エピデミック
――薄闇の中で大きな剥き出しの目がじろりとこちらを見ていた。
闇の中に居てなお浮き上がったように見える黒い身体。そして長く反った角。
荒々しい鼻息を鳴らしながら巨大な怪物は一歩こちらに踏み出してくる。
ズズンという鈍い音と共に石造りの通路が確かに揺れ、その揺らぎで灯火が完全に消え去った。
またあの恐ろしい怪物が夢に出ていた。
しかし今はその事を考える余裕もなければ思い返すいとまもなかった。交代で床に入っていた篤胤は妻の大きな声で起こされ、次の瞬間には息子が寝かされた居間に飛んで行っていた。
あれから一夜が過ぎ日が昇ってきていた。それと共に、行灯の灯りだけでははっきりしなかった事が否が応にも見えてきた。
夜のうちに常太郎の体中に赤い斑点が浮かび上がり、顔も真っ赤になっていた。鼻水を垂らしまだうまく済ませらせない咳を苦しそうに続けていた。明らかに麻疹の症状であった。
夫婦は暫くの間絶句していたが、やがて篤胤は意を決したようにして羽織を纏い「やむを得ない――医者を呼んできます」とだけ言った。
「お医者を頼むなんて……そんなお金ありませんでしょう?」
「玄昭殿に昔のよしみでお願いします。それが無理なら土下座してでも連れ参る」
言うが早いか篤胤はまた早朝の町に飛び出していく。
織瀬は出かけていく夫の姿を見送りもせず、まるで力でも抜けたかのようにその場に座り込む。そして全身に虫刺されのような斑点を浮かせ、苦し気にあえいでいる我が子をじっと見つめていた。
◆
――飛び出して玄昭医師の自宅まで駆け込んだは良かったが、篤胤は玄昭に会う事すらできなかった。彼もまた増え続ける患者に追われて早朝から市中を歩き回っていたのである。
彼の奥方から往診先について聞きだした篤胤は彼に追いつくべく今度は商家通りを駆け回っていた。
ちょうど昨日陰陽師モドキが居た辻の辺りに辿り着くと、市中の様子は昨日よりも明らかに混沌としている事が感じられた。
体中に赤い斑点が浮いた子供を背負った女が何かを喚きながら走っている。
中には子供の姿を見ただけで慌てて逃げ出す者もいた。
身なりの良い武士が熱で失神して馬から転げ落ちているのが見えた。その際にめくれた袖からはみ出した腕に斑点が見え、従者達は主人を助け起こす事もできず青い顔をして狼狽していた。
長屋の開け放しの戸や窓からは部屋で寝込んでいる人々の姿がよく見えた。中にはすでに顔に白布をかけられている者もあった。
そして町中の家という家にあの麻疹避けの牛頭天王の札が貼られていた。
「病魔が――病魔が江戸を侵している……」
一説によれば、麻疹は異国から持ち込まれた病なのだという。元々日本にはなかった禍々しい病なのでこんなに甚大な害が起きるのではないか。そう篤胤は思った。
けがらわしい異国の妖魅が日本の清浄を穢している――
一陣の風がしゅっと篤胤の横を抜けていった。ほんの一瞬だけひどく厭な臭いを感じ篤胤は顔をしかめる。それは江戸の町を覆い始めた死臭だったのか。あるいはあの石造りの通路に満ちた臭いか。
思わず立ちすくんでいるとちょうど武家の豪奢な葬列が辻の左手から現れ、彼の前をゆっくりと横切っていった。
◆
篤胤はそれから一刻余かけて知人の医者を追って走り続けたが、奥方から聞いた往診先全てを回ってもとうとう出会う事ができなかった。
もしかしたら出先でも急な往診を頼まれてそちらへ行ったのかも知れない。そうなるともう追いかける事もできなかった。
打つ手をすべて失った篤胤はやむを得ず自分の家へと帰っていく。その足取りはぐったりと力なく重い。もう自分にできる事はなにもない。後は運を天に任せるしかないのだろうか。
うなだれていた篤胤がふと目をやると、玄関に今朝がたまで無かったものがある事に気が付いた。
蘇民将来子孫之門の文字――牛頭天王の赤札である。篤胤は身の毛がよだつ思いがし、その札を咄嗟に引きはがして破り捨てた。
「妄作神道の札が何故私の家に……」
耳を澄ますと家の中からはボソボソした声が聞こえる。濁ったような野太い声でどう聴いても妻ではなかった。色を失った篤胤は静かに自分の家に入り込む。
居間には体格のがっしりとした修験者が上がり込んで陣取っていた。
寝込んでいる常太郎を前にして香を焚きながら祭文を大声で読み上げている。
「……
織瀬は部屋の隅で正座し、静かにその詠唱を聞いている。そして常太郎の枕元には例の図像が広げられていた。
篤胤は途端に激しい怒りに突き動かされ、「出ていけ!」と大声で怒鳴りながら部屋へと踏み込んだ。自覚しないうちに腰の刀に手をかけてさえいた。
一方の修験者は突如怒涛の如く踏み込んできた家主に仰天し、体格に似合わぬ細い悲鳴をあげながら笈だけを持って逃げ出してしまった。
置き残された図像を篤胤はキッとにらみつける。それは宝珠と剣を握り厳めしい面構えの牛頭天王の絵であった。頭上に生じた牛の頭までが鋭い眼光を光らせていた。
「織瀬! 一体どうして
思わず妻に対してまで荒々しい言葉が飛びかける。篤胤は必死で怒りを押し殺し語気を荒げないように努めた。
部屋の隅で座っていた織瀬はじっと篤胤の顔を見た。
「――申し訳ありません。貴方が両部神道の類いを殊の外お嫌いになっているのは分かっていたのですが――薬もなく苦しそうにしている常太郎を見ているとつい縋りたくなってしまったのです。そこへ行者がやってきて祈祷してくれるというので……つい」
「彼のような奴らはまやかしを説いて後から法外な金を要求するだけです」
「――申し訳ありません」
織瀬は力なく頭を下げる。その表情は憔悴しきっていた。
自分の腹を痛めて生んだ子が死の淵にあるという事実はここまで母親を苦しめるものなのか。
「いいえ、いいんです。貴女が悪いわけではないのです」
篤胤は自分のとった振舞いを恥じた。打ちひしがれる妻を責めたいわけではない。自分はただ……。
ちょうどその時だった。ウッー ウッーという、苦し気に嘔吐くような声が聞こえた。
篤胤も織瀬もはっとして自分達の息子の方を見た。常太郎が布団の中でかすかに身体を震わせている。その小さな体が――痙攣している。
「常太郎!」
篤胤は横たわっていた息子の体を抱き上げる。その途端常太郎の――数えで二歳の赤子の口から――唾液雑じりの血が吐き出されたのである。それを見た妻がキャッと悲鳴をあげた。
これは喀血だと篤胤ははっと気づいた。麻疹はしばしば肺病を引き起こすという。そうだとしたら最悪の状態だった。常太郎はまだうまく咳すらできないのだ。このままでは喀血で窒息する恐れさえあった。
やむをえず篤胤は常太郎に海老反りのような姿勢を取らせ、吐き出すのを手伝ってやろうとした。途端に血が畳や図像の上にぽたぽたと滴った。しかし――常太郎の体にはもう力が入っていなかった。背中をトントン叩いてみたが何の反応もない。
篤胤にはもう分かっていた――息子の命の灯火はつい今しがた吹き消えたのだ。喀血は最後の印に過ぎなかった。全身が途端に弛緩し、常太郎の体は人形のようにゆれるだけだった。自分の腕の中で、生まれたばかりの若い命が立ち消えていった。
篤胤は嗚咽を漏らし、徐々に体温が失われつつある息子の体を抱きしめる。
その様子を見ていた織瀬も全てを察し、嗚呼と声をあげながら泣き崩れた。
――享和三年四月頃から流行し始めた麻疹は西国から広まり、約一カ月をかけて江戸にまで到達した。
この年の流行は被害甚だしく江戸市中だけで一万名を超える死者が出るに至った。市中は身分を問わぬ葬儀の行列であふれ返り、火葬場が連日足りなくなる有様だったという。
医学の発達していない当時、数十年に一度おびただしい犠牲者を出す麻疹は、荒れ狂う鬼神の災厄なのだと信じられていた。ハシカという日本語も「走り
平田篤胤の長男もまたこの麻疹の魔手にかけられて死去した者の一人であった。
幼い愛息子を神霊か妖怪の沙汰としか思えない伝染病で奪われた経験は、彼の抱く死生観に大きな影響を与えたと考えられている。
「常太郎……常太郎。お前は私の宝物だった。なんとしても助けてやりたかった。できる事ならば私がお前に変わってやりたかった……」
篤胤は温もりの消えた我が子の体を抱きながら泣き叫んでいた。息子の口元から垂れていた血が彼の着物の胸元に付着していた。
やがて同じように泣き伏していた織瀬が、篤胤の腕から息子を静かに抱き取った。織瀬も息子の亡骸を抱きしめ何事か小さく囁いている。なんといっているのかは分からなかった。
織瀬は息子の亡骸を、まるでまだ生きているかのように丁寧に布団の上に横たわらせる。そして顔に白布をかけてやった。
「――この子の
虚空を見るようにして織瀬が呟く。篤胤は答える事ができなかった。知らないわけではない。いやむしろよく知っている筈だ。
敬愛する本居宣長も著書で幾度も人の死について言及している。そして自分はその明快な理論に深く頷いていたではないか。
――人は死ねばみな黄泉の国へと行く。その運命には善人も悪人も区別はない。黄泉とは暗く不浄で忌まわしい場所に他ならぬ。そして死者はそこに永遠に囚われる……。
ならば常太郎の
心の柱と定めた古の道、我が神道はなんと悍ましい運命を我が子に与えるのか……。
その運命の恐ろしさに戦慄した瞬間、篤胤の視界は急速に暗がりの中に落ち込んでいった。比喩ではなく本当に世界が闇に落ちた。
――気が付けばそこは、あの石造りの冷たい通路であった。
生臭く不快な臭いが辺りに充ち、空気が打ち震えている。そして目の前にはあの牛頭の怪物が佇んでいた。
自分と、そして十四人の子供達は石室の隅に追いやられていた。皆一塊になり自分の後ろに隠れるようにして震えていた。
自分は思わず刀を抜き、怪物と対峙する。灯火が揺らめくたびにちらちらと見える怪物の眼は、ぎらぎらと輝いているにも拘らず一切の生気を感じさせなかった。
もしかしたら此奴は黄泉の国の番人なのかも知れないと思った。だとすれば此の暗く悪臭漂う通路は黄泉の入口なのか。
牛頭の怪物はその大きな手を突き出しながらこちらに迫って来る。人間一人をつかみあげられそうなほど大きな手だった。
次の瞬間、自分はもう無我夢中で刀を振り上げてその腕に斬りかかっていた。
しかし刀は怪物の肉を斬る事ができなかった。まるで大木にでも突き立てたように刀は刺さって抜けなくなり、もう引き抜く事すらできなかった。
牛頭の怪物はそれを一切気にせず、痛みすら感じていない様子でそのまま前進し、ついに子供の一人をその手でつかみあげた。
「嗚呼――!」
自分は悲鳴のような声をあげた。
ゆらめく火の中で一瞬だけ、掴みあげられ泣き叫ぶ子供の顔が見えたのだ。
怪物に掠め取られていったのは、たしかに我が息子常太郎であった。
――篤胤ははっと正気づき、辺りを見渡す。
そこは自宅の居間で自分と妻は息子が横たわる布団の横に座っている。妻は相変わらず袖を涙で濡らしていたが、篤胤はたった今見えた幻覚あるいは白昼夢の意味を考えあぐねていた。
人は何故死ぬのか。
人は臨終の最中に何を祈れば良いのか。
私は妻に、息子に、何を語るべきだったのか。
死んだ者の霊はどこへ行くのか。死後の世界とは一体どういうものなのか。――我が子を連れて行った牛は何者なのか。何処からきたのか。
鼻孔にはあの石室で感じた生臭さがまだ残っている。何もかもが生々しかった。
篤胤は聞き取れない小さな声で押し殺すように告げる。
「……貴様は一体何処から来た?」
篤胤は枕元に置いたままになっている牛頭天王の図像を睨み付け続けている。
息子が死の間際に吐いた時にかかった血がすでに変色し始めていた。それを見ているといつの間にか自分の方が血にまみれた牛頭天王に睨み返されているような気になっていた。
「私は必ずやお前の正体を暴き、貴様が坐す暗い石室の虚構を暴いて見せる。いや、黄泉の謎――幽冥の謎をも必ずや解き明かす。疫病を統べるという偽りの異神め、必ずや撃滅してくれる……」
呪うように、宣戦布告のようにそう呟くと、篤胤はそっと目を閉じる。
彼の脳裏には今、自分の家の下――いやこの江戸の地下の隅々にまであの石造りの通路が続いているイメージが思い浮かんでいた。それは遠い遠い異国の何処かから繋がっている死臭に満ちた通路であった。
そしてその路を通じ、恐ろしい疫病をまき散らし人々の命を奪う牛頭の怪物の姿がくっきりと見えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます