序の段 ――魔のもの
序の一 血を吸うもの
山の夜は濃く、人の作る光は淡い。光ある場所ほど、その影は暗い。
人ならぬ
使い込まれ柔らかくなった、上質な黒革スーツに身を包んでいても、それは、人ではなかった。
闇をそこだけ裏返したように白い顔。
棘のように強く固そうな、やや茶色の入り交じった黒髪。
顔立ちは、ヨーロッパのどこかから来た白人男性だと言って通りそうだったが、かさついた肌に、異常なまでに深く、多く刻まれた
紅色の小さな瞳孔と、それを取り囲んだ金の虹彩はうっすらと輝きを発してすらいる。
闇に棲むもの。魔のもの。――人が近付いてはならぬものの証であった。
闇の中にはもう一人、紅と金の
彼女の足跡は、高架と交差する道路の方から十メートルほど続いて来ていて、途中に、大きなリボンが目立つリュックサックが落ちている。そちらの道路から、人外の魔力に囚われて歩いてきた、ということなのだろう。
短い旅の果てに彼女は、人外の化生が待つ場所へと辿り着いた。
黒革のスーツは闇に溶け込み、皺深い顔と、白い手袋だけが宙に浮いているようだ。
『ようこそ乙女。待ちかねた久方ぶりの
化生は、人語を発した。だがそれは、この国の言葉――日本語ではなかった。
『この国で〈
化生は背を丸めて、頭ふたつ分は背が低い、彼が〝乙女〟と呼んだ女性の顔を覗き込んだ。
『乙女よ、答えよ。おまえの血はどのように祝福を受けた』
「わ、た……し、は……」
両サイドに垂れた細い三つ編みが特徴的な〝乙女〟が、操られたように口を開く。
「
『この国の神殿の
それが化生の能力なのか、自分では話さないくせに、相手の喋る日本語は理解できるようだ。あるいは、意思を〝読める〟のか。周りの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせると、彼は言った。
『どうやら〈
化生が大きく口を開くと、獣のように鋭く大きな牙が姿を現した。
牙、血――
〝乙女〟――香坂ヒカルは、ブラウスのボタンを一つ、二つと外していき間近に迫る牙を導くように、自分の首筋を露わにした。
その柔肌に、吸血の化生の牙が突き立てらようとした瞬間、
「ちょいとお待ちな、アンタ」
大声でもないのに、いやに鋭く響く声がかけられた。
化生は丸めていた背を伸ばすと、声の方向――明るい道の方へ視線を飛ばした。
街灯のほの灯りから一歩、闇の側に踏み入ったところに、佇む人影。そのシルエットは、和装だ。
「どうもおかしな感じがすると思って来てみれば、人外に出くわすなんてねぇ。やり口からすると、
古風、とは違う不思議な喋り方をする、それは少女であった。
仕立ての良さそうな
行儀良く身体の前で揃えた手に、蓋付きの大きなバスケットを提げているのが、似合っているような、いないような。
背筋は伸びているが、くいとかすかにうつむいた襟足は大きく開き、隙がある。それがまた表情を作っていた。なんとも、不可思議な印象の少女である。
言われた人外の方は、またも鼻をひくつかせながら、
『……心が読めぬ。ならば人間ではないはずだ。だがこの匂い……〈
「……なに言ってんのかサッパリだね。日本語ぺらぺらを期待しやしないけど、どうやら英語ですらないようだね。ちょいと先生、先生ってば」
少女は片手で、重たげなバスケットを軽く叩いた。籐細工の蓋の下でなにかが動く気配がしたが、それ以上変化が起きることはなかった。少女は諦めたように溜息をつく。
「よく寝てらっしゃること。肝心な時に役に立ってくれないね、どいつもこいつも」
様子をうかがっていた吸血の化生は業を煮やしたか、まだ心を失ったままの香坂ヒカルを横へ押しのけ、一歩を踏み出した。よろけたヒカルが草地にへたり込んでしまうのを気にもかけずに、金紅の魔眼を和装の少女へと向ける。
『同族であれ違うのであれ、俺の邪魔をするなら容赦はせんぞ』
「おう三下」
と、返した少女の声はそれまでと打って変わって、ドスの効いた
「海の外にゃ道理もないか。か弱い女を乱暴に扱うたァ、人外だろうがオトシマエつけてもらわないといけないねぇ」
言葉は通じていないが、二人の意思は噛み合っているようだ。お互いの発する気配のようなものが、不穏に変じていく。
すなわち、一触即発。
(続)
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