懺悔:何故私は表現活動を続けてしまうのか~巻ノ6~
迷っている。ただ迷っている。何度も書いては削除を繰り返している。声優専門学校時代の思い出を書こうとしている。私の中のプリミティブな部分であり、血汗涙を流した仲間たちの日常を書く事にもなる。何より、エリートにも度を越した落ちこぼれにもなれなかった中途半端な私の日常を書かないといけない。
インターネット上では毎日の鬱屈した思いを過激な発言に変換し、多少の人に「インターネットおもしろ物質」として認知してもらっていた。書く事に躊躇している。多分、その話を書くと戻れなくなる。思っているよりも長い一方通行に足を踏み込むことになる。声優を目指した時と同じだ。これを書くと『俺はこの道を進みたい』と発言することと同じ意味になる。
もう一度、もう一度、もう一度、あの中に入りたいか?『表現』なんて割に合わない世界、認められない世界、不条理な世界、そこに入りたいか?『楽しく趣味として』でやれば良いのはわかっている。最初に書いた時はそう感じた。しかし心の中に燃え広がる何かは勢いを増している。やっと手に入れた平穏な日常の形が変わる。それが変わってしまうと感じている。
たった数千字の文章を書くだけでそんなに変わるか?変わるさ。毎日の暇つぶしだろ?変わるんだよ。俺は知っている。どうして?思い出したんだ。何を?俺は最初好きなアニメのキャラクターのモノマネをしたんだ。それが友達にウケたんだ。本当に小さな、小さな行動だった。宇宙船サジタリウスのシビップのモノマネだった。それを聞いてくれた友達が「次はこれやって!次はこれやって!」と言うんだ。俺はその通りにやった。出来なかったら自宅で何度もビデオを再生して練習を続けた。声優の顔に近づければ声も似るんじゃないかと考えて写真を見ながら顔マネもはじめた。だから考え過ぎだって、ただの遊びでしょ?遊びだよ。だけど、最初が遊びだと一番危ないんだ。どうして?「面白いと感じたまま進む」からだよ。
遊びは何をするにしても一番危ない。遊びは止められない。遊びは続けてしまう、遊びは集中してしまう、遊びは進化を求めてしまう。仕事なら「毎日どうやってサボろうか?」を考え、出来る限り力を温存しながらやってしまうが、遊びは一試合完全燃焼システムが組み上がっているので突き進むことになってしまう。即ち、私は今、文章を書くことに燃えてしまっていることになる。声優専門学校時代のことを書くとそれは『表現』になってしまう。ナルシスティックに陶酔しながら情けない日常を書く。題材としてはこれ以上の物は無い。やってしまうと絶対に止まれない。
もう『表現』は私の周りにうろついていない。どこにいってしまったのか。もしかしたら消え去ってしまったのか?それとも文字書き遊びにかまけている間に私の中に入り込んだのか。「小説をやってみたい」と考え、書きはじめると同時に目には映らなくなった。何も言わずにいなくなる。あれだけ恐れていた表現を今は求めてしまっているのを感じる。この心の中で静かに、しかし確実に燃え広がる思いが表現なのだろうか。
表現欲求は血よりも濃く、肉よりも明確な形がある。表現欲求は人間をいとも簡単に飲み込み咀嚼する。噛み砕かれて吐き出され、消化され残滓として排出され、真なる部分だけが表現と同化し、あるべき姿になる。それは幸せとは言えない。表現活動を行うことは幸せだが、そこで生きていこうと考えると無謀であり修羅道だ。
また先の事を考えてしまっている。いや、考えるさ。今は分水嶺だ。ここで進むかどうするか。まずは「伝えたいのか伝えたくないか」だ。
声優専門学校は狂った場所だった。まともな人間は少なかった。私はまともにも狂人にもなれないハンパ物で世界を彩る鈍色の植物だった。そんな鈍色の植物がどう生きたかなんて楽しいだろうか?周りでは毎日を謳歌し、無謀な夢に向かう仲間が沢山いた。その人々に劣等感を感じながら毎日を過ごしていた。プロとして活動することで劣等感は消えたが、最初は本当に酷かったことを思い出す。私の人生を書いて面白いのだろうか。私の人生は誇れる物ではない。それなりに上手くいったが割と運ステータス特化だった。
周りには無謀な挑戦をしている人間が多かった。自分と戦う人間が多かった。私はそれを眺めているだけだった。
「だったらそれを書けば良いのでは?」
閃いた。タイトルを考える。懺悔だ。そうだ。懺悔なんだ。思い出そう。私はあの時なにがしたかった?何ができた?周りは何をしていた?それを思い出し、書いてみよう。
文字を書き進めている時、傍らに温もりを感じた。あれだけ恐怖していた『表現』が私に持たれている。自然と文字が打ち込まれていく。止まる瞬間は無理にでも書く。ただ書く。遊びは洗練され形を生み出していく。土器がその良い例だ。土器は器であれば良い。そこに模様が描かれたのは遊びだったに違いない。遊びだ。これは遊びなんだ。遊びだ。だからこの体が砕けたとしてもやり続ける。
懺悔:何故私は非常階段でいちゃつくカップルを注意出来なかったのか
私が専門学校で一番強烈に印象に残っていたことを書いた。溢れてくる。思い出、後悔、そして文字。全てが私にのしかかってくる。窒息しないように文字の奔流をキーボードに向けて吐き出していく。瞬間構築、瞬間変換、瞬間排出。書く。書く。書く。
これは懺悔だ。私は介在しているが世界に影響していない。傍観者はあの空間をどう見ていたか?それを書きたい。それを表現したいと感じていた。
表現したい。感じてしまった。そう感じたままに書いてしまった。後には戻れないかもしれない。戻れなくなった成れの果てが私の現状なので何が起こるのかは痛い程わかる。私は結局表現その物よりも表現を見られたがっている。「人に見られることに意味はない。自分がやることに意味がある」と考える方もいるだろうし、批判する気はない。私は人の反応や目線を気にすることが染み付いてしまっている。見ている人がいなければ「無い」と同じなのだと感じている。私の表現欲求は果たして本物なのか?意味があるのか?正しいのか?
全てわからない。深夜特急の一文その物だ「わからないことだけがわかっている」わかる必要もない。やれることを、やりたいことをやる。もう事務所にも入っていない。プロとしてパッケージングしなければいけない世界ではない。
人間として生まれてきたのなら「私の価値は?私の人生の意味は?」それを感がえて何も手が付かなくなることがある。そんな時に何をすれば良いのかが少しわかった気がした。「それを出せば良い」だけだった。声優時代に毎日言われ続けたことを場所を変えてもやってしまっている。学んだ物は頭と体と精神に残り続ける。学んでいなくてもそこには生まれる。結局何をどうやっても「やる」という意志力により決定される。意志が心に火を点ける。意思が炎を躍らせる。その炎は確実に身を焦がす。肉の焼ける香りが広がる。体が火傷の苦痛を感じる。表現に立ち向かう高揚感はそれらを打ち負かす。それはいとも簡単に。
第一話を書いてインターネットにアップする。すると今までになかった多くの反応が返ってくる。15年生きてきた声優の世界ではこんなことなかった。私はアンサンブルの1人であり、主役は作品自体だ。そこに声を少し当てているだけで私の貢献度はさほど高くない。そんな世界でスポットライトを諦めていた。そこに私が書いた世界に少しでも光が当たり、多くの人が評してくれる。尤も、その作品が脇役として、傍観者としてそこに存在していた物語なのはなんとも皮肉だ。
話の続きを書き続けている内に「これは2万字程度では収まらないな」と感じてきた。小説を書き始めて3ヶ月程度。そろそろ長編に挑戦したいと考えはじめていた。「web小説 賞」小学生が検索に使いそうな単純な言葉で検索をする。するとP社のweb小説大賞がヒットした。締め切りまで3週間。10万字書かないといけない。1日4,800文字程度でギリギリ間に合う。長編なんて書き方がわからない。それに題材はどうする?いや、これだ。この世界だ。
人に言うには恥ずかしい世界だが、それは美しく輝いていた。しかしどこまでも俗で乱れた世界だった。あそこはまさに「バーレスク」だった。
~続く~
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