黄泉・地獄・インヘルノ



 ――さざなみの音の響く、光り充つ海岸。

 潮の香が心地よかった。

 篤胤は砂浜に立ち、まるで鏡のように輝く海の水平線を一生懸命に眺めていた。

「一体何を探していらっしゃるのですか?」

 はっとして隣を見ると、すぐ傍に寄り添うようにして織瀬が座っていた。

「――水平線を見ていたのです。これだけ広い海ならば、地球が丸い事を体感できるのではないかと思いましてね」

 篤胤がそう言うと織瀬は可笑しそうに笑う。

「貴方はいつも、遠くて大きな物を見ていらっしゃるのですね」

「私は昔から目がいいのですよ。――そう、最近は大虚空と地球と日天、それにこの世の始まりについてずっと考えています。さすがに少々くたびれてしまいましたが……」

 そう言いながら篤胤は織瀬の隣にゆっくりと腰を下ろす。

 此処は一体どこだろうとふと思った。江戸の海ではどうも無さそうだ。とにかくとても気持ちの良い風の吹く、綺麗な場所であった。

「少し、お休みになりますか?」

 織瀬は足を組み直し、正座の形を取って示して見せる。そこに寝ろという事か。

「ま、待ちなさい。誰かに見られてしまいますよ……」

 篤胤は赤面して思わず辺りを見渡す。正直に言えば自宅では時々そうやって膝枕をしてもらう事があったのだ。恥かしがる篤胤の様子を見た織瀬はふっと微笑み、「他に誰もおりませんよ」と言って再度誘った。

 辺りを見渡し人気が無い事を再三確認した篤胤は織瀬の膝の上にそっと頭を乗せる。そしてもう無意識に目を閉じていた。柔らかく、温かく、ほんの少し良い香りがする。包み込まれるような安らいだ気持ちが確かにあった。

 織瀬の手がそっと目を閉じた篤胤の頬を撫ぜる。さらりとした手の感触と温もりが肌に伝わる。

 自分の顔を優しく撫でる織瀬の手を篤胤はそっと握る。

「元気を取り戻しました。ありがとう……」

 篤胤は愛しい妻との久方ぶりの逢引に、心底の心の安らぎを感じていた。――自分がずっと欲し続けてきた満たされた想い、安心はこの優しい妻との暮らしの中で見つけられるのかもしれない。篤胤はもっと織瀬と一緒にいたいと願っていた。大志も何も打ち捨てて生活を守るために生きればそれは容易く叶う望みなのかも知れない。

 逡巡を重ねながらまぶたを開くと、そこには自分の顔を覗き込む織瀬の顔がちゃんとあった。二人はもう何も言わず、たださざなみの響く中でお互いに見つめ合っていた。

 どれだけ経った頃か、織瀬がふっと口を開いて何かを言おうとした瞬間それは聞こえた。


 ――チリン


 その音が聞こえた途端、半分までまどろんでいたような意識が一気に覚醒する。

「鈴の音……!」

 篤胤は上半身を起こし、音の聞こえた方を眺める。その音は海辺とは反対の内陸側から聞こえてきたようだった。

 驚いた。砂浜を超えた内陸側は荒々しい岩肌が露になった不毛の地であった。穏やかで美しい海岸の真後ろにこんな荒涼とした風景がある事が不思議であった。そうしてあの鈴の音は、たしかにこの荒れ地の向こうから聞こえてきたのである。

 篤胤は鈴の音に導かれるようにして岩場へと向かおうとしたが――ふと立ち止まって不安げに後ろを振り返る。すると織瀬も立ち上がり、自分をずっと見ていた。

「――少しだけ、あちらを見てきます。すぐに戻りますよ」

 最愛の女性と片時も離れていたくない。その思いの一方で、しかし湧き上がる好奇心を抑える事がどうしてもできなかった。

「いってらっしゃいませ。お待ちしております」

 織瀬は静かにそう言うと小さく手を振り、去っていく篤胤を見送った。


 篤胤本人にも自覚が無い事であったが、彼は織瀬に対しては時々母親に縋りつくかのような気持ちを抱いていた。

 篤胤は母親からの愛情を知らなかった。彼の実の父母は彼の顔に生まれた時から大きなアザがある事を忌み嫌って冷遇した。

『お前の顔にはアザがある。それは兄弟を殺して家を奪う相だ。家を潰す因縁を持って生まれた忌々しい子め』

 篤胤の父母がそう信じた根拠は当時世間に流行していた人相学に基づく知識であった。人が生まれる前から背負っている宿命はその顔にすでに表れていると説く、極めて卑俗化した形の仏教思想・陰陽思想である。

 己が家族を殺して家を滅ぼす事は生まれる前から決まっている事で、ゆえに己は家族から忌み嫌われる。そのドグマに彼は幼い時から酷く苦しめられ、孤独に過ごし、愛情を受ける事ができなかったのである。

 篤胤が仏教や陰陽道を酷く憎んだのも、もしかしたらそれらが幼少期の苦しみに強く結び付いていたゆえかも知れない。



 篤胤は岩場を歩き続ける。進めば進むほど空気は淀み、濁り、硫黄のような臭いと腐敗臭が立ち込めてくる。空さえも黒煙と煤によって日光遠く仄暗くなっていた。

 吐き気を催す悪臭と息苦しさに幾度も引き返そうかと考えたが――それはできなかった。彼は思いだしていた。この臭気にも息苦しさにも、篤胤には覚えがあったのである。

「あの臭い……! 忘れようも無いあの臭いだ……!」

 あの元旦に見た石造りの廊下。長男が麻疹で死んだ日にも至ったあの廊下。今鼻孔に纏わりついてきている臭いは、あの場所から噴き上がる死臭に他ならなかった。

 その事に気が付くと、篤胤はいつの間にか歯を食いしばっていた。押し殺せないほどの激しい怒りが腹の中から湧き上がるのを感じていた。そしてあらん限りの声で叫ぶ。

「師よ! 此処は一体どこなのでございますか! 黄泉でございますか! 地獄でございますか! それともインヘルノでございましょうか! それとも……」

 篤胤は蘭書で見たあの聞き慣れぬ名を思い出し、そして口にした。

「それとも、ラビュリントスでございますか!」

 彼が遠い異国の迷宮を意味する言葉を叫んだ途端、大地がぐらりと揺れた。思わず膝をついて身を支える。その時、視界を遮るほど充満していた黒煙がほんの少し晴れ、篤胤は自分の目の前に如何様な光景が広がっていたのかをようやく知る事はできた。

 そこは崩れた岩が幾千万と折り重なって支え合うようにして成っている、広大な丘であった。そうしてその岩場の中に在る谷底――そこには悪臭を放つどろどろとした沼が在った――から、あの牛面人身の怪物が確かに崖の上を見上げていたのである。

「ミノタウロス!」

 篤胤がその名を呟いたのが聞こえたかのように、怪物ミノタウロスは彼の方を向いてぎろりと睨み付ける。ミノタウロスの丸太のように太い腕には刀が突き刺さった儘になっていた。

 ミノタウロスはその腕で積み上げられた岩壁を力任せに殴り続け、その度に丘が大きく揺れる。先の地震もあの怪物の仕業に違いなかった。今にこの丘が叩き崩され、山津波と共にあの穢れた沼底に滑り落ちるような気がしてならなかった。

 岩壁を叩き続ける怪物の眼は怒りに燃えていたが、篤胤もまた膝をついたまま眼下の怪物を火のような眼差しで睨み付けている。忘我とはこの事か。刀を抜いて谷を駆け下り斬りかかりたくなる衝動を抑えるのに必死であった。

 ミノタウロスがまた岩に一撃を加えようと拳を振り上げた瞬間、声が聞こえた。

 ――獸よ、たち去れ――

 その凛とした声を聴いて、篤胤ははっとしてその方向を見る。その声にもまた聞き覚えがあった。淀んだ空気と黒煙の中、濁った視界の先にたしかに人影が見える。かろうじて見える品の良い白足袋と履物にも見覚えがあった。

 ――彼は汝の姉妹いもの教へをうけて來れるならず、汝等の罰をみんとて行くなり――

 影は崖下のミノタウロスを罵るような言葉を叫ぶ。すると怪物は岩を打つ手を止め、その焦点の合わない目を影の方へと向けたのである。

 怪物は歯軋りして今度は地団太を踏むような動きを見せる。身体の内から湧きおこる怒りのやり場を見失い悶えているかのように篤胤には思えた。

 谷底の怪物が動きを止めた事を知ると、影はまたゆっくりと淀んだ空気の向こう側へ向かって歩き始める。影の歩みと共にチリンという鈴の音色がまた聞こえた。

 ――自分をこの汚穢にまみれた地の更に奥へと導こうとしているのか。

 その後を追おうとしたが、再び噴出し始めた黒煙と悪臭がそれを遮った。一瞬の躊躇のうちに影はよどみの中に掻き消えて見る見るうちに見えなくなっていく。

 その姿を見失うまいと慌てて駆け出した篤胤は影の踏んだ岩の上にそのまま足をかける。すると奇妙な事に、岩はまるでその重みに耐えきれなかったかのようにその場で転げ落ちたのである。

「嗚呼!」

 一つが崩れるとそれまで微妙な均衡を保っていた丘そのものがガラガラと音を立てて崩れ始める。流水のように崩壊する丘と共に、篤胤の身体はあのミノタウロスの坐す谷へと放り出されていた。仄暗い谷底へ転落していきながら、腐った水から噴き上がる死臭の中に篤胤は飲み込まれていった。


                 ◆


「――先生」「平田先生」

 不安げな顔をして横になっている篤胤に声をかけているのは新庄と柴崎である。

 その声にはっとして目を開けた篤胤は自分の顔を覗き込む門弟達を見るともぞもぞと起き上がり、不興そうに上半身を起こした。

「途中で起こすなと言ったと思うのですが」

 篤胤が目をこすりながら不機嫌そうに呟くと、柴崎が「ほら」と言いながら新庄を肘で小突いているのが分かった。

「失礼ながら起こさせていただきました。先生がおやすみになられてからもう二晩が経っているのですよ。今は三日目の晩でございます」

 新庄がそう教えると今度は篤胤の方がぎょっとする。

「私は二昼夜も寝ていたのですか? いやあ驚きました。さすがに眠りすぎた……」

 自分自身に呆れた様子で篤胤は布団から起き上がり、欠伸をしながら縁側の雨戸を引き開ける。反故紙だらけの部屋に冷たい風と月の光がゆったりと差し込んできた。それを感じ取ると一気に目が覚める心地がする。

「すぐにでも執筆を再開せねば……。着替えを持ってきてくれませんか? 食事は結構です。どうせ食い忘れて無駄にするだけ勿体無い事です」

 外を眺めたまま篤胤が門弟達にそう頼むと、直古はびっくりした様子で聞き返す。

「そ、そんな。二日も飲まず食わずで眠ってそれからまた断食で仕事だなんて。身体に悪うございます」

「それならば干し柿でもカリントウでも良い。甘い物とお茶だけお願いします。手が空いた時に片手で食べられる物が良い。羊羹なら一番嬉しいですがね……私は身を清めてきます。頭がシャンとしなくていけません」

「身を清める……?」

 呆気にとられた門弟達を部屋に残したまま、篤胤は下駄をはいてそのまま庭に出る。そうして庭にある井戸から桶一杯の水をくみ上げてふと中を覗き込むと、そこにはどんよりとした目をして此方を見つめている自分自身の顔が見えた。篤胤は薄汚れた自分の顔に話しかけるように呟く。

「……嗚呼。師よ。清く澄んだ天とこの地上を見据えるだけではまだ学びが狭いと仰るのですか?」

 水面に浮かび上がる顔は何も言わない。ずっと口を閉ざしている。

「それならば私は、貴方が死後に至ると信じた、不浄な黄泉をも解き明かして見せましょう」

 それだけ呻くようにして呟くと、篤胤はその冷たい井戸水を頭からザバリと被った。十二月の寒空に水音が高く響く。身を刃物で切られるような冷たさを感じたが、篤胤は手を止めずにもう一杯井戸水を汲み上げ、また頭から被る。汚らわしい黄泉から還ったイザナギノミコトが真っ先に川に入って身を清めた御心が今ならよく解った。


「明るい、幽冥ほのか、暗い……清浄、混沌カオス、汚穢……上、中、下……。日天、地球、月黄泉ツクヨミ……!」


 頭髪からも衣服からも水をポタポタと滴らせ、白い息を吐き歯をカチカチと鳴らしながら、篤胤は目をひん剥くようにして師走のおぼろ月を見上げていた。

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