終章・霊能真柱



  ……あたかも力をつくしてえんはからんとつとめつつ、なほ己がもとむる原理に思ひ至らざる幾何學者きかがくしゃの如く、我はかの異象いしやうを見、かの像のいかにして圓と合へるや、いかにしてかしこにその處を得しやを知らんとせしかど、わが翼これにふさはしからざりしに、この時一の光わが心を射てその願ひを満たしき。

  さてわが高き想像はここにいたりて力を缺きたり。

  されどわが願ひと思ひとは宛然さながら一樣に動く輪の如く、はや愛に廻らさる。

  日やそのほかのすべての星を動かす愛に。

  ――『神曲』天堂篇・第三十三曲――





 四年後。文化十三年(1816年)六月。

 広々とした寄席に平田篤胤の威勢の良い講釈が響く。


「……――さてさて、梅雨の最中でありながら本日はまことに良い日和でござる。暖かく照らされて程よい暖気が続いております。どうぞ居眠りなどせず最後まで聞いていただきたい! この調子ならば今年もきっと豊年でございましょう。さてともすると我々はすぐに忘れてしまいまするが、我々が日々お天道様と呼んでいる太陽、これは天照大御神の坐す高天原たかまがはらであります。その太陽がもたらした暖かさが田んぼに植えられた稲種を蒸す事で稲は育つのであります。これは我が皇国の神話で火の神様が土の神様を娶られて稚産霊ワクムスビ神を生ませたのと全く同じ理でございます。また稲が育つ理由はそれだけではありませぬ。雨が降ればそれを山が受け止めて川となり、その水を田んぼが甘受して育む力となりますし、穂をそよがせる風もまた稲を大きく実らせる手伝いをしております。つまり我々が毎日ありがたく食べているお米は天地に充ちている八百万の神々の助けによって成り立っているのでござる。――さて我々は火土水風の神様の助力で生まれたお米を食べて生きているのでありますが、一方で西洋ではアリストテエレスとか申す大学者がこの世の万物は火土水風の混合によって成り立っておるという説を出しております。西洋ではこれをエレメンツとか申すそうで此方の言葉に直せば四大元素であります。是は皇国の神話とも符合する鋭い説であると拙者は考えます。要するに我々が日々食べるお米も我々の身体も火土水風が不思議にムスビを成す事によって成り立っておるのです。さて我々の身体がムスビの産物である証拠を言うならば、皆様各々ご自分の懐に手を入れてごらんなされ。その温かさは火でなくして何でありましょうか。口から吐く息は風でありますし今日のように暖かならば汗という水も出てきましょう。そして死ねば我々は土だけが残るのです。これらの事実に例外があるならば知りたいくらいだ。このように我々一人一人の身体にすら、神の息吹を感じる動かぬ証拠があるものなのでございます」

 演席にいる篤胤が自らの懐に手を入れて見せると聴衆も真似するようにみんなして自分の懐に手をやっている。その様子をぐるりと見渡して確認した篤胤は楽し気に笑い、こう言う。

「いやはや今日の聴衆はさとりが早くて真に助かる。実証実験は学問の第一歩。皆様はもう立派な学者でござる」

 その一言に、聴衆はドッと笑いだして歓声をあげるのであった。



                 ◆



「さァさァ、本日は真菅乃屋あらため気吹舎いぶきのや――平田篤胤先生の講釈が開かれております。聴講料は十六文、持ち合わせの無い方はあるだけ、無一文の方はタダでお聞かせいたします。気吹舎は日本の人のための教えを説く学舎、全ての人に真の道を知らせたいという思いから平田先生は語られているのでございます。今は古道の大意を演説しております。今からでも面白いところには間に合います。さァどうぞ! さァどうぞ!」

 寄席の入口に立った平田門人達は市中を行き交う人々を相手に客引きのような事をしていた。

 その呼び声に惹かれて入場していく町人達にはタダという言葉につられて興味本位で入っていく者も多かったが、常連のようになっていつも聞きに来る者もそれなりに居た。そしてその中には篤胤一流の弁舌毒舌を講談のように面白がって聞きに来る者もいれば、一方で彼の説く独特の思想世界に共感意識を持ち出す者も確かに現れ始めていたのである。


「東さん、お客人ですよ」

 ひっきりなしにやって来る客の聴講料の勘定を手伝っていた東は、予想外の自身への来客と聞いて怪訝な顔をし「私に? 誰だい」と聞き返した。

「なんだかチャラチャラした身なりで子連れの胡散臭い商人ですよ。東さんの知り合いだと言うので待たせていますが」

「チャラチャラした……ああ分かった。すぐに行くとしよう」

 来客の正体を不審がる後輩門人を尻目に東は合点がいった様子で頷き、やりかけの仕事を他の者に任せるとのんびりと表に出かけて行った。


「呼びつけるような真似をして申し訳なかったな――お久しぶりです」

 表に出てきた東を一礼して出迎えたのは、案の定山崎美成であった。彼は先年没した先代を引き継いで長崎屋の店主たなぬしに収まっていた。世間には山崎新兵衛とも名乗るようになっていたが、付き合いの古い者達からは変わらず美成と呼ばれていた。

「やはり美成殿でしたか……おや?」

 東が気にかけたのは美成のやや後ろに立っている少女――千枝子であった。

「千枝子さんではないですか。こんな所にどうして……美成殿と?」

 千枝子は今年で十一歳となり、もう大人顔負けの受け答えができるようになっていた。その快活な態度にも表情にも亡き織瀬の面影が見えた。一方で弟の半兵衛は生来の病弱で、成長してもあまり外にも出かけられないようだった。

「父にお弁当を持ってきたのです。山崎さんは丁度家に父を訪ねてきたところだったので一緒に此処まで来たんですよ」

 千枝子は伊達男の美成の事はあまり好いていないようでぷいとそっぽを向いたような態度をとるのが二人の苦笑を誘った。美成は大袈裟に肩をすくめて見せると言う。

「やれやれ……私の方も平田先生に届け物で来たのですよ。取引先からカステイラをいただいたのでお裾分けに。あと珍しい羅甸ラテン語とやらの本が手に入ったのでお見せしようかと」

 美成は持っていた包みを東に渡そうとしたが、彼の右手には既に千枝子から預かった弁当の包みが握られている事に気が付くと気まずそうに自分の手元へと引っ込める。美成はカステイラの小さな包みだけを千枝子に手渡すと、東に対してこう尋ねる。

「左腕は相変わらず動かせないのですか?」

「ええ。筋のどこかが切られてしまったらしくもう一生左腕は利かないそうです。なに、もう慣れましたよ」

 東は事もなげにそう答えたが、それを聞いた美成の表情は暗くなる。

「――私は今でも悔いているんですよ。棒でも何でも持って貴方に助太刀するべきだったのかも知れないし、もっと急いで番所に行くべきだった。真菅乃屋に戻って血だらけで立っている貴方を見た時、私は貴方にとった無礼な態度を恥ずかしく思いました」

「構いませんよ。私には本当に刀を抜く度胸が無かったんだ。何よりもう過ぎた事です。幸い浪人のようなものだから自分以外の誰に迷惑をかけるものでもない」

 そう言うと東は薄く笑って右腕の肘で美成の事をトンと軽く突く。美成もやや引きつった笑みを浮かべてそれに応えた。そうした二人のやり取りに割って入るようにして千枝子が言う。

「そんな事はないよ! 東はとっても格好良かった。私の事も母上の事も家の事も守ってくれましたもの。――だから、私が大人になってもまだ東が独身ひとりみだったら、私がお婿に貰ってあげるからね!」

 やや早口にそう捲し立てた千枝子は恥ずかしそうに顔を下に向け、またそっぽを向く。

 思いもよらぬ事を言われた東は妙にどぎまぎしてしまい、一方の美成はさも面白そうにニヤニヤと笑いながら二人の様子を見ていた。


                 ◆


 美成と千枝子は東に案内され、幕の向こうの寄席で展開されている篤胤の講義を見に行く。千枝子はそこから聴衆の間をすり抜けるようにして更に前に出て行ったようだ。

聴衆は優に五十人を超える鮨詰状態で、皆が皆身を乗り出すようにしてさも面白そうに篤胤の弁に耳を傾けている。篤胤の弁は益々冴えわたる。


「さてここまでの講釈で我が皇国が万国の中でも最も優れた真にありがたい国である事、それが古今の事実によって裏付けられている事をよく理解していただけたかと思いまする。――さて拙者はこれまで何度も、事実に即して公平に考えよと口を尖らせて言ってまいりましたが、これはなにも学問だけの事ではございません、日々の暮らしにおいても大事な事であります。我々が儒教の凝り固まった説教や仏教の要を得ない説法をいくら聞かされても少しも安心を得る事ができないのは、それらは人間の頭で考えた机上の空論に過ぎないからであります。安心の無いところにいくら空論を重ねたところでますます本当の事が分からなくなるばかりで、喩えるならば偽薬を飲んでますます身体を悪くするようなもの。真の心の安心を得て大倭心を固めるには、まず第一にどこまでも鋭い事実の追究が必要になるのであります。――事実を追求するという点において西洋の測量はかりわざの技術は我々を凌ぐ部分がありますし、漢土や天竺の説と言えども全否定する必要はありませぬ。細心の注意を払って余計な上澄みさえ取り除ければ外つ国の古伝からも真実は探れましょう。何故ならば皇国より低く卑しいとはいえ外つ国もまた神々が創った国に違いなく、また太陽の光を浴びて育まれている国に違いない。――そう、世界はいわばみんな日本なのでござる! 外つ国の事をも知らなければ日本の御国の事も分かりはしないのです。ここらへんの事は古学者ですらトンと理解しておらぬのが悲しむべきところで、我が師の鈴屋の翁ですら生前には考え至らなかった部分でありますが、これから古学する者にはこのように大虚空おおぞらから地球を見渡すような、高く広い視野が必要になってくるのであります」


 彼の講説は本当に様々な人々が聞きに来ていた。正座したまま神妙に聞いている武士もいれば、金が無くとも聞けるときいて来たと思わしき若い奉公人達もいれば、たまたま田舎から出てきた旅の者と思わしき集団もいる。篤胤の話に不快そうに顔をしかめたり露骨に怪しんだ目を向けたり笑って聞いている者達もいた。

 しかしその場に居る者達は皆篤胤の語る言葉から耳を背ける事ができなくなっているのは皆同じであった。好意にせよ悪意にせよ、彼の言葉には人心を引き付ける熱気がたしかにあったのである。

「講演の場に寄席を選んだのは確かに面白い。人も大勢入れられるし色々な人が気楽に入れる。しかしながらウチに出入りする他の学者には平田先生のこういう性向を低俗だとか山師のやり口だとか口汚く罵る人も居る。――東さん、本当のところはどうだと思うね」

 出入口あたりの離れた場所に立ったまま、美成が不躾に尋ねる。その問いに対し東は苦笑を浮かべながらこう答える。

「それを弟子の私に問いますか。まぁ確かに測りかねるお人には違いありません。『霊能真柱』が出版されて以来、儒者や仏徒だけでなく鈴屋一門にも先生を蛇蝎の如く嫌う人がかなりいます。風雅の道を軽んじるのが気に入らない。我らが祖師の霊まで持ち出して自説で弄ぶのが気に入らない。学者の分を弁えず不可知の領域までを考えるのが気に入らない、と。正直なところ私にはそう考える気持ちが解る。時々、先生は誇大妄想にとりつかれてしまった狂人に見える」

 意外なほどに自らの師を冷ややかに見た東の言葉に、軽口のつもりで尋ねた美成はかえって面食らってしまっていた。

「そこまで突き放して見ていながら、貴方は何故身を投げ打ってまで平田先生に師事しているのですか?」

「少なくとも先生は何処までも本気で考えています。少なくとも詐欺師の類いではない。詐欺師ならば金を儲けているはずでしょう」

 東の言う通り、篤胤はこの四年間様々な本の執筆や講説を続けているがちっとも儲けていなかった。むしろ赤字が重なって貧窮が続き、太刀さえも質に入れ、それこそ血を流すようにして研究や講義を続けていた。

 演台に座る篤胤は羽織こそかろうじて着ているがその身なりはなんとも質素である。よく見れば繕いの後さえ見える惨めさであった。

「平田先生がどこまでも本気の人である事は私にも分かりますよ。だけどそれは、あの人が狂熱者でない事までは証明しないのではありませんか?」

 美成の言葉に、東は柔らかい含み笑いを浮かべたままこう答えた。

「私も実は先生の語る〝幽冥ゆうめい〟の住人を見た事がありましてね。牛頭の。あるいは私もミノタウロスに誑かされたのか……いやァ、なんででしょうな。私にも分かりませんわ」

 国言葉を出してからからと笑う東の姿を見て、美成はやや呆れた様子で肩をすくめ、しかし一緒になって笑っていた。


                 ◆


「――……さて今日はもう一つ語っておかなければならない事がありまして、それは死後の霊魂の行方に関する話でござる。霊魂の行方を知るのは生涯の安心を固める要でありまして、これが無ければ落ち着いて学問に打ち込む事も毎日を生き生き暮らす事もできないと拙者は考えます。――古くより人は死ねば極楽に参って阿弥陀の弟子になるとか悪人は地獄に落ちるとか、あるいは霊魂は知る由も無く散り失せて消え去るとか申されておりました。また近頃の古学者は善人も悪人も区別なく夜見の国に行くなどとも申しております。しかしながらこれらの説は全て、外つ国から渡来した間違った説に影響されて生まれた非事なのであります。即ち事実が無い。またこれらの説は人を脅かすばかりで、信じておれば心も魂も小さく萎縮するばかりです。――では拙者が何を言いたいのかを掻い摘んで申せば、死ぬのは実はそう怖い事では無いという事であります。人はたとえ死んだとて極楽だとか地獄だとか夜見だとか、そんな遠くて薄ら寂しい場所に行って独りぼっちになるワケではありませぬ。実を言えば人の霊は死後もこの地上に留まり続けるのであります。留まり続けた霊はどこにでも居るのですが、しかし生きた人間の目には姿が見えませぬ。これは喩えれば灯りを消した暗い部屋からは明るい部屋が見通せても、明るい部屋からは暗い部屋の様子がよく見えない事に似ております。確かにそこに在るのに目には見えない。これを――幽冥界あるいは幽世かくりよ――と申すのです。諸君も幽霊を見ただとか妖怪に遭っただとか天狗様にさらわれただとかいう話を聞いた事がありましょう。それを全て気の迷いだ作り話だなどと済ませてしまうのは真に残念な態度であります。そういった話は幽世のものがたまたまに姿を見せたためしかも知れぬのです。能々耳を傾け、素直な大倭心で以て判断してみて欲しいものでござる」


 熱の入った篤胤の講説を千枝子が真剣な表情で聞いていると、「すみません」と声をかけてくる者があった。

「はーい?」

 千枝子が振り返ると、そこには旅装束に大きな荷物を背負った一人の少年が立っていた。年周りは十六歳くらいか。元服はしていないようで前髪は未だ残したままであった。そうして少年はいかにもおのぼりさんといった挙動不審な様子でこう尋ねる。

「すみません~。あの、もしかして此処が平田篤胤先生の学舎なのでしょうか?」

「いいえ。此処は借りて使っている寄席ですよ」

 余所行き用の大人びた口調で千枝子がそう答えると、話しかけやすい子供に聞いたつもりでいた少年は驚いた様子であった。

「ああ、そうなので。道理で広すぎると思った……しかし、こんなに沢山の人を相手に説法できるなんて! 平田篤胤先生は本当に江戸の有名人だったのですね! わっし、本当にたまげました」

 やや訛りがかった言葉遣いで父親を褒める少年の言葉に、千枝子は悪い気はしていなかった。

「平田篤胤は私の父です。もしかして、父の弟子になるために江戸に上って来たのですか?」

「ほわっ?! 篤胤先生の娘さんだったのですか! そうとは知らず失礼な口をきいてしまいました。 わ、わっしは村上源と申します。駿河国府中から出て参ったのですが、江戸はあまりに広くて迷ってしまいまして。篤胤先生の名前を出した札があちこちにあるので取敢えずこの建物に入ってみたのです……し、しかしよくわっしが弟子入りの者だと分かりましたね?」

「その恰好を見ればすぐに。父のお弟子さんは田舎から上って来た人が多いのですよ」

「は、はあ……田舎者の格好ですか」

 そう言われた源は自分の恰好を慌てて確認しだす。その仕草を見ていた千枝子は可笑しくなってクスクスと笑い「講説が終わったら後で父に引き合わせましょう」と告げた。

 寄席の席に千枝子と源は並んで座り、千枝子はカステイラの包みを開けて源に分けてやる。初めて口にした憧れのカステイラの痺れるような甘さに源が驚いていると、千枝子が尋ねた。

「村上さんはどうして父に弟子入りなさろうと思ったの?」

 ほおばっていた甘味を名残惜しそうに飲み込むと源は得意げに答えた。

「約束したんです。四年前駿河にいらした篤胤先生とお話した時、わっしが河原で見つけた土器をお見せしました。篤胤先生はそれが何千年も昔の器だと信じてくれて、バカにもせずに古の世を調べる仲間だと言ってくれたんです。わっしはそれが嬉しくて、大きくなったら篤胤先生の元で古学をしたいとずっと思っておったのです」

 源の話を興味ありげに聞いた千枝子は納得したように頷いてみせた。

「父は古物蒐集も相変わらず続けています。村上さんのような方が弟子入りして支えて下さるならきっと心強く感じて喜ぶと思います。実は父はこの間まで下総という所に旅行していました。そこで〝磐笛いわぶえ〟という物を手に入れて――磐笛とは石に穴を開けて音が鳴るようにした古の笛だそうです――父はその感激のあまり、塾の名前も気吹舎と改めました。その笛は神が作った物で、神が自分に与えたと父は信じているようです」

「へぇー、古代の磐笛ですか。一度見てみたいものです。笛にあやかって気吹舎とは風雅ですね」

「父にとっては風雅なんてものではなくて、全部本気なのですよ」

 そう言った千枝子は含むところありげに笑みを浮かべ、自分もカステイラをちぎって一口食べた。彼女はじっと、神や死後の実在を説き続けている父の姿を眺めていた。それを見た源は何げなくこう言う。

「やはり、篤胤先生ともなれば本当に神様の姿が見えておるのでしょうかね」

「いいえ。何も見えていないと思います」

 即答だった。思わぬ返答に源は戸惑った様子だ。

「で、では千枝子さんは篤胤先生の話を信じておらぬのですか?」

「正直、私は父の話は未だに半信半疑で聞いております。もう少し色々と勉強してみてから、私なりにもう一度考えてみるつもりです。だけど父の眼に不思議な物が見えた事なんて一度も無いのではと思っておりますよ。――父はいつも目に見えない夢や幻みたいなものを追いかけています。そうして苦しんだり喜んだり、だいぶ子供っぽいところがあります」

 千枝子は少しばかり呆れているような口調で篤胤の事を語っている。篤胤の貧窮と爪に火を灯すような暮らしぶりは駿河に居る平田門人達からも聞かされていた。

 生活苦のために雛人形まで質に入れていたので桃の節句になっても飾ってやる事ができず、その事で悲しむ娘を見るのが忍びない篤胤は方々を走り回って金を借り集めてきてなんとか雛人形を買い戻したという話を聞いた事がある。

 その話に出てきた娘というのが、この千枝子なのだろうか。

「……千枝子さんは篤胤先生がお嫌いなのですか?」

 源は思わずそう尋ねたが流石に無礼であったかと後悔した。しかし千枝子はさらりとこう告げた。

「いいえ。私は父が大好きです。母が亡くなってすぐの頃、私と半兵衛は母が恋しくてすぐに泣いたり喚いたりしておりました。その度に父は辛抱強く私達を抱いて、慰めてくれたものです。――母様はな、実はみんなの傍にいるのですよ。目に見えないだけでいつも私達を見守ってくれているのだよ。だからお父さんは何があってもへっちゃらなんだ。母様だけじゃない、お祖父さんもお兄さんも傍にいるのだ。だからお前達も寂しがったり怖がる必要はないんだよ――と。そう語る父の顔はいつも優しくて、何より話している本人が一番楽しそうなのです。私はそういう父が本当に大好きなんですよ」

 そう喋りながら、千枝子は演台の上の父を微笑みを浮かべながら見上げている。その表情は――源には知る由もなかったが、織瀬の浮かべていた優しい微笑みによく似ていた。



 ちょうど篤胤の講説も一区切りがついたらしく、彼が一礼すると聴衆からは笑い声や歓声があがった。

 篤胤はまるで舞台の上の千両役者であった。歓声が静まった頃、篤胤は楽しそうにさらに矢継ぎ早に語る。

「――……さてここまで長々と説いてまいりましたが、拙者の説いている話を聞いてこう思った方もおられるかも知れませぬ。なんだ、死ぬのは本当は少しも恐ろしくないのか。いやむしろ安泰で楽しそうではないか。早くその極楽のような幽世に参りたいものじゃわい、と。いやいやいや、それはまったく早合点が過ぎるというもので、何故ならば、そういう拙者も実は毛虫と仏と死ぬ事は嫌いなのでござる。拙者は世のあらゆる事を解き明かそうとし続けるうちに幽世の実在を確信しました。世の初めから終わり。目に見えない極小の世界から星々の浮かぶ大虚空。生きるこの世界と死後の幽世。何もかも繋がっていて孤独ではない。全てを繋げている〝たまという真柱〟が在ると解った事が拙者は嬉しくて仕方がない。拙者にも、他の皆にも霊が在る。この喜びをすべての人に知らしめたいし、より明確に証明してみたい。そういう事を四六時中考え続けているうちに却って――尊い神々と愛しいたまに寄り添われ、いま自分がこうしてこの世に生きている事までもたまらなく嬉しくなったのです」

 篤胤は周囲をぐるりと見渡し、聴衆一人ひとりの顔を覗き込むようにゆっくりと見渡す。それから機嫌よくにこりと微笑んでみせると、やはりどこまでも楽し気にこう言った。

「やっぱり、生きる事というのはかけがえもなく素晴らしいものですよ」

 そう語る篤胤の眼差しは、確かに何かを捉えているようにも見えた。






 ――それから二十七年後の天保十四年(1843年)閏九月十一日。

 平田篤胤は生まれ故郷の秋田で没した。享年六十八歳。

 その二年ほど前に幕府から本の執筆を禁止され(幕藩体制を揺るがす危険思想の持ち主と見なされたともいう)江戸を追放処分となり、再起を願う中での病死であった。

 辞世の句は「思ふ事の一つも神に勤め終へず今日やまかるかあたら此世を」。

 求道一筋に生きた篤胤は生涯の殆どを貧窮と冷遇の中で過ごし、彼の没後には出版の機会に恵まれなかった数多の原稿と出版の赤字で膨らみ続けた三千両に及ぶ借金が残されたという。


 存命中の篤胤は総じて不遇であったが幕末を通じて彼の残した学問――平田国学の信奉者は増え続け、明治初頭には気吹舎門下を名乗る弟子は四千人を超えた。

 神国日本は世界の盟主たる国であると熱く説いた平田国学は幕末期には思想的原動力の一つとして称揚されたが、明治維新達成の後はその原理主義的な復古観を厭われ、やがて権力の場から放逐される事となる。

 外国渡来文化、殊に仏教を敵視する平田国学の思想は、後に廃仏毀釈という文化的荒廃を明治の日本にもたらした。

 近代民俗学は篤胤の思想の影響を大きく受け、現在まで残る神道系新宗教やオカルト・スピリチュアルの論理体系の中にも彼の説いた幽冥論は今も微かに息づいている。


 篤胤という人間は人生の殆どを信じた道の研究に費やした情熱の人であり、鎖国体制下で世界を股にかける奇説を様々提出した奇人であり、後に狂信者と評されるほどに肥大化したナショナリストであり、不可知の世界を知性を以て知り尽くしたいと願い続けた探究者であった。それはずいぶんいびつな形ではあったが、間違いなく近代の思考の先駆けを成していた。

 多くの人から激しい非難を受け、一方では不思議な魅力によって人に慕われて愛情深く生きた。平田篤胤は強烈極まる個性を持つ近世後期の怪人であった。

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