序の二 地を這うもの
炸裂の火蓋は、吸血の化生が落とした。前触れなく走り始めた速度は人類最速レベル。十メートルあった少女との距離を一秒で詰めた。少女は動けなかったか、動かなかったか。
頭ごとぶつける勢いで、吸血の化生は鋭い牙で少女の顔面を噛み砕く――
しかし牙は、空を切った。
化生は数歩行き過ぎ、振り向いた。
「ちょいと、お嬢さん。大丈夫かい?」
化生が先ほどまで立っていた場所に、今、少女がいるのだった。二人の位置は入れ替わり、その距離は、今もまだ十メートル。
少女は香坂ヒカルに声をかけつつ、化生から目を離していなかった。着物の
「足の速いのが取り柄でねぇ。アンタごときに遅れはとらないよ」
声をかけられたおかげか、ヒカルが、ようやく意識を取り戻しつつあった。まだ
『キサマ……人間ではない、な。嗅いだ。くはは、嗅いだぞキサマの匂いを』
化生が、その本性とも言える牙を剥き出しにして、笑い混じりに言った。
『この甘やかな匂い、〈
両眼の金紅が輝きを変えた。歓喜と欲望の輝きが、和装の少女へと注がれる。
化生が自らに向けてくる感情を察したのか、少女は、生理的に嫌いなものでも見つけてしまったかのように、顔をゆがめた。
「うぁ……気持ちワル。なんだってんだろね、いきなり笑いだしやがって」
「おぬしの血を吸いたくてたまらんと、そんな風だな、あれは」
くぐもった声がした。老人というほどではないが、年のいった男性の声だ。
「おや先生、起きてくれましたか」
少女が顔を向け、声をかけた先は――自分が手に提げたバスケットだった。
「あの勢いで揺すられたら、死んでいても目を覚ます。
「言いつけには背いちゃいませんよ、さっきのは全力じゃありませんでしたからねぇ」
「屁理屈を。結果は同じだ。しかもこんな吸血鬼……いや、半魔と揉め事を起こしているとはあきれかえる」
「半。ああ、人間ハーフの吸血鬼、ダンピールってのがいましたっけね」
改めて和装の少女――謎の声は沙弥と呼んだ――が、吸血の化生を見やる。目から、牙から、狂気を放出させながらダンピールは身体を震わせていた。
『キサマの血が必要だ、〈
叫んで、跳んだ。飛んだと見まがうほどの速さと高さだった。走った時以上のスピードで斜めに宙を駆け、この場の闇を形作る巨大な壁面へと。
「え、そっち?」
異様なスピードも、沙弥は目では捉えていたものの、なぜ横へと跳んだか理解不能だったようで、一瞬、表情を緩めた。
そうやって、虚を突くのが目的だったろうか。
ダンピールは立体駐車場の壁を三角飛びに蹴って、ふたたび宙を駆けた。
今度こそ沙弥をめがけて。
腕を引き絞り、鋭い爪を突き出す。爪の軌跡が
迫る。
『ぐあっ!』
爪が沙弥に突き刺さる寸前、ダンピールの身体がなにかに弾かれたように吹き飛んだ。壁とは反対側、鉄道高架のコンクリート柱めがけて。
激突する寸前で身体を回転させて、柱に着地したダンピールは、そのまま立ち上がった。――重力を無視して、コンクリート柱に、真横になって。
『今のは〈
真横に屹立した姿ではあったが、髪の毛や、着ている服などは重力に従って、下方向へ流れていた。重力は正しく働いている。ではこの真横に立つという現象は、どうやって。
それが、吸血鬼としての力か。
沙弥は、そんな化生をみやりながら、また誰かさんに声をかける。
「先生、どうです?」
「純血の吸血鬼ならいざ知らず、半魔ごとき」
その声と同時に、バスケットの蓋を固定していた留め具が勝手に外れた。少し持ち上がった蓋の下から、するりと――首輪のない黒猫が地面に降り立つ。
『ぬぅ』と声を発したダンピールだが、その声には、理性による納得の響きがあった。『黒猫……魔の従者を連れていたか。〈
「吾輩になにか言っておるような気がするが、半分とはいえ同族だと、やはり心は読めんな」
今度は猫が喋った。先ほどから、沙弥が話していた初老めいた男性の声だった。
異様に長い舌で口の周りをぺろりとなめ回す。まっすぐに立てた尻尾は、根本から二股に別れている。
古来、長じた猫は妖怪〝猫又〟に
「まあ言葉が通じずともよい。どうせ
「よっ、先生、男前ッ」
「茶化すな、馬鹿者。それより、これは用心棒働きだ。一仕事、高いぞ」
「ええ、ご褒美……じゃないや、報酬のお肉とお酒、ホテルに用意させますから」
「和牛と吟醸な」
先生と呼ばれる猫は、一瞬、目を細めて陶然としたようだったが、すぐにまた瞳孔の開いた目を見開き、ダンピールの方へ尻尾を揺らしながら歩き始めた。
しかしダンピールの方はというと、猫の先生ではなく、どこか別のところに意識が向いているようで、いろいろな方へ顔を向けては、鼻をひくつかせて匂いを嗅いでいる。
『ブドウが腐ったようなこの匂い。間違いない、〈
「……なんだこやつ。先刻までやる気満々だったくせに、よそ見しおって」
横向きだったダンピールが、顔の位置は変えずにを身体だけを回転させ、直立する姿勢になった。まだ少しおかしいのは、立っているのが空中だということ。
『面倒なことだ……ここは一度、退いてやろう。〈
その言葉は、猫の先生ではなく、沙弥へと向けられていた。
「ん? アタシになにか言ったのかい」
沙弥の驚きが届く前に、ダンピールの姿が泡立つように闇に溶け始めた。まるで黒い水面に沈んでいくように肉体が欠けていき、すぐに全身がかき消えてしまった。
「ほほう、半魔にしては器用なことを」
「のんきに見てないでくださいよ先生、逃げっちまったじゃありませんか」
「逃げるなら放っておけばいい」
「なぁんですって、不真面目な用心棒だねまったく。ご褒美、もとい報酬あげませんよッ」
「む、それは困る。仕方ないな。気配を追ってみるとするか……」
猫の先生は尻尾を丸めながら、闇の先へと走り去って行く。溜息をつきながらそれを見届けた沙弥は、ようやく意識がハッキリしてきたらしい、香坂ヒカルの肩に手を置いた。
「お嬢さん」と、年上に見える相手に話しかける。「身体の具合は大丈夫かい?」
「は、はい、なんとか……大丈夫、です。あ、あの今、猫が……喋ってませんでしたか?」
「あう、いやー気のせいじゃないかい……猫なんてほら、いないもの。そんなことより、ここは暗くて危ないからね、移らないと。立てるかい?」
「すみません……ありがとうございます」
沙弥に手を取ってもらい、ヒカルは頼りなげに立ち上がった。
そこへ、
「とうとう見つけた!」
怒鳴り声が明るい道路の方から響き渡った。
「はい?」と二人が目を向けたそこには、キリスト教のシスターが着る修道服――とはちょっと違う、アレンジが効いたデザインのワンピースを着た、金髪セミロングの長身女性が立っていた。ヒカルと同じくらいの年齢にも思われたが、日本人とも西洋人ともとれる顔立ちが、彼女の正体を不明にしている。伸ばした指先を勢いよく突きつける動きに、たわわな胸が弾むところは、どちらの血のなせる業であろうか。
「クロアチア、ザグレブ大司教区からの手配により、ダンピールのトミスラヴ、おまえを父と子と聖霊の御名において、ローマ教皇庁〈
(続)
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