【幕切れ】

 噴き出し口から出る湯に、すでに先ほどの勢いはない。ちょろちょろと弱くなったそれをタライで受け止めたマイクロ湯船に、猫又の先生が浸かっていた。

「ううむ、これは……染みる。ぬくい風呂もなかなか」

 傷だらけだが、戦いの真っ最中よりはマシになっているようだ。猫又も、〈不死者アンデッド〉ほどではないが治癒能力に優れるらしい。

 温泉で身体を癒やす先生をよそに、脱衣所の簀の子は、さながら奉行所のお白州しらす、裁きの場と化していた。

 並んで座った罪人は〈不死者アンデッド〉一同。裁くのは香坂ヒカル。先生の念動によって崖下から救出されたメンドゥはもう治癒しており、ガン助もまた、滝から落ちそうになっていた肉体に幽体が戻り蘇生していた。

「ほんっとーに、申し訳ございませんでした」

 平伏し、文字通り平謝りの沙弥。さすがに着替えていつもの和装に戻っている。

「あれ以外にをやっつける手立てが見つからなかったとはいえ、伝来の風呂をぶっ壊しちまいまして……」

「はぁ……まぁ……そうですねぇ……」

 謝られているヒカルだが、さして怒っている風ではない。逆に、なにかわだかまりが取れたような、スッキリした表情である。

「まぁ……これで良かったのかもしれませんし。ご神体は無事だったから、いいんじゃないでしょうか」

 ヒカルの手の中には、手ぬぐいで巻かれたご神体――短刀があった。

「第一、私は命を助けられたわけですからね。弥勒さんたちは恩人じゃないですか。謝らないでください」

「そう言っていただけると気が休まります。かくなる上は責任を取って、今後の香坂さんの生活をアタクシが同居して面倒を」

「いやそれもうストップ」

「ちっ」

「それよりも、残念でしたね。不老不死と関係のないお宝で」

 結局のところ、この地の神宝とはヒカルの手の中の短刀一振りのみ。なんらかの霊験は宿っているが、少なくとも不老不死や長寿延命にまつわるものではないというのが、先生とヒカル、二人の一致した見解である。この上なく立派な神宝ではあるが、沙弥らが求めていた〈人返しの秘法〉とは関係なかったようだ。

 温泉にも霊験はなく、傷に効く泉質というだけだった。

「ああ、それはまぁ……でも本当になんにもなかった今までと違って、霊験あるお宝ってのが、あるところにはあるんだって分かりましたから。今後に期待が持てる、いい空振りでしたよ」

 沙弥はめげない。

「それに今回は、香坂さんとお近づきになれたことの方が収穫と言えますね。なぁに、いつか必ず見つけてやりますよ。〈人返しの秘法〉。」

「メンドクセ」

「混ぜっかえすな!」

 沙弥がとなりのメンドゥを盛大に殴り飛ばすと、メンドゥはさらにとなりのガン助を巻き込んで倒れる。驚いたガン助が、表面的には「ひゃぇー」と可愛らしい悲鳴を、その実は人知を越えた禍々しい咆吼をあげて幽体離脱した。

 咆吼が聞こえてしまうヒカルは涙目で耳を塞いで、

「だからそれ怖いんですよ! やめてください!」

「あんなに可愛い悲鳴なのに」

「私には聞こえるんですってば! もンのすごく怖いのが!」

「うーん、この鋭い霊感はやはり得がたい人材……どうやって東京へ連れ帰ろう」

「心の声ダダ漏れにして考え込まないでください。……それに私、もう一度東京に行こうって気持ちになってますから、今は」

「マジですかッ?」

 居住まいを正す沙弥に、ヒカルは小さく笑いかける。

「……ウチが守ってきたらしい隠し湯はこの通りですし、さすがに私一人じゃ、復旧も出来ませんしね。ご神体だってもうこの手の中にあるわけだし、だったらもう、この土地に縛られてなくても、いいのかなぁって。……今、そう思えるのも弥勒さんのおかげです。ありがとう」

「おやアタシが? なにかしたかしらね」

「言ってくれたじゃないですか、逃げていいんだって。前向きに考えろって。だから私、前向きに逃げ出すことにしようと思います。それに、物理的にもこの有様なわけで」

「物心両面でお役に立てましたようで、なによりでした」

「まぁ、当分先の話になりますけどね。引っ越しだなんだで貯金なんかスッカラカンですから、まずは仕事を見つけて、引っ越し代とか、東京の新しい住まいの費用を貯めて……」

「そんなのアタシに言ってくだされば、今日のうちにでも全部用立てしますのに」

「悪人っぽい笑顔で誘惑しないでください……ところで、ですけど」

「なんなら契約書、用意しましょうか?」

「なにをさせる気ですか。……ガン助くんが、ほら、あっちで……」

 ヒカルが指で示すのは、沙弥が頭突きで壊した湯船の縁辺り。そこには、壁に寄りかかるようにして自分の膝を抱えて座り込む、ラファエレ明石の姿があった。合わせた膝に顔を押しつけるように伏せた彼女の周囲で、先ほど幽体離脱したガン助がふわりと浮きながら声をかけている様子だった。

「……アタシにゃ金髪コスプレ巨乳が目に見えて落ち込んでる痛快な絵面しか見えませんが」

「あああもうそうだ見えないんだこの人。それでよく今まで一緒にいられましたね」

「いろいろ不便があるから、香坂さんを必要としているわけでして」

「わーっ、藪蛇。そ、そうだあの人も、ホラ、ガン助くんを追っ払ってますよ、しっしって! 見えてるんじゃないですか? アッチでもいいんじゃありません?」

「おや、言われてみればそんな仕草」

 沙弥は考え込むようにアゴに手を当てると、

「一応、確認だけしときますか」

 ガン助の死体にもたれたままのメンドゥを踏み越え、湯船のラファエレの方へ歩いて行った。

「ちょいとガン助」

 声をかけると、ガン助が、

『はい、なんでしょう沙弥さん』

 と振り返るのだが、

「……聞こえないんだから尋ねても意味なかったね」

 そんな具合である。

「しゃーない、おいコスプレ金髪」

 ラファエレに声をかけるが、しっしっと手であしらわれるだけで、ラファエレ自身は顔を上げもしない。

『慰めてるんですけど、聞いてくれないんですよー』

「……このうるさい幽霊と一緒にどっか行け変態」

『ひどいですねえ、幽霊でも変態でもなくて、今の僕は幽体ですよ』

「この子は幽霊じゃないんだがねぇ……でもまぁ、一緒か。とりあえず、ガン助が見えて聞こえてはいるようだね。霊感持ちなんだねぇアンタ」

『沙弥さんもひどいですよう』

 ガン助の声が聞こえていないので、沙弥は無視である。

「当たり前だ、不可視の魔物だってあたしらの誅滅対象なんだぞ、霊視も出来ずにどう戦うってんだ変態」

「よし話は分かった。テメェは後で殺す」

 膝をそろえてしゃがみ込んだ沙弥は、ラファエレの頭を小突いた。

「もう吸血鬼の魔力は抜けたんだろ? なにを湿気しけってやがんだ。は、このアタシが、この、弥勒、沙弥が、見事に討ち果たしてやったんだからよ。ああん?」

 完全に愚弄する顔と口調である。

「うるせーな! ほっとけよ!」

 頭を上げて沙弥の手を振り払ったラファエレだが、すぐにべそべそと半泣きになってしまう。

「……泣くなよ、大人だろ?」

『僕だってそんなに簡単に泣きませんよ』

「てめーら黙れ。……車はポンコツになる、退魔道具はあらかた捨てちゃった、銀メッキ弾も使いすぎ、挙げ句の果てに……この首筋の傷ゥ!」

 ラファエレは横を向いてうなじを沙弥に見せつけた。そこには、吸血鬼の牙を突き立てられた生々しい痕が残っている。

「あー。影響は消えても、物理の傷は消えねぇのか」

「モロバレだよ! 血ぃ吸われたって! 返り討ち食らったって! こんなザマでどのツラ下げて機関へ帰れるってんだよおおおおおッ! アタシが誅滅されちまうわ!」

「へへっ、帰る家もないってか、ザマぁ見やがれ。アタシを吸血鬼なんざと勘違いすっから悪いんだよ。天罰てんばつ覿面てきめんってやつだ」

「あああああ、終わった、あたしの人生設計。もう昇進できない。給料も出ないんだ、経費だって渋られるんだろうなぁ……新天地スペイン、行ってみたかったなぁ……ごめんね母さんマドレ、娘はあなたの故郷を見ることなく生涯を終えそうです。車の修理代とかは弁償させられんのかなぁ……バイト増やさなきゃ……」

「すげーブラック体質だなアンタの機関。さすが狂信者集団、搾取しまくりじゃねえか」

「いいんだもう、あたしは一生あの六畳一間から出られないんだ……いや、あそこは寮だから、きっと追い出されるんだ……せめて一度くらい、トイレと風呂が別の部屋に住んでみたかったな……へへ、ふへへ。ああ、空が青くて近い」

「ダメだ目がどっか飛び始めた」

『なんだか、かわいそうになってきましたよ僕』

「私も……とても不幸な身の上だったんですね、通り魔さん」

「誰が通り魔かッ!」

「ひぃ、ごめんなさい! 昨夜の印象が強くて……お名前知らないもんで……」

 いつの間にか近付いてきていたヒカルが一歩引き気味に謝った。

「人様の眉間に、勘違いで銃弾ぶち込むような早とちりですよ。冤罪えんざいで死人を出す前に、ここで人生トドメ刺された方が世のため人のため」

「いやそれはあまりにも……そこで私から弥勒さんに、通り魔さんについての提案なんですが」

「だから通り魔じゃないわ! ラファエレ明石だ!」

「明石さんですねごめんなさい!」

「アタシに提案って、なんでしょう香坂さん?」

「まず確認で、幽体のガン助くんと意思疎通できる人が必要なんですね?」

「え。あ。はい。まぁそうですね。いてくれると助かります」

「私の生活の面倒を見るって何度も仰いましたし、お金持ちなんですよね? きっと」

「……ついに決心つけてくださいましたか! そりゃもう全力で面倒見ますよ!」

 がばと立ち上がってヒカルの手を両手で握る沙弥。ドン引くヒカル。

「いやーステキ。これでアタシも、アタシを理解してくれるお人と女子会みたいなトークに花を咲かせられるんだねぇ……生きててよかった」

「違います! そうじゃなくてですね、ガン助くんとの通訳が必要なら、私じゃなくても、通り……げふごふ。明石さんをお招きしたらどうでしょうかと、そういう提案ですってば」

「えーっ……コレ持って帰るのは……ちょっとなぁ……それに、アタシの心持ちを理解してくれる香坂さんだからこそ、面倒見て差し上げたいと思ってるわけで」

「か」ラファエレの様子が変わって、縋るような目を沙弥に向けた。「金持ち?」

「うわ気色悪……そんな目でこっち見んな」

「たっ、頼むー!」

 ラファエレが沙弥に飛びついて押し倒した。

「ぎゃー! こっち来んな!」

「頼む、そんな余裕あるなら、女子会トークするからお泊まり会させてくれ! 泊め続けてくれ! パジャマくらいなら持参する!」

 もう半泣きではなくダダ泣きである。

「なにが悲しくてテメェと女子会せにゃなんねんだ! 一生理解し合えねぇようなヤツとは願い下げだ!」

 沙弥が全力でラファエレの顔面を押し返すが、ラファエレも人生がかかっているせいか、しぶとく食い下がる。

「じゃあ当分の間でいい! せめてこの首の傷痕が治るまで、迷える子羊に慈悲を! たぶん一カ月、いや二カ月? もしかしたら三カ月くらいで済むかもしれない!」

「長くしてくんじゃねえ! そのまま迷って行き倒れろ!」

「弥勒さん、明石さんも胸大きいじゃないですか。胸、好きなんじゃないんですか?」

「そうかおまえ巨乳好きか! なーんだ可愛いところあるな今までのは嫉妬か? 分けてはやれないが触るくらいならいいぞホラホラ! 一揉み一泊な! な! な!」

「なっ、じゃねえ! テメェはデカすぎなんだよ! 香坂さんくらいのサイズがアタシの理想なんだ! 人間に戻って成長したらアタシもあれくらいになる予定なんだよ!」

「あ、そういう視点だったんですね」

「なんだと思ってたんですかッ?」

「いやーホラ、最近、流行ってるみたいじゃないですか、百合とか……ええと、肉食系?」

「心外な!」

「頼むよ助けてくれよおお、なんだったら胸枕で寝させてやっからさ、泊まらせろよおおお」

「ケンカ売ってんのかテメェは! このままテメェごと崖に落ちてやろうか!」

「その怪我治るまでずっと家に泊めてくれよおおお」

「ぬわー、逆効果!」

 そんな女性陣の喜劇を、湯に浸かりながら眺めていた先生のとなりに、ふわふわと幽体のガン助が空中を移動してきた。

『先生ー、さっきからみんなに話しかけてるのに誰も僕を意識してくれないんですよ』

「おぬしは存在感が薄いからな。ああ騒がしいと気付かれにくいだろうて」

『ちぇー』

「今回は、思いもかけず苦労をさせられたからな。誰も彼も、気が高ぶっているだろうし、気に病むな」

 ちらとメンドゥの方を見た先生。メンドゥは我関せずで、ガン助の死体を指で突いて遊んでいる。

「メンドゥはいつもの調子だが……おぬしはどうだ、ガン助」

『え、なにがですか?』

「〈人返り〉のことだ。少しは期待があった分、ガッカリしているのではないか?」

『うーん。どうでしょう。僕は沙弥さんほど強く、人間に戻りたいと思ってるわけじゃないですから』

「なんだ、そうなのか?」

『だって、僕が人間に戻ったら、たぶん死んじゃうじゃないですか。僕は友達が欲しかったから、沙弥さんと会えて嬉しくて、一緒にいるんですよ。僕はまだまだ、みなさんと一緒にいたいです』

「……それもそうだな。おぬしはそもそも死体なのだった」

『沙弥さんには内緒にしておいてくださいね。怒られちゃいそうですから』

 もう一度、先生はメンドゥの方を見る。もはやガン助いじりにも飽きたのか、大の字になって寝転がっていた。

「あやつにはダメージなどなさそうだ」

『ねえ先生、沙弥さん、怒ってるけどなんだか楽しそうですね』

「おぬしにはそう見えるか」

『いつも僕やメンドゥさんを怒るより、なんだか優しく怒ってる気がします』

「ふふ、よく見ているな。……なにを隠し立てすることもなく、〈不死者アンデッド〉であるがまま振る舞えるというのは、沙弥にとっては良いことなのだろうよ。……おぬしと一緒かもしれぬな、沙弥にも、友人が必要なのだ」

『先生も、嬉しそうですね。お風呂は気持ちいいですか?』

「ん? ああ……そうだな、なかなか良い湯だし、それに……」

 先生は気持ちよさそうに目を細めて、文字通りにかしましい女性陣の方を見やった。今は崖から転がって落ちようとする沙弥とラファエレを、必死にヒカルが止めているところだ。

「怪我じゃ済まさねぇぞ金乳、必ずあの世まで送り届けてやるよッ」

「機関の誅滅者ナメんな、絶対に生き残って治療費払わせるぞ。あと金髪と巨乳混ぜんな」

「もうちょっと仲良くしましょうよ! お互い求め合ってるのに! 需要と供給ですよ!」

 楽しそうな阿鼻叫喚を、まるで優しげな父のように見守りながら、先生は呟いた。

「吾輩も、おぬしらと同じだな。……まだしばらくは、今のままのおぬしらと一緒にいたいのさ……」






 ―了―

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