な似顔絵ね」

 竹林老人の声に、思わずどきりとした。

 振り返ると、似顔絵描きの少女の作品に感服する竹林老人の姿があった。

 目立つことを敢えて忌避するように約やかな装いの少女は、半分夢の中にいるような表情で、漆黒の瞳を竹林老人へ向けている。

「せっかく逢えたことだし、一枚描いてもらおうかしら。ああ、絵だけでいいわ。余計なサービスは無しで」

 すとんとしゃがみ込んだ竹林老人の顔をじっと見つめ、少女は画用紙に鉛筆を走らせた。本当にこれで顔を描画できているのか、と疑わしくなる速さに樹戸が仰天した。

「竹林さんの知り合いなんですか?」

「この通りで、たまに顔を合わせる程度よ。他の客が描いてもらってるのを覗き見したこともあるけど、ほんと絵が上手なのよ、この子」

 少女は一心不乱に左手を動かすばかりで何一つ応えはしなかったが、彼女の無愛想に竹林老人が気分を害した様子はなかった。

「晴史くんも、彼女と知り合いなんだろ? どうして彼女はこんな商売やってるんだ?」

 竹林老人から物売りのシステムについてはあらかじめ聞かされていたのだろう、囁き声で樹戸が訊ねた。

「あの子のことは、よく知らないんだ」

 彼女に抱いている淡い感情については伏せた。

 竹林老人の似顔絵が完成するまで、三分とかからなかった。

 画用紙に描かれた竹林老人の肖像は、荒々しい描線ながらも巧みに特徴を捉えており、街灯が作り出した陰影や目の輝きに至るまで、力強い生命感に満ちていた。少女が絵の具を使わず鉛筆だけで竹林老人を描いたことに、晴史はほっとした。絵に色彩があったなら、彼は少女との間に横たわる深い淵に直面する羽目になったであろう。

「あのスピードで、よくここまで細かく描けるものね。大したものだわ。ただ一つケチをつけさせてもらえれば、あたしの小鼻はもうちょっと小さいはずなんだけど」

 竹林老人が褒めそやすも、少女は眉一つ動かさない。

「ねえ、ハル坊も樹戸ちゃんも、描いてもらったら」

「いや、僕は遠慮しておきます」

 即座に樹戸が答えた。

「写真ですら好きじゃないので」

「物の言い方が下手なのは相変わらずねえ、あんた」

 晴史が沈黙のうちに遠慮したのは、樹戸に倣ってのことではなく、少女と目を合わせる気恥ずかしさから逃れるがためだった。

 しきりに感心しながら似顔絵に見入っていた竹林老人が、「あら?」と声を上げた。

「ここ、なにか書いてあるわね。何かしらこれ?」

 画用紙の左上の空白に、読みづらい文字で、《よそゆきちゆうい》とあった。

「お嬢ちゃんのサイン……じゃないわよね」

 竹林老人を見上げながら、しかし少女は口を噤んだままであった。

 小首を傾げる竹林老人と樹戸の横で、晴史だけが落ち着かない心持ちだった。

 ――やっぱり、あれを書いたのは。

 画用紙の文字と紙片の文字は、同じ筆跡だった。

 釈然としない面持ちながらも「まあいいわ、行きましょう」と竹林老人は小銭を少女へ手渡した。

「お嬢ちゃん、いい絵をありがとう。またね」

 丸めた画用紙を振り、竹林老人が別れを告げる。

 十弗を目指して歩きがてら、似顔絵をほれぼれと見つめながら「こんな街に埋もれさせるには、惜しい才能よね」と竹林老人は心底残念そうにこぼす。

 少女が視線を送っているように感じられて、晴史は後ろだけでなく右にも左にも頭を動かすのを躊躇ためらっった。

 極楽通りの喧騒がすっかり遠くなったところで、竹林老人が「あそこよ」とビルの一つを指し示した。

 街の北端に建つペンシルビル二棟の一階部分を結合させた酒場が十弗である。街側と幹線道路側の双方に出入り口があるため、店は街の住人と外の人間とでごった返していた。

 打ち放しの床と壁に囲われた無骨な店内を、酒と汗と脂が混ざった臭いを乗せた紫煙が雲のように漂い、輪郭を持たない喧騒の中で揺れていた。

「随分と盛況ですね」

「店を開いた当時は、十ドル払えば酒をたらふく飲めたのよ。さすがに今日び十ドルじゃ赤字だってんで値上げはしたけど、それでも他所よそよりもうんと安いから毎日満員御礼なのよ」

 テーブル席は全て埋まっていたが、都合よく三人分空いていたカウンター席に座ることができた。

「チンさんじゃねえか。まだ生きてやがったか」

 だるまのように肥えた白髪頭のマスターが、がらがらの胴間声で迎えた。

「マスターまで、月丸と同じこと言わないで。アレを二つと、この子にはコーラ」

「へいへい、アレね。久方ぶりに出すから、酢になってるかもしれねえぞ」

「くだらない冗談はいらないから、早く持って来なさいな」

 酒棚へ向かうマスターを見ながら、樹戸が不安げに顔を曇らせる。

「何が出てくるんですか、一体?」

「いいから飲んでおきなさい。とっておきよ」

 竹林老人と樹戸の前に、片手でも握り込めそうな小振りのリキュールグラスが並べられ、異国語のラベルが貼られたボトルから黄緑色の酒が注がれた。

 晴史の目はグラスの中の黄緑色を確かめることができないが、グラスの縁から立ち上る妙な匂いは彼の鼻先まで届いた。

「それ、何?」

「アブサンっていってね。ニガヨモギを漬け込んで造るお酒よ。悪魔の酒なんて呼ばれて、百年近く製造自体が禁止されていた時期もある、いわくつきのお酒なの」

「禁止って、どうして?」

「安い酒だったから中毒者が続出したのよ。あまつさえ、幻覚を見せる作用があるなんていわれてね、人を堕落させる酒だってことで差し止めに至ったの。当時にしてみたら、麻薬と一緒の扱いだったんでしょうね」

 試しに嗅いでごらんなさいな、と竹林老人はグラスを晴史へ押しやった。歯磨き粉とハッカを混ぜあわせたようなきつい酒気が鼻を刺し、晴史はのけぞった。

「こんなのを飲むの?」

「誰しも初めは面食らうのよ。あたしもそうだったけど、慣れてくるとこの香りと味のハーモニーが癖になるのよ」

 樹戸もグラスに鼻を近づけるなり、眉間に皺を寄せた。

「なんだってまた、こんな物飲ませるんです?」

「小説家志望のくせに、アブサンを知らないなんておかしな話ね。アブサンはね、幻覚の中に芸術や文芸に必要な霊性、つまりはインスピレーションを与えてくれるって言われて、多くの芸術家や文豪を虜にしたのよ。アブサンの愛好者が、ゴッホやロートレック、オスカー・ワイルドといえば、合点がいくかしら」

「いずれも病的に繊細だったり、非業の死を遂げたアーティスト揃いですね」

「悪魔の酒なんていう二つ名が付いたのも、頷けるってものだわね」

 竹林老人はチェイサーが入ったグラスをゆっくり傾け、中身をマドラーに伝わせながらアブサンにゆっくり注ぎ入れる。黄緑色の液体がみるみるうちに白濁していく。

「アブサンは度数も苦味も強いから、そのまま飲んだら喉が灼けてしまうわ。こうやって少しずつ水を足して、香りが逃げないように割るの。角砂糖を載せた穴開きスプーンをグラスの口に渡して、専用のサーバーで一滴ずつ水を垂らして割るのが本式なんだけどね」

「そんな贅沢な代物、ウチには置いてねえよ。臭い酒を頼む物好きは、チンさんくらいなもんだからな」

 カウンター越しにマスターが茶々を入れた。

「あたし以外に飲む客がいないってのに、ツヨンが濃い密造アブサンをわざわざ選んで仕入れるほうも、十分変わってると思うけどね」

「変人じゃなきゃ、こんな汚え店を続けてられねえさ」

 マスターは仏頂面を崩さず、くわえ煙草で煙を吐き出した。

 竹林老人はマドラーで酒を軽くかき混ぜてから一口飲み、口をすぼめて細い息を吐き出した。

「あたしはね、良い事があると決まってこのお店でアブサンを頼むの。普段味わうことのない特別な味と香りだからこそ、その思い出は心に強く刻まれるのよ」

「良い事って、何?」

「さっきも言ったでしょ。内緒よ」

 竹林老人がいたずらっぽく、唇に人差し指を当てた。

「チンさん、そればっかりだ。昔のことにしたって、どこまで本当だかも分かりゃしない。そんなに秘密ばかり抱えて、何が面白いのさ」

「秘密ってのはねハル坊、人に奥行きを付けるエッセンスよ。明け透けに一切合財を打ち明けるような裏も表もない人間は、信用はできても魅力的じゃないわ。組み飴じゃあるまいし、どこを切っても同じ顔が出てくるなんて、つまらないじゃないの」

「そういうものかな」

「陰のあるミステリアスな魅力に、人は惹きつけられるものなのよ」

 竹林老人の隣では、樹戸がグラスの中身を含んで渋い顔をしている。

「樹戸ちゃんも、まだまだお子様ね」

 せせら笑いながら、竹林老人は白く濁ったアブサンのグラスを傾けた。

「ちょっとぶっ飛んでるくらいの感性がないと、いい作品なんて書けっこないわよ。常識に片足を突っ込みながらも、理不尽と非常識を自在に操る度量が無ければ、人の心を揺さぶることはできないわ。食事もそうでしょ。体に障るとは分かっていても、味が濃くてこってりした料理を求めずにはいられない。花も毒も、どっちも同じくらい愛せるようになりなさい」

 そして、老爺は作家志望の男の目をじっとりと覗き込んだ。

「ただし、毒の魔力には魅了されないようにね」

 樹戸は何も答えなかった。

 竹林老人の口元がふっと緩む。

「今夜は楽しく飲みましょ」

 カウンターの上にメニューを見つけた晴史は、アブサンの値段を見て仰天した。臭い酒一杯分の代金は、彼の家の四日分の食費と同じだった。

「高いからいいのよ」と竹林老人は微笑んだ。

「お酒っていうのはね、人間の意識を日常とは違う次元へいざなってくれる水先案内人なの。安っぽいお酒はせっかちだから、飲んだ人間をへべれけにして、わけもわからないうちにベッドへ連れて行っちゃう。良いお酒はそっと飲み手に寄り添って物思いに耽る手助けをしてくれるから、ゆっくり味わうのが作法なの。だから高いのよ。払ったお金が惜しくて、ちびちび飲むからね」

 悠然と酒杯を傾ける竹林老人と、へべれけになりながら玄関先に転がり込む父の姿とを照らし合わせながら、同じ酒を飲むのでもこうも違うのかと、晴史は目を開かされる思いであった。父の飲酒は、超特急の便に飛び乗るようなものである。酒との旅を鈍行で楽しむ竹林老人のような優雅さとは較べようもなかった。

 いつかこのグラスの中身がコーラから酒に変わることがあったとしたら、自分はどちらの旅を選ぶのだろう。

 竹林老人が杯を重ねつつ講釈をち、呂律ろれつが怪しくなった樹戸をからかったりしているうちに夜は更け、お開きになった頃には既に日付が変わっていた。

 店の空気に酔ってふらふらする頭を抱えながら、晴史は真っ暗な家へ帰り着いた。体も頭もずっしりと重い。早いところ寝床に潜り込みたい衝動が、足運びを疎かにした。キッチン横の古い床板が、足をかけた途端にぎしりと軋む。

「どこ行ってた」

 寝床から父の低い声が響いた。

 ねぐらに忍び込んだ不届き者を威嚇する虎と正対したような、剣呑けんのんとした空気が流れた。

「仕事仲間の人と、晩飯」

 素っ気なく答えた晴史に父は鼻を鳴らし、「飯くらい作っていけ」とだけ返し、すぐさま高鼾たかいびきへ戻った。

 狭いシンク台の足元では空の鍋がひっくり返っていた。拾い上げると、鍋の胴がわずかに凹んでいた。蓋は流しの中に落ちている。数時間前に父が起こしたであろう癇癪の痕跡が、十弗で過ごした楽しいひと時の記憶を一瞬で洗い流した。

 茶の間へ足を踏み入れると、父の体から滲み出した酒の臭いで満ちていた。晴史が使う布団は、畳まれた卓袱台ちゃぶだいの前でぐしゃぐしゃの山となっていた。

 ――くたばれ糞親父。くたばれ糞親父。くたばれ糞親父。くたばれ――。

 眠りに落ちるまでの間、晴史は歯の裏側で父への罵倒ばとうを繰り返した。


 竹林老人の訃報を耳にしたのはその二日後、休日明けの朝だった。



 

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