創世記
――無の中より造物主が生じ、造物主が天地を生じさせ、土より生じさせた男女をパラデイスなる楽土のうちのエデン国へと住まわせる。男の名をアダム、女の名をエバという。
エバより先に堕落を生じ、アダムとエバは咎を受けてパラデイスを追放される。そうして至ったのが此の大地である。
パラデイスを去りて後アダムとエバの子孫は繁殖を続け、堕落の極みに至る。
造物主これを嘆き、善良なる男ノアクとその眷属のみを舟に乗せ、世界を洪水で押し流す……
「これが、西洋人の知る世界開闢の古伝……」
篤胤は嘆息し『西洋雑記』を一度閉じた。何故だかわからないがじっとりと汗をかいている。禁制の書に目を通した背徳感からかも知れないし、純粋にその内容に好奇心をくすぐられたからかも知れない。
「しかし不思議だ。どこか似ている――」
篤胤は顎に手を当てながらぽつりと呟く。
彼には初めて読む筈の西洋の伝説が、どこか馴染みのある物語のように思えてならなかった。それは一体何故なのだろうか。
かの新井白石先生は天主教は西洋に伝わった仏教が換骨奪胎され変質したものであろうと論じた。「パライソ」は元は極楽であり「アンゼルスス」は光音天人に他ならぬと。
近頃の蘭学者には逆に天主教が東方に伝わって仏教となり日本に伝わったものであるという論を説く者がいる。
白石先生は天竺仏法の権勢を過大に見過ぎているし、蘭学者どもに至っては釈迦と耶蘇のどちらが先に生まれた人間なのかすら分かっておらぬ妄言である。
だが、真の神――真の道が世界へ波紋のように広がるうちに訛伝したと考えたのは慧眼であるといえよう。
たとえば自分の国言葉である秋田訛りは江戸言葉とはかなりの差異がある。それは秋田が僻地で江戸言葉を聞いた事もない人だけで話すうちに言葉が訛ってしまったからだ。
同じように江戸言葉は京言葉とも大きく違っている。それは江戸が中央たる京の都からかなり離れているからだ。
だが物知らずな江戸っ子だったとしたらきっとこう言うだろう。「なんでえ! 京の言葉は訛ってやがる、聞き苦しいったらありゃしねえ!」と。
――もしかしたらこれと同じ事なのではないか。元と子を取り違えて考えているのではないだろうか。
それはほとんど直感的に脳裏に浮かび口をついて出た発想であった。あまりに突拍子もない、しかしそう考えると腑に落ちない事は紙のようにはらりと落ちていき、謎めいていた部分が一気に溶けていく思い付きであった。
考えてみればエバの過ちをきっかけに堕落しパラデイスを追放されたという物語は、イザナギ・イザナミの婚姻の際にまずイザナミの方から求婚した咎でヒルコが生まれるという古伝に似ている。いや同じ構造だと言って良かろう。
「イザナギ・イザナミがアダムとエバに似ているのではない。アダムとエバがイザナギ・イザナミに似ているのだ。言葉の訛りと同じ事だ。遠い遠い真実が忘れられ、捻じ曲げられて伝わって残ったのだ。そうして元がどこの国であったのかすら忘れられ……少しばかり似ている個所が残っているというのはその証明なのではないか?」
自らの脳裏から浮かんだ仮説の衝撃が自分の体を
――本居宣長先生はわが日本の古文書を調べ、吟味し尽くし、古事記こそが漢意に汚染されておらず我が国の古を正しく描き伝えているのだと論証した。
それならば自分は広い視野と固い大和心を抱きながら地球を遍く見渡し、全世界の古の伝を残らず精査してみたい。
我が国の古伝が古の真実を伝えている事は言うまでもないとはいえ、節々には零れ落ちてしまった部分があるように思える。
それならば異伝を正しく精査し正しく組み直す事ができれば、さながら今に居ながらにして古を
この事業をもしも完成する事ができたとすれば、それこそ世界の中の我が日本の在り方をはっきりと開陳せしめる事さえできるのではないか。
本居先生の時代にはまだ外国などと向き合う必要はなかった。天下は太平で穏やかに閉じていた。
だが今は違う。様々な災厄が降り注ぎ、世は何事も狭くなって西洋の文物までがこの皇国に流れ込んで来始めている。蝦夷地には今やオロシヤ国の船がやって来てひそかに上陸まで果たしているというではないか。
我々の前には今や日本一国のみならず世界が広がっている。本居先生の説いた古の道は日本一国のための道ではない。世界を取り込み世界へ通用する道だ。
そしてその道を探求するのは――他ならないこの篤胤である。
篤胤は、突如電撃のように授かった直感に興奮していた。
地球の裏側からやって来た天主教の知識に触れた瞬間、それらは篤胤の脳裏に浮かんでいたビジョンと火花を散らすように反応し、絡み合って共鳴し始めていた。
やがて彼はゆっくりとその目線を上げ、じっと天窓を見つめる。天窓からは変わらず陽の光が差し込み続けていたが、今の彼にはそれが目も眩むばかりのまばゆい光にのように思えてならなかった。それは仄暗い部屋でずっと本を読んでいたせいかも知れなかった。
とにかく篤胤は、今やその差し込む光から目をそらす事ができなくなっていた。
「
目を見開いたまま光を見つめ続けていた篤胤はやがて嗚咽を漏らした。その表情はうっすらと微笑んでいた。
自身が薄々考え続けていた論理を裏付ける情景を、彼は今あふれる光の中でたしかに目撃していた。
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