忍び寄る病魔
享和三年六月某日。
篤胤は酷く苛立っていた。数日前に読んだ『弁道書』なる書物の愚劣極まる論を腹に据えかねていたからである。数日を経てもまだ怒りが収まらずにいた。
「……なにが〝日本には元来、道といふこと無く候〟じゃ。……日本は元より人倫なき禽獣のごとき人間の国だった? 漢土より到来した聖人の教えが無知な日本人を教導した? 神道は全て漢土の宗教の模倣に過ぎない? ――大タワケ者めが。痴れ者じゃ。漢意に骨の髄まで染まった腐れ儒者めが……」
考えを反芻しながら歩いているだけでも思わず悪態が口から洩れる。ここ何日かの間、怒りと反論が頭の中をぐるぐる巡り続けていた。
それでなくても篤胤は常に憤っていた。
本居宣長が何十年も前からあれだけ熱心に皇国の道を説いていたにも拘らず世間では相も変わらずこのような歪んだ漢意が蔓延しているのだ。
事あるごとに日本を未開の野蛮国と卑しめる漢学者。なんでも自分達の教義にこじつけ偉ぶる仏教者。怪力乱神すべて作り話と嘯く儒学者。そして彼らに絡めとられ妄作する似非神道者……。
我が皇国に蔓延る妄説吹聴の似非学者どもといずれは対決せねばなるまい。人々を凝り固まったから漢意から解き放たねば
自分も及ばずながら一筆書き、この戦いに馳せ参ぜねばならないと篤胤は強く感じていた。
これは学者としての戦だ。蔓延る妄説を叱りつけ改めさせていく戦――そうだ、題字は『呵妄書』としよう。
篤胤は処女作の構想を頭の中で丹念に練り上げながら家路を帰っていた。湯島天神に参拝し菅原道真公に学者としての決意を誓ってきた帰りであった。その手には妻子への土産として買った
「……本を出したとして、ついでに少しばかり売れてくれればもっと菓子くらい買ってやれるのだがなぁ」
無役の藩士としての僅かな禄だけではとてもではないが良い暮らしをさせてやる事はできない。文筆生活に入ればますます先細るかもしれない。それだけが篤胤にとって気がかりな事であった。
そんな風に思いを巡らせながら歩いていたせいだろう。路地から急ぎ足で飛び出してきた人と危うくぶつかりそうになってしまった。
「おっと、これは失礼いたした。前をよく見ていなかったもので」
「いえ、こちらこそ――おや、貴方は平田篤胤殿ではないですか」
相手から不意に名前を呼ばれ、篤胤は改めて相手の顔をよく見た。剃髪しているので一瞬僧侶なのかと思ったが、手にしている包みですぐに町医者なのだと分かった。その垂目の人の良さげな顔にも見覚えがあった。
「ああ。玄昭殿ではありませんか! 義父が度々診てもらっていましたね。その節はありがとうございます」
この玄昭という男は義父が軽い胃の病を患った時に治療に上がっていた医師であった。屋敷で何度か同席し話した事がある。本道(漢方)医学について幾つか尋ね聞いた事があったので面識があったのだ。
「私も独立して今はこの辺りに家を持っております。よければお茶でもお出ししますので、一休みしていかれませんか?」
篤胤はそう誘ったが、玄昭は手拭で汗を拭きながらこう答えた。
「いや~お気持ちはありがたいのですが、あと五件往診しなければならぬので時間が無いのです。それより篤胤殿はこの辺りに御住いか。それなら気を付けなすった方がいい」
「……何にですか?」
「
「麻疹!」
篤胤はぎょっとした。麻疹は罹患者の致死率が高く伝染性も強い恐ろしい病気である。俗に二十年おきに大流行すると言われている。
「以前に流行して大勢の死者を出したのが安永の頃というから約二十年前ですな。何にしろ気を付けた方が良い」
「しかし麻疹は一度罹ったらもう罹らないと言いましょう? 私は子供の頃に罹りましたので」
「さすが篤胤殿はお詳しい。俗に〝麻疹は命定め〟というように、子供の頃に罹った経験がある大人はもう罹らないといわれます。危ないのは子供です。現に私も今朝から子供ばかり診ております。いやはや小児科は専門外なのですが」
玄昭の話を聞いていて篤胤ははっとした。麻疹は子供の病気――
「……常太郎!」
途端に何だか嫌な予感がずんとした。篤胤は挨拶も無しに走り出す。玄昭がぎょっとした表情をしていたが、それどころではなかった。
家に帰り着き草履を放るように脱いで居間へと駆け込む。
居間に座っていた織瀬もほぼ同時にはっとして振り返る。先に声をあげたのは織瀬だった。ひどく不安げな顔をしていた。
「あなた! 常太郎が熱を出しましたの! それが今までに無いくらいの熱で……」
篤胤は全身から血の気がサッと引いていくのを感じた。
慌てて傍に寄ると、布団に寝かされている常太郎の額には濡らした手拭が載せられている。息苦しそうにしているし、頬や首元に手を当てると確かに熱があった。生唾を飲み込み篤胤は苦しそうに言う。
「これは麻疹かもしれん。また流行りだしているらしい」
「は……麻疹ですか?!」
織瀬はその言葉を聞いた途端酷く動揺した。無理もない話だ。疱瘡は
「織瀬、お前は麻疹に罹った事があるか?」
「は、はい。八歳の時に罹った事があります」
「そうか――それなら安心だ……」
妻にまで罹る事はないと分かり篤胤はひとまず安堵した。しかし常太郎は――今のところ熱は出ているが特徴的な赤い斑点は出ていない。だが状況からして罹患している可能性は強かった。
篤胤の険しい表情を見た織瀬が問う。
「も、もしも麻疹だったらどうすれば良いのでしょうか」
「とりあえず様子を見るしかない。熱冷ましや咳止めを飲ませると却って病毒が出て行かないそうだから与えない方が良いだろう。冷まし湯を小まめに飲ませて汗など出したら拭いてやる、悪寒があるようなら温めてやる、目に炎症を起こすようなら点眼してやる――麻疹に効く薬は無いというから、それしかない」
篤胤は子供の頃から医学書を読んでいた。医師を志した時期もあった。
それがどこまで通用するのかは分からなかったが、己が今日まで蓄えてきた学識を総動員して息子を蝕む病魔と戦わなければならなかった。
日本書紀に曰く、敏達天皇四十年此の
……凡そ天平より享和まで一千七十六年の間、数度の流行にして、しかも生涯一度病みて二度病むことなきは一つの異なり。
――『麻疹養生伝』――
常太郎の看病を織瀬に任せると、篤胤はなけなしの銭を握り再び外へと飛び出していった。向かう先は二町ほど先の薬屋である。
麻疹に特効薬はないが体内に気を巡らせ治癒力を高める事で治りを良くする事はできるという。
とすれば補中益気湯などを服用させれば効果があるかもしれない。まだ乳離れも済んでいない小児に呑ませるならばぬるま湯に溶いて少量ずつ含ませれば……姑息的療法しか打つ手がなく、仮に良い薬があったとしても自分には手が出せない。そう考えると非常にもどかしい思いがあった。
市中に出るといつも通り多くの人が行き交い活気が――いや、少しばかり様子が違う。皆、なんとなくそわそわとして落ち着きが無いように感じられた。
既に麻疹の流行のうわさが広まり始めたのだと篤胤は思った。無理もない話だ。一度罹ったら生きるか死ぬかを運に任せるしかない恐ろしい病気なのだ。浮足立っている人々の気分に当てられたのか、いつの間にか篤胤もかなりの速足で市中を歩いていた。
そしてちょうど街道の辻に差し掛かった時、その一角に多くの人だかりができている事に気が付いた。
「――江戸の町の衆よ! 疫病じゃ! 疫病の再来じゃ! 丑寅から来る
人だかりの中心に居たのは陰陽師のようなナリをした長髪の中年男だった。男は御幣を振り回し口角泡を飛ばし、よく通る大声で演説をしていた。
「聞くのだ! そもそも大天竺九相国に牛頭天王と申す異形の神あり! この天王こそは悪しき
――男が言い終わるや否や、周りに控えていた男達が途端に赤色の札や茅の輪を掲げて売り始める。札には「牛頭天王」「蘇民将来子孫之門」などの文字が書いてあるのが見えた。
その代物に麻疹発生の噂に怯えていた江戸の人々が先を争うように飛びついている。
人々は口々に「麻疹避けをくれ!」などと絶叫しながら殺到している。その騒ぎを聞きつけて辺りからも続々と人が集まり始めていた。町の一角は完全にパニックに陥り始め、陰陽師風の男が抱えている銭入れの箱はみるみるうちに一杯になっていた。
「――人々の不安に付け込み、神も仏もまぜこぜにした空説法で私腹を肥やす輩!」
篤胤はあの人だかりの中に割って入って猛反論してやりたい衝動に駆られた。しかし今はそのような事をしている時間はない。肩をいからせながらパニック状態の人々の隙間を通り抜けていく。
よくよく見ればこの辺りの商家の軒先にはどこもそこも麻疹避けの札や柊の葉が貼り付けられている。病魔を踏みつける麦殿大明神や源為朝、南無妙法蓮華経の旗をさした加藤清正、そしてあの牛頭天王の図像。
「――偽りの神!」
篤胤は言い捨てるようにそう呟くと、足早に通りを駆け抜け薬屋に入っていった。
帰宅後、篤胤は買ってきた漢方薬と飴を湯に溶かし、よく冷ましてからゆっくりと息子に飲ませてやった。自分にできる事はこの程度の対症療法が限界であった。
織瀬は常太郎の看病は自分がするから休んでくださいと言ってくれたが、結局交代で眠りながら朝まで様子を見る事になった。咳と痰、それに鼻水は相変わらず激しかったが、心なしか熱が下がって来ていたのは心強い事であった。
誠々疫病の難をのがれんとほつせん者は、六月朔日より十五日にいたるまで毎日七反、南無天役神、
――『祇園牛頭天王御縁起』――
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