師と弟子


 平田篤胤が駿河国へと旅立った日の夜。

 江戸市中某所の料亭にて、東は大坂から上ってきた二人の男と酒席で会見していた。二人の男はそれぞれ彼の兄弟子に当たる者であった。


「――平田は手紙にあった通り、今日江戸をったのか」

「はい。間違いございません」

「あの男は随分と口が回るそうだからな。妄言を暴くにしてもその場に居らん方がやりやすかろう。江戸にも大人うしの支持者は多いというのに、あのような山師に直弟子面されて掠め取られているのは我慢ならん状況だ」

「……」

「それで、つまり平田ははっきりと申したわけだな。大人の説は誤りであると……ふん、思った通り非礼な男だ。師への礼節すら弁えずに何が学者だ」

 苦々しい表情を浮かべて悪態をつく兄弟子に対し、東はおそるおそるこう申し出る。

「はっ……確かに平田先生は大人の説にも誤りがあると仰いました。しかしながら大人を慕う気持ちは非常に強いようで、決して侮ったり冒涜しようという輩ではないようです」

「同じ事よ。大人の門人を名乗りながらその教えにたがうような事ばかり囀っている輩だ。鈴屋一門(本居宣長学派)としても、大人の名を振りかざしながら大言壮語を続けるあの男をこれ以上捨て置くわけにはいかんでな」

 もう一人の兄弟子も猪口の酒を飲み干すとこう続ける。

「松坂の鈴屋本家も全くおかしな者に入門の許しを与えたものだ。知っているか? あの平田という男が送りつけてきた入門願には夢の中で大人にお会いし弟子入りを許されたなどという妄言が書かれていたそうだ。春庭殿(本居春庭……本居宣長の実子)が面白がって返事など書いて没後の門人として認めてしまったおかげでこの迷惑だ。たまったものではない」

「ワシも江戸に来てからあの平田の本を読んでみたがもう噴飯モノ……言葉遣いも卑しい俗語ばかりで見苦しいし例え話もいちいちむさ苦しいものばかり。みやびを何よりも重んじる鈴屋一門とは似ても似つかぬ。一言でいうならイモっぽくてあかん」

「左様。イモ臭い田舎から出てきたイモ学者じゃ、ギャハハハハ――」


 酒を酌み交わしながらゲラゲラ笑う兄弟子達を前に東は居心地の悪そうな顔をしている。その様子に気づいた兄弟子が東に包みを渡す。

「おお、すっかり忘れておった。長い間ご苦労であったな。これは褒美だ。もう平田の所へ行かずとも良い。大坂に帰ったら村田春門先生を尋ねて報告すると良い。きっと良い役を与えて下さろうぞ」

 渡された包みには小判が幾つか収められていた。その包みを懐に収め、拝礼しながら東はこう尋ねる。

「先学にお尋ねいたします。――〝神〟とは一体何なのでしょうか」

 唐突な弟弟子からの問いかけに兄弟子たちは怪訝そうな顔をして怪しむ。

「な、なんだ? 藪から棒に」

「疑問が浮かびましたゆえ先学にお尋ねするのです。教えを請います」

 食い下がる東の言葉に、すでにだいぶ酔いが回っているらしい兄弟子は面倒くさそうにこう答えた。

「……そのような事は大人の書に目を通せばすぐにでも分かる事だ、ヒック」

「大人の言葉の通り、ですか」

「左様……。聞けば平田は大人の説には死後の世界への洞察が少ないなどとほざいているようだが、それこそが奴が学問の徒ではなく山師に過ぎない証だ。知りようも無い事に首を突っ込んで憶測で事を言うのは学者のする事ではない」

 そもそも〝言挙げせぬ国〟の教えを文献学的見地から明らかにしようとしたのが本居宣長の国学である。篤胤の論には揣摩臆測が多すぎる。故に論ずるに値しない――文献考証を重んじる鈴屋一門としてはそれは確かに当たり前の話ではあった。

 しかしながら探りを入れながらも篤胤の言葉や思想、そして抱き続ける疑問や情念を耳にし続けてきた東の胸には、今や彼と同じような一抹の疑問が心中に浮き上がって消えなくなっていた。

「――では、いろせ方が文字も読めない学もない者達から同じ質問をされたらどう答えますか? あるいは病の床で間もなく死ぬという人々に対峙した時、なんと声をかければ良いのでしょうか? 我々神道者は世の不思議に戸惑い死の恐怖に苦しむ人々に、一体何を説けば良いのでしょうか」

 食い下がる東に対し、もう一人の兄弟子は突き放すような調子でこう答えた。

「くどいのう、それならばこう答えればよいだけじゃ。己もおぬしも死ねば恐ろしい黄泉国へ落ちるのみ。安心なきこそが安心。もののあはれを知れ――とな。他の答えなどあるものか。しかし一体どうした?」

「東ァ、おぬしどうやらすっかり平田の屁理屈を伝染うつされたようだな。酒でも飲んで清めるが良いぞ――ちょうどイモ学者の妄説を清めるのに最適なイモ焼酎がこの店には置いてあるそうだ、ブハハハハ……!」

 兄弟子達が軽口を叩いて膝を打って大笑いするのを東はじっと見据え、やがて話を切り上げるように深々と拝礼した。

「――よく分かりました。では私は翌朝に大坂に発とうと思いますので、今夜は失礼させていただきます」

 それだけかろうじて告げると東は逃げるようにして部屋から退出していく。表情は苦虫を噛み潰したようであった。その様子に面食らった兄弟子達は怪訝そうな表情を浮かべていた。

「なァんじゃアイツは……まさか本気で平田に丸め込まれたか?」



                ◆



 東はそのまま速足で料亭を退出し、夜道へと出ていった。

 夜風が吹き空気は肌がひりひりするほど冷たい。濠沿いに植えられた木々は既に葉が散っており寒々としていたが、東はその下へと近づいていく。木に寄り添って空を見上げると、澄んだ空気の先にある月が良く見えた。

 料亭の中からは各々の酔客達の喧騒がまだよく聞こえてきていた。今はその声がいちいち雑音のように感じ、あまり心地よい気分ではなかった。

「空しい……」

 月を見上げたまま東は呻くように呟いた。正直な心情だった。

 自分は大阪の儒学者の権威と序列に固まり切った世界に嫌気がさし、自由で窮理の学風があると聞いた鈴屋一問の門を叩いたのだ。

 本居宣長の説いていた古の学はたしかに目の覚めるような面白味があった。だが自分が入門した頃は師の没後既に十年が経っており、鈴屋一門も既に凝り固まった権威と派閥闘争の中にあった。

 かくいう自分も気が付けば歌道を重んじる村田派の末席に収まり、昔のようにそれをおかしいとも思わなくなっていた。そして江戸に現れた新興勢力の腹の内を探る間者の真似事も嬉々として引き受けていた。

 そうして自分は素性を隠し、平田篤胤の弟子として塾に潜り込んだ。平田先生は自分より一回りも年上だったが、まるで子供のような人という印象であった。

 金銭にも地位にも執着せず様々な事に興味を抱き、当世の学者が相手にしないような些事に執着して追いかける姿は狂熱者のように思える事もあった――いや、正直にいえば今でも見える。

 その思考は縦横無尽で独断と偏見と揣摩憶測に満ち、必要な答えを導き出すためにはありとあらゆる方向に手を伸ばし、ところどころ破綻さえしている。己の説に魅入られ己の説を立証するために全ての生命と熱量を捧げているような人だ。

 一体何がそこまで彼の人を駆り立てているのかは、自分には分からない。もしかしたら本当に目に見えない神と対話しているのか。だとしたら本当の狂人だ。

 ――だが、全てを投げ打って己の信じた道の探究に捧げている姿は不思議と魅力的であった。それ故に家族も彼を支え、好事家が現れては援助し、あの粗削りな言説についてくる弟子が現れるのだろう。かくいう自分もその一人であり、いまや彼の発した問いに深い共感を抱き、彼が解き出す答えの形を期待している……。


 東はそこで月を見たまま大きく溜息を吐いた。

 ――だが、俺は師を裏切った。村田派も一筋縄ではないしそもそも文人の集まりだ。夜討にして斬って捨てようなどと大それた事を考える者はいないだろうが、足元を掬って学者生命を絶ってやろうと画策する者はいくらでも出てくるだろう。

 自分が流した情報など些細なものだし、強情な師が筆を折るとも思えないのだが……裏切りは裏切りだ。もはや会わせる顔が無い。何食わぬ顔で大坂に帰って褒美を貰う気にもなれない。

 身の置き場を失った東はうなだれるようにして濠の淵に座り込み、そのまま川の水面を見つめていた。水面は凪いでおり、まるで鏡のように満月や濠沿いの景色、そしてしょんぼりした面で座り込む自分自身の姿を映していた。


 そうしてどれだけの時間、ぼんやりと水面を眺めていたのかよく分からない。

 もしかしたら微睡んでいた時もあったかも知れない。

 ふと我に返った瞬間、東は自分の後ろに何かの気配を感じて反射的に振り返った。

 しかしそこには何も居なかった。寒々しい程静かな夜で、あいかわらず遠巻きに料亭の喧騒だけがかすかに聞こえていた。

「……本当に俺は冴えない男だ」

 東は苦笑しながら再び向き直って川の方を見た。そうして今度こそ目を見張った。


 ――水面に映る情景では、自分の背後にたしかに人影が映っている。大きな人影がのたのたと身を揺らすようにしながら、自分の背後をゆっくりと通り過ぎている。

 身がすくむような思いがし、再び振り返る事はもうできなかった。東はもう目を閉じる事もできず、直接見る事はかなわない自分の背後にいるモノの姿を凝視し続ける。口から臓物を吐き出しそうなほど緊張していた。身動きをした瞬間、そのモノが自身の肩に掴みかかってきそうな気がしてならなかった。

 肉眼では見る事ができないモノの姿は、水に映る姿ごしにじっくりと見る事ができた。背中は曲がり、頭には長い二本の角が生えていた。明らかに人間ではない。その姿はまるで


「鬼……いや、牛だ……」


 東は声にならない声を口の中で飲み込み、見える筈のないモノの姿を水面越しに追いかけ続けていた。

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