序の段 ――魔のもの

序の一 血を吸うもの

 山の夜は濃く、人の作る光は淡い。光ある場所ほど、その影は暗い。

 人ならぬ化生けしょうは、町が生み出した闇の谷底で、今まさに、思うさまに振る舞っていた。

 使い込まれ柔らかくなった、上質な黒革スーツに身を包んでいても、それは、人ではなかった。

 闇をそこだけ裏返したように白い顔。

 棘のように強く固そうな、やや茶色の入り交じった黒髪。

 顔立ちは、ヨーロッパのどこかから来た白人男性だと言って通りそうだったが、かさついた肌に、異常なまでに深く、多く刻まれたしわの深刻さは、おぞましいとしか言えない。

 紅色の小さな瞳孔と、それを取り囲んだ金の虹彩はうっすらと輝きを発してすらいる。

 闇に棲むもの。魔のもの。――人が近付いてはならぬものの証であった。

 闇の中にはもう一人、紅と金のあやしき魔眼に心を奪われたのか、意思のないうつろな表情の女性がいた。二十歳はたちほどであろうか。スニーカーは片方が脱げている。薄いイエローで統一されたスカートと半袖のブラウスは、闇の中にあってなお遠くの街灯を反射しているようだったが、その、光ある世界との命綱のようなきらめきも、彼女がふらふらと闇の奥へ進んでいくにつれて薄らいでいった。

 彼女の足跡は、高架と交差する道路の方から十メートルほど続いて来ていて、途中に、大きなリボンが目立つリュックサックが落ちている。そちらの道路から、人外の魔力に囚われて歩いてきた、ということなのだろう。

 短い旅の果てに彼女は、人外の化生が待つ場所へと辿り着いた。

 黒革のスーツは闇に溶け込み、皺深い顔と、白い手袋だけが宙に浮いているようだ。

『ようこそ乙女。待ちかねた久方ぶりの供物くもつ

 化生は、人語を発した。だがそれは、この国の言葉――日本語ではなかった。

『この国で〈聖なるものサーンクタ〉を探し始めて十日あまり……よもや我が食事にふさわしい〈浄きものサスペンディッセ〉がかくも少ないとは……まったく、難儀した。飢えた。キリストの邪魔な手先どもが少ないのはいいが、清浄さの欠片も感じられぬとは』

 化生は背を丸めて、頭ふたつ分は背が低い、彼が〝乙女〟と呼んだ女性の顔を覗き込んだ。

『乙女よ、答えよ。おまえの血はどのように祝福を受けた』

「わ、た……し、は……」

 両サイドに垂れた細い三つ編みが特徴的な〝乙女〟が、操られたように口を開く。

香坂こうさか……ヒカル。代々、泣澤なきさわの神社……を、守る、家で……」

『この国の神殿の護人もりびとか。蛮地ばんちの神でも、神は神。その祝福がある血筋なら、妖精や精霊などよりも我が力になろう。〈聖なるものサーンクタ〉の在処ありかを正しく嗅ぎ当てるために、今の俺にはもっと力が必要だ。祝福された血が』

 それが化生の能力なのか、自分では話さないくせに、相手の喋る日本語は理解できるようだ。あるいは、意思を〝読める〟のか。周りの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせると、彼は言った。

『どうやら〈魔のものウェヌネム〉の同族が近付いている……獲物の取り合いになるのも厄介だ。さぁ乙女よ、急ぎ血を捧げよ』

 化生が大きく口を開くと、獣のように鋭く大きな牙が姿を現した。

 牙、血――吸血の化生ヴァンパイア

〝乙女〟――香坂ヒカルは、ブラウスのボタンを一つ、二つと外していき間近に迫る牙を導くように、自分の首筋を露わにした。

 その柔肌に、吸血の化生の牙が突き立てらようとした瞬間、

「ちょいとお待ちな、アンタ」

 大声でもないのに、いやに鋭く響く声がかけられた。

 化生は丸めていた背を伸ばすと、声の方向――明るい道の方へ視線を飛ばした。

 街灯のほの灯りから一歩、闇の側に踏み入ったところに、佇む人影。そのシルエットは、和装だ。

「どうもおかしな感じがすると思って来てみれば、人外に出くわすなんてねぇ。やり口からすると、吸血鬼ヴァンパイアかい? よその国からのお客さんのようだけど、旅の恥と見過ごすわけにゃいかないよ」

 古風、とは違う不思議な喋り方をする、それは少女であった。

 仕立ての良さそうなつむぎの和服は、夜に馴染む深い藍。年の頃は十五歳ほどにしか見えないが、見事な着こなしである。アップにまとめた黒髪は一つの塊のようで、艶めく彫刻のような美しさと、人間味のなさを併せ持っていた。すっと墨を引いたように横一文字いちもんじの上瞼の下には、大きな黒目が半分だけ姿を見せ、眠たげとも、怜悧れいりとも見える。

 行儀良く身体の前で揃えた手に、蓋付きの大きなバスケットを提げているのが、似合っているような、いないような。

 背筋は伸びているが、とかすかにうつむいた襟足は大きく開き、隙がある。それがまた表情を作っていた。なんとも、不可思議な印象の少女である。

 言われた人外の方は、またも鼻をひくつかせながら、

『……心が読めぬ。ならば人間ではないはずだ。だがこの匂い……〈魔のものウェヌネム〉ではないのか。……違う匂いが混じっている? 奇妙。何者だキサマは』

「……なに言ってんのかサッパリだね。日本語ぺらぺらを期待しやしないけど、どうやら英語ですらないようだね。ちょいとってば」

 少女は片手で、重たげなバスケットを軽く叩いた。籐細工の蓋の下でなにかが動く気配がしたが、それ以上変化が起きることはなかった。少女は諦めたように溜息をつく。

「よく寝てらっしゃること。肝心な時に役に立ってくれないね、どいつもこいつも」

 様子をうかがっていた吸血の化生は業を煮やしたか、まだ心を失ったままの香坂ヒカルを横へ押しのけ、一歩を踏み出した。よろけたヒカルが草地にへたり込んでしまうのを気にもかけずに、金紅の魔眼を和装の少女へと向ける。

『同族であれ違うのであれ、俺の邪魔をするなら容赦はせんぞ』

「おう三下」

 と、返した少女の声はそれまでと打って変わって、の効いた声音こわねだった。

「海の外にゃ道理もないか。か弱い女を乱暴に扱うたァ、人外だろうがオトシマエつけてもらわないといけないねぇ」

 言葉は通じていないが、二人の意思は噛み合っているようだ。お互いの発する気配のようなものが、不穏に変じていく。

 すなわち、一触即発。



 (続)

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