文化元年(1804年)

新たなる知識


 文化元年(1804年)初春。

 先年の暮れに処女作『呵妄書』を出版した篤胤は遂に江戸の文人達の論壇へと躍り出ていた。

 漢土優越を説き神道を虚構の道だと講ずる『弁道書』を激しく批判したこの書は、無名の学者の著作としては意外なほどの好意的な評価を受けていた。当時の読書界には本居宣長の支持者も既に多く、彼の説を追認し日本の優越を説く篤胤の説が受け入れられ得る土壌はすでに整えられていたのである。

 ――自分の言論に対する反応は皆無ではない事を感じ取った篤胤はこの年、私塾を開いて自らの考えを人々に説いていこうという決意を固める。自宅を塾とし生徒達と語り合いながらお互いに学び合ってみたい。そういう想いもあった。

 塾名を真菅乃屋ますげのやとして生徒の募集をかけたが既に三名の武家の子息からの入門届が届いている。悪くない滑り出しのように思えた。塾の開講をいよいよ五日後に控え、篤胤の心も浮足立っていた。


 朝食をすませ外出着に着替えた篤胤は、居間の中央に設えた神棚に向かって手を打つ。そして何事か暫らく念じた後、その下に置かれている小さな霊璽れいじに目をやった。それは去年の初夏に病死した息子の霊璽であった。

「いよいよ私の船出だ。常太郎、父に力を貸してくれよ」

 篤胤は穏やかな表情でその霊璽に語り掛ける。まるで生者と話しているような口ぶりだった。

 それを聞いた織瀬がくすりと笑いながら篤胤に黒い新調の羽織を渡す。

「まるでそこに居るかのような仰り方ですね」

「――え? ええ、なんだか時々思うのですよ。常太郎がこの家や私の周りに居るのではないかという気がするのです」

「死者の霊は黄泉には行かず、輪廻転生もせず、まして天道や地獄へも行かず――そう仰っておりましたね」

「その先はまだ分かりません。ただの感覚では学者の弁ではありませんからね」

 新調の羽織に袖を通しながら篤胤は苦笑する。建前として一応そう述べたが、自分にとっては自分の肌感覚すら研究対象の一つには違いなかった。では果たしてこのような気持ちは自分だけのものなのか、日本の人なら誰でも抱き得るものなのか。それとも。

「さて、それでは出かけてきます。今日は玄昭殿から紹介を受けた豪商の所に行ってきます。大層な蔵書家と評判の方なので、是非とも蔵書を見せて戴けないかとお願いにあがるのです」

「いってらっしゃいませ。塾生の希望者様が来られましたら恙なく対応いたしますので」

 玄関先まで見送りに来てくれた織瀬に朗らかに手を振り、篤胤は出かけて行った。空を見上げると実に気持ちの良い朝であった。


 篤胤がこの日訪れたのは大店の薬種商である長崎屋の屋敷である。玄昭医師が薬の取引で以前から親交のある薬商であった。

 紹介をすでに受けていた篤胤は店を訪ねるとすぐに客間に案内され、店主である山崎氏の応対を受けている。

 篤胤は茶請けとして出された最中もなかを美味そうに賞味していた。彼は下戸の例に漏れず甘い物がやたらと好物であった。

「――いやはや私の蔵書などまだまだ規模も小さく、学者の方に見せるのはお恥ずかしい限りですが」

 老齢の山崎氏が煎茶を啜りながら謙遜してそう言うと、篤胤は「並の商家の蔵より大きな書庫を持っていて何を申されますか」と言って笑う。

「私は古書収集が先代譲りの趣味でしてな。そして浅学ゆえこそ学問に貢献したいという思いが強くあります。なのでご紹介を受ければできる限り協力したいと考えているのですが――篤胤殿がいわゆる国学者と聞いた時は正直驚きました」

「ほう、何故ですか?」

 最中をたいらげた篤胤は、茶を啜りながら尋ねた。

「いえね、私は先代から引き継いだ古文書と同じくらい西洋の書物を集めておりますのでね。失礼ながら国学者の方々には西洋の文物というだけで毛嫌いする方が多いもので」

 山崎氏の答えに篤胤は合点がいったという風に笑う。

「成程たしかに。しかし私は西洋の知識だろうと取り入れていきたいと考えておりますので」

「西洋の学問をも学ぶ――蘭学とはまた異なるのですな? 当家には蘭学者の方々もしばしばいらっしゃるのですが」

「私は西洋の優れた学問は参考にしたいが西洋に傅くつもりではないのです。むしろ西洋の知識や技術で日本の古の道が優れている事実を確かめたいと考えておるのです」

 篤胤は強い口調でそう述べる。その言葉を聞いた山崎氏は深く頷きながら手を打ち、笑い声をあげた。面白くてたまらないといった様子であった。

「成程確かに面白いお方だ。私は貴公のお説の先が是非にも見たくなりました。喜んで貴公に蔵書を御貸しいたしましょう」

「それは――ありがたい事です。この平田篤胤、必ずや世の不可思議を解き明かして見せましょう。その成果と共に山崎殿の高名は必ずや後世まで残りましょうぞ」

 篤胤は恭しく拝礼して見せると山崎氏もニヤリと笑いこう言う。

「私ももう年だ。貴公の研究とやらのすべてを見届ける事はできないかも知れませぬ。その時には息子がお手伝いいたす事でしょう」

 そう言うと山崎氏は自分の隣に座って菓子を食べているまだ幼い我が子の頭にぽんと手を置いた。

「フフ、その時は頼りにしておりますよ。長崎屋の跡取殿」

 篤胤がにこやかに微笑みながらそう言うと、少年は照れ隠しのようにもう父親の背中にひょいと隠れてしまっていた。


                ◆


 それから篤胤は山崎氏の蔵書の書庫へと案内されていた。

 商売用の蔵を丸ごと転用した大きな書庫で薄暗く黴臭い臭いがしたが、氏の合図とともに使用人たちが天窓を開けると一気に見通しが効くようになった。

 蔵の中には棚が幾つも置かれており、その一つ一つに書物がびっしりと整頓されて詰め込まれていた。如何にも蒐集家らしい整然とした収め方だなと篤胤は思った。

「ここには古今東西、目についたありとあらゆる書物を集められるだけ溜め込んできております。先代の分まで含めれば私にも何冊あるのかはっきり分かりませぬ。我が国の古文書、漢籍、仏書、阿蘭陀オランダ文字やエゲレス文字の書物。それに――」

 山崎氏は一瞬だけ言い淀んだが、すぐにこう続ける。

「清国で漢訳された切支丹キリシタンに関する書物も多くあります」

「なんと! 切支丹の書まであるのですか?!」

 篤胤はさすがに驚いた。山崎氏は涼しい顔をしながら続ける。

「五十年前ならば我が国に持ち込む事すら難しかったでしょうな。しかし当世は蘭学も盛んゆえお目こぼしも多いのです。もっともご政道次第ではまたお咎めを受けるかも知れませんのであまり人には見せられないのですが」

 山崎氏が指し示した棚には厚いハードカバーの洋書や漢語が書かれた印刷本が見える。横文字は篤胤にはよく分からなかったが綴じ本には『聖経』などの漢語が見えた。

 西洋の経典――! 篤胤は目を輝かせながらそれらの棚を見つめる。そして妙に生気の籠った浮ついたような口調でこう申し出る。

「決して山崎殿には迷惑をかけませぬ! どうか、どうか少しでよいので切支丹の書を読ませてはいただけませぬか!」

 そう詰め寄る篤胤の表情を見ていた山崎氏は微笑みながら頷き「元よりそのつもりです。屋敷の書斎もどうぞお使い下され」と答えた。

 その答えを聞いた時には篤胤はもう飛び上がらんばかりに喜びながら、すでに何冊かの本を棚から引き出していた。



 篤胤はそれから幾日もの間、朝早くから山崎氏の屋敷を訪ねていた。

 屋敷の方で昼食を供しようと持ち掛けられたが断り、代わりに差し入れられた饅頭や大福を腹が空いたら食べていた。そして連日むさぼるようにして西洋の書物を読んでいた。

 錬金術。天文学。物理学。新旧様々な西洋文明の知識をゆっくりと、そして着実に自らの物として咀嚼し吸収し始めていた。


 ――西洋の科学者達はこの大地が球体である事を観察と測量はかりわざによって証明した。篤胤はほんの一瞬面食らったが、子供の時に松の木のてっぺんから見た水平線が微かに丸みを帯びていた事を思い出し即座に合点がいった。

 成程。この世界は〝天下〟ではなく〝地球〟なのだ。蘭学者達がこぞって見せびらかす地球儀は何百万分の一の大きさの地球の模型なのだ。

 この世界には〝エイテル〟と呼ばれる物が満ちており、煌く光はエイテルに乗って世界中を運ばれている。地球は濃いエイテルに満ちた虚空に浮かんで常に回転しているという事も知った。エイテルの虚空に地球も月も日も浮かんでいるのである。

 またこの世界に存在する全ての物は火、風、水、土の〝エレメンツ〟に拠て成り立つと考えられ、西洋の人はそれを四元などと呼んで尊んでいる事を知った。

 そして何より驚いた事は、西洋ではそれらの真理はアリストテエレスとかプラトンとかいう賢人の手によって何千年も前からすでに示されており、中興の祖であるスコラ学派だとかパルケススだとかいう学者達はそれを測量によって証明したに過ぎないのだという。

 ――新たな知識と技術わざによって古の真理を知る。これは正道である。

 この正道が西洋では実現され我が日本では何故廃れたのか。西洋の人々はみな切支丹で儒仏の小賢しい妨げが無かったからなのかも知れない。だとしたら益々口惜しい話だ。

「しかし――西洋の測量器具か。使ってみたいものだなあ。この日本の国土や日月の大きさを測れたらどれだけ素晴らしいだろうか」

 篤胤は思わずぼやいたが、その時ふと以前聞いた噂話を思い出した。

 なんでも近頃天文方の暦学者に弟子入りした者が、その努力を認められて最新の機材を与えられて日本全土を測量して回る旅をしているとか。その努力家は伊能忠敬という名でなんでも五十過ぎの老人になってから勉強を始めた者だという事だった。見上げたものだ。

 隠居老人でさえ努力次第で新たな道を切り開けるのだ、自分にだってやってできない事はあるまい。あるいは自分も幕府の事業を手伝うような日が来るやもしれぬ。

 篤胤は自分の突拍子もない空想に苦笑しながら、一通りの書写を終えた書物を棚に戻す。そして入れ替わりに新たな本を取りだした。

 それは山村才助なる者が著した『西洋雑記』の写本であった。これは当時長崎に駐留していた阿蘭陀商人より聞き書きした西洋の物語を著述した奇書といえるものであった。

 その冒頭に記されているものは「世界開闢の説」。西洋の切支丹の伝えてきた伝説であった。

 禁教の教え……。篤胤は思わずはっとして息を呑んだ。当世ではさほど咎められないとは知っていても禁教の説を閲覧するのはやはり緊張する思いがあった。

 辺りを見渡し、ついでに天窓まで見上げる。しかし天からは明るい日差しが心地よく差し込んできているだけであった。

 篤胤はついに意を決し、『西洋雑記』の頁をめくりはじめていた。



  ――太古の世、造物主すでに天地を造成してのち、男女二人を造りて「パラデイス」の地へ置く。その住居を號して「エデン」といふ。按ずるに「パラデイス」は楽土といへる義なり。……其男を亜當アダムといひ、女を厄波エバといふ。一にいわく、造物主天地を造成してのち、二塊の土を拍成して此二人の形を造りて萬民の始祖となす。

   ――『西洋雑記』世界開闢の事――

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