文化八年(1811年)

夜明け前


 平田篤胤の開講した塾・真菅乃屋のすべり出しは好調であった。

 その熱の入った教育は門下生からも評判が良く、噂が噂を呼び入門者は徐々に増えていった。開講三年目には恒常的に通ってくる門下生は二十名を超え、湯島天神の小さな家ではもはや手狭になってしまうほどであった。

 そこで平田家はより大きな講堂に使える広間を備えた家を山下町(現在の東京・銀座付近)に買い求めて移転し、新たな真菅乃屋として開いたのである。

 広い講堂を手に入れた篤胤は、弟子達だけでなく一般庶民を対象にした公開講座を開始し始める。尋ねてくれば身分を問わず誰でも講義を聞く事ができるもので、形式ばった堅苦しい言い回しを好まない軽妙な語りと過激なまでの脣槍舌剣は聴衆を引き付けたという。

 その日も彼の公開講義はほぼ満席の盛況ぶり。文化八年(1811年)の夏のある日の事であった。


「……――さてさて。漢意に染まった人々は二言目には漢土は素晴らしい国だとか漢土の教えはこの上なく尊いものだなどと申しまする。しかし! よくよく聞いてみますると、漢土の諸々の説は実はもっともらしいこじつけをした空虚な話ばかりなのでござる。だいたい漢土の人間は我が国の儒者が申すほど立派な人間だとは思えませぬ。諸君が清国人を見た事があるかは存じませぬが、聞くところによれば彼らは風呂にも入らなければ爪も切らない不潔な人々でござる。それは儒教の説く教えの体現だなどと申しますが、不潔にしている事を親や神様が果たして喜ぶでありましょうか? 他にも例えば、日本の人はこのように正座したままゆったり話す事ができまする。しかし清国人は身振り手振りを交えて大きな声まで出さねば話もできまぬという事です。いやはやそれではまるで子供の話し方でござる。まぁたったこれだけで風習も言葉も日本より劣っているのがよく分かるというもので、長崎の人々は彼らの立ち振る舞いの見苦しさにいつも苦笑しているという事でござる。だいたい漢語というものはチュンチュンチャンチャンとまるで雀がさえずっているような聞き苦しさ。非常に聞き苦しい。聞き苦しいといえばオランダ語もピィピィパァパァとまるで喘息の人の吐き出す息のようでなんとも心地悪い。まったく世の漢学者蘭学者はうわべの理屈だけでなく彼らの話し方までしっかり真似るべきだと拙者などは思いまする。あらやチュンチュン。ほらやパァパァ。おっと、これは失礼つかまつった! ――そういえば西洋の人が書くところによれば、天竺の人々は顔の色も黒く不潔で無教養だと。なんと天竺人は今も手掴みで飯を食うそうでござる。いやはやまったく不潔。身の毛もよだつ話でござる。かような汚らしい人々の国で生まれた仏法を有り難がる人々の気持ちが、拙者には一向に分かりませぬ」



 まるで講談のような語り口に、講堂に押しかけている聴衆はどっと笑う。

 篤胤は自分の話に大勢の人々が聞き入っている事を感じていた。事実篤胤の講義は古学を志すわけでない人達でも聞きに来るほどの盛況ぶりであった。あえて堅苦しい言葉遣いや言い回しを用いず痛快な言い回しを好む彼の弁舌は人々から面白がられていたのである。

 篤胤の語りが市井の人々にまで受け入れられた理由の一つには彼が若い頃に身につけた浄瑠璃語りの技術があった。よく通る声と緩急ある語りで聴衆の興味を捉えて離さない技である。そして小手先の技術だけでなく篤胤の話術自体に天賦の才があると言ってよかった。

 とにかく彼の講義に立ち会った人々は彼の一言一句を聞き漏らすまいと耳を傾けずにはいられなくなるのだった。


 ようやく聴衆達から洩れる笑い声が収まって来た頃、不意に立ち上がる者達が居た。頭巾をかぶった男達がばかりが四人ほど連れ立ち座る聴衆の間を掻き分けてすぐに篤胤の前までやって来た。

 男の一人が頭巾を取ると他の者が続いてさっと同じく脱いだ。全員が剃髪頭の僧侶であった。

 先頭を切ってやって来たリーダー格らしい痩身の僧侶は正座したままの篤胤をじろりと睨み付け、冷ややかな口調でこう述べる。

「近頃このあたりに諸宗や仏法、挙句には宗祖や釈尊さへ誹謗する者がいると聞いて探していたのだが――貴公に間違いないようですな」

 言葉遣いこそ丁寧であったがその表情や語気からは明らかな敵意が滲み出ていた。

 彼らの険悪な雰囲気に聴衆は途端に静まり返り、固唾を飲んで様子を窺っていた。しかし当の篤胤は涼し気な表情のまま自分を取り囲む僧侶達の事を見上げていた。

「はて、一体何の事やら分りかねますな。 拙者は唯々学問の話をしているだけのつもりでござる」

 篤胤の抗弁を聞いた別の僧侶が苛立たしげにこう口を挟む。

「ぬけぬけとたわごとを申す男だ。あれだけ罰当たりな事をぬかしおって」

「ほう。罰当たりでござるか。この篤胤、神に誓って嘘偽りは申しておらんつもりなのですが。清国人が風呂に入らぬのもオランダ人が喘息のように喋るのも天竺が不潔な国でそこから仏法が生まれたのも、全て客観的な事実として申しておりまする。貴僧らは西洋の人が記したホスヒデネスをお読みになった事がありませぬかな? これはエゲレス語ではヒストリイとか申すそうでござるが、つまり世界の歴史とでも申すもので……」

 まくしたてるように言い返す篤胤の弁舌に僧侶達は露骨に顔をしかめて不快そうな様子を示し、先ほどの口の悪い僧が語りを遮るように大声で怒鳴る。

「ええい話をそらすでない! 我らは仏法を誹謗するなと申しておるのだ。ヒステリイだか何だかは知った事ではないわ、この西洋かぶれめが」

 それを聞いた篤胤は柔和に微笑んで見せ、更にこう言い返す。

「拙者は仏法だけを非難しているつもりは毛頭御座いませぬ。儒学や蘭学の誤りも厳しく難じております。何事も是々非々。良いところも悪いところもあります故」

「生意気をぬかしおって! お主のように仏法の真髄も分からぬ浅学菲才の徒が是非を論じる事自体がおこがましいと云うのだ。お主の講義は聞かせてもらったがなんのことはない、所詮は学のない者達を相手にして得意になっているに過ぎん。下劣でありながら賢しらぶって鼻持ちならん」

「拙者の言葉が卑俗とおっしゃりますが、私は学問は身分の隔て無く何物でも得られるべきだと考えております故、あまり難しい言葉や喩えは用いず分かり易く喋る事を心がけております。まして私の説いている道は日本の人のためのもの。ケチ臭く秘するわけにはいかないのでござる。――しかし丁度良い。ひとつ仏法の碩学の方々にお尋ねしたい事がございます」

 慇懃無礼にそう言うと篤胤もすっと立ち上がり、四人の僧侶と聴衆達をじっと見据えながら経をあげ始めたのである。

 それは実によく通る堂々とした声で、にくたらしい僧侶達ですら思わず口を閉ざしてしまう読経であった。彼の鍛えられた喉のなす技であった。

「――さて、今のは何の経だったかお分かりですかな」

 急に読経をやめた篤胤がそう問いかける。

 僧侶達は一瞬はっとしたような顔をしたが、先ほどの無礼な僧侶は苛立たしげに「愚弄する気か。それは我が宗派で最も重んじられている経だ」と答える。他の僧侶達も続けてそうだとばかりに頷いた。

 その答えを聞いた篤胤はニコリと微笑んでこう続ける。

「その通りでござる。実は今の経は不勉強ゆえに一か所だけ間違って読んでしまいましてな。どうか何処が間違っていたか指摘し正しく直していただきたいのです。毎日お詠みになっておられる碩学ならばすぐにお分かりの筈でしょう」

「……あ?!」

 それを聞いた僧侶達は途端に四人が四人ともぎょっとしたような表情になり途端にそわそわとお互いの顔を見るなどし始めた。

 威勢の良かった僧侶達が急に小さくなったのを見て、それまで様子を窺っていた聴衆達からも忍び笑いがあちこちで起き始める。

 その空気にいたたまれなくなったのかリーダー格らしき痩せた僧侶は苦々しい表情を浮かべたまま「うむ……どうやら我々の誤解であったようだ。貴公は優れた学識をお持ちの方と見受けられる。さあ諸君帰ろうぞ」と言い繕い、そのまま退散しようとし始める。

 出て行こうとする僧侶達の後姿に向けてあちこちから笑い声が投げかけられ、聴衆の中の一人が遂に「平田先生は日本一の大先生だ! 生臭坊主はスッ込んでろぃ!」と大声で野次を飛ばした。

 その野次をきっかけについに堰を切ったような大笑いが巻き起こり、一方で面目をつぶされた僧侶達は顔面蒼白で肩を震わせながらイソイソと退出していく。

 その光景を見ながら当の篤胤もまた楽しそうに笑っていた。

 この愉快な事件のあと篤胤の講義はますます評判を呼び、日によっては希望者が講堂に入りきらなくなるほどの盛況ぶりであった。


                ◆


 ――その日の午前の講義を終え篤胤は座敷で遅い昼食を食べていた。

 来客の応対をしていた織瀬は客人をすぐに座敷に案内してくる。どうやら塾生か重要な客人であるらしい。こういう時にもすぐに相手ができるように篤胤は昼食を座敷で食べるのが習慣になっていた。

 襖を開けて現れたのは三人の男――玄昭医師と山崎殿、そして見知らぬ若い男であった。篤胤は友人の来訪に顔を綻ばせて歓迎する。

「おや久しぶりですね。よくいらっしゃいました。さあお座りくだされ」

 篤胤が敷いた座布団に座り、四人は車座で対面するように向かい合う。玄昭は土産の最中を差し出しながらこう述べる。

「――新しいお屋敷に越したと聞いて一度訪ねてみようと思いましてな。立派な構えなのにも驚きましたが実に多くの客人を相手に堂々と講義されている姿を見て驚きました。塾は大成功のようですな」

「いやあ……難しいものです。大きな屋敷は塾生を集めるハッタリのようなものですし、今やっている講義は多くの人に聞いてもらうために聴講料も取っておらぬのです。はっきり申せば殆ど儲けにはなっておりませぬ」

 苦笑いしながら応える篤胤に、今度は山崎氏がこう問う。

「あいかわらずの御方ですなぁ。しかし近頃書店では先生の書いた本をよく見かけますぞ。古道大意、歌道大意、漢学大意……どれも売れ行きは好調だと本屋は申しております」

「アハハ……! それも実は版元がついてくれませんでしてな。自費出版なので利益にはならないのですよ。ですが人々に私の考えを伝えるにはやはり本を書くしかないと思いましてね……」

 照れ臭そうに頭を書いて笑う篤胤はしかしどこか得意げであった。玄昭も山崎氏も彼の部屋着が古びてだいぶ痛んでいるのに気づいていた。経済的にかなり苦しみながら執筆や講義を続けているのが感じ取れていた。

「いやあ――お見受けした通りの一本気さだ。私はますますあなたに惚れ込みましたよ。決めました、私の蔵書は貴方に幾らでもお貸ししましょう。好きなだけ持ち帰って研究の力にして下されば嬉しく思います」

 山崎氏が手を打って喜んでそう告げると篤胤は恭しく頭を下げて礼を述べる。

「私の息子も貴方に協力させましょう。ああ紹介が遅れました、そこに居るのは私の息子です。先年元服いたしましてな……。たしか初めて私の屋敷に来た時にお会いしている筈ですぞ」

 紹介を受けて頭を下げる若者をまじまじと見つめ、篤胤はやっと合点がいったような顔をした。

「おお! 新兵衛殿でしたか。大きくなりましたね……」

「あれから七年経っておりますので。今は元服して美成よししげと名乗っております」

 美成は如何にも豪商の倅という感じの、品の良い小奇麗な色男であった。

「私に似て蒐集趣味の過ぎる道楽者ですので将来店を潰すかもしれませんが、それまではしっかりお手伝いさせていただきますぞ」

 山崎氏はからからと笑い美成も困ったような笑みを浮かべる。その笑い方はたしかによく似ていた。

「確かに私は珍しい物と見るとなんでも買い込む癖がありますが、この因業は父親譲りですよ。実はほら、さっきも」

 美成はそういうとバツが悪そうに笑いながら傍らに置いていた包みを開ける。その包みの中にあったのは重箱のように厚い洋書であった。

「装丁も美しいし挿絵も多いので惚れましてね。その場で買ってしまいました。オランダ文字はさっぱり読めないのですが面白いものです」

 一同は美成がぱらぱらと捲ってみせる頁を興味深そうに眺める。文字はまったく読めないが龍のような生物の絵や蜂のような絵が描いてある事は分かる。どうやら西洋の本草図鑑のようなものかも知れなかった。

「いやはや……もはや蘭書は縁遠いものではありませんなあ」

「いずれは蘭語が医者や学者の必須教養になるかも知れませんよ。西洋は学問が進んでいますからね」

 そう呟きながら篤胤は特に熱心に頁を眺めていたが、ある絵が描かれた頁が目に留まるとなかば覆いかぶさるようにしてその絵を見つめ始めた。

「……ど、どうなさいました? 何か気になるものでもありましたか篤胤殿」

 美成が驚いて尋ねると、篤胤は開いたままになっている頁を示しながらこう答えた。


「――牛だ!」


 その頁には牛が描かれていた。人間の身体に牛の頭の怪物が描かれている。牛頭の怪物が暗い岩場を歩いていると思わしき絵だった。

「まるで地獄の牛頭馬頭のような絵ですな。オランダ国にも居るのでしょうか」

 玄昭が見たままの印象を呟く。たしかに地獄絵に描かれる牛頭馬頭の姿によく似ていた。

 篤胤はその絵を凝視したまま応える。

「ええ、仏法の地獄絵にも出てきますし漢土の炎帝神農も牛頭の怪人であったと伝えられています。そして我が日本では牛頭天王……」

「ほう、西洋にも漢土にも天竺にも日本にも牛頭の神が居るわけですか。面白い偶然だ」

 美成が興味深げにそう述べたが篤胤は答えなかった。ただ一心に西洋の人身牛面の怪物の絵を見つめている。その表情は睨み付けていると言った方が良かった。

 篤胤の異様な雰囲気を皆が感じ取った頃、彼はふと顔をあげ山崎氏の顔を見ながらこう告げた。

「――山崎殿。既知の中にオランダ語の分かる者はおられますか」

「ん。屋敷に出入りする蘭学者なら何人もおりますが」

「この頁だけで構いませぬ。何とか翻訳を頼めないでしょうか。どうしても詳細を知りたいのです」

「それはお安い御用だが――その牛の絵がそんなに気になるのかな?」

「かたじけない。長年気にかかっている事がありまして……それでは私は失礼して執筆に戻らせていただきます。後は妻が応対しますのでゆっくりしていって下され」

 それだけ言うと篤胤は膳の上に残っていた飯に汁をかけて一気にかきこみ、一礼して座敷を出て書斎へと向かって行った。


「……随分と険しい表情をしておりましたな」

「ええ。一体どうされたのでしょうか」

 座敷に残された三人は豹変した様子の篤胤についてひそひそと語り合っていた。

「私が余計な物を持って来てしまいましたかね……」

 美成が肩をすぼめて苦笑いしていると、丁度膳を片付けにやってきた織瀬が口を挟んだ。

「お気になさらないで下さい。あの人はとりつかれておりますので」

「とりつかれていると言いますと……」

「色々なモノにです。神様とか、その牛にとか」

 織瀬は呆れたようにうっすらと笑いながら、開かれたままの洋書の挿絵を指さす。

 山崎氏がこう言う。

「いやいや、篤胤殿はあれでなかなかの人物ですぞ。今の江戸であれだけ大勢の人に共感を得られている学者は他におりますまい。私も彼の情熱と信じた道への一途さに惚れた一人です――まあちょっとばかり商才に乏しいのは否めませんがな」

「一時期は生計を立てるために医者を開業したのですがそれも二年ほどで畳んでしまいました。患者さんの往診で読書の時間が削がれるのが苦しかったようですわ。今ではずっと読んだり書いたりしています。たまに出てきたかと思えば講堂で大勢の人を前に講義して……本人的には良い気分転換のようですけどね」

「そういえば今年に入ってから篤胤殿は凄まじい勢いで本を出版していますね。庶民に向けた読み易い〝大意もの〟を熱心に書いているようで」

「ええ。私には詳しい事は分かりませんがほとんど不眠不休で書いております。あの人は一度集中して書き出すと途中でやめる事ができないのですよ。何日も徹夜して書き続けて食事も机に向かったまま食べる有様です」

 山崎氏と織瀬の話を聞いていた玄昭医師が思わず口を挟む。

「それはよくありませんなあ。確実に身体を壊しますよ。睡眠はとっているのですか」

「何夜も徹夜して体力の限界が来るとそのまま机に伏せたまま寝ております。そうして目が覚めるとまた書き始めるのです。何度言っても治らないのでもう諦めておりますが少し心配です」

「ううむ……私からも一度注意しておきましょう。学問にのめり込んで奥様に心配をかけるようではよろしくありませんからな。……しかしつくづく怪人めいた精力の持ち主だ」

「あの人は猪突猛進すぎるのですよ。世渡りも考え方も不器用すぎるので……皆様どうかあの人を助けてあげて下さい」

 織瀬は一同に深々と頭を下げると膳を持って座敷を出て行った。


「いやしかし篤胤殿は甲斐甲斐しい奥様を貰いましたなぁ。あそこまで情の深い夫婦はなかなかおりませんぞ。美成にもああいう女房を見つけたいものですわい」

「父上そういう話はいくらなんでも……」

「いやまったく織瀬殿は出来過ぎていて時々母親のように見えますな、ハハハ……」

 座敷で茶を飲みながら談笑を続けていると、ドタバタと廊下を走る音が聞こえてくる。

 一体何事かと一同が様子を窺っていると襖が勢いよく開けられ、袴姿の若い武士が座敷の中に駆けこんできた。随分慌てた様子だった。

「――申し訳ない! 手を貸してもらえませんか、奥様が倒れたのです!」

 一同はぎょっとして立ち上がりすぐに後を追っていく。男に案内されて向かったのは台所であった。たしかに織瀬が倒れていて、辺りには落とした膳や割れた茶碗が散乱していた。

「奥様! どうされましたか!」

 事態を察した玄昭医師がすぐに倒れている織瀬を抱き起こした。

「嗚呼……」

 抱き起され声をかけられた織瀬はぼんやりとながら意識があるようだった。続けて右手を脈を取る。

「意識はあるがかなり脈が弱いですな。とにかく寝室へ運びましょう。私と美成殿で運びますのでそこの御方。この家の方でしたら布団を用意してください」

 駈け込んで来た若い男は承知しましたとだけ答えると布団を取りに行き、玄昭と美成は織瀬を抱えてゆっくりと揺すらないようにして運んでいった。そうしてさきほどから結構な騒ぎになっているにも関わらず、篤胤はついに書斎から出て来なかった。


                 ◆



 玄昭が座敷の方に戻ってくると山崎氏と美成、それに先ほどの若い武士が待っていた。

 若い武士は不安げな表情のまま真っ先に声をかけた。

「奥様はご無事ですか?!」

「あれは虚労による失神でございましょう。慢性的な疲れで五体が衰弱しているのです」

「虚労ですか……我々も心配していたのですが」

「失礼ですが貴殿は――?」

「あっ申し遅れました。自分は大坂から出向いている平田先生門下のあずまというものです。今は真菅乃屋に出入りさせてもらっております」

「なるほど、篤胤殿の弟子ですか。少し篤胤殿や奥様の生活を聞かせてもらえますかな」

 玄昭も座敷に座り、全員が東の話に耳を傾ける。

 それは要約すると篤胤と織瀬の生活は弟子の自分達から見ても身体に良いものとは思えないという事と、際限のない執筆に付き合う織瀬も食事や睡眠が不安定になっている事、加えて経済的にも困窮しているので栄養状態も良くないだろうという事だった。

「――平田先生は講義の聴衆どころか我々門下生にさえ金に困っている時は講料など要らないと仰る方です。それが当人や奥様へのご負担になっているとしか思えませぬ」

 東は申し訳なさそうに肩を落とす。

 その話を聞いていた山崎氏は流石に少々呆れている様子だった。

「……志はまことに立派だが妻子を困窮させては元も子もありませんな。篤胤殿に一度申した方が良いかも知れぬ。美成、篤胤殿を書斎から呼んできてくれ」

 美成が父親の求めに応じて立ち上がろうとするとちょうど襖が開かれた。そこに居るのは横になっているはずの織瀬であった。

「奥様! 立ち歩いてはまた倒れますよ」

 東が驚いて立ち上がり駆け寄る。しかし織瀬はそのまましずしずと座敷の中に入って来てこう告げた。

「それはどうかおよしになって下さいませ。夫は今、使命のように感じて取り組んでいる大事な仕事をしているのです。邪魔をするような事はしたくありませんので……」

「しかしですね――篤胤殿はある種の精力に満ちた超人だから平気かも知れないが、貴女はこのままでは寿命を縮めますぞ」

 玄昭医師が渋い顔をしながら口を挟んだ。本当のところなのであろう。織瀬は毅然とした表情のまま正座し、こう応える。

「もちろん私もこれからは養生に務めていこうと思います。ですが――せめて今取り組んでいる版本の完成するまでは集中して取り組ませてやりたいのでございます。あれはあの人の生き甲斐なのです……」

 織瀬が深々と頭を下げて懇願すると男達はもう何も言えなくなっていた。

 すると東はこう申し出た。

「勿論我々門下生も先生の研究の大成を心より願っておりますし、同時に先生や奥様のお体を心配しております……。実は今お書きになっている仏道大意の草案が完成した頃を見計らって、先生を旅行に招待しようと思っているのです。ちょうど門下生に駿河国の豪商である柴崎直古しばざきなおふるがおります。先生には彼の屋敷に逗留して戴き、ゆっくりと温泉にでも入って骨休めしていただこうと考えておるのです……」

 東の提案を聞いた山崎氏は面白そうに手を打つ。

「ほう、それは良い考えですな。旅行の費用などは著作の完成祝などとこじつけて私が渡してしまいましょう。お膳立てしてしまえば篤胤殿も断る事はできますまい。――織瀬殿、これならどうです?」

 山崎氏は織瀬に向かって目くばせして笑ってみせた。織瀬も嬉しそうに微笑んでそれに答えた。

「……こんなに大勢の人に助けられて、あの人は幸せ者でございます」


 ちょうどその時、玄関の扉が開く音が聞こえ、軽い弾むような足音がトタトタと廊下に響いてきた。そのまま座敷に飛び込んできたのは二人の子供だった。

「ははうえー! ただいまかえりました!」

 大きな声で帰宅を告げたのは六歳ほどの娘である。娘が手を繋いで連れているのは三歳ほどの男の子であった。

 織瀬は立ち上がり微笑みながらそれに応えた。

「おかえりなさい。千枝子、半兵衛。元気に遊んできましたか?」

「はい! お外でこれをもらいました! ちちうえとははうえの分もあります!」

 そう言いながら千枝子は得意げに手にしていた物を母親に手渡す。それは紙の封であった。

 織瀬がその中身を取りだすとそれは赤色の紙であった。織瀬の表情が若干曇る。

「おひげと鼻毛をいっぱい生やしたお爺さんがそれをくれました。健康のおまもりだから、家族みんなの分を欲しいといったらくれたの!」

 ――それは牛頭天王の札であった。おそらく道を歩いていた角付け芸人がくれた物なのであろう。

 織瀬は娘の頭を撫でながらこう諭し、札の入った封をそっと棚の中へしまう。

「ちゃんと家族の分を貰ってきたのですね。偉い子です。だけど父上は牛の神様の御札が好きでないからあまり見せてはいけませんよ」

「えー! これを持ってればちちうえもははうえも病気にならないのに! しかもタダなのに」

 そう言って大げさに拗ねる千枝子の頭を織瀬はもう一度撫で、そして半兵衛の頭も優しく撫でた。玄昭も山崎親子も東も、その様子を苦笑しながらも眺めていた。

 そんな暖かい空気の中、開かれたままの蘭書に描かれたミノタウロスの絵だけが恐ろしい目つきで彼らを睨み付けるように見つめていた。

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