幽冥ラビュリントス

ハコ

享和三年(1803年)

牛の神の夢


  斯く我は第一のひとやより第二の獄に下れり。是は彼よりをさむる地少なく苦患なやみははるかに大いにして突いて叫喚を擧げしむ。

  ここにミノス恐ろしきさまにて立ち、齒をかみあはせ、入る者あれば罪業ざいごふただし、刑罰を定め身を卷きて送る。

  ……彼の前には常に多くの者の立つあり。かはるがはる出でて審判をうけ、陳べ、聞きて後、下に投げらる。ミノス我を見し時、かく重き任務つとめを棄てて我にいひけるは、「うれひの客舍に來れる者よ。汝みだりに入るなかれ。身を何者にゆだぬるや思ひ見よ。入口ひろきによりて欺かるるなかれ。」

   ――『神曲』地獄篇・第五曲(ダンテ作・山川丙三郎訳)――



 そこは石造りの薄暗く冷たい通路であった。

 前後は暗闇。頭上も隙間すらない石造り。一定の間隔で掛けられている燭台の灯火だけが微かに辺りを照らしている。全体的に煤けているし空気が悪いのはこの灯火が原因のようだった。

 自分は今その廊下を黙々と進んでいる。

 独りではない。自分のすぐ後ろに何人もが続いているのが分かった。顔は見えなかったがみな背が低い。どうやら子供のようだ。自分は彼らを引き連れるようにして先頭を歩いている。

 この通路はずっとまっすぐに続いているのかと思っていたが、どうも緩やかな曲線を描いているらしかった。歩いていると燭台の淡い光が燭台の仄かな光がゆらめく影を定期的に作る。そのたびに後に続く子供達は震えあがっていた。皆、おびえきっていた。一体何故こんなにおびえながら自分達は歩いているのだろう。分からなかった。

 やがて、通路の遥か先に大きな後ろ姿が見えた。自分も子供達もはっとして立ち止まり、その姿をじっと見る。気が付けば辺り一帯に生臭い匂いが充満していた。

 筋骨隆々の厳めしい体つき。二本足で立ってこそいるが前かがみのように曲がった腰。纏っているのは腰布一枚で身体中をうっすらとした黒毛が覆っているようだった。明らかに人ではなかった。そうして揺らめく灯りの中で、それがゆっくりとこちらを振り向くのが分かった。

 揺らめく灯りの中で浮かびあがったのは、毛むくじゃらの牛の顔だった。ぎらぎら輝く焦点の定まらない目でこちらをじっと見ていた。そして長い角が見えた。

 それはとてつもなく悍ましい、異形の怪物の姿であった。



「……――うわあ!!」

 男は自分自身の張り上げた悲鳴にはっとして目を醒ました。そして目の前で文机が引っ繰り返り、昨夜読んでいた本が畳の上に落ちているのに気が付いた。

「あ、い、いかん! 借り物の本を傷めでもしたらもう貸してもらえなくなるわい」

 男は慌てて本を拾い上げパラパラと捲りながら中身を確認する。幸いどこも破れたり折れ目がついたりはしていないようだった。男は安堵の息を漏らし、手にしていた本をそっと文机の上へと戻した。

 窓の雨戸を引き開けると朝日がきらきらと差し込んでくる。行燈の火も落ちている。どうやら自分は夜っぴて本を読んでいるうちに机に向かったまま眠っていたらしい。そして夢を見ていたようだ。襦袢が汗でぐっしょりと濡れている。尋常ではないことだ。

「恐ろしい夢だったな……石で作られた見た事もない廊下。そして角の生えた――あれは牛鬼ぎゅうきというやつか? いや、あるいは……」

 ぼうっと突っ立ったまま男が今見ていた夢について考えあぐねていると、障子戸が不意に開けられた。

「ずいぶんと大きな声を出されていましたが――どうなさいました?」

 部屋を覗き込んだのはこの男の妻、織瀬おりせであった。防寒用の安価な綿入を着込んでおり、その背中には先年生まれたばかりの長男・常太郎をおぶっていた。

 妻と子の姿をみとめた男はようやく一心地が付いた様子で深く息を吐き、苦笑しながら答えた。

「いや――少々おそろしい夢を見ただけですよ。大した事ではないのです」

「あらあら。初夢は悪夢で御座いましたか。そういえば近頃は寝付いたと思ったら苦しそうな声をあげられている事が多いですよ。少しはきちんと休まれた方が良いと思います」

「ん、そうなのですか? たしかに最近は徹夜も増えていたし気を付けねばなりませんね。読書をしていると忘我してしまうのはどうにも私の悪い癖です」

「学問もお大事ですが貴方が御身体を壊してしまっては何にもなりませんよ。さ、御着替えくださいませ。朝餉も用意できておりますので」

 織瀬はしゃべりながらも手際よく男の寝間着を脱がせ新しい着物と羽織を着せる。自分の着替えの面倒を見ながら背中の常太郎にも気を配っているのが男にもわかり、男はなんだか自分が母親に世話を焼かれている子供になったようなおもばゆい気持ちになってしまっていた。


 男がいそいそと居間に出ていくと、御膳の上には質素な朝食の他にこんがりと焼かれた餅が置かれている事に気が付いた。

「おや、餅が買えたのですか」

「余り物で少し安くなっておりました。おかげでなんとかお正月の気分が出せそうです。お酒も温めておりますよ」

 織瀬は清酒が入った熱燗を男の膳の上に置き、常太郎をおぶったまま自分も向かい側の膳に座った。

「これはありがとう。それでは、あけましておめで……」

 男は微笑みながら頭を下げた。そしてその瞬間、織瀬のお膳には酒も餅も載っていない事に気づき、今度は途端に泣きそうな顔になってしまった。

「織瀬……」

「はーい?」

 男は強張った表情のまま小さな餅を二つにちぎり、一つを織瀬のお膳の皿に載せた。そうして力んだ調子のまま、男はこう告げた。

「――この篤胤あつたね、今に必ず学者として大成して見せます。そうして織瀬も常太郎も毎日楽しく暮らさせて見せます。――せめて来年の正月には餅をたらふく食えるようにして見せます。待っていて下され」

 その言葉を聞いた織瀬はこくりと頷いて見せると微笑み、「楽しみにしております」とだけ答えた。

 時に享和三年(1803年)元日。平田篤胤ひらたあつたねと織瀬が夫婦になって二度目の正月の事であった。


                 ◆


 ――彼が平田篤胤という後世よく知られる名前を名乗り始めたのは二十五歳になってからであった。

 安永五年(1776年)の夏。秋田藩の大和田家の四男として生まれた彼は正吉まさきちと名付けられた。百石高の貧乏武家の四男であり、家督を継げる可能性はほとんど無かった。

 一説によると彼は生まれてすぐに足軽の家に養子に出され、実の両親に育てられる事はなかった。八歳になると更に跡取りの居ない鍼医師の家へと養子に出され、初めて勉学をつけられた。そこで彼は書物と学問の世界に深い興味を抱いたのだという。しかし医師の家に実子ができると邪険に扱われるようになり、十一歳の頃には元の生家である大和田家に送り返されてしまった。

 送り返された実家は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。貧しい武家にとって四男坊など少ない禄を食い潰す厄介者でしかなく、彼一人だけが下男のように様々な雑用を押し付けられる日々であった。兄弟達からは暴力を振るわれ、冬になっても防寒着すら与えられないつらい青春時代を過ごしたという。

 暗い青春を過ごしていた彼が書物と学問の世界にのめりこんでいったのは現実の辛苦からの逃避という面もあったのかも知れない。

 多感な時期の彼は雑用の合間を見つけては漢学や医術の本を読み耽り、その中で説かれる天地の理や生命の不可思議さへの関心を高めていった。

 そうして二十歳になった年の正月。彼は懐に小判一枚だけを忍ばせて抜け出すようにして大和田家を出て行った。そしてそのまま秋田藩を脱藩し一人で江戸に旅立った。

 夢も希望もない田舎を出て日本中の書物が集まる中心地・江戸で勉学を深めたい――そういう強い思いを込めての奔走であった。


 彼が江戸に渡って最初の数年の足取りははっきりしていないが、頼る相手もいない大都会で職を転々としながら生活をしていたであろう事は容易に想像できる。

 貧困に苦しみながら勉学に励んでいた彼を救ったのは江戸住まいの備中松山藩士・平田藤兵衛との出会いであった。藤兵衛は江戸で学問に励む正吉の姿に惚れ込み、自らの養子として迎え入れたのである。この時から彼は平田篤胤という名前を名乗り始めた。

 備中松山藩士としての身分と俸禄を得る事で、篤胤はようやく念願であった学問専念の生活に入る事ができた。藤兵衛との出会いは彼の運命を変える最初の大きな出会いであった。

 平田家の養子となった翌年。享和元年(1801年)八月。篤胤は結婚する。相手は沼津藩士の娘である織瀬であった。

 時に篤胤二十六歳、織瀬は二十歳。武士としては極めて珍しい恋愛結婚であったとも言われ、昔からの恋人のように仲の良い夫婦になったという。

 翌年には二人の間に長男常太郎が誕生。生まれてこの方家族の愛情というものを何も知らずに育った篤胤にとって、妻子を得て家庭を持ったという体験は、初めて見出した幸福と安らぎの時間であったかも知れない。


                  ◆


 享和三年一月七日。

 正月の喧騒もようやく一段落した街道を篤胤は歩いていた。

 彼が向かっているのは本屋である。正月には多くの本が発売される。殆どは他愛もない通俗本や草紙ものだが新年の来客を見込んで学術書などもこの時期に発売される事が多い。

 本屋は新しい本が入荷されると売れ残った古い本を二束三文で売りに出し、その中で思わぬ掘出物が見つかる事もあるのだ。

 寝食を忘れるほど読書が好きな篤胤にとって本屋巡りは一番の趣味であると言ってよかった。江戸には本当に沢山の本と知識がひしめいており、見ているだけでもとても楽しいのだ。――たとえすぐには買えなかったとしても。

 篤胤の一家は去年より平田家の屋敷を離れ湯島天神に家を持っていた。大恩ある藤兵衛にいつまでも甘えてはいられないという想いからであったが、それは備中松山藩士としての僅かな禄のみが頼りの篤胤にとって経済的苦労の絶えない道であった。

 しかし家庭を持ち独立ひとりだちしたという事実は、生来の境遇によって強いコンプレックスを抱いていた彼にとって何よりも大きい「一人前の男」としての誇らしさを与えてくれていた。

 一月の冷たい風が街道を吹き抜ける。篤胤は両手を組むようにして羽織の袖の中に入れて歩く。武士たる者がまるで町人のような……と我ながら思うが、寒いものは致し方ない。

「今年じゅうになんとかして生計を立てねばなあ……常太郎や織瀬には私のような寒々しく惨めな思いはさせたくない。多少は心得のある医者を始めるか、あるいは塾を開くのも良いかも知れぬ――何にしろ妻子を養わねば」

 愛しい妻子を思い浮かべればなんだってできそうな気がしてくる。そのためには漢学、医術、それに近頃はやりの西洋渡来の蘭学。なんでも広く学び学識を広めていかねばならなかった。


「――ア! ソーレ! わいわい天王てんのう! わいわい天王! 天王が通る!」

「――わいわいと囃せ! わいわいと囃せ! 天王さまが御通りなるぞ!」


 脇道の長屋から太鼓を叩きながら囃し立てる門付け芸人の声が聞こえてくる。長屋の住民の子供達はその声をすると面白そうに家々から飛び出し集まってくる。たちまち一角に人だかりができていた。

 江戸に来て最初の頃は市中に多くの芸人がいつもいる事に非常に驚いた。そしてそのどれもが興味深かった。それらは何故か、故郷の秋田で農民達が踊る田楽などにもよく似ていたのだ。

 しかしワイワイテンノウとやらは初めて聞いた。その囃し声が篤胤は何故かとても気にかかり、そのまま通り過ぎる事も出来ずに街道からじっと様子を窺っていた。

 大道芸人たちは赤い鼻高天狗のお面をかぶり、鮮やかな緋色の頭巾や袴を身に纏い、腰に長い太刀を下げていた。手にはそれぞれ太鼓や扇、それに箱を持っている。

 そうして楽し気に軽やかな口上を述べていた。


「家内安全! 無病息災! 万病平癒! 天王さまの赤札じゃ! わいわいと囃せ! わいわいと囃せ!」


 芸人の一人がそう叫ぶと箱の中から赤い紙を辺りにまき散らしている。そしてそれを町人たちが大喜びで拾い集めていた。

 篤胤が居る少し離れたあたりにもその赤い紙がひらりと飛んできたので彼はそれを拾い上げた。

 赤い紙には剣を握った蓬髪のいかめしい男の絵が刷られている。仏教の護法善神のような姿だった。よく見ればその総髪頭の中に小さな牛の顔が乗っているように描かれていた。その異様な姿には見覚えがあった。

牛頭天王ごずてんのう……」

 たしか天竺の祇園精舎を守る仏法の守護神だと聞いた事がある。別名を祇園ぎおん大明神。京の都で行われる祇園祭はこの牛頭天王の祭りだという。疫病封じ・病気治しの神として名高くそれゆえに絶大な信仰を得ている神である、と。

 なるほど、それでみんな熱心に牛頭天王の御札を拾っているというわけか。

 合点がいったという風に頷きながら遠巻きに様子を見守っていると、天狗の面をかぶった男達はまた歌をうたい太鼓を叩いて囃すように移動を始め、子供たちを引き連れたまま別の路地へ踊るように移動していった。


 わいわい天王、騒ぐがお好き、囃せや子共こども、わいわいと囃せ

 天王さまは喧嘩が嫌ひ、なかよく遊べ、遊べや子共――


 だんだんと遠のいていく歌声を聞きながら、篤胤は再び手元の赤札を見る。

「しかし……奇怪な姿の神だな。人の頭の上に牛の頭とは。地獄絵には馬や牛の頭が付いた牛頭馬頭ごずめずという鬼がよく描かれているが」

 牛の頭――そう口にした途端、自分が一瞬身震いをした事に篤胤は驚いた。そうしてほぼ同時に元旦に見たあの石造りの廊下の初夢を思い出していた。

 あの異形の怪物の忌まわしい姿を思い出すとなんとなくぞっとして、篤胤は思わず後ろを振り返った。しかしそこにはちらばった御札を拾い集める小さな子供たちの姿があるだけだった。

「あれはもしや、牛頭天王の霊夢だったのかも知れぬ。異国の異形の神め、この篤胤に何を伝えようとしたのか……」

 篤胤は札を握ったまま天を見上げ、ぼそりと呟く。視界にはややくすんだ冬の空だけがいっぱいに広がっていた。

「――神が私を選んだというのか?」

 別に本気でそう思っているわけでもないが、そう空想する事は悪い気はしなかった。若き篤胤は希望を胸に力強く歩みを進めていた。

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