労咳
正月が明けるとただちに駿河を発つ用意を整えて待ち構えていた篤胤だったが、すぐに江戸に帰投する事はできなかった。ここまでずれ込んだ理由は例年より多く降った雪である。
無理をすれば雪中の箱根を超える事も出来たであろうが、雪に降られたり転んだりしてせっかくの草稿を濡らしてしまうような事態は避けたかった。早く江戸に帰って蔵書と照らし合わせながら本稿を仕上げたいという思いに憑かれて篤胤はやきもきする日々を過ごしていた。
そうこうするうちに二月に入ってやっと箱根の雪が消えたという知らせが入り、篤胤はようやく帰路に就く事ができたのである。
実に四カ月ぶりの江戸であった。一カ月で帰るつもりであったが結局随分と時間がかかってしまった。大勢の人々が慌ただしく行き交っている市中を篤胤はなんとなく物怖じさえ感ずるような気がしながら潜り抜け、草稿の束を収めた風呂敷包みを担いで自宅へと向かっていた。
長旅に同道してくれた弟子達は直に家に帰らせてやったので草稿は全て一人で担いでいるのだが、とにかく重たくて仕方がなかった。しかしながら背負った風呂敷包みの重さは自分の思考と研究の集大成、いや分身とも言える代物である。そう考えるとその重みも少しも苦ではなく足取りも軽くなる気がするのだった。
角を曲がってなじみ深い路地に入るといよいよ長い間留守にしていた我が家が見える。玄関先では二人の子供が遊んでいるのも見えた。
「千枝子! 半兵衛!」
その姿をみとめた途端、篤胤は子供達の名を呼びながら駆け出していく。子供達の方も父親の事に気が付いたようで「父上!」と叫んで走り出した。篤胤は風呂敷包みを地面に降ろすと二人の子供達を両手で交互に抱き上げ、大いに喜んだ。
「ああ! 千枝子は少し背が伸びた! 別嬪になった! 半兵衛はもっとご飯を食べないといけないぞ! 父は帰って来たぞ! もうどこにも行かないからな1」
人目を憚る事もなく篤胤は抱き上げた子供達に頬ずりまでして見せた。久々にかわいい子供達に対面して破顔一笑の様子であった。
「お帰りになられましたか」
不意に呼びかけられ、篤胤は半兵衛を抱っこしたまま振り返る。そこに居たのは東であった。子供相手にデレデレしていたところを見られ、篤胤はさすがに赤面した。
「え、ええ。今朝やっと江戸に帰り着いたところです。予定よりも随分長く駿河に滞在して迷惑をかけてしまった。しかしおかげで良い物が書けましたよ」
そう言いながら半兵衛を腕から降ろしたところで、篤胤は東の左腕が不自然にだらりと下がっている事に気が付いた。
「おや、その左腕はどうしたのですか? 怪我しているようですが」
篤胤は心配して尋ねたが、東の方は曇ったような表情を浮かべたままこう答えた。
「私の腕は大した事ではありません。それよりも早く奥様に帰宅を知らせてあげて下さい」
その言葉に篤胤ははっとする。そういえば、いつもなら自分の帰宅を察した織瀬は真っ先に玄関先に迎えに出てくる筈なのに、今日は姿を見せていなかった。妙に胸がざわざわした。その様子を察した東が「奥様は寝室です」と伝えると、篤胤は玄関先に履物を脱ぎ捨てるようにして家の中に駆け込んでいった。
「織瀬!」
思わず大声で名を呼びながら篤胤は寝室に入る。直感通り妻はそこに居た。織瀬は布団の上に座り、たった今帰って来た夫の顔を静かに見上げていた。
「――そろそろお帰りになるかと思っておりました」
自分を微笑みと共に迎えた織瀬の顔を、篤胤は屈んでまじまじと見る。
四か月前と比べて肌は青白くなり痩せ細っていたが、発熱のためか目は潤み頬は薄化粧のようにやや赤みを帯びていた。そのせいか外見的には妙に艶っぽさが出ていた。その特徴的な様を見て、医者でもある篤胤はもう直感的に気が付いていた。
「織瀬……もしや、労咳にかかっているのではありませんか?」
「貴方もそう思われますか? 玄昭先生や東殿ははっきり教えてくれませんが私もそう思っています」
そう言うと織瀬はうっすらと笑って見せようとしたが、途端に咳込んで口元を抑えた。篤胤はもう悲鳴をあげたくなるような気持であった。
労咳――またの名を結核。細菌の存在が発見される近代以前の社会では原因不明の病の一つであった。免疫力が低下した人ほど罹りやすく、近世では慢性的な苦労を重ねた人が罹る病気だと考えられ――故に労咳と呼ばれていた。この時代にはまだ治療法の存在しない不治の病であった。(余談だが結核は西洋では失恋の心の痛みから起こる病気だと考えられていた)
「安心して下さい。私は医者でもあります。必ずや治して……」
篤胤は気丈を装って妻にそう告げたが声がうわずったまま途切れた。それを言葉で取り繕おうと暫く口ごもっていたが、やがて諦めたように涙声でこう告げた。
「すまない。私は医者なのに、今まで貴女が病んでいた事にさえ気付いていなかった。そもそも織瀬が病気になったのは私の手伝いで働かせすぎたせいだ。私は医者どころか夫としても失格の男だ……」
篤胤は織瀬の前で手をつき、絞り出すような声で謝罪しながら頭を下げる。その時にちらりと見えた妻の手先が痩せ細っているのに気づいて、篤胤はとうとう自責の念に堪えられずに嗚咽を漏らす。涙と鼻水がぽたぽたと畳の上に垂れる音がする。
「すまない……!」
畳に額をこすり付けたまま泣く篤胤の頭を。織瀬がそっと撫ぜる。発熱しているのに手は氷のように冷たくなっていた。
「大丈夫ですよ。大丈夫。私が望んでお手伝いさせて戴いていたんですから……」
泣き崩れる篤胤を慰めながら、織瀬は前にもこんな事があったなとなんとなく思いだしていた。あれはいつだったか。本居宣長の死を知った時だったか。常太郎が麻疹で死んだ時だったか……。
夫の周りにはどういうわけか悲しい死が付き纏っている。そしてその悶えるような悲しみと燃えるような怒りが夫を突き動かし、幽冥な世界の奥へ奥へと突き進ませているように織瀬には思えてならなかった。
いつかのように織瀬は夫を覆いかぶさるようにして抱きしめ、宥めるように背中をさすってやった。織瀬自身も熱で朦朧としていたが、夫に触れている方が心が安らぐような気がした。
そうしてふと目をあげた時、開けっ放しの襖の向こうに何かが居たように見えた。それは影だった。二本の長い角を頭に生やした黒い影が、おぼろげな輪郭のまま夫の後ろに立っていたのである。
牛――。
目を瞬かせる間にその影は消えてしまったが、織瀬は今見えた曖昧なものの事は結局口にしなかった。打ちひしがれた夫を慰める事の方が今の織瀬には大切な事であった。
……くだけし
――『神曲』地獄篇・第十二曲――
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