心の師


 享和三年三月某日。

 夕方の七ツの鐘が鳴る頃に織瀬は買い物から帰ってきた。彼女は少しの米と野菜、それに数冊の薄汚れた本を抱えていた。

 居間で寝かせていた常太郎がまだ寝息を立てているのを確認すると、彼女はそっと障子戸を開けて声をかける。

「帰りましたよ。すぐお夕食になさいますか?」

 障子戸の奥の小部屋では篤胤が文机に向かっていた。妻の声に気づいた篤胤はニコニコと笑いながら立ち上がって出迎える。

「おかえりなさい、織瀬。そうだね、お願いしましょうか……おっ、本屋に寄ってくれたのですか」

「ええ、なじみの貸本屋さんが傷みの酷い古本を譲ってくださるというので何冊か見繕ってまいりました。ご趣味に合えば良いのですけども」

 織瀬は抱えていた本を篤胤に渡し、篤胤は渡された本をしげしげと見つめる。どれも長年貸本として大勢の手を渡ってきたせいかボロボロになっている。綴じが外れかけていて捨てられる直前のような本ばかりだった。

 中身が読めれば外装なんてどうだってよいではないかと篤胤は苦笑したが、その中に一冊、彼の目を特に引いた本があった。


 『うひ山ぶみ』 本居宣長もとおりのりなが 須受能耶すずのや蔵板


「本居宣長……名前は聞いた事があるな」

 なんとなく知ってはいるのだが、なにせ濫読家なのでどういう人物なのかはっきりと思い出せない。自分が明るい朱子学などの学者でない事くらいはわかるのだが。

「どうなさいました?」

 織瀬が不思議そうに声をかけると篤胤ははっとしたように妻の顔を見て、本を文机に置いた。

「いや、なんでもないのです。ありがたく読ませていただこう」

 何故かドギマギしてしまっている篤胤の様子に織瀬は思わず笑ってしまった。

 丁度その時今まですやすやと眠っていた常太郎が泣き出したので、夫婦はそろって居間へと飛んでいった。


 その日の晩、夕食が終わると篤胤はまた書斎に戻ってきた。そこには火鉢と行灯と文机が置かれ、そして大量の本や反故紙が積み上げられている彼の聖域である。

 彼が幼い頃から思い描いてきた〝立派な学者の部屋〟のイメージそのものであったし、本の山、すなわち知識の山が一段ずつ積み重なっていくと共に夢に一歩一歩近付けているような気がするのである。

 火鉢の傍に寄り行灯を頼りに薄暗い中で本を読んでいると、どうにも苦学生活を始めた頃の事を思い出す。自分は身一つで江戸に出てから様々な事をやって食いつないできた。

 最初にやったのは火消しだった。これは江戸に上った無頼者が大抵転がり込む仕事場である。火を消すよりも仲間同士の暴力や刀傷沙汰の方が過酷で逃げ出すように抜け出した。

 役者をやった事もある。自慢ではないが浄瑠璃語りの弁舌はかなり褒められたものだった。風呂屋で三助の仕事もやった事がある。

 転職を繰り返した末に行き着いたのが旅籠はたごでの飯炊き役だった。これは良い仕事だった。なにしろ飯を炊き始めてしまえば後は火の番をするだけだ。飯炊き場は一晩中火を焚いていたから明るくて本がいくらでも読めた。

 私はそこで旅籠の客としてやってきた藤兵衛様――我が義父に見出され、自分は一応の文人としての活路を見いだせたのだ。

「義父上様は私にとって神様にも等しいお方だ。この世で一番偉大な方かも知れぬ」

 篤胤は常にそう思っていた。そして自分を導く〝運命〟というものの存在をおぼろげとながら感じ取っていた。


 その聖域で彼は今、目を皿のようにしながら本を読んでいた。手に取って顔をくっつけるようにして読んでいるのはあの『うひ山ぶみ』――本居宣長の著作であった。

 うひ山ぶみは宣長が増え続ける門弟向けに著した、学問に対する心意気を易しい言葉で綴り、彼の説く「古の道」の醍醐味を説く書である。篤胤はその本を夢中になって読んでいた。


  詮ずるところ学問は、ただ年月長くうまずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうはいかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくてもおこたりてつとめざれば功はなし。

  ……才の乏しきや、学ぶことのおそきや、暇のなきやによりて、思ひくづをれてやむることなかれ。とてもかくてもつとめだにすれば出来るものと心得べし。すべて思ひくずをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。


「――……まるで私に向けて言われているような言葉だ」

 子供の頃の屈辱的な日々。何に取り組もうとも冷や飯食いの四男坊と嘲られた記憶。江戸に上ってからの苦しい生活。それでも棄てきれない学問への志向。

 篤胤は胸の中に様々な思いが込み上げ、熱いものが胸中に湧き上がるのを感じながら本を夢中になって読み進めていく。そして彼の言葉の一つ一つに、自分には居なかった〝師〟のような親しみを感じ始めていた。そして彼は宣長の説く「古の道」の教えを一つ一つ自分なりに飲み込んでいった。


  道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を清くすすぎ去りて、やまと魂をかたくする事を要とすべし。


                  ◆


 翌朝。

 寝室にいる織瀬は廊下の床板がぎしりぎしりと軋む音で目を覚ました。誰かが忍び足で歩いているようだ。

 雨戸の隙間から漏れこむ光からしてもう朝方だ。最近の夫は深夜まで読書をしてそのまま書斎で昼近くまで寝ている事が多い。誰だろうか。もう明るい時分だから泥棒とも思えなかったが、織瀬はそっと起き上がると立てかけてあった布団叩きを手に取った。

 廊下の忍ぶような足音がそろそろと寝室の前を通り去っていく。織瀬は一瞬だけ振り向き自分の寝床に相変わらず常太郎が眠っている事を確認する。そして大声をあげながら襖を開け、布団叩きを構えながら廊下に飛び出した。

「ええい! 待てー!!」

「ヒィィー!!」

 織瀬のあげた大声に廊下に居た男も大きな悲鳴を上げ、腰を抜かしたように転げる。その拍子に両手で抱えていた物をばらばらと廊下に落としてしまっていた。

 その反応に呆気にとられた織瀬が相手の男の姿をまじまじと見ると、そこに居るのは篤胤であった。寝間着ではなく外出着に着替えていて、尻餅をついたまま目をパチパチさせて織瀬の顔を見上げていた。

「あ、貴方でしたの……何をなさっているんですかこんな明け方に。泥棒かと思いました」

「アハハ……起こしてしまわないように気を付けていたつもりだったのですが。逆効果だったようですな。申し訳ない」

 ようやく事態を飲み込んだ篤胤はよろよろと立ち上がりニコリと微笑む。よく見ると目も瞼も赤くなっていた。どうやら徹夜をしていたらしい。そして彼は落としてしまった物を拾い上げ始めた。それらは全て、本だった。

 なぜこんなに持ち出しているのか分からなかったが織瀬も一緒に本を拾い、半分ほど自分で持った。

「最初は庭で残らず焼こうかと思ったのですが、それは勿体無いと思い直しましてね」

「え? 焼くって――本をですか?」

 織瀬がびっくりして尋ねると篤胤はこう答える。

「はい。真の学問には必要のない物だと分かったので――なので売り払ってお金に変えようと思います。そして持参金にするのです」

「持参金……? ええとすみません。お話がよく分からないのですが」

 本を抱えた篤胤の跡をついていくと、彼はそのまま玄関へと出ていく。

 玄関先にはどこから持って来たのやら、大きな荷車が停めてあった。そしてその荷車には篤胤の書斎に山積みされていた本がそっくりそのまま載せられていた。篤胤は抱えていた本をすべて載せると嬉しそうに頷き、織瀬にこう言う。

「私はこれから古書店に行ってきます。これだけあれば入門の持参金くらいは賄えると思うのですが」

 夫の考えている事がようやく理解できてきた織瀬は、さすがにやや呆れた顔で言う。

「もしかして、どこかの先生のお弟子に入られるおつもりなのですか? せめて事前に相談して下されば買取屋くらいお呼びしましたのに」

「昨夜決めた事ですので織瀬はもう床に入っていましたよ」

「そんな急な……一体どこの先生のお弟子になりたいのですか?」

 ますます呆れ顔の織瀬の態度にはまったく気づかず、篤胤はその質問を待っていたとばかりに目を輝かせながら興奮気味にこう答えた。

「本居宣長先生です! 私は確信しました。あの大人うしこそが日本国で最も偉大な学者であり神仏にも等しいお人です。この篤胤、本居先生以外には絶対に師事しないと昨夜決めたのです」

「本居……宣長様ですか。昨日差し上げた古本の先生ですか」

「ええ!そうですよ! 昨夜一晩とっぷり時間をかけて御本を読んだのです。いやあ本当に素晴らしかった。真の道――新しきいにしえの道――これこそ篤胤が生涯をかけて追及するべき真の学問だと悟ったのです。いや、霧が晴れた思いです」

 篤胤は興奮気味にあれやこれやと捲し立てている。一睡もしていない目がギラギラと輝きなんだか気味が悪いほど生き生きしていた。

「さてそれでは古書店に行ってきますよ。店が開いたらイの一番に買ってもらい、それから手紙を出して来ようと思います。夕方までには帰ると思いますので」

 それだけ告げると篤胤は荷車を揚々と引いていき、朝靄の中にゆっくりと消えていった。織瀬は夫の突然の決断に唖然としたまま、ただ見送るばかりだった。


 その日の昼過ぎ。

 午前中の家事を終えた織瀬は簡単な昼食を済ませ、常太郎をあやしていた。普段は昼食後の時間は大抵篤胤があやしてくれているので珍しい事であった。夫は医師という名目で藩に仕えてこそいるが、仕官があるわけでもないので大抵家にいる人だ。

 だが暇があるというより、何より常太郎が可愛くてたまらないようだ。

 世渡りのうまい人ではない事は妻である自分から見てもよく分かる。ただひたすらに真面目で情が深く、少しばかり思い込みが激しい人。善良な人だ。あの人の夢だというのなら私は極力支えてあげたいと思う。

 しかし時々ふと思う。あの人の夢は本当にあの人を幸せにするのだろうか。嬉しそうにキャッキャと笑う常太郎を抱きながら織瀬はやや不安げな表情をしていた。

 丁度その時、玄関の戸が静かに開かれる音が聞こえた。足音でなんとなく分かる。どうやら夫が帰って来たらしい。予定より随分早いなと思いながら、織瀬は玄関まで迎えに出た。

 思った通り玄関先には篤胤がいた。ただ、深くうなだれていた。少なくとも織瀬は今までの人生でこれほど深く肩を落とし頭を下げている人間を見た事が無かった。

 織瀬が出てくるのに気づくと篤胤は力なく顔をあげた。目は朝に見た時以上に真っ赤になり顔からは血の気が失せていた。精も根も抜けて打ちひしがれているという感じだった。そして篤胤は織瀬の顔を見るとついに感極まったという風に肩を震わせて泣き出した。いわゆる男泣きであった。

「ど、どうなさいました?!」

 織瀬は驚いて何事かとそばに駆け寄り、何事かと尋ねる。そしてわななく篤胤の手を握りなんとか落ち着かせようとした。

 それが功を奏したのか、篤胤は少し落ち着きを取り戻し、やがて押し殺すような声でぽつりぽつりと話し始めた。

「……ああ、ああ。これは情けない姿を見せてしまいました。少し取り乱していたようです」

「一体どうなされたのですか? 古書店に行かれたと思っていたのですが」

「ええ。朝一番で行って来て、そこでまず本居先生の連絡先について尋ねたのです。書店の店主ならば問屋などにも通じているでしょうし。すると……」

「……」

「……本居宣長先生は、すでに亡くなられていると教えられました。今から二年も前に鬼籍に入られたと……どうやら遅すぎたようです」

 絞り出すようにそれだけ言うと、篤胤はがっくりと力が抜けたようにそのまま座り込んでしまった。そしてまたはらはらと涙をこぼした。

 ――昨日知った学者がすでに故人だったというだけでこんなに落ち込むものなのだろうか。それとも自分の見つけた夢がいきなり潰えた事が悲しいのか。織瀬には分からなかった。彼女にとってはとにかく夫が打ちひしがれている姿を見る事がつらかった。

 織瀬はかがみ込み、座り込んで泣く夫をそっと抱いた。そして背中をさすってやった。小さかった頃、癇癪を起した妹を宥める時によくこうやっていた事をとっさに思い出したのだ。

 夫を抱いたままふと玄関に目をやると、朝に積み込んだ本がそのまま残っている荷車がそこに停めてあるのがわかった。どうやら売らずにそのまま帰ってきたようだ。

 篤胤は織瀬の胸元に顔をうずめ、声を殺したまま長い間泣き続けていた。そうしてしばらく時間が経ち、ようやく篤胤は完全に沈着さを取り戻したようだ。

「ありがとうー―織瀬。もう大丈夫だよ。ありがとう」

 篤胤は妻の手を取り何度も何度も礼を述べた。目を潤ませて礼を述べる夫の表情を見た織瀬もやっと安心したように微笑んで「良うございました」と小さく告げた。織瀬の目もいつのまにか涙ぐんでいた。


                ◆


 やがて篤胤はすっと立ち上がり、再び玄関から外へと出た。織瀬もその後に続いて出る。

 昼下がりの街道に風が吹いている。三月とはいえまだ冷たい風であった。

 そうして篤胤は今朝がた売り飛ばすつもりでいた自分の蔵書の束にそっと手を触れて見せた。

「――私は本居先生に私淑ししゅくする。私の心の師は本居先生以外にはありえないからだ。私は人の何十倍も努力して、本居先生の没後の弟子として認められるように頑張ってみせる。……そのためには漢土もろこしの学問だろうと天竺の仏法だろうと研鑽して見せる。遠い西洋の学問だって会得して見せる。……そして先生の見出した古の道――遺憾ながら現在は極めて低く扱われている――ヤマトゴコロに基づく我が皇御国すめらみくにの道こそが、日本のみならず世界に冠たる道である事を絶対に証明してみせる」

 篤胤は力強くそう語る。痩せっぽちの身体に不思議な力がみなぎるような気がする。その目には再びあの不思議な輝きが戻って来ていた。

「もしかしたら私は一生誰からも認められず狂人扱いされるやも知れない。だがこれは私の使命、私がこの世に生を受けた意味なのではないかという気がするのです。――その、織瀬。ついてきてもらえますか?」

 篤胤はふらりと振り返り、少しだけ心細そうに妻の顔を見た。

 織瀬は――静かに微笑んで頷いていた。篤胤は目頭が再度熱くなるのを感じていた。

「さ、さあ。そうと決まったら蔵書を書斎に戻さないといけませんね。お手伝いをお願いします!」

 篤胤はまた泣きそうになっているのを誤魔化すように本を抱えて運び始めた。織瀬も笑いながらそれを手伝ってくれていた。



 平田篤胤は本居宣長の没後の弟子として独自の活動を始める道を選んだ。

 存命中の宣長、あるいは他の古学者の門人となっていれば、もしかしたら日本の古典を読み解き和歌を詠むだけの「普通の」古学者として平凡な一生を送っていたのかも知れない。

 しかし生来の旺盛な知識欲と二百年の鎖国体制の綻びから滝のように流れ込みだした〝未知の世界〟の情報の嵐、そして彼の身に降りかかる様々な不可思議と実感が篤胤の運命を変えていくのであった。

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