縄の文様


 平田篤胤と弟子達は江戸を出立して以降ゆったりとした旅を続けていた。

 ようやく逗留の地である駿河国するがのくにの領内へ入った時点で既に出発から七日を過ぎていた。

 最初は旅行を渋り塾や家族の事ばかりを気にかけていた篤胤だったが、東海道を歩き各地の名所旧跡を見学し神社を参詣するうちに気持ちもだいぶ乗り気になっていた。彼にとっては(故郷を飛び出し江戸に向かった道程を除けば)初めての長期の旅であった。


「――いやァ、慣れてくると旅というのも悪くないものですね。日差しも心地よいし冷たい風も目が覚めるような気持ちがします。それにこう、歩きなれた足に感じる疲労感はむしろ心地よい。いやあ、よいものです」

 水田沿いの街道を悠々と歩きながら、篤胤はすこぶる上機嫌であった。中年に差し掛かろうという年周りにしては意外なほどの健脚ぶりを見せ、溌溂とした足取りで若い弟子達の先頭を歩いていた。血色もよく、塾の書斎にこもって目をぎらぎらと輝かせながら読書しているいつもの姿よりはだいぶ生気を感じられる雰囲気であった。

 それは師の健康を気遣って旅行を薦めた弟子達にとっても喜ばしい事であったが、篤胤が神社仏閣や史跡を見つけるたびに由来を調べようとしだす事にだけは閉口していた。一度調査を始めると納得できる答えを見出すまで出かけようとしないので旅の日程はすでに二日ほどの遅れが出ていた。

「先生が元気を取り戻してくれた事は嬉しいが、如何せん寄り道癖だけは参りますなあ」

「しかしたとえ申し上げても先生は聞き入れんだろう。それが先生の性分だ。我々は付き従うだけだよ」

 小声でそんな事を囁き合っていた弟子達は篤胤が不意に立ち止まって振り向いたのを見てまさか聞こえたかと冷や汗をかいたが、当の篤胤は涼しい顔で「向こうからやって来ている太った男、もしや柴崎殿ではありませんか」と聞いてきた。

 そう聞かれた弟子達は師の見ている街道の遥か先に目をやったが、あまりに遠いせいでよくよく目を凝らすとかろうじて人影がある程度にしかわからなかった。

「ううむ……誰か居るくらいは分かるのですが柴崎殿かは分かりません。しかし先生、あんな遠くに居る人の姿によく気が付きましたな」

 弟子が驚嘆しながら答えると篤胤は薄笑いを浮かべながらこう答えた。

「私は昔から勘が良いのですよ」



 それから幾ばくか経ってようやく対面できたのは、たしかに府中在住の門人・柴崎直古であった。柴崎は恰幅の良い大男であったが、腰を曲げて不自然なほど小さくなりながら迎えの口上を述べ始めた。

「いやァお待ちいたしておりました。ここ何日か、今いらっしゃるのではないか、もうそこまでいらっしゃっているのではないかとそればかりが気がかりで。ああでもこうして漸くお会いする事ができました。先生、ようこそ府中へ!」

 柴崎直古は遊学のために江戸に上り篤胤の弟子になったものの、病を患って隠居を決めた父に代わり家業の後を継ぐためにやむなく故郷へと帰った男であった。公開講義の書写なども務める勤勉さがあったので篤胤からも特に可愛がられていた弟子であった。

「わざわざ迎えに来てくれたのですね、ありがとう。世話をかけてしまうのは心苦しいのですが、君の優しさに甘えて暫らく逗留させてもらおうと思っています」

 ニコニコしながら礼を述べる篤胤に対し、柴崎はもう平伏しそうな勢いでこう言う。

「いえいえ! とんでもない事です! 先生を私の家にお泊めできるとは無上の光栄で御座います。私だけでなく府中の者皆が先生のご到着を今か今かとお待ちしておりました」

「――おや? 私が来ることを他の人まで知っているのですか?」

 篤胤が不思議そうに尋ねると柴崎は満面の笑顔でこう答える。

「人の噂というのは早いもので、百姓までが先生がいらっしゃると聞いて心待ちにしています。先生の御本を買って読んでいる者もありますし、中には講義を聞きに行くために江戸に参った者まで居ます。皆、先生に会える事を心待ちにしておりました。先生はこの辺りではその名を知らない者の無い江戸一番の有名人ですよ」

 柴崎の言葉に篤胤は思わず胸の中が熱くなる。

 自身が説き続けてきた道がこのような江戸から遠く離れた田舎にさえ伝わっている。人々に広まり始めている。自分の活動は無駄ではなかった。それは篤胤にとって何よりも嬉しい事であった。

「――それは楽しみな事です。早く皆さんに会いたいですね」

 柴崎の案内を受けて彼の屋敷へと向かう篤胤の足取りは益々軽やかになっていた。



                ◆



 篤胤の一行が逗留先である柴崎の屋敷に着いたのはその日の昼であった。柴崎の家は府中の商家・くろがね屋であり、その広く立派な屋敷は彼の本業の威勢の良さを感じさせた。

「さァ、先生どうぞお上がり下さい。お疲れでしょうしまずお食事にいたましょうか。内風呂もありますのですぐに用意できますよ。――ああ、酒ももちろん用意しておりますぞ、ご同輩」

 柴崎の最後の言葉は篤胤の後に続いてくる弟子達に向けたものだった。遊び好きの彼らしい気遣いであった。

 目配せを受けて思わずニヤニヤしてしまった弟子達を尻目に、桶で足を洗い旅装束を脱ぎ終えた篤胤はこう述べる。

「何から何までの心遣い、ありがたい事です。そういえば話に聞いていた、私を訪ねてきた方達はもう来られているのですか?」

「はい。それでしたら奥座敷にて先生がいらっしゃるのを今か今かと待っておりますよ」

「おお。それならばまずはその方達にお会いしませんとね。何か話さねばなりませんねぇ」

 その言葉に柴崎はびっくりして目をぱちぱちさせる。

「い、いや。皆には先生の講義は夕刻からと伝えてありますので。その者は少しばかり早く来すぎてしまったのですよ。まだ一人しかおりませんし皆が揃ってからでよろしいと思うのですが」

「早く来てしまったというのは私に会う事をそれだけ楽しみにしてくれていたという事でしょう。私はまずその人と顔合わせしたくなりました。皆は先に食事や風呂に行ってくれて構いませんよ」

 篤胤はそう言うと荷物の中から羽織を取り出して纏い、一人ですたすたと奥座敷の方へと向かっていく。いくらなんでも師をほったらかしにしたまま飲み食いを始めるわけにはいかないのでやむを得ず弟子達も着替え、その後をがっかりした顔をしながら追いかけていった。

 障子戸を開けて篤胤は座敷へと上がっていく。上座側には講義に使うための演台が備えられていた。

 ちらりと下座に目をやるとたしかに一人ばかり隅の方に座っているのが見えた。月代だけを剃り前髪を残した半元服の髪型からして十三、四歳くらいの少年のようだった。身なりからして商人の子のようで、傍らには風呂敷に包まれた大きな包みが大事そうに置かれていた。

 少年の方は待ち惚けでぼんやりしていたところにいきなり上座に人が現れた事に戸惑っている様子であった。

 演台に立った篤胤は法事でもやれそうな広々とした座敷をきょろきょろと見渡すと「遠いな」と呟き、そのまま下座の少年の方へと向かっていく。そうして少年の目の前にさらりと正座し、一礼するとこう告げた。

「私は江戸からやって来た平田篤胤と申す者です。僭越ながら古学の講義を始めようと思うのですが――よろしいかな?」

 学びの道は全ての人に等しく開かれるべきもの――その信念の前では相手が立った一人であろうとまだ子供であろうと篤胤にとっては一切関係のないことであった。


 少年の方は篤胤が手の届くほど近くまでやって来た事に驚いた様子であったが、やがて状況を飲み込むと恭しく拝礼しながら口上を述べる。

「あ……あの! わっしは染物商・四分三しふみ屋のせがれの村上源むらかみげんと申します。江戸からやって来た古学の偉い先生が鉄屋さんにいらっしゃると聞いてやって参りました!」

 源と名乗った少年はおそるおそる顔を上げると、自分をじっと見据えている篤胤の顔を見た。ぎらぎらと輝く大きな目と太い眉が印象的。ひょろりと不健康な感じに痩せているものの威圧感のある男だった。まるでお不動さんに睨み付けられているような感覚を覚えたが、もう目を逸らす事もできなかった。

 すると篤胤はそれまでへの字に曲げていた口元をふっと緩めて微笑んで見せる。気難しい表情をしていると鬼のようなのに破顔一笑して見せると一転して人懐こい表情になった。

「そう緊張せずとも大丈夫。その年で古学に関心を持つとは殊勝な事です。大倭心やまとごころがしっかりと息づいているようですね」

「は……はい! ありがとうございます。わっしは父より賀茂真淵かものまぶち先生や本居宣長先生の書を賜り、少しずつですが読み進めております。平田先生のご高名もかねがね耳にしておりました。こうしてご対面できたのはまさに夢のような心地です」

「ほう……良い親御さんを持たれているのですね。まことに感心、感心」

 そう言うと篤胤はほんの一瞬だが目線をそらし、何事か思いを馳せているようだった。

 源にはそれを知る由もなかったが、篤胤は自身の少年時代を思い起こしていた。折檻を受け、愛情を知らず、汚い衣を着て洗い物や野良作業をする合間に書を読み続けていた頃の事を思い出していた。

 源が不思議そうな顔をしている事に気づいた篤胤は慌てて気を取り直し、こう言った。

「――さて。講義とは言うものの実は何も用意しておりませんでな。門弟達も腹を空かせているようなので、ここは手短に済むように君の質問に答えてみようかと思います。――見受けるに、その傍らの包みはそのために持ってきたのでしょう?」

 篤胤がずばり言ってのけると源はびっくりした様子で傍らの包みに手をやる。

「は、はい! その通りです。何故お分かりになったのですか?」

「私は昔から勘がいいのですよ」

 篤胤がそう言ってにっこりと笑うと源も微笑み返し、そして風呂敷包みを開封して見せた。

 風呂敷の中には更に綿が入れられており、それをどけて見せるとその中には――



「これは……亀ヶ岡物ではありませんか。実物は私も初めて見ました」

 篤胤が驚嘆した声をあげる。それはいわゆる〝土器〟で、それもかなり大きな水瓶のような器であった。全体に蛇の鱗のようなまるで縄で括った文様のような装飾があり、自分たちが今使っている器とは威容がまるで異なっている異質な器であった。

〝亀ヶ岡〟とは津軽の地名であり、土を掘り返すとあちこちから奇怪な瓶や器が掘り出される事に由来する地名だという。

 それが古の人が作った器だという事は漠然と知られていたが詳細は誰にも分からず、その瓶や器は江戸でも亀ヶ岡物と呼ばれて好事家達の間で高値で売買されていた。

 篤胤はその珍品を手に取り、嘆息しながら眺めていたが、やがて源の方を見てこう尋ねた。

「これは父上が亀ヶ岡の人から買ってきた物なのですか?」

 篤胤の質問に源はこう答える。

「その器は、わっしが小さな頃に地面を遊びがてら掘り返しているうちに見つけた物なのです」


「な……なんですと?! 駿河の地中から亀ヶ岡物が……?」

 その縄の文様が刻まれた土器を抱えたまま、篤胤は大きな目をさらに見開き、思わず大声をあげてしまっていた。

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