真実の古史を求めて
日も高くなってきた頃になって、駿河在住の平田門人達はぼちぼちと連れ立って集まり始めてきていた。特筆すべきは様々な階層の人々が集まってきている事である。武士も商人も農民もいた。これは身分を問わず教えを説く篤胤の教育方針の一つの帰結に違いなかった。
かれこれ十二人ほどの門人達が柴崎家の奥座敷に集い、師の現れるのを今か今かと待っている。その中にはあの村上源の姿もあった。
そうして予定していた全員が揃ったところを見計らい、篤胤も奥座敷にやってきて上座へと座り、簡単な挨拶を述べた後、いつも通りに古学の講義を始める。師が徹夜で出歩いていた事を知っている柴崎と新庄は心配していたが、とうの篤胤は表面上は顔色も良く溌溂とした態度で講義を続けていた。
篤胤の講義は昼八ツ(午後二時頃)に一区切りが付いたが、そこで彼は門弟達にこう告げたのである。
「もう年の瀬も迫っている事だし、私の講義もこれで終わりにしようかと思う。諸君らも家業が忙しくなっているだろうしそちらに励まれるがよろしい」
門弟たちはそれを聞いて残念に思ったが、多忙で休む暇もない師も漸く休暇を取る気になってくれたのかと思うと少し安心もしていた。
「冬も厳しくなって来るし今から箱根を抜けるのも難儀するだろう。いっそ春になるまでこの暖かい国に留まろうかと考えているのですが、よろしいかな?」
「も、もちろん願ってもない事です! 非常に光栄で御座います!」
篤胤から微笑みながらそう尋ねられた柴崎は本当にうれしそうな声でそう答えた。
「ありがとう」と短く礼を言うと、篤胤は自分を囲う門人達の顔をぐるりと眺める。そして全員に向けてこう尋ねた。
「――ところで諸君に聞いてみたいと思っていたのだが。君たちは古学をする上で、こういった本があれば良いのに。不足だなァ。などと思った事はありませんか? なんでも良い。どんな些細な疑問や不足でも良いから教えてもらいたいのですが」
好奇心に満ちた眼差しを師から向けられて弟子達は幾分戸惑っていたようだが、やがて新庄道雄が求めに応じてこう応えた。
「我々にはまだ分からない事ばかりなのですが、なんでも良いという事ならば試みに申してみます。――
「ほう。例えばどういう事でつまずいてしまうのですか?」
篤胤はそう話す新庄の目を見る。新庄は師のその大きなギョロ目で自分の内面を探られているような気になってしまった。勿論篤胤は彼を莫迦にしたり訝しんでいるわけではなく、純粋にその疑問に興味を抱いているだけなのだが。
「たとえば古事記ではオオゲツヒメを斬り殺したのはスサノオノミコトとなっていますが、日本書紀の一書ではツクヨミノミコトが斬り殺した事になっている、といった類です。神典ごとに書かれている事がまるで食い違い、私などではどれが神代の事実なのか混乱してしまいます」
新庄の言葉を聞いた篤胤は興味深そうに目を輝かせ、大袈裟なくらい首を縦に振って頷く。
「なるほど。なるほど。たしかに古の事実を記録している我が国の神典ですら、それぞれの内容が矛盾する事が多いのです。本居宣長先生ならば真の神意に叶う大倭心の文は古事記であると言い、日本書紀や風土記と食い違う時は古事記を信じよと仰るでしょうが……私の考えでは後代に人が記したモノな以上は古事記にも誤りや抜け落ちはあるように思います。そこで必要になってくるのは、数多の異説の中から事実を正し明かす作業です」
「異説を……」
「……正し明かす?」
篤胤の言った言葉の意味が分りかねるという様子で新庄は思わず眉をひそめた。彼の後ろで不審げに顔を見合わせている他の門弟達も同様の様子であった。
その反応を見た篤胤は幾分困った表情を浮かべたが、すぐにこう続ける。
「分りづらいだろうかな。たとえば先ほど新庄殿が申したオオゲツヒメを殺した神についてだが、私はこう考えています。――ツクヨミとはすなわちスサノオノミコトの異称であり、日本書紀ではスサノオの事績を誤ってツクヨミだと伝えてしまったのです。神典ごとに起きる食い違いは全て同様で事実はそのそれぞれに錯誤や潤色が含まれているように私は思います。――もしもそれぞれの神典に含まれている後世の人の誤をすべて取り除く事ができたとしたら、本当の神代の歴史が詳らかに明らかになり、世の始まりから現在までを
「……つ、つまり。様々な神典の中から正しいであろう記述だけを選り集めて再構成したとしたら、一切の誤りのない神代史を復元できる。そういう理解でよろしいですか?」
新庄が戸惑いながらも尋ねた言葉に対した篤胤は再度大きく頷いて見せ、力強くこう告げる。
「私には古事記、日本書紀、風土記。その他様々の古典や口伝。さらには
「なんと! 外つ国の伝までを皇国の古伝として考えるのですか?! これは驚きました」
傍らで聞いていた柴崎が思わず素っ頓狂な声をあげた。他の門弟達も同じような思いであるらしく、どう反応したらよいか分からないという風であった。
彼らの様子を見ていた篤胤はうっすらと微笑み、さらに続ける。
「諸君は
これを聞いた新庄は早朝から笑みを浮かべながら机に向かい筆を走らせていた師の姿をふっと思いだし、合点していた。
そうして篤胤は深く息を吐き出し、一呼吸おいてから、振り絞るような声でこう宣言した。
「いま諸君らの率直な意見を求めたのは、実は私も長年のあいだ同じ疑問を抱いていたからなのです。長い間必要だと胸中で抱きつつも、その作業の難しさを思うと口に出せずにいた……しかし私以外の人も〝真実の古史〟を求めている事がはっきりと分かりました。――今夜より私は神典を改めて拝み読み、真実を記していると思われる記述を策定にかかります。そして正しい真実のみを整理して記述した新たな古史を書き出そうと考えているのです」
◆
篤胤が〝真実の古史〟の執筆を宣言したことを受け、集っていた門弟達はその支度のために慌ただしく散っていった。柴崎の家には古伝に関わりそうな本は記紀くらいしか揃っていなかったため、彼らは近在の古学の徒や蔵書家の元を尋ね、必要な本を借り歩いて回っていたのである。
一方で当の篤胤がその間に何をしていたといえば――掃除であった。
柴崎家の客間は快適だったが聊か手狭であったし、何より玄関口のそばでかなり騒がしかった。もっと静かな部屋は無いのかと尋ねたところ、離れに案内されたのである。そこは柴崎家の隠居が寝起するために増築したものの今は誰も住んでいない離れであった。
囲炉裏も雨戸も備えられており、何よりとても静かなこの離れを篤胤は一目見ただけで気に入り、文机や筆記用具を残らず運んで移り住む事にした。しかし何年も使っていない離れであったので埃だけはすさまじく、日が落ちる前に掃除だけは済ませておこうと決めたのである。
途中で村上源が手伝いに来てくれた事もあってハタキ掛けと雑巾掛けをなんとか夕暮れまでに済ませる事ができ、篤胤は上機嫌で会った。
手伝いの褒美をあげようと柴崎家の女中に銭を渡して菓子を買ってくるよう頼んだが、しばらくして女中が番茶と一緒に持って来たのは干し柿であった。
篤胤は思わず苦笑いを浮かべたがすぐに気を取り直す。なるほど田舎では江戸のような菓子屋はそうは無いのである。
「私は何事も
暖かく黄色い夕陽が差し込む離れの縁側で、篤胤と源は干し柿を美味そうにむさぼりながら話し込んでいる。
「はい! わっしは大きくなったら江戸に行きたいと思っております。あ、その、カステイラ? も食べてみたいのですが……一番の理由は、わっしも平田先生のように江戸で学問をしたいのです」
「私のように……ですか? あまり無理はせずともこの駿河で家業を営みながらでも学問はできるのですよ。先立つ物もツテも無いのに江戸に出るだけでは無鉄砲というものです」
篤胤は至極真っ当な意見を述べたつもりであったが、当の自分が無一文で江戸に上がって以来辛酸を舐め続けている事を思うとあまりの説得力の無さに何やら可笑しくなってしまい、ついニヤニヤと笑ってしまった。その表情の意味を知ってか知らずか、源はさらにこう続ける。
「わっしの家は元は村上水軍の末裔だったと言いますが今ではつまらない染物屋です。おまけにわっしは次男なのでいずれはどこかに奉公に出るだけ。それよりはわっしは、あの縄の文様の土器をもっとたくさん掘り出してみたいのです。平田先生がおっしゃったように、日本国の土の中にはまだまだ土器がいっぱい埋まっているように思うんです」
「ほぉ、君は大地を掘り返して古の真実を探すのですね……」
「はい! ところで、平田先生に一個だけお尋ねしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」
「なんですかな?」
篤胤は最年少の門弟からの質問に対し、穏やかな口調で続きを促す。源はほんの一瞬迷ったようだがすぐにこう切り出してきた。
「わっしの父は、平田先生のお話は他の古学の先生と全然違って怪しいというんです。それで、もちろんわっしにはまだ難しい事は分からないのですが、なんとか父にも先生の事を分かってもらいたいんです。あの……先生は一体どうやって古の事を知ろうとしているのですか?」
一体どうやって古を知ろうとしているのか。難しい問いかけだった。意地悪な論敵よりもよほど難しい質問を投げてくる。
「なるほど……私の説が理解してもらえないというのは、要は私が未だ未熟であるというだけの事。御父上が悪いわけではありませんよ。それはそれとして」
自分にとっては知識は蒐集すればするほど、見識は広げれば広げるほど、たった一つの漠然とした真理をさし示しているように見えてくる。漢籍を読もうが仏書を読もうが西洋の学者の書を読もうが天主教典を読もうが、それらの広大な知識の中から次々に我が神代の真実を裏付けるものを「発見」してしまうのである。
そしてその「発見」を人々に説かなければいられない。腹中に留めておく事ができない。そうして我が神代の真実をあげつらう漢意に溺れた連中を許してはいられない気持ちになって来るし、漢意に溺れた人々も納得できるよう諭すには直感だけでなく理を何処までも追求せねばならない。
苦労の多い道である。はっきり言ってしまえば損をする事の方が遥かに多い。分かっているのに黙っていられない。これはもう、造化の神が己をそのように生まれつかせたとしか思えない時があった。
「あ、あの」
自分はおそらく自覚しないうちにしかめっ面になっていたのだろう。ふと気が付くと源が不安げな顔をしてこちらを見つめている。不躾な質問をしたのではないかと心配になったようだ。篤胤は歯を見せて笑って見せ、その不安を和らげてやるように努める。そしてある程度考えが纏まったのを自分で確認すると、夕焼け空に目をやりながらゆっくりとこう告げた。
「――
「……空、ですか?」
「まずは見聞を広めて天地や世間の在り方をよく観察し、神典を繰り返し繰り返し読み込んで火にも水にも負けない大倭心を持ち、漢土や西洋の学問をも知り――そうしてあのお日様のように
「お日様のように大虚空から……先生、天狗様以外にそんな事ができるのですか?」
「ええ! 皇国の人ならばきっとわかってもらえる気持ちだと思います。それに天狗様に頼らなくてもあと百年、いや二百年もすれば誰もが大虚空からの眺めを見られるようになってこの真理を悟るようになっているかも知れない。――もしかしたら私は、誰よりも先に覗き見たその光景を皆に何とかして伝えたくて、こんなに難儀しながら学問をやっているのかも知れません」
やや興奮気味に口から出た自分の突拍子もない空想が可笑しくなり、篤胤は思わず声を漏らして笑う。村上源もそれにつられるようにして声をあげて笑った。いつの間にか篤胤の方は泣き笑いのような表情になっていた。
少年がどこまで理解してくれたかは分からない。(尤もそれは自身でもはっきりと分からない領域なのだが)しかし自分の腹中から湧き上がる形容しがたい情動を幾らかでも聞いてもらえたのは嬉しい事であった。大人の門弟達相手には絶対に吐露できない孤独な心情であった。
涙を拭ってひとしきり笑い合った後「わっしも江戸に出て平田先生の弟子になりたい」と述べた源の手を篤胤はしっかりと握り、その折には正式な入門を許可しましょうと暖かい眼差しを向けながら約束した。
ちょうどその時、母屋の方から使いに出ていた門弟達が連れ立ってこの離れに向かって来ているのが見えた。彼らの手にはあちこちを駆け回って借りてきたであろう本がそれぞれ握られていた。
「――さて。それではそろそろ始めなければいけませんね。君も日が暮れる前に家へ帰りなさい」
篤胤は事もなげにそう言い、縁側に置いていた干し柿の包みや湯呑を静かに仕舞う。そうして穏やかに小さく手を振り、玄関に履物を取りに行く源を見送った。
振り返った源の目には、外から差し込む強い西日に照らされた篤胤の姿はまるで幽冥の住人のように影が差して見えた。にも関わらず目だけは不気味なほどぎらぎらと輝いて見え、異様な生気に満ちていた。
――平田篤胤が生涯で最も精力を捧げて取り組む事になる、彼の思考を歴史の一ページに刻み込む神憑りの作業が、今まさに始まろうとしていた。
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