第6話 大和を作った男

 ここで一人の設計者をご紹介しよう。平賀譲(1878~1943)である。多くの艦船の設計を手掛け「軍艦の神様」と呼ばれた人間である。そう、何を隠そうこの平賀譲こそが、超ド級戦艦大和を設計した人間である。海軍造船中将で、工学博士でもあった彼は、昭和13年から東京帝国大学(現東京大学)総長も務めた。対立しあう経済学部教授二人を、独断で休職にした「平賀粛学」でも知られる。話が少しだけ逸れるが、日本海軍は機械工学や火薬、燃料の調合などの技術や設計などを教える海軍機関学校は、海軍兵学校よりも格下扱いを受けていた。日本海軍においては、兵学校出身者しか大将になれないという制度になっていた。だから平賀のように権威があっても、中将止まりであった。米国海軍の士官学校であるアナポリス海軍兵学校では、1899年に兵科と機関科が、完全に一体化されたと言われているが、江田島の海軍兵学校と舞鶴の海軍機関学校が一体化されるのは、1944年の大戦末期になってからである。もともと兵学校と機関学校を分けたのは、明治維新から続く因縁であった。幕末の動乱期に欧州留学などをして、軍艦を動かす為のエンジニアリング能力を身につけていたのは、実は幕府側の若者達であった。それに対して、兵学校には薩摩を中心とした官軍側の子弟が多数配置された。「旧幕臣系の奴等に追い越されない様に」というだけの理由で、機関学校と兵学校とを分けて、旧幕臣系出身者を機関学校に押し込んで、弾圧に近い差別的待遇を受けた訳である。最も日本海軍自体は、技術者をとても厚遇していた。たとえ高等小学校(現代の中学卒にあたる)を出ただけの工員であっても、海軍中将待遇まで到達出来るコースがきちんと設定されていた。実際にそのコースで中将まで登り詰めた人間もいた。学閥主義でハンモックナンバー(卒業席次)重視の日本海軍では通常あり得ない。近代海軍自体が、先進科学技術の結晶であり、その背景を元に技術者厚遇重視はある。偉大な日本人の設計者に、階級が伴っていない事は少しだけ残念だが、日本にも誇るべき設計者が存在して居た事を、我々は知っておく必要があるだろう。日本の軍艦や戦艦の多くは、こうした優れた設計者と、優れた現場造船技術による作業員が産み出した芸術品だったのである。

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