急の二 訪れしもの
沙弥の様子が少し寂しそうだったので、ヒカルは正面から彼女に向き合って、投げかける言葉を探そうとした。
目を伏せた沙弥が、少しヒカルに近付いた。そのままの動きで、すっと上体をヒカルにもたれさせる。ヒカルは、〝年上の少女〟の身体を抱きとめた。
ほんの少し、無言になった。
沈黙を破ったのは、沙弥のつぶやき。
「……人間に戻ればアタシも……育ってこれくらいに……」
「どッ……」
ヒカルは、胸をまさぐってくる沙弥の手の動きを感じて、背泳ぎのスタートばりに後方へ身体を投げだした。
「どこ触ってんですかッ!」
おぼれかけて飛び上がりながら叫ぶ。
「うーん、やっぱり襦袢越しだとあんまり感触良くないですねぇ。ちっ」
「舌打ちしたよ! 一瞬でも同情した私の損害を賠償してよ!」
立ち上がって湯船から出ようとして、ヒカルはハッと気付いたように、自分の胸をかき抱いて湯船に沈む。
「なにこれ! 濡れて透けるじゃないですか!」
「そりゃまぁ、襦袢って白いですし」
にじり寄る沙弥。
「それだけならまだしも、肌に吸い着くし!」
逃げるヒカル。
「胸やお尻が強調されてセクシーですねぇ」
「確信犯だこの人!」
「賠償として今後の生活費は面倒みますから、東京に出てアタシらと一緒に暮らしません?」
「知能犯でもあるよ!」
「香坂さんは十五歳の頃、どのくらい胸大きかったですかね?」
「プライバシーまで侵害してきた!」
「早く人間に戻って、成長したいんですよアタシ。そうしたらこう、もっと胸もお尻もですね、大人サイズにポヨンと」
「すっごい下世話な理由で不死捨てるんですね!」
「アタシにも香坂さんくらいになるチャンスあると思います?」
「私に訊かれても!」
沙弥に迫られ、ヒカルは後じさりするように後ろへと下がっていく。やがて隅に追い詰められて、積まれた岩の祠にぶつかった。
「さぁ冗談はこれくらいにしといてですね」
「嘘だ絶対嘘だ機会さえあれば私を拉致していく気だよこの人」
「今は機会じゃなさそうなんで、それはまた後で」
「ポロッと本音言っちゃったよ」
「温泉は人を身も心も裸にするもんですからねぇ……本音だって漏れるってものですよ」
「いいこと言った風を気取ってるよ、温感ないくせに」
「で、香坂さんの家系が先祖代々、この温泉と、そこの祠を人目から隠して、守ってきたらしいことは、もう確かだと言っていいと思いますけども」
「なにをどこまで信用して聞けばいいのか分からないよう……」
メソメソし始めるヒカルをよそに、沙弥は話を続ける。
「どうして隠さなくちゃならなかったのか。こりゃね、本当に武田かどこか、武将の湯治場だったんでしょう。相当な隠しっぷりですから、戦国武将だとか、お大名クラスの実力者でないと作れないですよ。手紙に書き残しちゃった
「ううーん……やっぱりそうなんですかねえ……武将の隠し湯かぁ……」
「他の誰にも奪われないよう、無防備な入浴中を敵に襲われないよう、温泉の場所は余人に知られちゃならなかった。ただの隠し通路じゃ、なにもない場所に出入りするのを見咎められることもある。でも小さくとも神社があれば……参拝者って
「武将とか殿様が、お忍びで入りに来てたって……いうことですか。そうすると、そんな隠し湯を守ってきたウチの家系って、いったい……?」
「想像でよろしけりゃ……ここを守るよう命ぜられたご家来、ってところでしょうか。おぼろげですけど、戦国時代の武田家にゃ、香る坂だったか、高い坂だったかのコウサカって家臣がいたように記憶しますよ。その一族から選ばれた一家が、お殿様が大事になさってる隠し湯を守る密命に、四百年間、従い続けた……」
沙弥が語り終えると、ヒカルはよろめき、湯船なのでおぼれかけた。
「入る人もいないこんな温泉のために、四百年も……ウチの家は縛られてたのか……」
その声音には、呆れと怒りが入り交じっているようだった。感極まって、
「……馬鹿じゃないの」と漏らした声は、涙まじりだった。
「伝統って、怖いものですよ」しみじみと、沙弥は言った。「今までずっとそうやってきて、悪いことは起きなかった……それを変えてしまうのが、どうしても怖くなっちまうんでしょうね。でも、アタシから言わせてもらえば、『変わらなくなること』の方が、よっぽど恐ろしいことですよ。ええ、アタシら〈
沙弥が指で示した先で、メンドゥは表情のないまま、ひたすらデッキブラシを動かしている。
「無感動、無感情、なにをするにもメンドクセぇ、珍しく動けば、ああやって昔のことを繰り返すだけ。四百年、死ななかったモノの姿がアレですよ。四百年、ただ続いてきただけのモノの末路ですよ。それと似ちゃいませんか、香坂さんのお家も。誰に知られることもなく、ただ
「そ、そりゃ私だって……」
言いかけて、ヒカルは口元まで湯に沈み、ぶくぶくと泡を浮かべた。言っていいのかどうか分からない言葉を、そうやって湯に溶かしたようだった。
「香坂さん、四百年の伝統なんて捨てっちまっていいんですよ。ご先祖が殿様から言いつかったお役目は、もう充分過ぎるほど果たしました」
沙弥はヒカルの背後の祠を指さしながら言った。
「不老不死なんて聞こえはいいけど、望んでそうなったわけでなし、アタシは捨ててみせますよ。香坂さんだって、望んでなった崇敬者の立場でなし、霊感を捨てたいと思われるのと同じように、ただ古いだけで役に立たない伝統なら、捨てっちまってもいいんじゃありません?」
ヒカルは背後を見やり、祠の扉や、汚れたしめ縄に触れた。合わせ扉の真ん中には、封印ということなのかお札のようなものが貼られているが、これは祠の見た目ほどには古びていない。ヒカルの両親が施したものであろうか。
「これも、お父さんお母さんが、綺麗にしたり、手入れしてたのかな」
「縛られ続けたご両親やご先祖には申し訳ないですが、はっきり言って、代々の掟に縛られるのは人生の
「きっついこと言いますね……」
「香坂さんは、気持ちの持ちよう次第ではそこから逃げ出せますからね。まだある機会を不意にさせるわけにゃいかないんですよ。アタシも、望んでもいなかった〈
「逃げてもいいものなんでしょうか、こういうの」
「逃げるってことを後ろ向きに捉えずに、前向きに考えましょう。この場所には背を向けてても、新しい場所からすりゃ、前のめりに突き進んで来てるってことです」
祠を見上げるように姿勢を低くしたヒカルは、また沈めた口から泡を吐いた。
呼吸のため姿勢を正してから、祠に顔を向けて――しかし言葉は、沙弥に向けて投げかけた。
「すぐに、踏ん切りつけられませんが……でも、気持ちが楽になってきました。しっかり考えます、これからのこと。前向きに逃げるってこと」
「よし釣れた」
「今なにか?」
「いいえ別に」
ざぶざぶとヒカルの横に移動してきた沙弥は、
「そんじゃもう一つ、やっときましょうか」
と言いざま、躊躇なく祠の小さな扉に手をかけた。
「うわーッ! なにすんですか!」
「アタシの目的でもありますし、ご神体の正体も見極めてやりましょう。隠し湯がただの温泉だったんなら、お宝の希望はもうここにしかないんですよ」
止めようとしたヒカルだったが、沙弥が封印を破り扉を開けた瞬間、息を呑み、それから逃げるように背後へのダイブをふたたび決めた。
「おや、どうしました香坂さん」
「……そっか、感じないんでしたね……オーラというか、なんというか……中から溢れてきたもの」
ヒカルの霊感は、沙弥や常人の目には見えないなにかを、しっかりと感じ取っている。触れるものを切り裂いてしまいそうな、鋭い気配が祠の中から発されているのだった。
それ用の飾り棚に安置されていたのは、先ほどヒカルが口にしていた短刀――それも、
「ドスにしちゃ、ちょい長いか。でも脇差しとしたら、随分短い。これがご神体……とすると、泣澤女神ってのもフェイクだったか。祀っているのは明らかに違う神さんですね。……刀の側面には特徴的な彫刻……なんだか金銭的な意味でもお宝って感じがビンビンしますねぇ」
ヒカルも立ち上がり、身体を隠しながらおそるおそる、沙弥の肩越しに祠を覗いた。
「ほ、本物の刀ですかそれ……初めて見ました……なんだか、すごく綺麗」
「四百年前からここにあったんだとしたら、由緒はありそうですねぇ」
会話はそれで途切れた。
二人は、周囲の気配に変化が起きたことを感じ取っていた。ヒカルが感じ取った、刀身から発されるそれではない。また異質の、ぞわりと
ヒカルは無言で、自分を守るように自身の身体に手を回した。
「あー、ちくしょ。競争には勝ったと思ったんだけどねぇ」と苦々しげに沙弥。
空気が流れていた。
天地を切り取った湯船からの光景。その中で、目には見えぬ風が、渦を巻き始めていた。
洗い場の男二人も、空気の変化に気付いたようである。
「な、なんか僕、寒くなってきた気がします」
ガン助はいそいそと脱衣場で衣服を着ようとし、メンドゥはあらぬ中空を見上げながら「……メンドクセ」と感慨を漏らす。
沙弥は高速で二礼二拍手一拝を済ますと、祠の短刀を手で掴む。ヒカルはそれを咎めることもなく、沙弥の背後へと移動していく。
なにかから、隠れるように。
「この、感じ……なんだか、身に覚えが……あれは、昨夜の……」
「香坂さん、アイツの方へ目を向けちゃなりませんよ、また心を囚われます」
沙弥の言葉に、ヒカルはぎゅっと目を閉じた。
「先生はまだあの金髪ねえちゃんと遊んでるのかねぇ……こりゃ作戦をしくじったね」
沙弥の視線の先、風景の中央にゆらっと浮かんだ陽炎。その揺らめきが徐々に強まり、風景がゆがみ、ねじれ、色が壊れて混じっていく。
すべての色が混じり合って生まれるのは――黒。
漆黒の衣装を身にまとった、皺だらけの男――いや、半人半魔のダンピール、トミスラヴが中空に屹立した。
『再会できてなによりだ、〈
金色の中に浮かぶ、紅の虹彩。異様な目が、欲望を乗せて鈍く不気味に輝いた。
「ウチの用心棒は、肝心な時に役に立たないねぇ」
ヒカルをかばいながら、沙弥は短刀を逆手に持ち、身構える。
にぃ、とトミスラヴは笑いかける。
『俺に必要なもの、すべてがここにある』
(続)
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