夢中対面

 煌びやかに輝く光の中に自分が居た。

 音は聞こえず、ただひたすら目眩がするほど眩しかった。

 足元がおぼつかない。踏みしめている筈の足元がとても不安定に感じる。

 秋田の深い雪の中を歩いた時のような――いや、もっと近いのは一生懸命に走っても手足が重たく何かに絡みつくように感じる、あの感覚。子供の頃に見る夢の中のような。

 目の眩む光の中でのそりのそりと自分は歩を進めていく。

 やがて呆けたようだった感覚が調子を取り戻してくると、自分がいま歩いているのが砂の上だと分かった。一歩踏みしめるたびに足袋の指の間に砂が入り込んでくる感触が妙に鮮烈だ。

 そうして眩んでいた目がだんだんと慣れてきたのか、はっきりと辺りの色彩を感じ取れるようになってきた。


 そこは光充つ海岸だった。

 白い砂浜がどこまでも続き、明るい日差しを照り返した海が美しく輝いている。波の音だけがただ静かに聞こえていた。

 自分はその静寂の海岸を何かに導かれるようにして歩き続けていた。誰かに教えられたのか。分からない。ただこのまま進めば何かが見える。そんな気がしていた。


 やがてはっとして立ち止まる。――波打ち際に、誰かが立っている。

 その佇む姿を見た途端、自分は胸の中を掻き毟られるような思いがした。

 思わず駆け出すが相変わらず手足は泥の中にいるのかと思うほど重たい。だが確実にその人の傍へと近づいていた。

 ――海辺に立っているのは刀を差した老人であった。月代を剃らない総髪で髷を結い、いかにも医師や学者といった風貌だった。

 やがて自分がすぐ傍にまで駆け寄ると老人はゆっくりと振り向いて此方を見た。後光が差しているかのようになんだか滲んで見えるが、細面の優しげな、それでいて威厳のある顔つきの老人であった。

 その顔を見た途端、自分はなんともいえない懐かしみと畏敬を感じていた。

 そしてただの一度も姿を見た事がない筈なのにはっきりと感じ取る事ができた。


 ――本居宣長先生!


 自分は大声でそう叫んだつもりだったが不思議な事にその声は自分の耳にすら聞こえなかった。だが目の前の貴人にはたしかに届いていたらしい。

 先生もまた自分の方を見ながら口を開いた。――やはり声は聞こえない。だがその言葉は不思議にはっきりと聞こえたのだ。耳ではなく頭の中に言葉がじかに響いてくるような感覚であった。

 自分は砂の上に手をついて平伏し、先生との声なき会話を続ける。


 ――はいっ。申し遅れました、私は平田半兵衛篤胤と申す者です。


 ――はいっ。先生を心の底からお慕い申している者でございます。


 打ち寄せる波の音以外に何も聞こえない海岸で自分と先生の問答は続く。

 幾年も前に死去され会う事も叶わぬと思っていた御方が今目の前にいる。それは常識では考えられない事であった。だが、それこそが今、己の五感全てが感じ取っている事実であった。

 おそるおそる顔を上げてみると品の良い白足袋と履物が見える。それが限界だった。あまりに畏れ多い心持になり再び視線を砂の上にまで落とした。

 先生の声はなおはっきりと頭の中に響き続けていた。


 ――はいっ。この篤胤、正しい大和心を持ち、先生の古の道を究明して世に知らしめたいと願っております。


 一呼吸をおき、自分は意を決して言葉を続ける。


 ――私は先生の御説を受け継ぎ、さらに発展させていきたいと胸中ひそかに願っております。しかし一抹の不安がございます。これは実は先生の教えに背く在り方なのでは無いかと……何卒、お許しいただけないでしょうか。そしてお許しいただけるならば、この篤胤を末の弟子として是非とも門下に加えていただきたく思います。


 砂浜に手をついたまま自分は答えを待ち、また声を感じた。全身が小刻みに震えているのが自分でも分かった。自分は思わず顔をあげ、こう申し上げた。


 ――有り難き幸せに御座います……!


 眩い光に滲んだ世界が両目からあふれ出す涙でますますぼやけて見えた。まるで錯視のような視界だったが不思議な事に先生が穏やかな表情で自分を見つめていらっしゃる事だけはよく分かった。

 同じ時代に生まれながら僅かの差で対面する事が叶わなかった心の師。自分は今たしかに鬼籍に入ったはずの本居宣長を間近に見ている……。


「――嗚呼! ――嗚呼!」

 耳に聞こえたのは、おそらくは自身の口から漏れた声だった。

 篤胤は一瞬呆けたようになっていたが、すぐに自分自身が立ちすくんだまま天窓を見つめている事に気が付いた。陽はいつの間にかすっかり陰ってしまっていた。

 篤胤は視線を落とし自分の掌をじっと見る、狐狸に化かされた時は掌を見れば良いというまじないをふと思い出していた。掌を見ても薄暗い足元を見ても目に残像が焼き付き、瞼を閉じてもまだ見えた。

 今のは幻だったのだろうか? それとも白昼夢というやつか。しかしそれにしては確かな実感があった。自分はこの黴臭い書庫に居ながらにして確かに本居宣長先生の坐す場所へと赴いていたような気がしてならなかった。

 本居宣長先生のたまの居られたあの場所――パラデイスではなく極楽でもない。ましてや地獄でも先生御自身の説かれた黄泉でもなかった。

 この仄暗い空間とどこかでつながっている幽冥ほのかな世界。

 それは例えばこういう暗い部屋に光が差し込んでいる時だけ、光の筋の中に細々とした塵が浮かんでいるのが見える事に似ているかも知れない。塵はこの大気中にいつも無数に舞っているにも関わらず普段は目に見えないのだ。目に見えない幽冥世界もまたもしかしたら同じ事なのかもしれない。

 死者はどこか遠くにいるのではない。すぐ近く、薄皮一枚の場所にいつも在るのではないか。

 常に傍に在るからこそ時々は覗き込める時がある。亡き人のたまが傍に在る感覚を感じる事ができる。幽冥の方から啓示を与える事もできる――。

「先生は、私にこの事を教えるために幽冥より御姿を見せて下さったのではないだろうか……」

 自分の着想と情熱が敬愛する師によって認められた。それは幾千万の援軍よりもなお心強いものであった。篤胤にとって夢幻の中での本居宣長との対面は実感と共にあった揺るぎのない事実であり、死後にも希望に満ちた生活がある事の証明であった。

 だが、それだけではダメだ。世の中には心が素直でない人だって多いのだ。もっと大勢の人達に世界の明るい在り方を理解してもらうためには幾つもの論証が必要だろう。

 それがどれだけ困難な道であったとしても自分は成し遂げなければならないのだ。

 何故なら……。


                ◆



 夫の塾の開講を明日に控え、織瀬は朝から忙しく働いていた。

 講堂代わりに使う座敷を掃除し、人数分の座布団を縫い、今は刷物屋に頼んで刷ってもらった教本を一つずつ綴じて本の体裁に整えていた。

 その作業もちょうど区切りがついて一心地……という頃にちょうど玄関を開く音が聞こえた。どうやら夫が帰って来たらしい。

 迎えに出るとそこに居るのはやはり篤胤であった。声をかけると篤胤は近頃では珍しい程晴れ晴れとした上機嫌の表情を浮かべていた。

「只今帰りましたよ。申し訳ない、忙しい最中に連日家を空けてしまいまして」

「いいえ。あなたは学問がお仕事ですゆえ。――ところで山崎殿の御宅で何か良い事でもあったのですか? なんとなく嬉しそうなのですが」

「それがですね」

 篤胤は嬉々として喋り出そうとしたが、一瞬戸惑った表情をしたと思うとそのまま口ごもってしまう。

「――どうされたのです?」

「いやあ……人に話したとて信じてもらえる話ではないのです。織瀬もきっと呆れますよ」

「構いませんよ。お話ししたい事でしたらお聞きします」

 促す織瀬の言葉に篤胤は意を決したように話し始める。初めは戸惑いながら、しかしすぐに興が乗ったのか身振り手振りを交えながら饒舌に。

 世界の古伝を吟味し正しい古の歴史を探したいという事、目に見えぬ幽冥を研究するという事、そして夢幻の中で本居宣長に出会い師弟の契りを交わした事。

「常識的に考えれば私は夢か幻をつかの間見ただけなのでしょう。ですが私の五感は触れた砂の手触りや優しい海風の香りまではっきりと覚えているんです。顕世うつしよを包み込むようにして在る幽世かくりよが実にあるのだという事を私は肌で確信しました。そうして私を弟子と認め、幽世の様子を垣間見せた先生のご意思をも……」

 篤胤の話を織瀬は真摯な表情をして聞いている。どういうわけかその様子を見ていると篤胤は却って不思議な気持ちになってしまった。

「――織瀬は信じるのですか? この突飛な話を」

「ええ。信じますよ。だってあなたが真面目に仰っているんですもの」

 事もなげにそう言う妻を篤胤は驚いたように見つめる。その事に気づいた織瀬は少しはにかんだような笑みを浮かべ「だって私はあなたの妻ですからね」とだけ答えた。

 その言葉を聞いた篤胤はそっと手を伸ばし、そのまま織瀬を抱きしめる。もう言葉は必要なかった。そこにはたしかな信頼関係があった。

 織瀬を抱きしめ、その体温や息遣いを確かめるように感じ取りながら篤胤は心に誓っていた。

 自分は絶対に此の世の成り立ちとの世の在り方の研究を成し遂げてみせる。

 何故ならばそれは安心のための研究であり、自分自身のみでなく日本の人、世界の人々――そしてもちろん愛しい織瀬が憂いも迷いもなく幸福に暮らすための〝たまの柱〟を見つける事に他ならないからだ。


 ――文化元年・春。平田篤胤は私塾・真菅乃屋ますげのやを開講する。

 時に篤胤二十九歳。織瀬は二十三歳であった。塾の開講と同じ頃、篤胤は夢中にて本居宣長と対面を果たし、師弟の契りを交わしたという。

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