急の三 戦いしもの

「メンドゥ、香坂さんをお守りしな! たまにはしっかり働くんだよ! ガン助も、まだ死んでなかったら手伝いな!」

「メンドクセ」

「はっ、はひぃ、でもどんな風に……」

 男衆はあまり頼りにならなさそうだ。ガン助の場合は、トミスラヴ出現で驚いて死ななかっただけ、頑張ったのかもしれない。

「封印らしきものを破って取り出した途端に嗅ぎつけるたぁ……この短刀が本物の神宝だったことはこれで間違いない。不老不死とは縁遠そうだが、せめてものことで安心したよ」

『昨日はいなかった男どもがいるようだが……小僧は使い魔の屍鬼グールか。大人の方は、〈死なぬものインモルタリータス〉か? 群れているとは珍しい。フン、男の血を吸う気はないが、〈死なぬものインモルタリータス〉の血なら、浴びても効果がありそうだ……』

 湯船に近付いてくるトミスラヴ。そこから目を離さぬまま、沙弥はトミスラヴからヒカルを隠すようにジリジリと位置を変えていく。

『水……いや、湯か。なるほどこれが伝え聞く東洋のオンセンというものか。野蛮。なんとも遅れた未開人の風習だ。それとも、吸血鬼の弱点を考えに入れてのことだったか?』

 いよいよ湯船まで達したトミスラヴは、歩調を少し緩めて――湯に足を乗せた。

 波紋が広がるが、沈み込みはしない。空中を歩くダンピールは、水の上も歩く。

『あいにく、このように動かぬ水では、俺の足を止めることすら出来んよ』

 吸血鬼は、流れる水を渡ることは出来ないという。弱点の一つと伝承されていた。しかし温泉の湯は流れているわけではない。トミスラヴにはなんの障害にもなっていなかった。

「言葉は通じないってのに、いちいちよく喋るねぇは」

 トミスラヴはクロアチア語を喋っているので、沙弥にはまったく通じていないのであった。

「み、弥勒さん、弥勒さん」

 沙弥の背後に身を隠しながらそう声をかけるヒカルは、言われた通りに目を閉じたままだ。

「これは……この感じは、昨夜の魔物……ですよね?」

「半人半魔、ダンピールのですよ」

「なんですその名前」

「覚えちゃいないんで、渾名で」

 そのトミスラヴは、水面に立ったまま、値踏みするように沙弥、ヒカル、そしてメンドゥやガン助を見回している。臨戦態勢の沙弥と比べると、余裕が見て取れた。

「もうなんでもいいです。その、また追っ払えますよね? ね? ね?」

「さぁーて……」自信なさげに、沙弥は小首をかしげた。「アタシは〈不死者アンデッド〉ですからやられやしませんが……アタシだけで追っ払えるかとなると……」

「えええええ昨夜はなんとかなったじゃないですか」

「ありゃ用心棒の先生がいましたから、アタシも余裕ぶっこいてましたんでね……オマケに湯の中じゃ、〈アキレスの不死〉の足の速さも生かせない。やー、いろいろしくじった」

 沙弥はちらりと流し目で洗い場の方を見た。メンドゥが湯船のふちにしゃがみ込み、お湯に視線を落としているのが見えた。

「なにしてやがんだメンドゥ! 早く香坂さんをお守りしな!」

 するとメンドゥは非常に嫌そうな顔をして、

「濡れる」

 と不満を述べた。

「テメェあとでくび切り落として頭だけ焼却炉に放り込んでやっからな」

「メンドクセ」

「はわわ、じゃあ僕が」

 ガン助が湯船に走り込んだ時、トミスラヴが指を立てた手で、銃を撃つような仕草をした。

 轟音とともに上がる水柱。ガン助の身体は湯によって打ち上げられ、低くない天井にぶつかった。

「ガン助!」

 巻き上げられた湯が、今度は雨のように降り注ぐ。ガン助もまた、力無く落ちた。ふたたび上がる水柱。ぷかりと湯に浮かんだガン助の肉体からは、動く気配がなくなっていた。

「あ。ダメだ死んだ」

『妙な動きをせず大人しくしていろ、屍鬼グールめが……と、なんだ今のでもう壊れたのか? 役立たずの家来を連れているな、〈死なぬものインモルタリータス〉よ』

 せせら笑うトミスラヴ。感情は言葉の壁を乗り越える。トミスラヴの思考を敏感に読み取って、沙弥は苦々しげに顔をゆがめた。

『〈死なぬものインモルタリータス〉、〈浄きものサスペンディッセ〉。さてどちらを先に供物と為すか……』

 先ほどと同じように、立てた指を銃のようにして、沙弥に向けるトミスラヴ。長い舌を出し、唇を舐めるように動かすと、

『これは目移りがするな』

 トミスラヴのその言葉。とぼけた表情。迷ったようにくるくる円を描いた指先。沙弥の側背かつヒカルの眼前で、小さいながらも鋭く弾けた水柱。すべてがチグハグで、相手の意表を突くものだった。言葉が通じていれば、なお効果的であったろう。

 音と、全身を襲ったお湯の飛沫に驚いて、ヒカルは思わず身を引き、目を開けた。逆に沙弥は、音の方からヒカルをかばおうと、身体を動かす。引いたヒカルと、割り込む沙弥。

 結果、ヒカルとトミスラヴの間に障害物がなくなった。

 にぃ、とトミスラヴが笑う。目を見開く。金の地に紅く輝く目。そこから発された不可視の波長に囚われたヒカルは、反射的にそちらへ目線を動かし――

 そして、金紅の光に射貫かれた。

『まずは〈浄きものサスペンディッセ〉からだ』

「いっけね……わッ」

 沙弥が気付いた瞬間には、もう遅かった。心を囚われたヒカルは、トミスラヴの意思に操られて、沙弥に飛びついて湯の中に押し倒した。

 細首にヒカルの手がかかり、締め付けながら湯の中に沈めようとする。〈不死者アンデッド〉ゆえに溺死することはないのだが、苦しさは感じるのか、沙弥は手足をばたつかせて抵抗した。痛覚はないはずだが、それと呼吸を失うことの苦しみは別なのかもしれない。

 事、ここに至ってもメンドゥは面倒くさそうな顔をして湯を眺めているだけで、沙弥を助けようとする気配も見せない。実は少し前から、幽体となったガン助がメンドゥの周りで浮きながら、『メンドゥさん、なんとかしてください』と懇願の声を発しているのだが、メンドゥもまた、幽体になったガン助の声は聞こえないようだ。

 トミスラヴが水面を歩き、無表情で沙弥を沈め続けるヒカルに近寄っていく。幽体のガン助がヒカルの前に飛び出して、『目を覚ましてください』と声をかけたのだが、今のヒカルには聞こえていないようだ。ガン助は諦めて、ヒカルを守るようにダンピールの前に立ちはだかる。

 トミスラヴはガン助を気にした様子がなく、もしかすると幽体のガン助は見えていないのかもしれなかった。

『上気した肌に食らいつくというのも、なかなかにものがあるな』

 いよいよ迫るトミスラヴに、ガン助が意を決して体当たりのように宙を駆け出した。

『ぬうッ!』

 トミスラヴとヒカルの間を割って、竜巻めいた風をまとった黒い弾丸が空から飛び込んできた。さすがのダンピールも避けるよりなく、大きく後ろに跳びすさってする。

 健気なガン助が竜巻を呼んだ――のではなかった。その証拠に、彼は竜巻に巻き込まれて、幽体が千々に乱れて霧散していた。そんな状態でも声は出せるようで、

『うわあ、先生! 待ってました!』

 と、彼は誰にも届かない歓声をあげた。いや一人だけ――一匹だけ、それを聞く者はいた。

「すまんなガン助。巻き込んだか」

 竜巻をまとい飛び込んできたのは、猫又の先生であった。漆黒の毛並みには幾つかの新しい傷があり、つい今し方まで、何者かと戦っていたものと見える。

『存外、早かったな魔女の僕め。あの〈キリスト者カトリクス〉もまた、所詮は役立たずの家来、か』

 トミスラヴもまた、誰にも届かないつぶやきを漏らす。

 竜巻の勢いはヒカルをもよろめかせていて、その隙を突き、沙弥がついに逃れて水面に浮上してきた。

「ぶぅーわッッはぁぁー! 〈不死者アンデッド〉でも水中は苦しい! 学習した!」

「なにを遊んでいる、沙弥。吾輩が必死の思いで戦っていたというのに、おぬしは温泉遊びか」

「いつの間に来た無駄飯食らい! トロトロしてやがって金髪ねえちゃんと遊ぶのがそんなに楽しかったか! それともあれか、胸か! 乳か! 巨乳が目当てか!」

 先生も怒っているが、沙弥もまた本音ダダ漏れで激しく怒っていた。しこたまお湯を飲んだのか、叫ぶたびに口から霧のように水が飛ぶ。

「なにをトチ狂っておる! ラファエレ明石を遠ざけている途中で、この半魔に襲われたのだ。明石が魔眼に操られおって、二人がかりで攻められてさすがの吾輩も死ぬ思いをしたわ! それをその言い草はなんだ!」

 先生の身体の傷は生々しく血があふれ、弾痕すら見て取れる。

「つべこべ言うない! 〈不死者アンデッド〉なのに死にそうに苦しんだ雇い主をいたわりやがれってんだ!」

『突然、〈聖なるものサーンクタ〉の匂いが流れてきたので捨て置いてしまったが、……黒猫よ、その傷で、弱まった魔力では、もはや俺には太刀打ち出来まい?』

 先生が毛並みを逆立てて、警戒の色を見せた。二本の尻尾も、直立し倍ほどに膨らんでいる。

「気を付けろ沙弥、この半魔、やることが。吾輩とラファエレが接近したのを察知して、二対一で吾輩を倒そうと策を弄したのだ。力押しで来られるより厄介だ」

「昨日の余裕はどこ行った! しっかり働け用心棒ッ……ちょいと香坂さん目を覚ましてッ……うひぃ!」

 トミスラヴの魔力からいまだ解放されないヒカルが、ふたたび沙弥を湯の中に引きずり込もうと飛びかかる。

 飛沫を上げて取っ組み合う女二人のすぐ側で、メンドゥがいつの間にか、服を着たまま肩まで湯に浸かって、うつむいていた。

『匂いが混じりすぎ不快。不快だ……』トミスラヴが顔をゆがめた。『まず邪魔者のキサマを消そう、黒猫。〈浄きものサスペンディッセ〉の血を食らうのはその後でもいい』

 トミスラヴが足を踏み出そうとする。その爪が鋭く伸びて刃と化す。

 先生の身体の周囲に風が渦巻く。先生が発する黒い障気が渦を巻き、黒い竜巻を生む。

 すわ、両者の激突か、というところで――

 湯船の外、空から人が落ちてきた。

「ひいーやあああああァーああぁー」

 すんでの所で、湯船からそこだけ出っ張った祠に手がかかり、命拾いをしたのは――ラファエレ明石であった。

「あー! あー! 死ぬ、死ぬー!」祠によじ登りながら全力で悪態をつく明石。「そこにいたか猫又ッ! こんな断崖で置いていくな、危ないだろうが!」

「急が起きたら捨て置くぞと最初に言っただろうが!」

「だからってあとちょっとだったじゃんか! 気ぃかせろ妖怪! 誅滅ちゅうめつすっぞ!」

「吾輩らを魔と勘違いした上、狩るべき魔に操られた大失態、雪辱せねば帰るに帰れぬと、おぬしが泣いて頼むから連れてきてやったのに、なんだその言い草は! どいつもこいつも!」

「うるせー! 無責任に放り出しておいて偉そうに! 引き受けたら責任持て!」

 この二人の間には、そういう協定が結ばれていたようである。

『匂いが混じりすぎるわけだ……よもや〈キリスト者カトリクス〉までもがここに来ていたとは』

「おまえもいたか! ダンピールのトミスラヴ、父と子と聖霊の御名において、ローマ教皇庁〈十三じゅうさん階段かいだん機関きかん〉が誅滅する!」

 しがみついていた祠から、おっかなびっくりに湯船の縁まで移動しながらの決めゼリフでは、格好がつかないこと甚だしかった。

「ぷあーっ!」取っ組み合いから顔を上げた沙弥がラファエレを目に留めた。「わーっ! なんでコスプレ巨乳がここに!」

「コスプレも巨乳も言うな! なんだか分からない魔物めが!」

 ラファエレが〈教戒きょうかい兵器〉の拳銃を前触れなくぶっ放す。それは沙弥には当たらず洗い場の地面で弾けた。

「危ねぇ! こっちにゃ香坂さんもいるんだぞ! このお人は被害者だ被害者!」

 そのヒカルが、またしても沙弥に覆い被さろうとする。

『ここでは喜劇でも上演しているのか』

 トミスラヴが手を開いて、ラファエレに向けて突き出した。するとラファエレが「あぐっ」と一瞬、苦しそうに声をあげ、その身体が宙に浮き始める。

『失せろ、腐ったブドウめ』

 なにかを放り投げるようにトミスラヴが伸ばした手を空の方へ向けて力強く振ると、ラファエレの身体が勢いよく中空へと飛んでいった。念動力。黒猫の先生と同様の力。

「え、ちょっ……とおおおおッ!」

 空中に放り出されたラファエレの身体が、重力に囚われて落ち始めた瞬間――

 放り出された時の逆回転映像のように、中へと勢いよく戻って湯船にダイブした。

「ああああっつぅういいい!」

「暴れんな! 風呂の作法も知らねぇのか金髪!」

「さ、差別発言だ! これだから狭い島国の閉鎖民族は!」

「コスプレもダメ巨乳もダメ金髪もダメじゃ、他に呼びようがねえだろう!」

「普通に名前で呼べよおお!」

 立ち上がって言い合う二人の横で、「あ、あ……れ?」とヒカルが呆然としていた。

『黒猫……やはりキサマを先に消すべきだった』

 トミスラヴが憎しみを込めて睨み付けたのは先生。ラファエレを空中に投げ出したのがトミスラヴの念動力なら、その身体を中へと引き戻したのは、先生の念動力であった。

目論見もくろみを読まれて悔しそうだな、半魔。ついでにもうひとつ」

「あひゃあッ?」驚きと悲鳴の入り交じった声と共に、ヒカルの身体が湯船から浮き上がり、先生の背後へと一気に移動する。洗い場にぺたりと腰を下ろしたヒカルは、もはやトミスラヴの魔眼から解放されたようだった。

「おぬしの魔力、同時に二つは発現できぬと見た。半魔の哀しさだな。思えば先ほどの戦いでも、おぬしは爪で直接、吾輩を切りつけるばかりであったわ。……そうして念動を使ったおかげで魔眼が消え、娘は解き放たれた。守りに集中すれば、吾輩もまだおぬしと渡り合える。そして数ではこちらが上だ」





(続)

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