誹謗中傷


 正午過ぎの江戸の町を角付け芸人達が歌いながら駆けていく。弾んだような声が聞こえる。師走を告げる声であった。


 ア! ソーレ! わいわい天王てんのう! わいわい天王! 天王が通る! 天王さまの御通りじゃ!


 ほころびだらけの布団に入った一人の女が静かに目を閉じたままその声を聞いていた。顔は青白くやつれていた。

 女の寝ている部屋は閉め切ってある。火鉢の熱気を逃がさないためだったがそのせいで昼間にも拘らず薄暗い。そこまでしても火鉢には少量しか炭が入れられていないため部屋の中は底冷えしていた。

 それまで力なく目を閉じていた女がはっとしたように目を開け、よたよたと上半身を起こす。やがて廊下に足音が響いてきた。女はこの足音をいちはやく察していたらしい。

 そうして閉め切っていた襖がしゃらりと開けられる。やって来たのは二人連れの若い男だった。

「奥様! 起き上がっては良くありませんよ」

 部屋に入って来た若い男は諫めるような口調でそう言う。身形からして武士であったが袖をまくって雑役のような恰好をしている。

「たまには、せめて起きて出迎えようと思いまして……」

 女はそういうと朗らかな益を浮かべ、軽く頭を下げた。

「私に頭など下げないでください。――今日も玄昭殿から薬をいただいてきました」

 若い男――東正利は懐から薬袋を取り出してそっと差し出す。

 薬を受け取った女――織瀬は少しだけ悲しそうな顔をした。

「お気持ちはありがたいのですが、なんだか心苦しいです。本来ならお金を払わねばいけないものを……」

 それを聞いたもう一人の男――山崎美成が部屋に入ってきながらこう言う。

「それはご心配なく! 玄昭先生の書いた処方に合わせてウチが薬種を出しておりますので。……なァに、親父は腐るほど金を持ってますからどうぞおごらせて下さい。少しは功徳を積ませておかないと、あの道楽親父は金を抱えたまま地獄に行きそうだ」

 美成はくだけた調子でそう告げると目配せして見せた。その気遣いに織瀬はふっと微笑んで静かに頭を下げる。

「それならば、せめて夫には内密にお願いします。ただでさえお世話になる事を心苦しく感じているでしょうし」

 そう言って頭をあげた織瀬の顔を、東は不躾にならない程度に注視した。ここ一カ月で織瀬はかなりやつれていた。頬もこけている。快活な女房であった彼女の弱弱しくなった姿を見るのがしのびなく、東はそっと目をそらした。

「もちろん承知しております……」

 それから塾の経営についての指示を幾つか伝えた後、織瀬は再び横になった。それを見届けると二人はそっと寝室を退出していった。

 襖を閉めた時、織瀬が苦し気に咳をする音が東の耳には聞こえていた。


 美成は廊下の角で東を呼び止め、小声でこう話す。

「……織瀬さんの顔色は先日見舞いに来た時よりも更に悪くなっていますな」

「ええ。気丈に振舞われていますが四六時中咳に悩まされて苦しんでおられます。時には血も吐いているようです」

 東はくるしげにそう言い、美成は口元に手をやって考え込んでいる。

「親父は必要とあらば金を貸そうと言っていますが、玄昭先生が仰るには織瀬さんの病にはそもそも薬が無いと言うのですよ。高麗人参などで滋養をつけながら回復を期待するしかないと」

「今は比較的穏やかな状態だが、奥様は先生に付き従ってかなり無理をなすって暮らしてきた方ですからね。それも先生を心配させぬよう極力隠しながら。……今も先生は奥様が倒れたなど露とも知らず駿河に居る筈です」

「……私も多少は学問に嗜好ある人間だが、今は平田先生にはちょっと呆れていますヨ。奥さんや子供を食うに困らせておいて学問三昧は倫道に反するのではないか。お弟子の東さんには失礼かも知れないが、本当にそう思う」

 美成の言葉を聞いた東は複雑そうな表情を浮かべていたが、やがて一言「同感です」と呟いた。


 帰宅する美成を見送るために東は平田家の玄関口までやって来ていたが、そこで妙な光景を見た。平田家の長女・千枝子が門から外をこわごわと覗いているのである。

「千枝子さん、どうしたのですか?」

 東は驚かさないように小声で声をかけたつもりだったが、それでも千枝子はびっくりしてしまったようだ。目をまん丸くして千枝子は振り向いたが、そこにいるのが東だと分かるとほっとした顔をしていた。

「あそこに変な人たちがいるの」

 千枝子が指した方を二人はそっと覗き見る。すると派手な服装の男達が五人ばかり居て、ちょうど真菅乃屋の看板がかけてある平田家正門前に集まって来ているところであった。そして男達は示し合わせたように頷き合うと、真菅乃屋の前で大声を張り上げ始めたのである。

「平田篤胤は山師なり! 世を惑わす罪ある大法螺吹きじゃ!」

「事実無根の妄想を撒き散らすニセ学者だぞ!」

 彼らはよく通る大声でいずれも篤胤の悪口を叫び出したのである。通りを行き交う人々は何事かと驚いて立ち止まり様子を見ている。自宅部分の小門から覗いている東達もぎょっとした。

「あ、ありゃあ江戸の侠客くずれの連中ですよ。強請り脅迫が生業のチンピラ達だ。なんであんな連中が平田先生に因縁をつけに……」

 事情通の美成が青い顔をしながらそう教えた。

「あの連中は先生の書など読んだ事もないだろう。大方誰かが嫌がらせのために雇ったのではないでしょうか」

 東が外を窺いながらそう言うと美成は「なるほど、平田先生にけちょんけちょんにされた坊主や儒者の差し金かも知れませんな」と納得したようだ。

「いや、そうとも限りませんよ」

 そう事もなげに答えた東の脳裏には先立って会見した鈴屋門の兄弟子たちの事が思い浮かんでいた。

 チンピラ達は大声で篤胤を罵る言葉を叫び続けている。しかしここであの連中を止めに入ると、事によっては鈴屋門とは完全に敵対する事になるかも知れない。そう考えると東は身動きを取る事ができなかった。

「美成殿、まことに申し訳ないが人目につかない勝手口からお帰り願いたい。ついでに番所に知らせてきてくれればありがたいのですが」

「私もあの連中の前を横切って帰るのは嫌だから喜んでそうするが……東さんはどうするんだね?」

「私はもう少し様子を見ましょう。惜しい事に刀を抜く度胸は無いので睨みを利かす事くらいしかできないが」

 美成が自分の腰の刀を見ている事が感じ取れたので東はあえてそう強調した。

「分かった。できるだけ急ぐように伝えるから千枝子ちゃんや織瀬さんを守ってあげてくれ」

 そう言うと美成は玄関に置いていた履物を取り、東の肩をトンと叩いて裏口へと歩いて行った。その表情にはやや軽侮の色が見えたが東には言い返す言葉もなかった。

 東の傍らには不安げに彼を見上げる千枝子だけが残された。


                ◆


「真菅乃屋は稀代の大妄説を吐いて人々をだまそうとしておるぞ!」

「山師の篤胤! 山師の篤胤! 逃げ隠れせずに出てこい!」

 当の篤胤がいない事を知って押しかけてきたくせにチンピラ達は威勢の良い事を喚き続けている。おそらく中に住人がいる事は百も承知なのだろう。

 騒ぎを聞きつけて遠巻きに様子を窺っている通りの人々が、チンピラだけでなく真菅乃屋にまで怪しむような眼差しを向けている事も感じ取れた。

「……平田先生に真っ向から論戦を挑んでも言い負かされるものだからこのような手を使うのか。卑劣な」

 東は苛立っていた。あのチンピラ達はおそらく鈴屋門の兄弟子が金で雇った差し金だ。それが分っているからこそ連中を止めに入る事ができない。所属する一門に真っ向から敵対するような真似が恐ろしい。自身のその保身にもまた腹が立っていた。

「東ァ……」

 気が付けば千枝子は東の着物の袖をつかんで顔を見上げ、話しかけてきている。

「東ァ……あの人たちはどうして父上の悪口を言うの? 父上と喧嘩したから怒ってるのか?」

 子供には難しい言葉はまだ分からないだろう。それでも父親が悪し様に罵られている事くらいはわかるはずだ。

「父上が喧嘩をした後にごめんなさいって言わなかったから怒ってるのかな? 千枝子が父上の代わりにごめんなさいって言ったら赦してくれるかな?」

 千枝子はもう泣きそうな顔をしながら東の袖にしがみついている。東は塾での勤めの合間に遊びに付き合ってやったりしていたので、平田家の子供達とも心安かった。姉の千枝子は特に東の事を慕っており、東の方も母親に似て快活な千枝子の事を可愛く思っていた。

 その千枝子がとうとう堪えきれずにはらはらと泣き出したのはもう、東にとって胸が締め付けられるような状況であった。

「――お父上は何も悪い事はしておりませんよ。大丈夫、大丈夫」

 東は千枝子の頭をわしゃわさやと撫ぜて慰めたが、なにせそう言う当人が今も聞こえ続ける罵声に心を掻き乱されているのだからどうにも説得力がない。千枝子は泣きながら言う。

「母うがあんな悪口を聞いたらきっと悲しいから。だから千枝子が謝ってやめてもらう」

 そのか細い声を聞いた瞬間、東はハッとした。

 そうだ、チンピラ達の罵声は奥で寝ている織瀬の耳にも聞こえているはずではないか。

篤胤を誰よりも慕っているあの女性があんな言葉を聞いたらどれだけ悲しむ事か。そしてその悲しみがあの痩せた病身をどれだけ苦しめ命を縮めさせるか。

「……少し待っていて下さい。私が話をつけてきます」


 織瀬が悲しんでいる光景を想像した途端、東はもう黙ってはいられなくなっていた。

 千枝子を家の中に戻らせ、腰の刀に手をやりながら外で喚くチンピラ達の元へと近づいていく。チンピラ達もすぐに気が付き、兄貴格らしい者が怪しんで声をかけてきた。

「なんか用か? そこのお侍」

「……私は真菅乃屋門人の東という者だ。すまないがそうやって門前で騒ぐのはやめてもらいたい」

 東が堂々と篤胤の門人と名乗った事にチンピラ達は少なからず驚いたようだ。雇い主は女子供くらいしか中に居らぬと説明していたのだろう。

「な、なにを因縁をつけてきよるんじゃ! 俺達はちょっと大きな声で世間話をしているだけだぞ」

「それが迷惑だと言っているんだ。この家には病人が寝ているんだ。他所でやってくれ」

「あ?!」「喧嘩を売る気か?!」

 東の言葉にチンピラ達は威圧するような調子で啖呵を切る。五人のチンピラは東の周りをぐるりと囲むように立ち、中には懐の脇差をこれ見よがしに示す者もいた。

 ちょうどその時、やや離れた場所に居る野次馬の中に鈴屋門の兄弟子たちの姿がある事に東は気が付く。真菅乃屋の中から自分が出てきた事に驚いている様子であった。

「お前達の雇い主にも大体の見当はついている。もうこのような真似はしないでくれ」

「やかましい! 叩き斬るぞ! 偉そうに二本差しなどしているが筆以外握った事もねえだろう! えッ?!」

 言葉を遮るようにしてチンピラがとうとう脇差を抜いた。こわごわと見物していた野次馬達もこれを見て悲鳴を上げた。

 東は息を呑み自分も刀に手をかけようとしたが――できなかった。武士の子とはいえ文芸にしか励んでこなかった身では剣を抜いて対峙するなどとてもできる事ではなく、ただ丸腰で身構える事しかできなかった。

 チンピラが東に向けて脇差を振り上げ、ちょうどその刃が日の光反射し、一瞬真っ白に光り輝いているのが見えた。



                 ◆



 ――駿河国。府中の柴崎邸。

 篤胤が〝真実の古史〟の選定のために離れにこもってからすでに八日が過ぎていた。江戸から追従してきた弟子達は師の作業の手伝いを続けていたが、駿河在住の門人達はそれぞれ年末の家業に励んでいた。

 新庄道雄はその合間を縫って昼過ぎに挨拶にやって来ていたが、出迎えた柴崎直古の話を聞くと仰天していた。

「なに?! 先生はあれから一睡もしていないだと?!」

 思わず大声を出した新庄を柴崎は慌てて宥める。

「大声を出すなって。手伝っていた伏木ふぎさんと後藤さんがようやくお休みになったところなんだから……お二人とも休み休み手伝っていたが体調が悪そうだったぜ」

「当たり前だ! 最後の講義から……あれから八日だぞ。今の今まで不眠不休だなんて体を壊すにきまってるじゃないか」

「先生は江戸に居る時からそうだったろう。執筆に夢中になるとお食事も文机で本を読みながらになるし、二、三日徹夜になる事もしょっちゅう。俺も暫くはいつもの事だろうと思っていたが五日経っても六日経っても離れの火は消えないし布団も使った形跡がない。そしてとうとう八日目だ。俺、さすがに心配になってきたよ……」

「当たり前だ! もっと早くに進言するべきだろう! 行くぞ!」

 オロオロするばかりで優柔不断の柴崎を、新庄は苛立って怒鳴りつけた。


 逗留している離れに上がり、新庄と柴崎は静かに襖を開けて篤胤の居る部屋に入る。

 篤胤は一心不乱に机に向かって筆を走らせている。傍らにはかじりかけの羊羹が置かれている。どうやら箸を持つのすら億劫になってこればかり食べているらしい。

 机の周りには山積みの本とくしゃくしゃに潰された反故紙が無数に散乱して足の踏み場もなく、部屋の端に敷かれている布団は真新しいままで確かに入った形跡がなかった。

「先生。平田先生」

 新庄が控えめな声で呼びかけたが、机に向かっている篤胤は振り向かない。

「平田先生!」

 大声で呼びかけると篤胤はようやく走らせ続けていた筆を止め、ぬらりと首を曲げて振り返った。

「……おお、新庄殿と柴崎殿ですか。どうしたのです?」

 篤胤は二人の顔を見ると微笑んだが、二人は思わずぎょっとしてしまった。篤胤は無精ひげも剃らず顔色も悪かった。何よりも目が濁って乾燥して光を失っているのが、部屋の薄暗さも相まって気味が悪かった。

「先生が著述に勤しんでいるのでできるだけお邪魔をしないようにしていましたが、お話をしようと思ってまいりました」

 新庄がそう告げると篤胤は短く「そうか」と呟き、「誰も来なくて寂しかったからな。ありがとう」と言って笑った。

「先生……あまり根詰めて作業は身体に毒でございます。聞けば今日で八日目の徹夜だそうではありませんか。一度お休みになられた方が良いかと思います」

「え? 八日間? もうそんなに経っていたのですか? それは大変だ」

 篤胤は本当に気が付いていなかったという様子で、目をしぱしぱさせながらひどく驚いていた。

「はい。なのでお身体を考えまして、何はともあれ一度お布団に入ってゆっくり眠られた方がよろしいかと思います……」

「うむ。それはもっともな話です。何回か昼と夜が来たのは分かっていたがそんなに経っていたとは思わなんだ。後藤殿や伏木殿が休んでいるのを見た時は内々呆れていたが、おかしいのはどう考えても私ですねえ。これは本当に悪い癖でな……ちょうど真実の古伝の選定も先ほど済んだところだ。少し休んでから再開するとしよう」

 篤胤は自分でも呆れている様子で頭をかいてそう言った。

「え、もう古史の選定が終わったのですか?」

 柴崎が驚いてそう尋ねると、篤胤は得意げに頷いて見せる。

「ええ。古事記、日本書紀、風土記。諸々の古伝に目を通した上でこれだと思う記述を抜き出しての再構成が終わりました。次は選定の理由を解説し、古史を元に世界の有り方を解き明かす書の草稿を書かねばなりません。本当に大変なのはこれからですよ」

 篤胤が指さして見せた先には、彼自身が再構成した〝真実の古史〟の草稿が山と積み上げられていた。その紙束の山を見て新庄も柴崎も息を呑んだ。いくら不眠不休とはいえ、たった八日で書ける量だとはとても思えなかったからだ。


「さて、それじゃあ私は少しばかり休ませてもらうとしよう。できたらゆっくり寝たいから自分で起き出すまで起こさないでおいてもらいたい。たっぷり寝ておかねば戦はできませんからね」

 それだけ言うと篤胤は履きっぱなしで薄汚れていた袴を脱ぎ、寝支度を整え始めていた。

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