懺悔:何故私は表現活動を続けてしまうのか~巻ノ8~

 10万字を書き上げ、インターネット上にアップすることで私は「小説を書く人」として周りに認知されてきた。今まで私に言及をしなかった人も多くの言葉を掛けてくれた。

 P社で人気のある作品は女性向けの二次創作だった。その中でもデイリーランキングで上位に入ることができた。書き上がったことに満足はしていたが、これでは賞なんぞ取れないと感じていたし、事実、賞は逃した。


 結果としてはただの失敗でしかないが、書く楽しみを見出すことができた私はひたすらに書き続けた。声優をしていた時には感じられなかった承認欲求が満たされていく。書けば喜んでもらえる。書けば見てもらえる。手を変え品を変え、毎日毎日noteに書き続けた。小説で食っていくことができればどれだけ良いだろうか?書き続けられたらどれだけ楽しいだろうか?まだ私のぶんしょうは表現には到達していない。本能だけで書き続ける。書き続けている内に夏が過ぎ秋がやってきた。多くを書いていくと自然とネタが尽きてくる。まだ尽きてはいない。いずれやってくる枯渇に怯えていた。もうしばらくは声優専門学校ネタは使えないのはわかっている。

 出し切ってしまった。稚拙な文章ではあるが意志と熱意だけをあるだけ叩き込んだ。書いている時は何も考えることができなかった。ネタの枯渇を防ぐためにもインプットをはじめる。とりあえず好きな作家の本を目についただけ購入する。書き方を盗むとかは考えなかった。ただ思い切り読んで頭の中でアナザーストーリーを作り続ける。

 考えてみると表現は『なぜ?』『だから』『こうなった』の連続だ。ジャンルは雑多だった。ただ読んで頭の中で違う話しを回してまた書く。まずは書くしかない。新しい場所で新しいことをはじめるなら最初の一年はボーナスステージだ。しくじろうが駄作を作ろうが人は見てくれる。そして書く事を続けるなら書くという行為を体に染み付かせる時間だ。ただ書く。書き方やどう見られているかは一切考えない。

 半年以上文章を書き続けていると自信も湧いてくる。何かがあったとしても2週間あれば長編を一本書ける。長編は疲れる。それに比べたら毎日書き続ける事はまったく苦にならなかった。毎日書き続ける。書けなくなるなら書けなくなれば良い。30年以上生きてきた人間が半年そこいらで書けなくなるはずがない。書けなくなるのは書かない意志が書く意志を上回るからだ。書こうと思っているうちは面白い面白くないは別にして書き続ける事ができる。


 表現をしてしまっている。最初はなんでも良いから書きたかった。書くことが面白かった。次は書きたいことが生まれた、だから長編を書いた。今は書いた物を誰かに読んで欲しがっている。

 この思いにつながってしまったら全ては表現につながってしまう。あれだけ、あれだけ自分を追い詰めていた表現の世界に帰ってきたことを遅まきながら認識した。私の中にいた『表現』は美しい女から赤子に変わり、私の中でよちよち歩きをしている。声優として行っていた表現がまた違う形に転生したのだ。通りで声が聞こえないと思った。影が見えないと思った。転生した表現は1人では生きられない。放っておくと死んでしまう。次から次に新しい作品を作り、あやして世話をしなければ消えてしまう。乳飲み子の世話をするように小さく弱い表現を育てる。最初は見るのも嫌だったが、共にいる期間が長くなるほど表現への愛着も持ってしまう。「次はどんな服を買ってあげよう」と「次はどんな話を書こうか」は同意語だ。一度世話をしてしまったら死ぬまで世話をしないと罪悪感に飲み込まれてしまう。人も、猫も、表現も、小さい時は可愛らしい。大きくなると裏切り牙を剥き最終的には殺しにくる場合もある。

 どんな風に育つのかはわからない。正しいことを続けているから正しく育つ訳ではない。神の領域、平たく言えば運だ。しかしそれだけではない。どこをどう進めてどう育ててきたのか?それがある種の指針となり育て方が決定する。コストを掛けて育てれば答えてくれる表現もある。戦場で泥水を飲み銃弾を避けながら生きることで育つ表現もある。のんべんだらりと日々を過ごすことで育つ表現もある。成長した結果は今見ることはできない。どこまでも手が掛かり、どこまでも自由気ままに伸びていく。

 恐る恐る手を重ね合わせると表現が小さく胎動し生きているのを感じられる。この温もりを拒絶できる人間はいるのだろうか。この温もりを疑える人間はいるのだろうか。一度、首を締めようと考えたことがある。私に表現を育てられる訳がないと感じたからだ。ゆっくり手をかけて力を入れる。さっきまですやすやと眠っていた表現はゆっくりと目を開き、言葉ならない音を発する。その音は何を言おうとしているのか?何を伝えようとしているのか?何も考えずに脆い首を優しく包み込めば終わっていた。私には無理だった。その音に『なに?』を感じてしまった。

 結局は弱さだ。弱いから自分でトドメをさすことできない。自分自身の甘さに反吐が出る思いだ。しかし、ゆりかごの中で天井を見上げる表現を誰が殺すことができるのか。安いタバコに火を付け副流煙で部屋を包むが私にできる最大の抵抗だった。


 noteに書き続けて9ヶ月が過ぎた。noteには私が蛇蝎のごとく嫌う腐れゴミ糞ウン汁ブロガーが集まりはじめライフハックや安い説教を垂れ流しはじめていたことに嫌気がさしていた。金を念頭に置いた表現を否定する訳ではないが、他人を小馬鹿にして小銭を稼ぐ態度が何よりも気に入らなかった。こんな場所で書いていたら俺もいずれはウン汁ブロガーの暗黒遺伝子に侵食されてしまうのではと恐怖を抱き、国内最大手小説サイトへの引っ越しを考えていた。

 いつのまにか年末だ。新年も近い。皆が語る今年のトピックに私が小説を書いたことをあげてくれる人もいた。新しいことをやるべきではないか?そんなことを考えTwitterを開き男性器名称を書き連ねるなど無碍な時間を過ごしていた。すると、私が小説を書くきっかけになった人が「角川が小説サイトをやろうとしている」と書いていた。そのTweetや周りの反応を見ている。実態よりも概念寄りの方がいて同じように角川の小説サイトの話をしていた。きっかけになった人が私を名指しで「攻め込みませんか」と呟いた。新しいことをはじめたいと思っていた所だった。それに何か小説コンテストをやるとの記載もある。


 P社で落ちた作品を出そうそして、もう一本書こう。何が書けるのかはわからないがまずは書いてみる事からはじめよう。年が明ける頃にはよちよち歩きだった表現が私の中で走りはじめていた。ふいに表現が私の顔を見つめ「久しぶり」と言った気がした。所詮は気の所為だ。そう思ったほうが自分にとって都合に良いからそう思っただけだ。だけど、その都合の良さを少し信じてみることにした。


 カクヨムがプレオープンし、小説の仕込みをはじめる。以前アップした文章を多少だけ直す。そして新しい作品を考える。今度はどんな物を書こうか。青春物というか人間が出てくる話が書きやすい。多分、次に書く作品も人間が出て来る作品になるだろう。


 そう言えば以前noteに書いた短編があった。あの作品を少し膨らませてみよう。その作品はインタビューをモチーフにした作品だった。インタビューで青春小説を書いてみよう。


 表現が、暗い表情で私に笑いかけたように見えた。都合よくそんな表情はみないことにした。


~続く~

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