顕微鏡の眼差し


 同年・九月初頭。


 篤胤と織瀬は弟子達から提案された温泉旅行の計画を聞かされていた。(篤胤以外の全員がすでに知っている話ではあるのだが)

「旅行……ですか? 柴崎殿の好意は嬉しいのですが、駿河と云えば片道で五日はかかる所ですよ。江戸に戻るのはいつになるのですか?」

 はっきりと断りこそはしないものの、篤胤は提案に対しあまり気乗りしなさそうな様子であった。

 車座になって篤胤を囲んでいる弟子達の一人が身を乗り出し、こう陳情する。

「年末までには江戸に戻れる予定を組んでおります。これは此度の仏道大意あらため出定笑語しゅつじょうしょうごの出版、ひいては大意ものの完成を記念しての慰安です。実はこの通り、山崎殿からもお祝いとして旅費の支度金をいただいておりますので……」

 弟子が山崎氏から受け取っていた包みを取り出す。その中には小判がずっしりと包まれており、この場に居る全員で優雅な旅をしてもつりが出そうなくらいの金額はあった。

 その小判を見せられると篤胤の表情はさらに渋々とした色を見せていく。

「むぅ。どうしてそのような物を受け取ったのですか。こうなっては今更つき返すのも失礼に当たりますね……。しかし大意ものが終わっただけで私にはまだまだ著述の計画があるのですよ。あまりのんびりと物見遊山に出歩く気にはなれませんね」

「版元との交渉などの諸事は江戸に残る弟子の方で進めておきますのでご安心下さい。それに山崎殿ほどではありませんが柴崎殿も結構な蔵書家として知られております。駿河でも合間を見て研究を進める事は不可能ではないかと……」

「ううん……しかしですねぇ」

 予想以上に駿河行きに難色を示す篤胤に弟子達はさすがに困り果てていた。

 するとそれまで黙ってやり取りを聞いていた織瀬が口を開き、こう述べる。

「良いお話ではありませんか。この際ゆっくりと温泉にでもつかって英気を養ってこられれば良いと思いますよ」

「う、織瀬までもそう言いますか……しかしですよ。私があまり長期間不在となるとようやく軌道に乗ってきた塾経営にも味噌が付くのではありませんか?」

「あら。お言葉ですが真菅乃屋が一度でも黒字になった事がありましたかしら? 私の帳簿では本がいくら売れても赤字なのですけれど」

「……そう言われると弱いですねぇ。私は本当に金にならない事ばかりしておりますので」

「ええ。なのでのんびり旅行に行かれたところで塾の方は一切困りませんよ。門弟の皆さんや山崎殿の好意を無碍にする事の方が良くないと私は思います」

「いや、しかし……」

「それに駿河にも貴方の門弟の方はいらっしゃりますでしょう? 江戸まで容易く来れない門弟と面と向かって議論するのも師としての務めだと私は思います」

 やたらはきはきと言い立てる織瀬の言葉に篤胤もさすがに肩をすくめて苦笑いし、弟子達もたまらず忍び笑いで堪えていた。

「――なるほど、そういう事ならばこの篤胤、駿河に参る事に致しましょう。いやはや、まるで寄ってたかって言いくるめられた気分ですがね」

 ようやく篤胤を頷かせる事に成功した織瀬は満足げに微笑み「ええ。それは本当によろしゅうございます」と告げた。



                 ◆



 旅行に向けての段取りの話し合いも一段落が付き、弟子達も各々帰宅していった頃、ちょうど外から帰って来る者があった。

 篤胤はちょうど書斎に入ったところであった。

「――旅行に行かれる決心をされたのですか。私としても嬉しい話です」

 そう言いながら書斎に入ってきたのは大坂から来た弟子の東であった。何故知っているのかと篤胤が問うと、ちょうど水汲みに出た織瀬から聞いたという事だった。

 東の手には風呂敷包みが握られていた。それに気づいた篤胤は話を切り替え、嬉しそうに立ち上がって東の下に近づいていく。

「おお! 山崎殿から受け取れましたか? 急な使いを頼んで悪かったですね」

「いえおやすい御用です。翻訳してくれる蘭学者を探すのに手間取ったそうですがようやく訳文が完成したそうです」

 東から渡された風呂敷包みを篤胤はその場で開封し中身を取り出す。その中には数枚の紙が収められていた。篤胤は紙を手に取ると座りもせず立ったまま、そこに書かれた文字を食い入るように追い始める。

 そうして夢中で文字を追う篤胤の手から一枚の紙が滑り落ち、ちょうど東の前にふありと舞い落ちていく。それは文字ではなく絵の描かれた紙であった。

 そうしてその紙に描かれているのは、牛の絵であった。今年の夏に見た山崎美成の持つ洋書に描かれていた、あの牛の怪物の絵の模写。羽ペンを用いて銅版画の緻密な線を上手く写し取った写実的な絵であった。

 絵を拾い上げた東はそのまま篤胤に返す。

「先生、これを……」

「おっといかん、落としていましたか――おお、これは見事な絵だ。あの牛の絵を見事に写し取っていますな。蘭学者は洋書の模写をする事が多いので絵の筆写も得意な者がいると聞きますがどうやら本当のようです」

 篤胤は嬉しそうに牛の絵を受け取り、その牛の絵をじっと見つめる。かと思えば再び文字の方に目を走らせる。

 おかしくまた失礼な話だが、東には描かれた牛と篤胤の雰囲気がどこか似ているように一瞬思えた。多分ぎょろりとした目の雰囲気が似ている気がしたのだ。

 師の篤胤は好奇心の強い方だ。並の蘭学者以上に西洋の文物への関心は強いかも知れない。だが夏から妙に興味を示しているあの牛の怪物に向ける眼差しだけは何処か違う色を帯びているように東には思えてならなかった。

「気になりますか?」

 食い入るように目を走らせていた篤胤が不意に顔をあげて東の方を見やる。

「絵を見て直感した、ほぼ私の見立て通りの話が書かれていたのですよ。咀嚼もかねて大筋を話してあげましょう。――まずこの牛面人身の怪物の名を、西洋ではミノタウロスと申しているそうです……」

 そうして篤胤はたった今一度読んだだけの書き付けに目も落とさず、諳んじるようにして物語を語り始めた。


 ――はるか昔。「グレアキア」国の古伝に曰く。

 クレエタの島には上古より海神に祈り牛の生贄を捧げるしきたりがあった。

 しかしクレエタの島のミノス大王は海神に捧げるべき美しい牡牛を惜しみ、海神の怒りに触れた。海神の懲罰が彼の妻に下った。妻は牛に恋をする呪いをかけられ、あろう事か牡牛と交わったのである。

 ミノスの妻はやがて呪われた子を産み落とす。それこそがミノタウロスであった。

 ミノタウロスは生まれながらに頭は牛、体は人間という異様な姿。そしてその性質は残酷無比の怪物であった。ミノス大王はその姿を恐れ忌み、永久に封じ込めるための宮を地底深くに建造した。

 そうして一年に一度、属国の「アテイネ」国から若い少年少女を遅らせ、ミノタウロスへの生贄として宮に送り込んだ。

その地底の迷宮の名を彼らの言葉で〝ラビュリントス〟という……。


「……らびゅりんとす?」


 聞きなれない言葉に、東が戸惑いを示して聞き返す。篤胤は深く頷きながら「漢語では〝迷宮〟とでも呼ぶ処でしょう」と答え、受け取った紙を丁寧に纏めて引出の中へとしまっていた。

 しかし東には分からなかった。そこで不遜を承知でこう尋ねた。

「まことに興味深いお話ではありますが……一つ解せない事があります。先生は何故、異国の怪物にそこまでの関心を持たれるのでしょうか。皇国の古道を明らかにする事とあまり関わりがあるようにも思えないのですが」

 師の研究対象をこのように言っては叱られるやも知れぬと内心おずおずしていたが、意外にも篤胤は柔和な表情を浮かべながらこう答えた。

「東君もそう思いますか。私も、我が事ながらとりつかれているとしか思えない時があります。あるいは因縁に絡め取られているとでも言った方が良いのか……」

 篤胤は仕舞いかけていたミノタウロスの絵を再度取り出し、更に棚から数枚の絵を取り出して東の前に広げて見せた。

 畳の上に開陳されたそれらの絵は、いずれも牛を描いたものだった。人面牛身といえるものもあれば頭に二本の角を生やしたなじみ深い鬼の絵もある。いずれも篤胤が蒐集してきた、異様な神仏妖怪の絵であった。

「――古から大勢の人々が奇妙な牛の姿を見てきた。それだけは確かに言える事です」

 そう言うと篤胤は一枚の絵を指し示す。それは仏教の唱導で用いられる地獄の火車ひのくるまの絵であった。牛面人身のいわゆる牛頭が燃え盛る台車に人間を乗せて地獄へと引き連れていく場面である。

「牛の頭や馬の頭を持った妖怪が地獄から迎えにやって来るなどという話は昔から多くあるものです。古くは今昔物語などにも記されています。尤もそこに描かれるのはあくまでも鬼なのですが……。やや後の平家物語には平清盛の奥方が夢中にて火車を見る場面があり、そこでははっきりと牛頭馬頭であったと記されています。清盛公の罪業の深さを知らしめるために地獄から火車がやってきて無間地獄行きを告げる有名な場面ですね。――近世ちかきよの文ならば諸国百物語にこんな話があります。ある巡礼者が京へ上って寺巡りをしていると牛頭馬頭が中年の女を苛みながら火車に乗せて去っていく場面を目撃した。驚いて後を追いかけると火車はある米屋の前で姿を消したので、不思議に思って米屋を尋ねると先ほどと全く同じ女が病に伏せって死にかけていた。その女は大変なケチで詐欺紛いの商売を続けていたので生きながらにして地獄に連れていかれたのだろう……という話です」


 篤胤はそれぞれの絵を指しながらさらさらとそれらの背景の物語を語っていく。まるで一字一句余さず頭の中に入っているような振る舞いで、彼の類いまれなる記憶力の成す技であった。歯切れよく続いていく牛の物語を聞かされながら東は唯々感心するばかりであった。

 そうこうするうちに篤胤が次に指し示した絵は、それまでのような刷り物ですらない肉筆画であった。走り書きのような素朴な絵の周りにびっしりと文字が書き込まれている。そしてそれらはやはり牛の絵だった。

「この絵は一体何なのでしょう? 手書きのようでございますが」

 東が不思議に思って尋ねると篤胤はこともなげにこう答える。

「これはですね、私が町医者をしていた頃に描いたものです。そして診ていた患者が口にしたうわごとや目撃した妖怪の話をそのままに写し取った者です。――それらは全て、いまわの際の患者の目に見えた妖怪の姿なのです」

 師がさらりと口にした言葉に東は流石にぎょっとした。同時にそれらが人々が死ぬ瞬間に見たモノの言い残しだと考えると、どういうわけか背筋に寒いものが走る。

「……その絵は全身が冷たくなる病にかかり、己の胸を大きな赤牛が踏みつけて息が詰まると言いながら死んだ老婆の見た姿を絵にしたものです。……そちらは熱病で悶死した子供の母親が看病中に見た牛の姿。母親は臨終の際に悲鳴をあげながら外へ飛び出しました。なんでも母親にはその時、子供を火車に乗せて飛び去ろうとする牛頭鬼の姿が見えていたそうです。火車の車輪を掴んだ際に火傷したという手を見ましたが、確かに掌が赤くなっていました。――私は医者にかかれない貧しい庶民を積極的に診て回ったので、残念ながら手遅れの患者もかなり目にしてきました。そしてはっきり聞いたのです。死に行く人々がその間際に〝牛〟の姿を見たと囁く声を……」

 それまで穏やかな表情で語っていた篤胤の表情が少し険しくなり、発声の前に小さく息を呑んでいる事に東は気づいていた。講義の際にもよく出る、話の核心に迫る前に見せる師の癖であった。

 そして篤胤は告げる。

「実は私自身も、かつて牛の姿を見たのです。あの腐臭の漂う石室、そしてそこに佇むモノの姿はたしかに牛に見えました。――私はあのモノの正体が知りたい。我が日本でも漢土でも牛は不思議と生死を掌握するものだと見なされてきました。漢土の神農は医術と薬の祖だとされていますがその姿は頭が牛で体は人間という異様な姿であったと言います。日本では気に入らぬ者をすべて滅ぼし蘇民将来そみんしょうらいの子孫を守護する牛頭天王がいます。陰陽道では牛頭天王は鍾馗しょうき帝の化身であり同時に天刑星であるなどと言い、天刑星は祀れば病を退ける疫神であったと言います。琉球国では奈落の底に落ちて死んだ子供が赤牛に気に入られ、背負われて地上に還って生き返るという物語があると言います。――実は私は以前『牛頭天王暦弁』という本を書きました。そこでは日本の牛頭天王が漢心の者達によって粉飾された漢土にも天竺にも無いでっちあげの神である事を論証したのですが……今は何故死の淵に立った人々が牛を見るのか。その点に興味があるのです。そして今また一つの姿を掴みました。それがこの、ミノタウロス……!」

 篤胤は再度あのミノタウロスの写し絵を示す。そして興奮気味に話を続ける。

「あの洋書によると、西洋ではかつてダンテ・アリギエリなる者が死後のインヘルノを旅し、その見聞を〝コメデア〟なる書にして広めたそうです。コメデアの記録によると、かつてクレエタの島の覇者であったミノス大王は死後はインヘルノの王となり、息子のミノタウロスは硫黄と腐敗の臭いに満ちた岩場に住み、やって来た者全てを苦しめ傷つける番人になっていたそうです。ミノタウロスもまた死に深く結びついた牛だったのです。洋の東西を問わず常に目撃される悍ましい姿――そう、私はあの石室が実として存在し、あの牛は暗い地の底からいつも我々を見つめているのだと考えています。でなければ世界中の人々が無数に同じ姿を目撃する事の説明が、つかないように思うのです」

 篤胤は世界中から集まってきた牛の絵を一つに重ね、丁寧に束ねて今度こそ棚の中にしまう。心なしか顔色が悪くなっているようにも思えた。

 師の熱弁を圧倒されながら聞いていた東は、篤胤の語りが一段落ついた辺りで漸く深く息を吐いた。まるで窒息しそうな思いであった。

 そして一呼吸おき、小さく頷いてからこう申し出た。

「……世界を股にかけて考察する大胆な説だと思います。先生の学びの広さ、まことに敬服いたします。――しかしその上で一つ、お尋ねしたい事があります。よろしいでしょうか?」

 東の問いに篤胤は大きく頷き、その問いを促して見せる。東はそれに促されるようにこう問いかけた。

「――しかしながら、そのような牛の事は神代の記録たる古事記には一切記されておりませぬ。本居宣長先生もそのようなモノの在り方については一切言及されておられませぬ。おそれながら、私にはとても追い縋る事のできないお話です……」

 東の声が微かにうわずっていた。

 自分の説き出した仮説に対して敬愛する師の名を持ち出して異を唱えた弟子を、篤胤はじっと見つめている。その目を見ていると射竦められているような気持ちになり、東はまた息もできないような気持になってしまっていた。

 その問いに対し篤胤は決して声を荒げたりはせず、静かにこう答えた。

「たしかに本居宣長先生は神・人・善人・悪人問わず、死ねば皆黄泉の国へ入るのみと説かれております。――しかしながら、たとえ師説といえども考えが及ばなかった故の非事ひがごとは在ります。私の考える限りでは黄泉の事や死後の事、それにスサノオノミコトの事などについては先生の説にも誤りが多いように思えるのです。私は先生をこの世の誰よりも深く尊敬していますが先生の説に傅くのみのつもりではありません。誠意をもって取り組んだ上で尚誤りに気付いたならばたとえ師説であったも正していかなければ、学者としては死んだも同じでしょう」

 そうして篤胤は宙を見るようにして目線を上げ、こう続ける。

「生まれ落ちた時から怒りと悲しみに狂い災厄をもたらす神……もしかしたらそれは我が国の神話に表れるスサノオノミコトかも知れない。牛頭天王は別名を武塔天神というが、風土記は武塔天神とはスサノオノミコトの別名だと記している。とすればミノタウロスとスサノオノミコトは無関係ではなくなるし、ダンテが出会ったミノタウロスは牛頭天王でありスサノオノミコトでもあったのかも知れない。……突飛な説だと思いますか? しかし何より、目に見えない何処かに今も居られる先生は、広く自由な視野でこの国のための学問をより高めていく事を誰よりも望まれている。その事を私は知っています」

 まるで虚空にある何かを見ながら言っているような口ぶりであったが、東は偉大なる師への冒涜とも取れる言葉肝が潰れる思いであった。全ての国学の徒にとって本居宣長は巨大すぎる存在であり、その師の説が誤りであると断ずるなどとても口にできる事では無かった。

 篤胤の言葉に何も言う事ができずどぎまぎする東の様子を見た篤胤は、傍らにあった箱を持ち出して蓋を開けて中身を見せる。箱の中にはかびの生えた丸い物が一つ収められていた。絹の布ごしに黴の塊を取り出し、篤胤は微笑みながらこう言う。

「これはですね、私が食べ忘れてすっかり傷ませてしまった饅頭です。折角なのでこうして黴が映えるまで放っておきました」

「は……はあ。黴、ですか?」

 その意図が掴め不審がっている東に対し篤胤はこう続ける。

「食い損ねたのは惜しい事ですが折角なので実験の道具にするのですよ。東君も御覧なさい。――これは蘭鏡、またの名を顕微鏡と申す西洋渡来の道具です」

 篤胤が続けて桐の箱から出したのは、東がそれまで見た事もない道具であった。

「ケンビキョウ……?」

 それは金属製の奇妙な器具だった。三脚で支えられ、その頂部には何やら筒のようなものが据えられている。

「江戸では昔よりムシメガネという見世物がありましてね。ギヤマンで出来たレンズという物を通してみると小さな虫がまるで眼前にいるように大きく見えるのです。これはそのムシメガネの精度がぐんと高まったものです。――ほら。ここに目を当てて饅頭に生えた黴をご覧なさい」

 そう言うと篤胤は顕微鏡の皿のような部分に箸で毟った黴を乗せ、覗き穴の部分を示して見せた。何やら妙に楽しそうであった。

 東は言われるままにその覗き穴を覗き込む。始めは濁ったような視野でわけがわからなかったが、篤胤が何やらツマミを弄って調節しているうち、驚くほど鮮明に見えるようになった。そうして目にした光景に、東は思わず息を呑んだ。

 いまの今までうっすらと生えた毛のようなモノだと思っていた黴が、こうして器具を通して拡大してみるとその一本一本がとても精巧で複雑な形をして生えているのだ。驚くべき事だった。

「――まるで広い花畑の中に顔を突っ込んだように見えます。そして一つ一つがまるで彫り物のようで……指先よりまだ小さい黴の塊が、実はこんなに精巧な草が凝り固まってできているのですか? 先生、先ほどからなんだか粉のようなものが舞っています。これは一体何なのですか?」

「それは黴の精だそうですよ。黴はそのような小さな精を撒き散らして増えるのだそうです」

「は……目に見えないほど小さな黴が、さらに小さな精によって増えるのですか?」

「その通り。小さく目に見えない世界の先に、さらに小さく拡大しても見えない世界があるという事でしょう。もっと良いレンズがあれば、その精さえも巨大に見る事ができるのかも知れません」

「は、はは……」

 初めて見るような幾何学的な世界の光景に東は目眩を起こしそうになる。しかしその覗き穴から目を離す事ができなくなっていた。夢中になってレンズを覗き込んでいる東の隣で篤胤は言う。

「肉眼で見ていると小さくもさもさとした塊にしか見えないのに、優れた器具を通してみると極めて精密な世界の形が見えてくる。学問の世界もこれと同じなのではないかと私は思います。同じ場所からだけでは目に見えない世界の事は分からないのです。このレンズの部分を変えていかなければ……。私はこの顕微鏡で初めて身の回りの物を見た時に世界が変わりました。肉眼でしか見えない世界など極々狭く、目の前に実にある物ですら案外正しく見えてはいないのだと感じたのです。――東君にもその事が伝わったなら良いのですが」

「……」

 東は無言のまま覗き穴から目を離し、姿勢を正して座り直す。そして深々と頭を下げた。

「先生の広い視野に、このあずま正利まさとしまことに感服いたしました。無礼を申し上げました事を何卒お許し下さい」

 滔々と詫び言を述べる東に対し、篤胤はからからと笑いながらこう応える。

「無礼だなどと気にする事はありませんよ。先ほども言ったでしょう、師の説だからと言って口を閉ざすのは学者として情けない事です。師弟の関係に関わらず不思議と思ったらなんでも聞き、誤っていると思ったら幾らでも議論をするべきです――ところで東君に一つ聞きたい事があります」

「は、何をでしょうか?」

「先ほどの黴……東君にはどのように見えましたか?」

「私には……ううむ、どうにも形容ができません。まことに不思議な形です」

「そうですか……私にはまるで雄々しく立つ一物のように見えたのですよ」

「は? いえ、……い、イチモツですか?」

 思わず呆れた声を出す東の顔を見て、篤胤は苦笑しながら続ける。

「そう、男の一物です。細長くて先端だけは丸っこく膨らんでいて精を飛ばして……織瀬にもその顕微鏡で見せましたが恥ずかしがるわ怒るわでちっとも信じてくれませんでしたよ」

 最初は冗談なのかと思い東も愛想笑いを浮かべていたがどうやら篤胤は真剣なようだった。

「不思議だとは思いませんか? 草の精気と水や土が混ざり合って生まれてくる小さな小さな黴が、何故か我々の一物に似ているのです。動物も我々人間も男女の交わりによって誕生しますが、その交わりが何かといえば要は一物と女陰の結合でしょう。つまり一物は生命の根源で、それが小さな黴にさえ備わっている……」

 赤面し苦笑しながら話を聞いている東に対し篤胤は続ける。

「別に猥談がしたいわけではないのですよ。このように小さな黴から人間、さらにはイザナギ・イザナミ両尊、さらには彼らの御生みになった地球に至るまでが同じ一物や結合の論理によって繋がっているようにも思うのです。――この世のモノは偉大な神から小さな黴、そして大虚空宇宙に至るまで、決して無秩序に乱立して成り立っているわけではない。それぞれが関連し合いながら一貫ひとつらの原理によって存在している……私は今その事を大変興味深く思っています。こういう世界の成り立ちへの探究を西洋では窮理の学などと称し昔から盛んであったと言います。彼らが現在いま、この顕微鏡のようにすぐれた測量わかりわざの技術を持っているのもその学問があればこそだと。――こういった技術や知識は世の国学者のように毛嫌いせずに取り入れ続け、我が日本の古の在り方を探る材料に加えたいものです」

 師の屈託ない想いを聞き、東はもう一度拝礼する。

「それは大変偉大で、皇国の未来にも関わる――何よりとても面白そうなお話ですね。私を含め弟子一同、先生の御研究の大要の完成する日を心待ちにしております……!」

 東の篤い激励に対し篤胤はもう何も答えず、にこやかに微笑み返すのみであった。

平田篤胤の眼差しはこの頃には既に極小ミクロの微生物の世界から極大マクロの宇宙論までを包みこんでいた。

 彼にとってそれらは目に見えない神霊の世界とも現実世界とも何一つ変わらぬ法則の流れる等価の世界であり、同じだけの熱量を持って眼差し、肯定し、語る事が当然の世界であった。



                 ◆



 ――旅立ちの日の早朝。

 旅支度を整えた篤胤と彼に同伴する弟子達は真菅乃屋前でしばしの別れの挨拶のために集まっていた。見送りには友人である玄昭医師や山崎美成も訪れてきている。

 慰安旅行の目的地である駿河国は大人の脚で五日ほどの遠地である。幼い子供達を連れてゆくのはかなりの困難を伴うため、織瀬と子供達は江戸で留守を守る事になっていた。

 篤胤は子供達を交互に抱き上げ、ほおずりまでしながら別れを惜しんでいた。

「千枝子、父がいなくても泣くのではないぞ。母を困らせるでないぞ。弟を可愛がってやるのだぞ。外で喧嘩などするでないぞ。食事の好き嫌いをしてはいけないぞ。――よいかな? わかったかな? ああ、そうだそれにな……」

 むずがって逃げようとする娘をなお抱きしめて話しかけている姿はどうみても父親の方こそ寂しがっているようにしか見えず、弟子達は師の親馬鹿な姿に苦笑いするばかりであった。

「あなた、そのへんにしておきましょうよ。親馬鹿もすぎると毒ですよ」

「何を言うのですか。私がいない間に千枝子が寂しがらないようにしっかり言い聞かせているだけで……あ、ちょっと。千枝子? アイタタタ」

 篤胤が油断して手を緩めると娘は途端に腕を振りほどいて降り、母親の後ろに隠れてしまう。その大暴れぶりには弟子達も友人達も思わず吹き出してしまった。

「あまり構いすぎては父親のありがたみが無くなりますよ、ウフフ――」

 織瀬も忍び笑いをしながら篤胤に支度した旅荷物を渡す。篤胤はそれを受け取り気を取り直すようにこう言う。

「オホン――それでは織瀬。私が居ない間の実質の真菅乃屋当主は貴女ですからね。しっかりお願いしますよ」

「その点はご安心ください。お弟子さんも何人か残ってくれますし、元より切盛は私がやっていたようなものですし。ごゆっくり静養なすってきて下さいませ」

「……う。少しは金になる本の草案でも考えておきます」

「はい。温泉につかって頭を柔らかくして、ついでに泣ける戯作本でも書いてもらえれば大変助かりますので。お芝居にでもなれば一躍千両作者ですよ」

「い、いや、私はあくまで学問で身を立てたいのでしてねぇ……」

 丁々発止のやり取りに見送りの一同はまた笑い声をあげ、傍から見ていた美成が玄昭にひそひそと耳打ちしながら苦笑する。

「僧侶や儒者相手には舌剣唇槍で鳴らす篤胤殿も織瀬殿の前ではまるで子供ですねェ」

「いやはやまったくだ……そういえば、以前織瀬殿が倒れた時に呼びに来ていた若い弟子がおりませんな。旅行に同行せずとも見送りくらい来そうなものだが」

「おや、そういえば顔が見えませんな。東殿とかいいましたか、義理固そうに見えたのですが案外薄情なのかも知れませんネ」

「ふーむ……」

 玄昭は訝しげに再度辺りを見渡したが、東正利の姿は辺りの何処にも見えなかった。


「それでは、行ってまいります」

「行ってらっしゃいませ。旅のご無事を祈っております」

 篤胤と同伴の弟子達はにこやかに手を振り、旅路を出発していく。留守を守る弟子や友人達、子供達。それに織瀬が穏やかに手を振り見送っていた。

 篤胤達の姿が見えなくなった頃、織瀬は急に咳込んだ。しばらくコンコンと咳が続いていたがやがて治まった。

 織瀬が咳込む姿を見た玄昭は何やら気にかかり声をかけたが当人は「なんともありません」の一点張りであった。そしてそう言った途端、織瀬は先ほどより激しい咳をし始めた。

 そして口元を押さえていた織瀬の手にかすかに赤いものが付いている事に玄昭も美成もほぼ同時に気が付き、顔色が変わっていた。


 時に文化八年九月末日。平田篤胤三十六歳。織瀬三十歳。

 『霊能真柱たまのみはしら』草稿完成まで、あと三カ月。

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