とある猫の回想録8
「サーモンがいっぱい……」
レヴの感嘆とした声が、港の広場に響き渡る。広場の中央にはたくさんの大皿が置かれ、大量にサーモンの切り身が盛られていた。その切り身にたくさんのノルウェージャンフォレストキャットが群がっている。
「いいなぁ、俺も猫に戻りたいなぁ……」
白いブーナット――チョッキとズボンにローズマリングが施され、地域によって特色があるこの国の民族衣装――を纏ったレヴは、そんな猫たちを羨ましそうに眺めていた。
「レヴは食い意地が張っているんだな」
そんなレヴを隣に立つオルムは苦笑しながら見つめている。レヴはぷくっと頬を膨らませ、オルムを見あげてきた。
「ハールファグルのサーモンは別格です。それを食べられないだなんて……。食べられないだなんて……」
しゅんとレヴは顔を俯かせる。オルムはそんなレヴの頭をなでながら、広間のすみに設けられた屋台を指さした。
「お昼にしようか、レヴ。あそこでスモーブローでも食べよう」
白い屋台では恰幅の良い男の店主が、にこやかに微笑みながらサーモンのスモーブロー――パンの上に具材を乗せ胡椒やハーブを振りかけて食べるオープンサンドイッチ――を振舞っている。
「サーモンっ!?」
レヴの眼がキランと光る。輝く眼を屋台に向けながら、レヴは客たちが食べるスモーブローを夢中になって見つめていた。
そんなレヴを見つめながら、オルムは顔を曇らせる。
こうしてみると本当に無邪気な少年にしか見えない。本当にこの子は、猫の王であるカットのために生み落とされた契約獣なのだろうか。
「オルム様……」
小さな声が自分にかけられる。我に返ったオルムをレヴが心配そうに見あげていた。
「やっぱり俺って、おかしいですか?」
レヴがオルムの服を掴んでくる。そんなレヴの手に優しく自分の手を重ね、オルムはレヴに微笑んでいた。
「レヴ、オルム様じゃないだろう?」
オルムの言葉に、レヴは頬を赤らめる。恥ずかしげにオルムから視線を逸らし、レヴは小さく口を開いた。
「義父さん……」
「レヴ、聞こえないよ……」
愛らしいレヴの声が何とも心地がいい。レヴの声がもっと聞きたくて、オルムはレヴに意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「義父さんっ!」
きっとオルムを睨みつけ、レヴは大声で叫んでみせる。サーモンに群がっていた猫たちがびくりと耳を立ち上げ、こちらへと振り返っていた。
「レヴー!!」
「うわーっ」
怒りに体を震わせるレヴが愛らしい。オルムは叫びながら、レヴを抱きあげていた。屋台の客たちがいっさいにオルムとレヴに視線を向ける。
「ちょ、オルム様みんなが見てますっ!」
「オルムじゃない。私は君の義父さんだよ、レヴ……」
レヴを横抱きにしながら、オルムは彼の顔を覗き込んでみせる。レヴは不機嫌そうに頬を膨らませ、オルムの首に腕を回していた。
「分かってますよ、義父さん……」
潤んだ翠色の眼が自分に向けられる。恥ずかしそうなレヴが何とも可愛らしく、オルムはレヴを優しく抱き寄せていた。
「だいたい、今日は剣の稽古を1日するんじゃないんですか? それなのに、お祭りになんか来て……」
「レヴは、騒がしいのが嫌いかい?」
レヴの顔を覗き込み、オルムは微笑んでみせる。そんなオルムをレヴは恨めしそうに睨みつけてきた。
今朝早くから、オルムはレヴに請われて剣の稽古を彼につけていたのだ。レヴの打ち込みようは凄まじく、オルムが舌を巻くほどだった。
だからこそ、息抜きにフレイヤ祭に連れ出したのだが――
「可愛い息子がいて羨ましいなぁ、オルム」
そんなオルムに、声をかけてくるものがある。それと同時に広間の人々がざわめきはじめた。
「国王陛下っ!?」「ティーゲル様!」「王様!!」
オルムはざわめく人々へと体を向ける。驚く人々に爽やかな笑顔を振りまきながら、ティーゲルがこちらへとやってくるではないか。
白いブーナットに身を包んだ彼は、1人の少女を抱いていた。
「ヴィッツ様……」
腕の中のレヴは驚きに声をあげる。レヴと同様に、オルムもその少女を驚きのあまり凝視していた。
白地に鮮やかなローズマリングの施されたブーナットを少女は纏っていた。少女の体を白銀の長髪が覆っている。白銀の髪からは銀灰色の猫耳が跳びだしていた。飾り毛が愛らしい猫耳にはブルーベリーの花が飾られている。
アイスブルーの大きな眼を恥ずかしそうに伏せ、少女はティーゲルの体にしがみついていた。
少女の眼がオルムたちを捉える。途端、少女は怯えた様子で猫耳を逆立て、ティーゲルの肩に顔を埋めてしまった。
「異母兄さん、一体あなたは何を……?」
「何って、今日はフレイヤ前夜祭だから、私の小さな妃を国民たちに自慢したくてな。ヴィッツが生きていて頃は、こうやって夫婦そろって前夜祭に参加したものだ。今日は、ヴィッツの代わりにこの小さな妃が私の伴侶になってくれるというじゃないか。だから、喜んで前夜祭に参加したのだが、何か問題があるか?」
少女の髪をなでながら、ティーゲルはにこやかに答えてみせる。ティーゲルの言葉に、少女は顔をあげ彼を睨みつけていた。
「えっと、その女の子、陛下……ですよね?」
そんな少女を指さしながら、レヴが恐る恐る口を開く。レヴの言葉に、少女は眼を見開いていた。
「やっぱり、そうか……」
「どうだ。ヴィッツみたいで可愛いだろうっ!?」
満面の笑みを浮かべるティーゲルに、オルムは乾いた笑顔を送ることしかできない。
「屈辱だ……」
引き攣った笑みを浮かべるオルムを見つめながら、少女の姿をしたカットは小さく口を開く。彼の眼にはうっすらと涙がたまっていた。
ティーゲルの悪い癖だ。
彼はカットが愛妻にあまりにも似ているため、ときおり暴走することがある。ヴィッツが生きていたころ、彼は何度も愛息子に女装をさせその度に妻に殺されかけていた。
ティーゲル曰く、ときどきでいいからカットに娘になってもらいたいらしい。
「ドラーケ叔父様が、僕と父上を嫌らしい眼で見ている理由が分かった気がする……」
悲しげに猫耳をたらしながら、カットは涙を流し始める。
「あぁ、陛下が、陛下がっ! 放してください、義父さんっ!」
レヴが叫ぶ。腕の中で暴れる彼を、オルムは地面におろしていた。レヴはティーゲルのもとへと一直線に駆けていく。
「レヴ……」
そんなレヴに、カットは縋るような眼差しを送っていた。
「ティーゲル様、これはどういうことですかっ!? たしかに陛下は可愛いけれど、これは、その……」
ティーゲルに詰め寄ったレヴは、頬を赤らめ恥ずかしそうに顔を逸らしてしまう。
アイスブルーの眼を潤ませるカットが可憐な少女にしか見えないせいだろう。
「私の息子は可愛いだろう、レヴっ?」
「はい、凄く可愛いですっ!」
弾んだティーゲルの言葉に、レヴは力強く頷いていた。
「レヴのバカーー!!」
カットの悲鳴が広場に轟く。大粒の涙を流しながら、カットはティーゲルの腕の中で暴れ始めた。
「カット……」
「バカっ! 父上のバカっ! 僕は男です! 女の子なんかじゃない!! 女の子じゃないっ!!」
「カットっ!」
「嫌です! こんなの嫌です! おろしてください!!」
泣き顔を父に向けカットは叫ぶ。ティーゲルは狼狽した様子でカットを地面におろした。
「もう、こんな生活嫌だー!!」
「ちょ、カットっ!?」
ブーナットのスカートを翻しながら、カットは広間から駆け去っていく。とっさにティーゲルは、カットを追いかけようとした。
うぁぁあああぁあああああ!!
しゃぁああああああああ!!
だが、そんなティーゲルの前に、サーモンを貪っていた猫たちが立ち塞がる。猫たちは牙をむき出しにしながら、ティーゲルに唸り声をあげていた。
「これは……」
「陛下は、ティーゲル様に会いたくないそうです」
狼狽するティーゲルにレヴが声をかける。ティーゲルは弾かれたようにレヴへと顔を向けていた。
「だから、俺たち猫はティーゲル様に陛下を会わせたくありません……」
顔を俯かせ、レヴは力なくティーゲルに言葉をかける。ティーゲルは困った様子でレヴを見つめ、口を開いた。
「あの格好をしたいといったのは、カットなんだけどなぁ」
「陛下が?」
苦笑するティーゲルをレヴが驚いた様子で見つめる。ティーゲルは気まずそうにレヴを見つめながら、言葉を続けた。
「その……女の子の気持ちが知りたいというか……」
「陛下……」
じっとティーゲルを見つめたまま、レヴは黙る。彼は鋭く眼を細め、凛とした声をはっした。
「俺が陛下を連れ戻しますっ。だから、ここで待っていただけませんか?」
「レヴっ!」
オルムが声を荒げる。
昨夜の出来事が頭を過る。オルムは思わずレヴに駆け寄り、彼を抱きしめていた。
「1人じゃだめだ。私も行こう……」
「1人で、行かせてください」
凛としたレヴの声が、腕の中でする。オルムは思わずレヴを見つめていた。
「大丈夫です。陛下を迎えに行くだけですから。それに、俺はあなたの息子ですよ?」
翠色の眼を細め、レヴは笑ってみせる。
「だが、レヴ……」
「陛下は、俺がお守りします……」
真摯なレヴの言葉が時代に響き渡る。オルムは静かに彼を放していた。
「ありがとう。義父さん」
翠色の眼を細めレヴは笑う。
その微笑みに、出会ったときに垣間見た弱々しさはなかった。
レヴは成長しているのだ。
カットを守るために――
出会ったばかりのオルムですら驚くべき速さで――
義父になろうとしている自分すら、この子は驚かせてくれる。
そっとオルムは腰に差していたタガーを外す。彼はそれをレヴに差し出していた。
「何かあったときのお守りだ。もし危なくなったら――」
「大丈夫。みんなが俺たちを守ってくれるから」
笑みを深め、レヴは後方へと振り返る。サーモンを食べていたノルウェージャンフォレストキャットたちがじっとこちらを見つめている。
猫たちの優しい眼差しにオルムは軽く眼を見開いていた。
「にゃぁ」
その中でもひときわ目立つ赤毛の猫が、柔和な鳴き声をはっする。猫の持つ優しげな翠色の眼は、レヴのものとそっくりだ。
「行ってきます。お母さんっ!」
満面の笑みを浮かべ、レヴは猫に返事をする。レヴはオルムへと向き直り、差し出されたタガーを受け取った。
子供が持つには重いそれを、彼はしっかりと胸元に抱きしめる。真摯な眼をオルムに向け、レヴは言葉を続けた。
「何かあったら、ちゃんと助けを呼びます。だから――」
「行ってきなさい。レヴ……。やりたいことがあるんだろう?」
レヴの言葉をオルムはやんわりと遮る。そっとレヴを抱き寄せ、オルムは耳元で囁いた。
「ちゃんと戻ってきなさい。まだ、剣の稽古が終わっていないからね……」
「はい」
オルムの言葉にレヴは力強く頷く。
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