【角川書店】坊木椎哉『きみといたい、朽ち果てるまで ~絶望の街イタギリにて』
KADOKAWA文芸
プロローグ~一章 黄昏色の炎(1)
狭い部屋に満ちた白は、
透き通らんばかりの瑞々しさを湛えた少女が、ふっくらとした淡桃の唇を開く。
――ねえ、前に話したときのこと、憶えてるかな。
淡雪のように細やかな声が漏れた。
傍らに座る少年は口を固く結んで、瞬ぎ一つせず少女に瞳を据えている。
あどけなさが残る少年の顔は、泣き出したいのを堪えるかのように歪んでいる。
――本当はもっと早く打ち明けたかったけど、心の準備ができてなかったの。
少女は、胸の膨らみにそっと手を添える。
少年は、腿に載せた手を固く握り込む。
――軽蔑されるんじゃないかって思うと怖かった。だからずっと迷ってたの。
少女の細い指先は、煮詰めた苺に似た赤で濡れていた。
――でも、話さないといけないんだよね。こんな事になっちゃったから。
部屋の空気より冷ややかな沈黙が訪れた。
二つの視線が結び合う。
深く黒い瞳の中で、光の粒子が揺れた。
――わたしのこと、全部聞いてくれる?
まだ吐く物が残っていたのか、と
「なによ、また? しょうがないわね。一旦置きましょ、一旦」
呆れ顔の
持ち上げていた袋をゆっくりと床へ下ろす。
新入りの
「ちょっとやそっとじゃ驚きませんよ、だなんて、立派なのは口だけだったわね。三十過ぎの大の男が、情けないったらないわ」
我の強さを感じさせるぎょろ目で、竹林老人が樹戸を睨みつける。すっぽり被ったフードと鼻まで覆ったマスクの下で、滝のような汗が間断なく流れている。晴史も樹戸も老人と同じく、作業着の上にぺらぺらの黒いレインコートを重ねた出で立ちで汗だくになっていた。
「仕方ないよ、チンさん」
見かねた晴史が助け舟を出す。
彼のみならず、街の住人はこの猿のように小柄な老爺をチンさんと呼ぶ。竹林という苗字に引っ掛けて「ちんちくりんのチンさん」というのが
「ロク運びなんて普通しないし、臭いもひどい。樹戸さんじゃなくたって吐き戻すさ」
「甘やかすんじゃないわよ、ハル坊」
庇い立てた晴史を竹林老人はぴしゃりと撥ね除け、樹戸の肩を平手で叩いた。
「ちょっとはハル坊見習ってシャキッとなさい。あんたの半分も生きていない子どもが、平気の平左なのよ」
「俺は見慣れてるから、この手の死体には」
強がった晴史ではあったが、彼もまた息が詰まりそうな熱気と死臭、飛び交う蝿の多さに頭がくらくらしていた。胆汁混じりの反吐を覗き込むように背を曲げる樹戸に至っては、脱水症状を起こして倒れやしないかと心配になるほどぐったりしている。
彼ら三人が運ぼうとしているカーキ色の袋には、不帰の旅に発った人間の成れの果てが納まっている。腐敗ガスでぶよぶよに膨らみきった灰緑色の死体は溶けかかっていて、生前の面立ちを想像することすらできない。
樹戸の背をさすりながら、晴史は死の臭いが充満する年季の入った居室を見回した。
狭いキッチンとひとつなぎの六畳間、玄関のすぐ脇にユニットバスがあるだけの簡素な間取りである。居間が板間のカーペット敷きという点を除けば、特筆すべき点は見当たらない。蝿の死骸と蛆の抜け殻が胡麻塩を撒き散らしたように床を埋めている。
「いい部屋じゃない」
晴史の観察に気付いた竹林老人が、そう評した。この場合の「いい部屋」とは、内装が凝っているとか、日当たりが良いなどという見た目の問題ではなく、一人で暮らすには十分過ぎるほど広いという意味である。バストイレ付きの六畳間は、彼らが住む街にあってはファミリー層向けの好物件である。
生前の家主は物に固執しない気質だったらしく、家財といえば、錆だらけのパイプベッドと年代物のポータブルラジオを載せたサイドテーブル、死体が身を委ねていたロッキングチェアくらいなものである。
「どうして死んだんだろう」
「知らないわよ。死因を探るのはあたしたちの管轄外」
この街で変死体が出ても、警官が駆けつけてくる事態は起こりえない。警察も行政も、複雑怪奇で通るこの街とは没交渉を決め込んでいる。引き取り手の無い死体を回収するのはもっぱら、普段はゴミ屋として街のごみを収集している晴史たちの仕事である。死体が新鮮であろうが蛆が湧いていようが、晴史たちに選択の余地はない。
「さあ、もう十分休んだでしょ。ぼやぼやしてたら、日が暮れちゃうわ」
樹戸は幽霊のように青白い顔のまま、ふらふらと体を起こした。
晴史が足を、竹林老人と樹戸がそれぞれ左右から上体を持ち上げる。腐った肉の不快な感触が袋越しに伝わる。樹戸が吐き出した酸っぱいジュースを踏まないように跨ぎ、早足で玄関を抜けた。
共用通路に出たところで、三人はようやくマスクを外して息をついた。
「ああ、しんどかった。初日だからって、あんま世話焼かせるんじゃないわよ」
「すみません……」
樹戸は蚊の鳴くような声で詫び、細い長身を折り畳むように肩を窄ませた。
――またチンさんの新人いびりが始まった。
晴史は、樹戸の前に来た若い男を思い出していた。「死体なんて怖くないっすよ」と粋がっていたが、梁からぶら下がる腐った縊死体を片付けた数時間後に、男はトイレへ行ったきり戻ってこなかった。彼の顔立ちも、名前すら記憶に無い。竹林老人に付いて働くようになってから五年の間で、どれだけの新米が仕事と竹林老人のきつさに耐え切れず逃げ出したことか。
階段を降り切ると、狭苦しい路地は夕陽から溢れだした淡い朱金に染まっていた。じめっとした暑気とコンクリート張りの路面に染みこんだ臭気が澱み、夏の夕暮れ時の清爽は微塵も感じられない。
ビルの入り口前に停めておいたぽんこつのリヤカーに、腐肉が詰まった袋を積み込む。使い古されたリヤカーは、晴史がゴミ屋の仕事に就いた頃にはすでにおんぼろだった。荷台の床板はところどころ腐食し、空いた穴から地面が見える。車輪もフレームも焦げ茶色の鉄錆に覆われ、油を差してもすぐに耳障りな軋みを立てる。街の管理組合へ再三買い替えを申し入れているが、荷台の床板が残らず腐り落ちるまで、歪んだ車輪を支えるシャフトがぼっきり折れるまで使い潰せ、といわんばかりに梨の礫である。
納体袋を荷台に積み終えたところで、竹林老人は消臭スプレーを手に「ちょっと待ってて、後片付けしてくるわ」と今しがた降りてきた階段を駆け登っていった。
「あんな市販のスプレーで、どうにかなるのかい?」
青い顔のまま、樹戸が晴史に訊ねる。
「まさか」
腐臭に誘われた蝿が数匹群がるのを、晴史は掌で追い払った。
そもそも、部屋の掃除はゴミ屋の仕事ではない。竹林老人が部屋に戻った本当の目的が、故人が遺した金品を物色することであるのを、晴史は知っていた。
竹林老人は五分ほどで戻ってきた。表情を窺うに、収穫はほとんど無かったらしい。
「他の班とかち合わなきゃいいわね」
竹林老人が被っていたフードを脱ぐ。肩甲骨まで伸びた銀髪はじっとり汗で湿り、夕暮れの中で暗いオレンジ色に染まっていた。竹林老人は懐からスキットルを抜き、一口飲んだ。晴史もそれに倣ってから、スキットルを樹戸に回す。
「胃がムカついて、飲めそうもない」
「ロクを運ぶときの清めなんだよ。飲める飲めないじゃなくて、飲まないと」
晴史に諭されて、樹戸はスキットルの中身を口に含んだ。塩気を含んだ酒の妙な味に樹戸は、間違えて毛虫を飲み込んだように顔を苦らせた。
穢れを祓い終えた一行は、街の北西を目指して出発した。街には、乗用車が乗り入れできる幅員の路地がほとんど無い。リヤカーは最もポピュラーな貨物の運搬手段である。
ろくすっぽ整備されていない路地はひび割れや凹凸が多く、段差に乗り上げる度に車輪を支えるシャフトが苦しげに軋む。荷台の袋からは、濡れタオルで叩いているような湿り気を帯びた音がぶちゃぶちゃと漏れる。
「これ、どこに持って行くんですか?」
きつい腐臭に顔を歪めた樹戸が、竹林老人に訊ねた。
「焼却炉よ。この街で出た死体は、全部そこで燃やすの」
「それって、法律違反なんじゃないですか?」
「なに眠たいこと言ってるのよ。この街には、行政どころか警察すらまともに関わろうとしないのよ。死体を燃やすくらい、どうってことないわ」
路地を折れ、頭上をトタン張りの屋根に塞がれた路地へ入り込む。入り口の壁に据え付けられたホーロー看板には「十番街マーケット」と掠れたペンキ文字で書かれている。天井の螢光灯に照らされた路地はリヤカーがなんとか通れるほど狭く、道行く人は壁に張り付いたり手近な店舗の入り口に逃げ込んで道を譲ってくれる。親切心からの行動でないことは、晴史たちに向けられた冷たい目を見れば明白であった。
「勘弁してくれよチンさん! 臭いが移っちまうから違う道を通ってくれって、いつも言ってるじゃねえか。死体臭え豆腐なんて売れねえよ」
路地に面した豆腐屋の主人がショーケース越しにがなり立てた。
竹林老人は鼻をふんと鳴らす。
「違う道ったって、どれだけ遠回りしろってのよ。図体の割には尻の穴が小さい男ね。そんなに臭いんなら、にがりでも撒けばいいじゃないのよ」
「そんなもんで、どうにかなるわけねえだろうがよ」
「どうにかしなさいよ。それが企業努力ってもんでしょ」
なおも「何が企業努力だ、このオカマジジイ!」などと悪態をつく豆腐屋を尻目に、竹林老人は傲然と胸を張った。
「こっちだって仕事なのよ。イチャモン付けられる筋合いなんて無いわ」
「だからって、喧嘩を売るような真似はやめようよ。こないだだって、地回りの連中と揉めそうになったじゃないか」
「筋者が怖くてイタギリの往来を歩けるかってのよ」
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