第7話 大和主兵装

 世界最大の戦艦建造という、困難極まるプロジェクトを、予定よりも短い工期で遂行可能であった要因は、最新の造船技術と、徹底した生産管理方式の導入にあった。船体各部の接合に電気溶接が多用された結果、従来の全リベット接合式と比較して、大幅な重量軽減と、工数軽減が可能になったからだ。各部の制作を別々に進めて、後に一体接合するブロック建造法や、艤装工事を船体工事と並行して進める早期艤装も導入された。さらに各現場の作業進捗状況を常に確認し、工事遅延の原因を徹底的に排除する、効率的な生産管理方式が導入された。大和は、太平洋戦争勃発後の昭和16年12月16日に竣工し、翌年2月12日に連合艦隊旗艦となる。そして、昭和17年5月のミッドウェイ作戦で、初めて姿を見せた。だが、その後出撃の機会はほとんどなく、南太平洋の前線基地であるトラック諸島や、瀬戸内海での待機が続いた。特に制空権を奪われた戦争後半には、行動が著しく制限された。激しさを増す空からの攻撃に対抗する為に、両舷の副砲塔に代えて、12,7センチ高角砲6基を増設。3連装25ミリ機銃も、段階的に増強され、完成時の8基24門に対して、最終的には50基150門まで増設された。昭和19年10月のレイテ沖海戦では、初めて敵護衛空母部隊に砲撃を実施。駆逐艦ホールを撃沈した。この撃沈は、結果として大和が上げた唯一の戦果だった。最大射程41キロ、46センチ砲9門、公式排水量69100トンという、化物戦艦は、昭和20年4月6日、沖縄に上陸したアメリカ軍を迎え撃つ、天一号作戦(菊水作戦)に基づき、出撃後被弾沈没した。誕生した時点で、海戦の主役は、戦艦から航空母艦に移行しており、その真価をついに発揮する機会はついに訪れない。しかし、その大和を生み出した技術やノウハウは、戦後日本の大きな活力となった。

最大射程距離41キロメートル…とは言っても、そこまで砲弾を飛ばす為には、距離を正確に測る装置が欠かせない。そこで開発されたのが、15メートルという巨大な長さを持つ即距艤(光学式距離測定装置)であった。それまで最大とされていた「長門」型戦艦に搭載されていた10メートル規模のそれを考慮すると、即距艤に至ってもかつての規模をはるかに上回るものであった事がうかがえる。いかに大和の照準システムが高度であったかを証明するだろう。この15メートル規模の即距艤を開発したのは、日本光学という会社で、戦後高級カメラで世界を席巻する事になる、後のNikonであった。しかも、艦の揺れや進行方向、速度などのデータを、射撃盤(電気機械式自動計算機)で計算し、最適の砲身角度や旋回角度を弾き出す。巨大なばかりではなく、各部位に当時最新の知恵が張り巡らされている。また、いくら主砲ばかりが大きくても、敵を発見し狙いを定め、大砲を精密に操作出来て、発射を統制する技術がなくては、どうしようもないが、大和はその点に関しても、最先端技術を導入していた。2760トンもある砲搭が、毎秒2度の角度で旋回し、毎秒10度砲身の角度を変更が可能で、約40秒毎に砲弾を発射する事が出来た。そんな最新巨砲が実戦で威力を発揮出来なかったのは、相手が動く事を予想していないからである。という一点に尽きる。そもそも論として、大砲は微妙なファクターにより、着弾位置が狂ってくる。一発ずつ発射する度に、衝撃や熱などで、砲身自体が歪んでくる。また、火薬の状態にも影響を受ける。大和の主砲はそういう部分を加味して、今発射している砲弾は何発目で、いつ積み込んだ砲弾かという詳細まで、計算するシステムが構築させてあった。それでも当たらないのだがら、実戦は理屈通りにはいかない。国家予算の約4%にあたる巨額の費用と、述べ300万人以上のマンパワーを導入した戦艦を、もう少し有用に活用出来ていれば、日本軍の戦況も少しは変わっていたことだろう。

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