とある猫の回想録1

 王都の冬は、本当に冷える。

 そう思いながら、オルム・クラスティ・オーブシャッティンサンは顔をあげる。先ほどま淡い青色をしていた空は曇り、粉雪が舞っていた。

 顔を正面に向けると、活気に沸く王都が一望できる。港の倉庫街には赤い木製倉庫が並び、灰色めいた景色の中で存在感を放っていた。

 ここは王城の片隅にある小さな庭だ。王都の外れにあり、高台に建つこの王城からは周囲の景色をよく眺めることができる。

 微風が吹いて、梢のゆれる音が聞こえる。横へと振り返ると、冬枯れた老木が庭の中央に植えられていた。

 よく兄のティーゲルとこの木に登ったことを思いだし、顔が綻ぶ。今はこのハールファグルを治める王であるティーゲルだが、幼い頃は本当にやんちゃな人だった。

 それに比べ、自分は――

「あの、取ってくれますか?」

 突然声をかけられオルムは我に返る。老木に1人の少年が登っている。オルムは軽く眼を瞠っていた。

 さきほどまで、木の上には誰もいなかったはずだ。

 いつの間に登ったのだろうか。

 赤い長髪が印象的な少年だった。彼は大きな翠色の眼をじっとこちらに向けてくる。

 角度によってときおり金の光を放つその眼から、オルムは視線を離すことができなかった。

 まるで、猫の眼のようだ。

 それも、妻が飼っていた猫の眼によく似ている。

「あの、帽子……」

 少年が困ったように眉根を寄せ、オルムに声をかけてくる。

「あぁ、すまないっ! 帽子って、何のことかな」

「おじさんの足元……」

 少年の視線がオルムの足元へと向けられる。そこに真っ白な帽子が落ちていることに気がつき、オルムは屈んでいた。

 帽子を手に取る。帽子を覆う柔らかな白毛の感触に、オルムは覚えがあった。柔らかな白い毛はノルウェージャンフォレストキャットのものだ。

 この帽子は、ティーゲルの息子でカットがよく被っているものだ。亡くなったティーゲルの妻ヴィッツが、飼っている猫の毛から作ったものだと聞いている。

「この帽子かいっ?」

「それそれ、ありがとうっ! もう、大切な物なのに風に飛ばされるとか、陛下ってば本当に間抜けなんだから、たっくっ!」

 立ちあがり、帽子を片手に持って振ってみせる。少年は眼を輝かせ、弾んだ声を返してくれた。

 どうもこの少年は、カットの新しい小姓らしい。

 カットは人をまったく寄せつけなくなったと聞いている。

 だがその心配は杞憂に終わったらしい。新しい小姓を側に置いているということは、カットの心の傷も少しずつだが癒えているのかもしれない。

「君はカットに仕えているのかい!?」

 オルムは少年に話しかけていた。びくりと、少年は肩を震わせる。

「あの、すみません。王族の方でしたか……」

 怯えたように少年は自分を見おろしてくる。そんな少年を見て、オルムは苦笑していた。

 腹違いとはいえ自分は王であるティーゲルの末弟だ。だが、その身分は辺境の田舎貴族に過ぎない。王族などという立派なものではないのだ。

 それに質素な身なりをした自分を、貴族だと見抜くことは至難の業だろう。オルムの今の格好は庶民のそれと見分けがつかない。

「大丈夫だよ。私は王族ではない。こちらこそ未来の国王陛下を呼び捨てにしてしまって申し訳なかったね。君はカット王子に仕える者かい?」

 優しく声をかけてやる。少年は軽く眼を見開いて、口を開いた。

「レヴと申します。その、あなたは……」

「私は――」

「レヴっ!!」 

 オルムの言葉を甲高い少年の声が遮る。とっさにオルムは、声のした方向へと顔を向けていた。

 王城へと続く石造り回廊に、カットが立っていた。

 白銀の髪を後方で纏めあげた彼は、鋭いアイスブルーの眼でオルムを見すえている。顔の両脇に生える猫耳が逆立っていることに気がつき、オルムは胸を痛めていた。

「カット……」

「あなたも、レヴを奪いに来たのですか?」

 彼はオルムを睨みつけてくる。オルムはそんなカットから視線を逸らすことができなかった。

 ヴィッツが亡くなる少し前のことだ。

 カットが高熱を出し何日間も寝込んだことがあった。幸い熱は引いて命に別状はなかったが、カットの耳は普通の耳ではなくなってしまったのだ。

 ヴィッツすらも凌ぐ、強力な魔女の呪いを受けたとしかオルムは聞いていない。 自分の耳が人のそれでなくなってからというもの、カットは変わってしまった。 以前は明るく人懐っこい少年だったのに、1番懐いていたオルムにすら近づかなくなってしまったのだ。

 その原因をつくったのは、他ならぬ自分たち自身なのだが。

「陛下、違いますっ!」

 そのときだ。木の上から声がした。木を仰ぐと、レヴが真摯な眼差しをカットに送っている。

「その方は陛下の帽子を拾ってくれたのです。俺を奪いに来た方ではありません。だから――」

「来いっ! レヴ!!」

 レヴの言葉を、カットの怒声が遮る。怒鳴りつけられたレヴは、怯えた様子で体を震わせた。

「早くっ! 来いっ!」

「すみませんっ!」

 カットの怒声に我に返り、レヴは慌てて木から降りようとする。そのときだ。彼は足を滑らせ、オルムめがけて落ちてきた。

「レヴっ!」

 カットの悲鳴が庭に轟く。オルムは素早く落ちてくるレヴに向き直り、彼を両手で抱きとめた。

「軽いな……」

 抱きしめたレヴの体は驚くほどに軽い。そんなオルムの視界のすみを、柔らかな雪が通り過ぎていく。

「あの……」

 掠れた声が耳元で聞こえる。オルムはレヴを横抱きにし、顔を覗き込んでみせた。そんなオルムからレヴは顔を背けてしまう。

「レヴ……」

「申し訳ございません。その……」

「綿雪のように君は軽いね。男の子だろ? ちゃんと食べてるのか?」

 優しく声をかけてやる。レヴは驚いた様子でオルムを見つめてきた。煌めく翠色の眼が、嬉しげに見えるのは気のせいだろうか。

「無事でよかった」

「あ……」

 微笑んでみせると、レヴは嬉しそうに眼を細めてくる。

「あの……ありがとう……」

「レヴっ!!」

 たどたどしいレヴの言葉は、カットの悲鳴によって遮られる。彼は体を起こし、オルムに告げていた。

「あの……すみません。おろしてください!」

「あぁ、すまない……」

 慌てた様子のレヴに驚きながらも、オルムは彼を地面におろしていた。

「その、ありがとうございました。それと……」

 レヴが頭をさげてくる。顔をあげた彼は、オルムが片手に持っている帽子へと視線を向けていた。

「あぁ、渡すのを忘れていたな」

 オルムは苦笑しながら、レヴに帽子を差し出す。レヴはその帽子を受け取り、深々と頭をさげた。

「助けていただいて、ありがとうございます。そのお名前は――」

「レヴっ!」

 レヴの言葉を駆けつけて来たカットが遮る。彼は後方からレヴに抱きつき、レヴの肩に顔を埋めた。

「よかった……レヴ。よかった……」

「陛下……」

 震える声を発するカットを、レヴは困った様子で見つめる。それでも彼はオルムに向き直り、言葉を継いだ。

「陛下、こちらの方が俺を――」

「行くぞ、レヴっ」

 笑顔を浮かべオルムを見あげるレヴに、非常な言葉がかけられる。

 レヴは唖然と主を見つめた。カットは顔をあげ、アイスブルーの眼でオルムを睨みつけてくる。

「この方はオルム・クラスティ・オーブシャッティンサン。父上の異母兄弟で、俺の叔父の1人……。僕とお前の敵だ。だから、礼なんて言う必要はないっ」

「陛下っ」

 レヴが叫ぶ。

「行くぞっ! お前をまた盗られたたまるかっ!!」

 そんなレヴに怒声を浴びせ、カットはレヴの手を掴んで踵を返す。

「陛下っ!」

「いいから来いっ!」

「待ちなさい、カットっ!」

 嫌がるレヴを、カットは無理やり連れて行こうとする。そんなカットにオルムは大声を発していた。

 カットが立ちどまる。彼はレヴの手を離し、ゆっくりとこちらに体を向けてきた。

「カット、話を――」

「俺を殺そうとしたくせに……」

 オルムの言葉は、カットの小さな声によって遮られる。冷たいアイスブルーの眼でオルムを捉え、カットは言葉を続けた。

「でも、俺はあなたたちに殺されない。レヴだって絶対に渡さないっ」

 幼い少年の言葉がオルムの胸に突き刺さる。唖然と立ちつくすオルムを残し、カットはレヴの手を引いて再び歩き出した。

「ごめんなさい……」

 かぼそい声が聞こえる。

 カットに手を引かれて回廊へと去っていくレヴが、こちらに顔を向けていた。寂しげな彼の眼差しがオルムに向けられている。その眼差しから、オルムは眼を離すことができなかった。


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