とある猫の回想録9

 ふわりと、雪が空を舞っていた。

 黄昏色に染まった空を仰ぎながら、カットは立ちどまる。カットの周囲には巨大な針葉樹が立ち並び、ここが森の奥だということを教えてくれる。

 纏っているスカートの裾を翻し、カットは後方へと振り返る。

 カットの前には、大きな黒狼が立っていた。牙を剝き出しにして唸る狼の後方には、漆黒の衣服をまとったドラーケがいる。

 彼は竜胆色の眼を歪め、嗤っていた。

「こんにちわ、ドラーケ叔父様」

 カットもまたアイスブルーの眼を細めて笑ってみせる。体の震えを感じながらも、カットはそれを気取られることがないよう笑みを深めてみせた。

 そっとスカートの裾を持ち上げ、カットは頭をさげる。顔をあげると、満足げに微笑むドラーケの姿が視界に入ってきた。

 ドラーケはマントをゆらしながらゆったりとカットに近づいてくる。カットは、そんな彼に笑みを浮かべ続けていた。

 自分が怯えていることを気取られてはいけない。それは、ドラーケに隙をつくることになってしまうから。

そんなカットの前に、酷薄な笑みを浮かべたドラーケは立ちはだかる。

 手袋に包まれたドラーケの手が、カットの柔らかな頬をなでていく。カットは思わず肩を震わせていた。

「震えているぞ? 独りがそんなに恐いか?」

「独りじゃないですよ」

 嘲笑うドラーケの言葉を、カットは一蹴する。その言葉を受けて、低い唸り声が森の中に響き渡った。

 薄暗い木々の合間を、不気味に動き回る存在たちがいた。それらは爛々と眼を光らせ、ドラーケを睥睨している。

 猫たちだ。

木の上から、木のあいだから、猫たちが顔を覗かせカットたちを凝視していた。

「僕に何かあったら、猫たちがあなたを許さない……。それは、レヴでも変わりません……」

 鋭くアイスブルーの眼を細め、カットはドラーケに告げる。

「ほう……。お前は私に、何を求めている? カット……」

 楽しげに唇を歪め、ドラーケが問う。すっとカットは眼を鋭く細め、答えを返した。

「あなたは、レヴを自由にしたいの? それとも――」

 言葉を切り、カットは俯く。

 レヴを押し倒していたドラーケの姿を思い出し、カットは唇を嚙みしめていた。

 彼はレヴに何かを囁いていた。

 とても優しく、愛しむように――

「両方だと言ったら、お前はどうする?」

 厳かなドラーケの声が猫耳に突き刺さる。カットは思わず顔をあげていた。

 じっとヒトではないはずの叔父を見つめる。

 冷たい竜胆色の眼を彼はカットに向けるばかりだ。

 何度もこの人に殺されそうになった。だが、それがレヴのためだったとしたら。

 契約獣として生み出されたレヴを、猫の王である自分から解放しようとした行為であるとしたら。

 ためらいながらも、カットは口を開く。

「僕はレヴを誰にも渡したくない。でも、レヴが望むのなら、僕はあなたに――」

「私は、最愛の人をお前の父に殺された」

 厳かなドラーケの言葉が、震えるカットの声を遮る。

「女の成りをしたのは、私を油断させるためか? それとも、レヴの思いに気がついたからなのか? お前は何を望んでいる? 猫の王よ」

「わからない……」

 真摯なオルムの言葉に、カットは俯く。顔を白銀の髪で覆いながら、カットは言葉を続けていた。

「僕はレヴの気持ちが知りたい……」

 顔をあげ、カットはドラーケを見つめる。ドラーケを映すアイスブルーの眼に曇りはなかった。

 少なくともドラーケは、レヴに危害を加えようとしている者ではない。彼が執拗にレヴに執着するのには、意味があるはずだ。

 そしてレヴは、そんなドラーケの気持ちに気がついている。

「レヴは、私が生まれて初めて出会った同族だ。私たち契約獣に自由はない。生まれたときから王に仕えることを定められ、死ぬことすら許されない」

「死ぬことすら、許されない? どういうことですか?」

「お前は、気がついているのだろう?」

 ドラーケの言葉に、カットは大きく眼を見開いていた。

「お前は、レヴを一生飼い殺すつもりなのだろう? 猫の王よ……。お前が死んでもレヴは生き続け、新たな王を見つけることになる。私たち契約獣に死という概念はない。未来永劫、私たちは主を探し求め、生き続ける定めにあるのだ……」

 ドラーケの言葉が猫耳に響き渡る。

 ――お側にいます、ずっと……。

 そう悲しげに告げたレヴの姿を思い出す。その言葉を思い出し、カットは思わず声をあげていた。

「僕が、レヴを苦しめているとでも……?」

「だが、レヴはお前を求める。我らの血がそうさせるのだ――」

 ドラーケが鋭く眼を細める。鋭い燐光を宿した眼をカットに向け、ドラーケはカットの細い首に手を這わせていた。

「レヴは私が初めて出会った同胞だ。だがお前はレヴを――」

 ドラーケの手がカットの首を締めあげる。ドラーケを睨みつけながらも、カットは苦痛に呻き声をあげていた。

 森から猫たちの呻き声が聞こえる。

「陛下を放せっ!」

 その呻き声を制するように、凛とした少年の声が響き渡った。ドラーケの口元に笑みが滲む。彼はカットの首から手を放し、上空を仰いで見せた。

 せき込みながら、カットは地面に座り込む。そんなカットの肩に誰かの両手が添えられた。その手は力強くカットを抱き寄せる。

「もう大丈夫ですよ、陛下……」

 心地の良い声が猫耳に響く。カットは後方へと顔を向けていた。

「レヴ……」

 翠色の眼が優しげに自分に向けられている。思わずカットは笑みを浮かべ、彼の体に身を預けていた。

「もう大丈夫ですよ、陛下……」

 そっとカットに言葉を送り、レヴは彼を庇うように後方へと匿う。

「やっと会えたね、レヴ……」

 そんなレヴに嬉々としたドラーケの声がかけられた。カットはドラーケを見つめる。

 竜胆の眼を細め、彼は何ともいえない笑みを浮かべていた。

 

 

 

 その笑みを見て、体中に怖気が走る。それでもレヴは、眼の前にいるドラーケを睨みつけていた。

「会いたかったよ。私のレヴ……。あぁ、昨日のことが夢のようだ……」

 恍惚と眼を光らせ、ドラーケはなめまわすようにレヴを見つめる。昨夜のことを思い出し、レヴの体は疼いていた。

 服の下で、蠢くものがある。自身の体に刻まれた契約印が体中を這いずり回る感覚だ。この感覚をレヴはどうしても好きになれない。

「レヴ……」

 首筋から洩れる赤い光に気がついたのか、後方にいるカットが心配そうに声をかけてきた。後方を見つめると、カットが不安げな表情を浮かべている。

 少女の姿をしている彼は普段よりも頼りなさげに見えた。

「大丈夫、あの人は俺を傷つけない。あなたも傷つけさせない……」

「レヴ……」

 レヴはカットに微笑んでみせる。白い頬を赤く染め、カットはレヴに後方から抱きついていた。

「陛下っ」

「俺も、お前を守るよ……レヴ」

 嬉しそうに眼を煌めかせ、カットはレヴに微笑みかけてみせる。顔が熱くなるのを感じながらも、レヴはドラーケへと向き直っていた。

「すみません。あなたと一緒には行けない……」

 息を吸い込みレヴはドラーケに告げる。満足げに笑っていたドラーケの眼が驚愕に見開かれる。

 恐い。

 それでもレヴは彼に眼を向け言葉を続けていた。

「俺はたしかに囚われた存在かもしれない。でも、俺はそれを望みます。この人の側にいることが、俺が俺でいる証だから……」

「レヴ……」

 カットの声が聞こえる。後方へと顔を向けると、嬉しそうに笑みを深めるカットの顔があった。レヴはカットに笑みを返してみせる。

「お側にいます。ずっと、それが俺の幸せです。陛下……」

「それが、お前たちの答えか……」

 ドラーケの声が、レヴたちの会話を遮る。ドラーケへと顔を向けると、彼は竜胆色の眼をおかしそうに歪めていた。

「ドラーケ様……」

「やはり、お前も私と同じ道を歩むのだな、レヴ……」

 白銀の髪をかきあげ、ドラーケは笑い声をあげる。その声は、どこか寂しげだった。

 そんなドラーケを見つめながら、レヴは腰に吊るしたタガーに手をかける。鞘からタガーを抜き、レヴは静かにタガーの刃をドラーケに向けていた。

「これが、俺の答えです……」

 剣吞と光るタガーをしっかりと握りしめる。それでも、声は震えてしまう。そんなレヴに苦笑を送りながら、ドラーケは口を開いていた。

「ずいぶんと嫌われたものだな」

「あなたは、陛下を殺そうとした……。そんな人を、許せますか?」

 レヴの眼が金の燐光を放つ。ドラーケを睨みつけながら、レヴは低い声を放つ。瞬間、彼が驚いた様子で眼を見開いた。ドラーケの顔に微笑が滲む。

「自由になりたかったら、いつでも私のもとにきなさい……。ただ、私はお前を諦めるつもりはないぞ、レヴ……」

 ドラーケはマントを翻し背中を向ける。彼の後を、静かに狼たちがついていく。

「待ってっ!」

 去ろうとする彼に、レヴは思わず声をかけていた。ドラーケは立ちどまり、レヴに向き直る。

 向けられた彼の眼を見て、レヴは戦慄を覚えた。

 冷え切った彼の眼がカットに向けられていたからだ。彼の眼に映るカットは、眼を鋭く細めドラーケを睨みつけている。

「レヴはお前のモノではない。それを、よく覚えておくんだな……」

 厳かなドラーケの声に、体が震える。そんなレヴをカットが後方から強く抱きしめてきた。

「レヴは僕のモノです。今までも、これからも……」

 カットの言葉を受け、ドラーケは嗤う。瞬間、彼の周囲に旋風が巻き起こり、周囲の雪を舞い上げた。

 視界が白く霞む。

 駆け去っていく獣たちの足音が耳に響き、レヴは眼を見開いていた。

 白く霞む雪の向こう側へと、狼たちの影が去っていく。その狼の一頭が悲しげな鳴き声をあげていた。

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