王様と猫橇

 猫橇レースがついに始まろうとしている。

 会場を自由に跳びまわっていた猫たちは橇に繋がれ、スタートラインの前で行儀よくレースが始まるのを待っている。

 そんな猫たちを、カットはじっと見つめていた。

 自分たちの橇の先頭にはリーダー猫としてアップルが繋がれている。レースに負ければアップルをティーゲルに取り上げられてしまうとフィナは訴えていた。

 そして、カットに言ったのだ。

 ティーゲルに確実に勝てる秘策がある。だから、一緒にレースに臨んで欲しいと。

 真摯な光を宿すフィナの眼を見て、カットは申し出を断ることができなかった。

 それだけではない。ティーゲルは、カットにもレースの出場を強制してきたのだ。

 もし出ない場合には、レヴを自分の護衛にすると父は脅してきた。

 レヴを手放すなんて想像すらできない苦痛だ。そんな苦痛をティーゲルはカットに与えようとしている。

「すみません……陛下……」

 レヴの声が聞こえて、カットは自分の脇へと顔を向ける。隣にはティーゲルとレヴの乗る橇が止まっていた。その橇の上で、レヴが悲しげにこちらを見つめている。

「大丈夫、絶対に助けてやるからなっ!」

「陛下……」 

 励ましの言葉を送っても、レヴは泣きそうな声を返すばかりだ。

 彼は今、ティーゲルに捕らわれている。

 フレイヤ祭が始まる前日にレヴが忽然と姿を消した。彼はティーゲルが城に設置していた猫用の罠に、間抜けにもかかってしまったのだ。

 レース会場にやって来たカットが見たものはおぞましい女装姿の父と、なぜかその父の橇に乗っているレヴの姿だった。

 フレイヤ祭の猫橇レースは愛を司るフレイヤに因み、男女ペアでの出場が義務づけられている。優勝したカップルは女神フレイヤによって祝福され、生涯を幸せに過ごすことができると伝えられているのだ。だからティーゲルは醜悪な女装姿に身をやつしているのだろう。そして女装ティーゲルの伴侶がレヴという最悪なカップリングだ。

「レヴ殿、絶対に救ってみせますっ!」

「にゃう!」

「くくくっ、それはどうかのぉ」

 フィナとアップルがレヴに励ましの言葉を送る。その声を、ティーゲルが無残にも嘲笑う。

「父上っ」

 そんなティーゲルの声に苛立ちを感じ、カットは彼を睨みつけていた。ティーゲルの表情が固まる。怯えた様子でこちらを見つめる父に、カットは言い放っていた。

「このレースが終わったら、分かっていますよね……?」

 怒っていることを分からせるために、わざと重い声をだしてみせる。ティーゲルは冷汗をかきながら、カットに言葉を返していた。

「た、ただの冗談に何を怒っているのだ……カット?」

「これが、冗談……」

 ティーゲルの橇に乗ったレヴを一瞥し、カットは父を睨み続ける。

 ティーゲルはカットに怒られることが大の苦手なのだ。理由は、自分の顔がヴィッツに似ているせいだという。

 温和だった母は、怒らせると笑顔で攻撃魔法を連発するほど恐ろしい女性だった。そんな父のトラウマを、カットは呼び起こすことがるのできるらしい。

「ティーゲル様……」

 そんなティーゲルにフィナが冷たい声をかける。ティーゲルはびくりと肩を震わせ、彼女へと視線をやった。

「覚悟してくださいね……」

 フィナの声はどこまでも冷徹だった。その声音に、カットも帽子の中の猫耳を震わせる。

「シャアアアアァっ!」

 フィナの声に呼応するように、アップルが毛を逆立てティーゲルを威嚇した。

「そこまで、嫌わんでも……」

 うっすらとティーゲルの眼が潤む。

 そのときだ。爆音があたりに轟いた。レースのスタートを知らせる合図だ。

「カットっ!」 

「分かってる、フィナっ」

 フィナに声をかけられ、カットは橇の後方へと下がる。橇に置かれている袋からサーモンの切れ端を取り出し、カットは橇の前方へと勢いよくそれを投げた。

「にゃー!!」

 興奮したアップルが声をあげ、駆けだす。アップルの後方にいる猫たちも、我先にと駆けだした。

 





 いっせいに走り出した猫橇の群れは、雪に覆われた急斜面を駆けていく。その中でも群を抜いて速いのは、女装ティーゲルが操る黄色の橇だ。

 その様子を上空から見れば、凍りついたフィヨルドの谷を色とりどりの猫橇が走る勇壮な光景が見られるだろう。

 細く複雑に入り組んだ谷を、何十匹という猫が引いた橇を操り駆け抜けるのは至難の業だ。突如として現れる突き出た岩壁に行く手を阻まれ、転倒する橇が続発する。

 そんな難所を、ティーゲルの操る橇は難なく通り過ぎていくのだ。その少し後を、フィナの操る青い橇が追いかける。

 だが、ティーゲルの橇に追いつくことはできない。

 ゴールはフィヨルドの谷を抜けた先にある。ティーゲルの橇を追い越さなくては、カットたちに勝ち目はないのだ。

「フィナ、このままじゃっ!」

 前方を走るティーゲルの橇を見つめながら、カットは厳しい表情を浮かべていた。ティーゲルの橇は氷上の粉雪を舞わせながら、カットたちの橇から離れていく。

「分かってますっ! アップルさんっ!」

「にゃう!!」

 フィナがアップルに声をかける。アップルは勢いよく返事をし、後方を走る猫たちを振り返った。

「にゃー!」

「にゃーーーー!!」「にゃう!」「なうなぁ!!」

 アップルの鳴き声に、猫たちがいっせいに返事をする。瞬間、アップルは進路を大きく右にとった。

「なっ!」

 カットが驚きの声をあげる。

 アップルはコースである谷から外れ、比較的穏やかな谷の斜面を昇っていく。それでも、猫たちが登るのには急な斜面だ。

 転がり落ちそうになりながらも、固い岩の突き出した斜面にかぎ爪を立て、アップルたちは前方へと進んでいく。

 そんな猫たちの前足が血で汚れていることに気がつき、カットは叫んでいた。

「フィナ、無茶だっ! 猫たちがっ!!」

「私を信じて、カットっ!!」

 フィナが叫ぶ。彼女は橇を懸命に引くアップルたちを見すえ、言い放った。

「アップルさんっ! 進んでくださいっ!!」

「にゃああぁあああああ!!!」

 アップルが叫ぶ。

 橇はみるみるうちに斜面を登っていき、針葉樹林が生い茂る森へと辿り着いた。巨木に囲まれた森の中を猫たちは巧みに動き、橇を前進させていく。

 橇が進むたびに低木の枝が絶えず体を襲う。カットは顔の正面で腕を交差させ、迫りくる枝から身を守る。

 やがて木々が疎らになり、フィヨルドの谷に続く崖が姿を現した。このまま進めば、橇は深い谷に落ちてしまう。

「フィナっ! ちょっと待ってっ!? まさか――」

「飛びますっ!」

「嘘だろっ!?」

 フィナは叫んでみせる。カットが悲鳴をあげるその瞬間、橇は崖から大きく跳び立ち、宙に浮いていた。

「アップルさんっ!!」

「にゃああああああああ!!」

 アップルの力強い鳴き声が、谷に響き渡る。

 直後、フィナの体が眩い光に包まれた。

 フィナから放たれた光は、橇を包みこみ猫たちの体を輝かせる。やがてその輝きは形を成し、猫たちの背には愛らしい翼が生じていた。

 青い橇にも、木製の美しい羽根が生えているではないか。

 橇に生えた羽は大きくはばたきを繰り返し、猫たちに引かれながらフィヨルドの上を旋回する。

「これは……」

 帽子を片手で押さえながら、カットは橇からフィヨルドの谷を見下ろしてみた。 細長い谷をアイスブルーの美しい影が彩っている。その影の中で、色とりどりの橇が止まっていた。橇に乗る人々は、あんぐりと口を開けてカットたちを見あげている。

「魔法……少しだけ使えるようになったんです……」

 小さなフィナの声が猫耳に響く。カットは前方にいるフィナへと顔を向けていた。

「父に昔、教わりました。魔女は自分ために魔法を使うことができない。使ったとしても、それは不完全な魔法になると。愛する人のためにしか、魔法は使えないそうです……。だからカットは耳だけ猫になった……」

「フィナ……」

「多くの場合、魔女は恋をして初めて魔法を使えるようになるんだそうです。だから――」

 フィナがゆっくりと立ちあがる。彼女はカットに振り向き、言葉を続けた。

「きっとこれが、私があなたに抱いている本当の気持ちなんだと思います」

 赤い眼を細め、フィナが笑ってみせる。その美しい笑みをカットは見つめることしかできない。

「私は、きっとあなたに恋をしています。まだ実感が持てないけれど、あなたといると凄く胸がドキドキする。あなたといると、私は――」

「フィナっ!」

 カットは、フィナを抱きしめていた。

 ただ、目の前にいる彼女をこの手に抱きたかったのだ。この世で1番愛する女性の存在を、カットは全身で感じたいと思った。

「カット……」

 フィナの声が耳元でする。そっと彼女を抱き寄せると、フィナの鼓動がよく聞こえた。

 動揺する彼女の心音は、心地よくカットの猫耳に響き渡る。

「フィナの心臓、俺と一緒だ……。凄い、ドキドキしてる」

 フィナの顔を覗き込み、カットは笑みを浮かべてみせる。

「カットの心臓も、私と一緒……」

 フィナも赤い眼を煌めかせ、カットに微笑みを送っていた。

 2人を乗せた橇は雄大に空を飛び、ゴールを目指す。その様子を、谷にいる人々は静かに見守っていた。




「あーあ、見せつけてくれちゃって……」

 空を仰ぎながら、レヴは苦笑を顔に滲ませていた。彼の乗る橇の前方には、ティーゲルがいる。女装をいつの間にか解いたティーゲルは、眩しそうな眼差しで空を飛ぶ橇を見つめていた。

「若い頃を思い出すのぉ。儂もヴィッツに空飛ぶ橇に乗せられ、告白されたもんじゃ。あなたを愛していますとな……」

「王妃様とは、政略結婚じゃないんですか?」

 ティーゲルの言葉に引っかかるものを感じ、レヴは言葉をかける。ティーゲルは後方のレヴへと顔を向け、得意げに笑ってみせた。

「公式にはそうなっておるが、バリバリの恋愛結婚じゃっ! 迷い猫を保護するために森に入って遭難したとき、救ってもらったことがあっての。こっそり付き合うようになった……。じゃが、彼女が魔女だとは気がつかなかった……」

 そっとティーゲルは空へと顔を向けた。

「今の陛下とフィナちゃんみたいな感じだったんですね……」

「あぁ、儂の親父は利益になるものは何でも利用したからのぉ。ヴィッツが結婚相手の1人として連れてこられたときには、本当に肝を冷やしたわい……。そして、そのせいでフィナの母親には、辛い思いをさせてしまった……」

 彼は空を舞う橇を見つめながら黙ってしまう。

 レヴは伝え聞いているだけだが、フィナの母親は周辺諸国の王位継承者を根こそぎ呪い殺した魔女だという。

 それを命がけでヴィッツが封印した。母親が犯した罪から身を守るために、フィナは最近になるまで身分を伏せられて育てられてきた。

「今思うと、父の判断は正しかったのかもしれない。あの人は、フィナの母親であるムルケが何をするのか、儂がそれにどう対処するのかお見通しだったのかもしれないな……。そのお陰で儂の兄弟たちは周辺諸国の王位を継承し、ハールファグルはこの上ない安定を手に入れた……。本当に政治とは恐ろしいものだ……」

「ティーゲル様……」

「ただ、こうも思ってしまうのじゃよ、レヴ。息子には、カットだけには儂と同じ思いはさせたくないと……。それは、儂のわがままかのぉ」

 ティーゲルがレヴへと顔を向けてくる。笑みを浮かべる彼の眼は今にも泣きそうだった。

「失礼ですがティーゲル様、俺の陛下は人を不幸にする王ではありません。あなたと違ってね」

 すっと眼を細め、レヴは微笑んでみせた。ティーゲルは唖然とレヴを見つめてくる。

「だって、辛い思いをしたあなたが大切に育てた人ですよ。あなたと同じ過ちを繰り返すはずがない。だから、大丈夫です。陛下はあなたのように人を傷つけるような王にはなれない。俺の存在が、それを証明しています」

 そっと胸に手を当て、レヴは笑みを深めてみせる。胸に当てた手をみて、レヴは過去に想いを馳せていた。

 雪に埋まっていた自分をカットが掘り起こし、抱きしめてくれたあの瞬間を。

 そのときの彼のぬくもりを、レヴは生涯忘れることはないだろう。

「あぁ、そうでなったな……」

 微笑むレヴを見て、ティーゲルは笑みを浮かべていた。

「それにしても、大切な息子をお嫁さんに盗られちゃいましたねぇ、お父さん。道化を演じるものいいけれど、寂しいんじゃないですか?」

「はて、なんのことじゃ?」

 レヴは眼を歪めて意地の悪い笑みを浮かべてみせる。そんなレヴにティーゲルは弾んだ声を返していた。

 ティーゲルは空を仰ぐ。空飛ぶ橇を映す彼の眼は笑みの形をしているのに、どこか寂しげだ。

「俺も……義父さんに手紙書こうかな……」

 そんなティーゲルを見つめながら、レヴは呟いていた。

 実家に帰ってきたとき、自分を温かく迎えてくれた義父のことをレヴは思い出していた。眼の前にいるティーゲルが優しかった義父と重なってしまう。

「ヤバい。俺も寂しいかも……」

 空を仰ぐティーゲルを見つめたまま、レヴは苦笑を顔に滲ませていた。





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