破の段 ――死なぬもの
破の一 旅するもの
レンタカーのミニバンに乗り、郊外へ走らせる。身長が低いせいで視界は悪そうだが、ハンドルさばきは慣れたものだ。
旅の道連れである先生は、助手席で丸まっている。
窓を閉めておくのはもったいない風と光だった。
「あまり、楽しそうではないな、沙弥」
全開にした窓からの風を受けても、沙弥の髪は不思議とあまりそよがない。
「顔に出ちまってますか。どうも昨夜のお嬢さんが気になってましてねぇ。すぐに目覚めて大丈夫と言うから帰しましたけど、引き留めといた方がよかったんじゃないかって」
「一度助けたのだから充分だ。第一、魔眼に囚われていたのだろう? ならば、おぬしと会ったことすらもう忘れたろうよ。心配など無駄なことだ」
「アタシゃ人間ですから。人間同士ってのは、心配し合い、助け合って生きるもんなんですよ。助け合いの精神です」
「不老不死の〈
「だからアタシゃ、こうして不老不死をやめる方法を探してるんですよ。お忘れで?」
「忘れてはおらぬが、それこそ無駄な労力と思うがな。今までどれほど、外れを引いた?」
「いつかは当たりくじを引きますよ。〈人返しの秘法〉なんて名前が付いてるくらいなんですから、どっかにあるに決まってるんです」
「うさんくさい、文献とも呼べぬボロの古文書の一節に、チョロッとあっただけではないか。偽書だろう」
「おぼれる者は藁をも掴むんですぅー」
先生は退屈そうに欠伸をした。身体を起こし、伸び上がって車窓から外を眺める。
東西を山並みに挟まれた、南北に長い町である。車は南へ向かっている。視界の左右には、迫ってくるように山が続いていた。それがどこまでも続き、南の果てにも、空気に霞んだ高い峰が立ちふさがっている。
「道は長いのだったか。その、
「ナビによれば小一時間ほどですか。ただ、地図に載ってないようなマイナー神社ですから、行ってみないと分からない、ってのが正直なところです。江戸時代の古地図にしか記載がないんですよね」
「あやふやだな……実在するのか?」
「それを確認しに行くんですよ。いずれにせよ山の中なんで、途中からは山道を歩かなきゃならないのが困ったもんで。……ところで先生、退屈でしたら昨日のダンピールの話、やり直してくださいよ」
「ん? 昨夜、話しておいただろう」
「途中から晩ごはんの牛肉と吟醸酒に夢中になった上、酔いが回ってメロメロにおなりでしたよ。いちおう、一通りは聞きましたが、要領を得ないところも多かったんですから」
「そうだったかな。覚えがないが」
「お酒が過ぎると、途端にああですからねぇ。その分じゃ、いつもの水風呂に入ったことも覚えてらっしゃらないんでしょうねぇ、水に飛び込んでバチャバチャ。毎度思うんですがね、先生のはお風呂じゃなくて、おぼれてるようにしか見えないんですが、ありゃ楽しいんですか?」
「楽しいというか、水風呂ではそうせずにいられんのだ。猫又に転生する前の記憶が、どこかに焼き付いているのではないかな」
先生はまた座席で、猫らしく座り直すと話を始めた。
「改めて言うが、吾輩の知識ではなく、昨夜のキリスト教徒――ラファエレ
そう前置いて
昨夜のダンピールはクロアチア生まれで、名をトミスラヴという。半人半魔の身の上のため、同胞である魔族からさえ迫害され、また人を多数襲ってきたためにキリスト教の退魔機関からも誅滅対象となり、故郷を逃げ出した。その復讐のために、アジアに流れてきたらしいという。その目的は、
「混血を半端者と蔑んで故郷にいられなくするなんざ、人間の世界とそう変わりゃしませんね、魔族の世界ってのも。
「人型の魔族特有であろうな、人間のそれと似たような社会性を持つというのは。あちらでも、吾輩のように人ならぬ魔であれば、そんな下らぬ社会性とは無縁のはずだ」
「で、自分を故郷にいられなくした連中を見返すために、純血の魔族をしのぐ力を身に付けようとしてるってんですか。その理屈はまぁ分かるとして、それがどうしてアジア、あげくの果てに日本へ?」
「キリストの
「ずいぶんテキトーですこと」
「まぁラファエレ明石という女も、詳しく知っておらなんだな。上から行けと言われたので追ってきた、というだけで」
「ふぅん。ところであのダンピール……ええと、名前なんて言いましたっけね」
信号の数が少ないなかで、赤信号に引っかかって停車した。調度いいとばかり、沙弥はルームミラーを調節した。
「トミスラヴ」
「言い難い名前だねぇ……おトミさんにしときましょう。おトミさんが宝具とやらを求めて日本に来て、よりにもよってこの辺で、アタシらと出っくわすってことはですよ」
「あやつの目的地がここであるとも限らんが、もしこの近辺がそうなのだとしたら……」
もったいぶったか、先生はそこで一呼吸入れる。
沙弥が、にいっと口元をゆがめて笑い、先生の後を引き継いだ。
「アタシらは、おトミさんと同じものを追っかけてるかもしれない」
セリフを取るな、という抗議なのか、先生の尻尾の片方が沙弥の足を叩いた。
「まぁ、そうであろうな。おぬしが、〈人返しの秘法〉を求めてこの地へ来た。魔族が、神なる宝具を求めてこの地へ来た。時が重なったのは偶然としても、場所が重なったことまで偶然とは切り捨てられん。少なくとも今度の目的地、泣澤神社にはなにかあるとは言えるのではないか?」
「近所の別の場所に、お宝が眠ってるなんてオチは、
自嘲気味に口元をゆがめて笑う沙弥。十代半ばの見た目には似合わない、素直でない笑みだった。彼女が語った二十五という年齢なら、こういう笑みも浮かべるかもしれない。世の中が分かってきて、夢や希望を少しずつ磨り減らし始めた頃のはすっぱさが、口元のゆがみから、にじみ出ていた。
信号が変わり、沙弥は再びミニバンを走らせる。
「しかしですね、そうするとアタシら、おトミさんとお宝探し競争ってことになるじゃないですか。そうなったら先生には、大いに働いてもらわなきゃなりませんよ。アタシゃ〈
「そのための用心棒稼業だ、承知しとるよ。ところで、守ってやるはずの他の二人、呼ばぬままでいいのか」
「呆れた。いろいろ覚えてらっしゃらない。昨夜、電話で呼び出しときましたよ。先生が『今度こそ当たりじゃないか、かわいそうだから他の連中も呼んでやれ』って、ご陽気に騒ぐから」
「そうだったかな」
先生は猫っぽく顔を洗い始めた。
「アタシひとりで調べたいんですがねぇ。今日この後、現地集合です。まぁ、アタシが調べ終えるまでに到着すりゃ、御の字ってところじゃないですかね、あの役立たず二人じゃ」
そこまでで、おおむね話すべきことが尽きたのか、二人は少しの間、黙った。
しばらく走ってきて、町並みが少し様子を変えていた。左右の山が遠くなり、平地部が広くなっている。同時に、建物の密度は薄まったようである。民家が減り、倉庫のような建物が増えた。田があり、畑がある。そこかしこに、トラクターや、牛の姿が見える。人が田畑の手入れをしている。
「……何年になる」
話題を切り出したのは先生だった。
「先生を雇い入れたのは、三年半くらい前でしたかね」
「いや、おぬしの旅路だ。〈
「ああ、そういう」沙弥は小さく溜息をついて、間を開けた。「まだたったの五年ですよ」
「自分の〈
「ええ、そうですよ。十年前、十五の時から〈
最後に
「人間、不死になったら喜びそうなものだがな。古来、不老不死を求める人間は多かれど、不老不死を捨てようとする人間なぞ聞いたこともない」
「そりゃ、不老不死になったヤツが少ないからですよ」
「多くの人間が求めた不老不死が、そうなった者からすれば、早く捨て去りたい重い
「……どうしたってんです? 先生。今日はずいぶんと、おセンチになっちゃって」
「なに、今度こそなにかある、と考えるとな。少々、感傷的になった」
「へぇ。百年以上、生きてらっしゃる先生でも、おセンチに沈むことがおありですか」
「生き身だった頃の飼い主がな、サンチマンタリズムというか芝居がかったというか、そんな人でな。吾輩の墓標に俳句をしたためるような人だった。生き身の期間が短かった吾輩が猫又に変化したのも、飼い主の影響が大きくてな」
「初めて聞きましたね、その話」
「初めて話したな、飼い主だった人間のことなど」
またそこで、沈黙が降りた。ちょうどまた、赤信号で停車する。老いた農夫が、農具を担ぎながら横断歩道を渡っていく。
「信州か。この辺りは
「思い出しますか、生き身だった頃のことを」
先生は目を細めると、二本ある尻尾を別々に、ゆっくりと、座席を撫でるように大きく動かした。遠い日の記憶を味わっているかのような、穏やかな表情だった。
「旅が終わると良いな」
「おやおや、ついさっき、無駄な労力と切り捨てたのはどこのどなたさんでしたかねぇ?」
「推測と祈りは違う、ということだ」
「ふん、食えないお人……じゃなくて猫ですね。まぁせいぜい、雇用主であるアタシのために祈っててください。先生のことは、人間に戻っても継続して雇用したげますから」
緩やかに接近した後続車が、広めの車間距離で停まりきる前に、信号が青に変わって沙弥は車を発進させた。
「さて、おトミさんの方はひとまずいいとして、ラファエルでしたか、金髪女」
「ラファエレ
「アイツは魔族狩りのハンターってことでよろしいんで? 〈
運転しながら、沙弥はチラチラとルームミラーで後続車との車間距離を気にしていた。
「キリスト教の教義に反する化生どもに、天罰を与えて回る退魔機関、とのことだ。悪霊退治の武装エクソシスト。こちらの文化で言えば、退魔師、拝み屋だな。機関の本部は本当にバチカン教皇庁にあるらしいが、明石は下っ端なので、日本から出たことはないようだ」
「アタシをおトミさんと間違えたくらいのドジでしたが、やっぱり下っ端ですか」
「下っ端もいいところだ。今回が初仕事らしい」
「ドジな上に新人さんかい。……もっと痛めつけて、病院送りにしときゃよかったですかね」
「人間同士助け合いの精神はどこ行った」
「邪魔者は脅かしてお帰りいただくってぇ生活の知恵が、また別にありましてね」
ルームミラー越しに後続車を見ながら、沙弥は面倒くさそうに言った。
「あやつらからしたら、吾輩のような妖怪も、おぬしら〈
先生も、首を巡らせて背後の方を見やった。風景はさらに長閑さを増し、もはや道沿いに家屋の姿は見えなくなっていた。
「ちょうどいい具合に、家も人の姿も減りましたねぇ」
「頃合い、だな」
後続車の運転手を、二人は見ていた。
シスターのような服装をした金髪の若い女が、ハンドルを握っている。その表情には鬼気迫るものがあった。
「逃がさん……逃がさんぞ、神の摂理に逆らう魔物めが」
鬼の顔したシスターもどき――〈十三階段機関〉からの刺客、ラファエレ明石は、助手席に置いたある物に片手を添えながら呟いた。
「徹夜であの当たりを見回っていた甲斐があったってもんだわ、素知らぬ顔して通り過ぎようとしてやがって。もう不覚は取らないわよ。あたしの初仕事、初ターゲット、必ず仕留めてやるんだからね」
添えた手の下にある物は、大型の自動拳銃――銀メッキの弾丸が込められた〈
「この国じゃ〝神の敵〟は少ないんだから、ここで逃がしてちゃ次の手柄はいつになるか分かったもんじゃない……早いところ手柄を上げて、昇進して、スペインへ栄転するんだ! こんな
半泣きになりながら、〈教戒兵器〉を握りしめる。
「あたしのスペイン行きチケットになりやがれ!」
(続)
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