天王祭



 文化九年六月末。

 長く続いた梅雨も最後の雷雨と共にようやく終わりを告げ、江戸の町もだんだんと夏季の様相を見せ始めていた。少し長歩きすれば汗がひたひたと頬を伝うようになったし、田舎ではきっとそろそろ虫送りが始まっている事だろう。

 江戸の町ではもう天王祭が始まっていた。祭りとは言っても京都の祇園祭ほど組織化されたものではなく、各地から集まって来た御師や行者が庶民を相手に散発的に行っているような祭礼である。疫病が一番発生しやすい梅雨明け夏入りの時期を牛頭天王への祈りと護符の力によって乗り切ろうという、ある種の悲願に満ちた祭りである。

 そういうわけで六月中は市中のどこの通りを歩いても御師の口上や鳴り物の音、そして浮かれる民衆の歓声が聞こえてくるのであった。

 そして江戸庶民のもう一つの夏の風物詩。冷や麦売りや心太ところてん売りの声もあちこちの道から聞こえるようになってきていた。


「おおい、心太売りよ。一杯売っていただきたい。ああ、醤油はたっぷりとかけてくだされ。私は濃い方が好みでな」

 売り子を呼び止めて家の中から買いに出てきたのは、壮年の痩せた武士であった。武士がこのような買い食いに出てくるのは非常に珍しい事なので心太屋は驚いていた。心太を食べたがる侍などいくらでもいるだろうが彼らはこういった物を買いに出るのを恥ずかしがって女房か女中あたりに買いに出させるのが常だからである。

 差し出されたひび入りの更に心太を盛りつけながら、心太屋は内心興味津々でその壮年の侍の顔を見てみた。侍はぎょろぎょろした目で心太にかけられる醤油を見ていたが、ふと何かを思いついたように「少し待っていてくれ」と言うと家の中に引き返していく。

 侍は言葉通りすぐに戻って来てもう一枚皿を差し出し「もう一杯いただきたい。こちらは醤油は少しでよいから」とだけ告げた。

 二皿分の代金を受け取りながら心太屋は家の玄関に掲げられている看板に目が行った。その看板には「真菅乃屋」と書かれている。そうして壮年の侍は両手に皿を持ったまま、その家の中に戻っていった。



 篤胤は両手に心太の盛られた皿を持ち、文机の置いてある部屋まで戻って来ていた。

「……織瀬。起きていますか? 入りますよ」

 襖越しに話しかけると「はい。どうぞ」という声が聞こえたので襖を開けると、織瀬は布団の中で横になっていた。痩せ細り自分から起き上がる事はもうできなくなっていたのである。

 篤胤は痩せこけてすっかり青白くなってしまった妻に対してごこちない笑顔を浮かべながら「心太を買ってきましたよ。食べられるなら一緒に食べましょう」と告げ、支えて抱き起すようにしながら織瀬の上半身を起こさせた。そして一人で体を支え続ける体力はもう残っていない妻の傍に座り、自分の身体に寄りかからせる。一見すると仲睦まじい夫婦のようにも見えたが、こうやって支えるたびに妻の身体が軽くなってきている事を実感してしまう。それに気が付くと篤胤の表情はどうしても曇るのだった。

 ――二月に江戸に帰投して以来、篤胤は草稿を元にして執筆を進めていたが、まるで捗らなかった。妻の看病のために文机や道具を寝室の隣に運んで作業を続けていたのだが、集中力はどうしても掻き乱された。出版の段取りを必死になって進めてくれている友人や門弟達のためにも早く完成させねばならないのに、初めての行き詰まりだった。

 それだけではない。家事や家計のやりくりを一手に引き受けてくれていた織瀬が臥せった事で、元より苦しかった平田家の経済状態は今や最悪に近い状態に陥っていた。

 二人の子供達の面倒や遊び相手は弟子達の中でも東がすすんで引き受けてくれたので助かっていた。その事を篤胤は深く感謝していたが、彼の自由が利かなくなった左腕や住処を出て安宿を転々としている理由を聞くことはできずにいた。他者の苦労を思いやるだけのゆとりを今持つ事はとてもできなかったのである。


 織瀬はもう粥を飲み込むのにも難儀するほど衰弱していたが冷たくて喉ごしの良い心太ならば少しは食べる事ができた。妻を寄りかからせたまま一緒に食べていた篤胤はほっとしていた。

「美味しゅうございました」

 織瀬は箸を置くと自分が食べるのをじっと見ていた篤胤の顔を見つめ、そして問う。

「貴方、執筆は良いのですか?」

「……いや、良いのです。今日は織瀬とずっと一緒に居る事にしましたよ」

 篤胤はすがりつくように自分の胸に添えてくる妻の手を優しく握る。生気の失せた冷たい手だった。

「それは嬉しいです……けど、少し残念にも思います」

「残念? それはどうしてです?」

 不思議に思ってそう尋ねると織瀬は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐにこう答えた。

「貴方の本が完成する日が楽しみで仕方がないのです。出来上がった本を読む日を何よりも楽しみにしていますが、私はそれまで生きていないでしょうし……」

「……」

 篤胤は何も言えなかった。執筆はたとえどんなに急いでも冬まではかかりそうな見通しである。そして医者としての見立てを冷厳に言えば――織瀬の命は夏を越えられそうには思えなかった。食事もほとんど口に出来ず発汗や嘔吐が続き、胸には水が溜まっている感触さえある。労咳の末期であることは明らかであった。

 無論篤胤も事態をただ放置していたわけでは決してない。あちこちの高名な医者を尋ねては助言を仰ぎ、自らもあらゆる医書に目を通し続け、蘭学者にまで新たな治療法は無いかと頭を下げて回り、正しき神々に祈祷し続けてきたが、それでも織瀬の身を蝕む病を癒す事はできなかったのである。

 それでも篤胤は希望を捨てずに「もうすぐ良くなる」と言い聞かせ続けていたが、織瀬の方は全てを察してもう諦めきっているようであった。

「……読みますか?」

 篤胤は隣室に山と積んである原稿を示して見せ、さらに続ける。

「もちろんあれはまだ書きかけで未完成なところも多くあります。疑問があればその場でなんでも答えましょう。織瀬のためだけに講義をさせていただきたい……どうでしょうか?」

 織瀬の手を握ったまま篤胤は力強い口調でそう申し出る。織瀬は少しばかり驚いたような顔をしていたが、すぐに薄く微笑んで頷いて見せた。近頃は沈痛な面持ちばかり見せている妻の久しぶりの笑顔に、篤胤は胸が暖かくなるような気持ちを感じていた。


 織瀬は聡明な女性であった。まだ整理も終わっていない『霊能真柱』の草稿を、要点を掴みながら実によく理解していく。それだけではない。時折投げかけてくる疑問や質問も実に鋭敏で篤胤自身気づいていなかった矛盾や説明不足を指摘してみせた。そしてそのどれもが逐一尤もであったので、篤胤は加筆や修正に追われながらも大いに参考にする事ができた。

 そうしてぼちぼち日が暮れだす時間帯まで夫婦二人だけでの国学の講義は続いたのである。

 自分の解きだした説を一生懸命読み込んでくれている妻の姿を見ながら、篤胤は昔の事を思い出していた。それはまだ何事も志す事ができていなかった頃の自分に、織瀬が本居宣長大人の本を持ってきてくれた日の事であった。

 あの日国学というものを知っていなければ今の自分はなかっただろう。己の人生を大きく変えた日のはずだ。国学者平田篤胤は織瀬無くしては誕生しなかった。織瀬の内助が無ければここまで継続する事もできなかったかも知れない。

 そうして今日まで火を灯し続けてきた学問の集大成を織瀬が今、一生懸命に読んでくれている。もしかしたら今日この日までの研究や努力は全て織瀬に捧げるために続けていたのかも知れない。篤胤にはそう思えてならなかった。

 書きあがった最後の頁までようやく目を通し終えた頃、外からはまた笛太鼓の音が聞こえてきていた。御師や群衆が騒いでいる声も聞こえた。牛頭天王の御札撒きの狂乱は真菅乃屋のある路地へと近づいてきているようだった。

 障子の薄紙越しに差し込んでくる黄色い西陽に照らされながら、篤胤と織瀬は見つめ合った後に二、三度口づけを交わした。そうして静かに笑い合った。

「まぁ……。私も貴方ももう若くありませんのに」

 織瀬がまるで少女のようにはにかみながらそう言うと、篤胤は大真面目な顔をして「私は今でもあの頃の気持ちのまま織瀬を思っていますよ」と言ってのけた。その顔を見ていると、自分はこういう一本気さに惚れたのだなあと織瀬も懐かしく思い返していた。

 織瀬は読み終えた原稿を篤胤に返し、ついでに白紙と硯と筆を貸してもらう。何をするのかと思えばさらさらと楽しそうに筆を走らせ、その紙を篤胤に渡したのである。

 ――それは織瀬が詠んだ歌であった。織瀬は教養のある女で歌も篤胤よりよほど上手に詠めた。しかし女だてらに歌を詠むという事を恥かしく思っていたので、人前で詠んでみせるなどめったにない事であった。


たまちはう、神のまことをますかがみ、さやかにとける霊能真柱たまのまはしら


 たまに恩徳を与える神々を写し出す鏡のように、鮮やかに真実を解き明かした霊能真柱……それは織瀬からの、多くを語らずして夫の集大成を褒め称える最大級の賛辞であった。

 貰った歌を握りしめたまま篤胤は「他の誰から褒められるよりも嬉しい事です」と呟き、声も出さずに涙ぐみながら何度も何度も歌を読み返していた。

 やがて篤胤は涙を拭い、歌の詠まれた紙を大事そうに畳んで懐へとしまい、再度妻の手を握りしめた。

 丁度その時であった。それまでずっとおぼろげに聞こえていた囃子歌の声が急によく聞こえるようになった。どうやら真菅乃屋のある通りの方に御師がやって来たらしい。


  ――さあ来い子供 天王様は囃子がお好き 泣く子は嫌ひ 喧嘩も嫌ひ ワイワイ囃せ


 鳴り物の音と共に御師の剽軽な歌声と、それをゲラゲラ笑いながら追いかけている人々の声が聞こえてくる。可笑しな事に江戸では大人も子供もボボだのメコだのといった卑語を叫びながら歌う御師を追い掛け回すのである。

 聞こえてくるそれらの騒音になんだか水を差されたような気分になり、篤胤も織瀬も思わず吹き出してしまっていた。

 そうやって二人して声をあげて笑っていたのだが、やがて織瀬は肩を震わせてコンコンと咳込み始めた。織瀬は慌てて口元に手を当てて隠したが、なかなか抑えられずにいた。

 篤胤は咳込む妻を支えるようにして身体を抱いた。何度か篤胤が心配して声をかけると、織瀬はかろうじて絞り出した声で「はい」とだけ答える。それでも咳は収まらず、何度も続けるうちに織瀬の顔は真っ赤になり、目からは涙がひたひたと流れていた。

 そうしてひとしきり咳込んだ後、織瀬はついに口から血を吐いたのである。

「織瀬!」

 容態の急変を察した篤胤は大慌てで妻を介抱しようとしたがどうする事もできない。せめて窒息しないように俯かせておく事くらいしかなかった。

 そうして暫くの間抱いたまま血を吐かせ続け、織瀬の口の周りも寝間着も布団も、見る見るうちに血に染まっていった。唾液などの混じっていないさらさらとした鮮血を大量に吐き出している。著しく危険な状態であった

 漸く血を吐き終わった後も織瀬の身体は全身がガタガタと震えている。おそらく血と一緒に体の温もりまでも吐き出してしまったらしい。篤胤は咄嗟に妻の身体を抱き寄せて密着させる。自らの体温で冷えた身体に温もりを分け与える即席の方法であった。

 ヒューヒューと荒い息を吐き続ける妻の身体は抱きしめると、どこまでも冷たい。労咳がどこまでも蝕んでいた。今にも命が吹き消えるような気がしてならなかった。篤胤の脳裏には麻疹で死んだ息子の事が鮮烈に浮かんできていた。


  ――天王山に登つて 獅子の毛むしつてにかわで貼って これ見ろ弥吉やきちさん 弥吉の女房ないないよ 無い毛が生えた


 家の前から鳴り物の音と御師が歌い騒ぐ声が聞こえる。御札撒きが家の前を通過しているらしかった。群衆がゲラゲラと笑い声をあげているのも分かった。

 命の瀬戸際にある妻を抱きながら聞こえてくるその陽気な歌に、篤胤は腹が立って仕方がなかった。

「――偽りの神! 偽りの神! 偽りの神!」

 篤胤は呪うような声でそう怒鳴ると、ぐったりと項垂れている織瀬を布団のまだ血で汚れていないあたりに丁寧に横たわらせる。そうして隣室に向かっていくと篤胤は棚の中をガサガサと乱暴に漁り始める。何かを探しているようだった。

 ようやく少し正気付いた織瀬は横になった儘探し物をしている夫の姿をじっと見ていた。声をかけようとしたが喉が引きつるようになり、声を出す事ができなかった。

 篤胤は棚の中に仕舞い込んでいた〝牛〟の絵に片っ端から目を通していく。かつて自分が聞き書きした妖怪の数々、牛鬼、神農、それにミノタウロス。今の彼の目には、その絵に描かれた怪物どもがみんな勝ち誇って笑っているようにも見えた。

 彼は笑う牛の絵を掻き分けていき、一番底にしまってあった古ぼけた御札を見た。それは随分前に拾った、あの赤い紙に刷られた牛頭天王の病気封じの御札であった。

「牛頭天王――」

 篤胤は怒りに打ち震えながら歯を食いしばっていた。牛頭天王は異国のマヤカシ妄説と神代の事実を混ぜこぜにしてでっちあげた妄作神道の極みのような信仰である。虚飾と欺瞞と漢意にまみれた、日本から排撃するべき蕃神に他ならない。そういった事が頭の中をぐるぐると駆け巡っている。思考が鈍る。

 例の歌声は家の前だ。明らかに立ち止まって騒いでいる。黄昏の中で猥雑な囃子歌がいつまでも聞こえてくる。どこまでも侮辱されているような気持だった。

 妻一人救えずにいる無力な自分こそが今、偽りの神に嘲笑われているのではないだろうか。


  ――ここらで撒こか 入り色混ぜて 有難きお札 授かつた者は病をよける 疱瘡も逃げる ソラ撒くぞ ソラ撒くぞ


 頭の中に響く歌声と哄笑に唆されるような気持だった。突き動かされるようにして篤胤は御札を手に取り、呻くように呟いた。

「異国から来た偽りの神でも構わぬ。――どうか! どうか私の妻を救けてくれ! 織瀬を私から奪わないでくれ……!」

 そう口にした途端、目からは悔し涙がこぼれた。頭の中いっぱいに哄笑が聞こえたような気がした。目が眩み、札に描かれた厳めしい面構えの牛頭天王までが厭らしく嗤ったように見えた。目に見えない妖魅どもの全てが敗北した自分を嘲笑っているとしか思えなかった。

 篤胤は重い足取りで一歩一歩妻の元へと戻っていく。手には牛頭天王の御札をしっかりと握りしめていた。

「これを」

 篤胤は力なく横たわる妻に御札を差し出す。息絶え絶えといった様子であった織瀬はそれを見ると何かを言おうとしたようだが――声が出なかった。

 息子が麻疹で危篤に陥ったあの日、織瀬は行者を呼んで祈祷をさせた。打つ手を失い蕃神にすら縋りたくなったあの時の妻の気持ちが、今の彼には理解ができた。

 しかし織瀬はその御札を受け取らなかったのである。弱々しく手を振り拒絶する。篤胤は何度も手に握らせようとしたが織瀬は頑なにそれを拒んだ。

「祈って良いのですよ……私にはもう他に何もできないんだ。苦しい時の神頼みという言葉もある。このような時に、たとえ偽りの神であろうとすがる事を、私も真の神も咎めだてはしない」

 篤胤が哀しそうな顔でそう告げると、織瀬は身体を震わせながら絞り出すような声で何かを言う。

「貴方と同じ道を行きます」息を切らせ口元から血を垂らしながら、たしかにそう言っていた。

 織瀬は自身がこれだけ病魔に身体を蝕まれてもなお、夫に信じた道を外れさせない事を考えていたのだ。その事を察すると篤胤はもう身悶えせんばかりの気持であった。

「織瀬……嗚呼、織瀬……!」

 織瀬は潤んだ目で自分を見つめ、呼びかける度に何度も頷いて見せた。

 道の追究を手伝うために身体を壊した妻。いつも自分を助けてくれた妻。一番の理解者であった妻。

 こんな時までどこまでも気を遣わせている事が無念でならず、しかし篤胤にはもう何をどうしたら良いのか分からなかった。妻への恋しさばかりがどんどんと募っていく。

 渡せなかった牛頭天王の御札は手からすり抜けるようにして畳の上に落ち、外からずっと聞こえていた天王祭の囃子歌や笑い声はいつの間にか掻き消えたように何も聞こえなくなっていた。あるいは最初から何も居なかったのかも知れない。

 黄色い西陽だけが差し込む寝室で篤胤は織瀬の隣に座っていた。次第に西陽も暮れかかり部屋はどんどん薄暗くなっていく。篤胤は他の何物にももう目を暮れず、唯ひたすらに織瀬の顔だけを見つめていた。織瀬も何も言わず、目を真っ赤にして座っている夫の姿をいつまでも見つめていた。


 ――織瀬の容態はこの日の吐血を境に急速に悪化していき、もう飲食はおろか話す事もままならなくなっていった。

 死の床と呼ぶべき病床生活を篤胤はひたむきに介護し続け、毎日何時間も織瀬の傍について話したり姿を見つめて何事か考え込んでいたという。



 二カ月あまり後。文化九年八月二十七日。篤胤の妻・織瀬は苦しい闘病の末に遂に息を引き取った。享年三十一歳。

 篤胤自身「あはれ此の女よ。おのが道の学びを助け成せるいさおのここら有りて、そのいたずきより病発りてまがりぬ」と記している通り、貧窮の中で執筆を続ける彼を支えるべく重ねた苦労によって健康を害していた事が早逝の大きな原因であろう。

 最愛の妻にして最大の理解者であった織瀬の早すぎる死は篤胤の心に大きな痛手を与え、また彼の思想世界にも変化を与えたと考えられている。

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