急の段 ――聖なるもの

急の一 失いしもの

 暗い地下通路を照らすのは、沙弥が持ち込んだフラッシュライトだけだ。おぼつかない足下を率先して歩きながら、沙弥は、どこそこが危ないと、続く一同に注意を呼びかける。

「平坦なのが幸いですが、想像以上に長いトンネルですね……もう十分は歩いてるってのに、まだお先真っ暗。崩落防止の梁が組んであるんで、人工的なのは間違いなさそうです」

「いや、もう……私にはなにがなにやら、です。井戸の底にこんなものが……続いてたなんて。こんなの私が知ってる泣澤神社じゃない……」

 二番目を行くヒカルは念のために、発見された掃除用具をまとめて持って来ている。

「湯の匂い」

 沙弥の荷物を背負わされつつ、三番目を歩くメンドゥが、鼻をひくつかせながら独り言のように呟く。

「えっ……あ、本当ですね」とヒカルが同調した。「たくさんのお湯……温泉の匂い。本当に隠し湯だったの?」

「おや、匂いまでしてきましたか。だとしたら、こりゃ本物ですね。泣澤神社とは世を忍ぶ仮の姿、ご神体とは実は霊験あらたかなる温泉であった、と」

 少し他人事のように匂いに言及する沙弥に、ヒカルは首をかしげながら言葉をかける。

「弥勒さんは、まだ匂い感じません?」

「ああ、アタシには〈不死者アンデッド〉になって以来、嗅覚がないんですよ」

「え、そ、そうなんですか……ごめんなさい」

「別に謝られるようなことじゃありませんよ、気になさらないでくださいな」

「僕も匂いは分かんないです」

 最後尾を歩くガン助も同調してきた。

「ガン助くんも? でもメンドゥさんは分かるみたいだし……〈不死者アンデッド〉って言ってもいろいろなんですね」

 道はさらにしばらく続いた。時間はかかるものの、暗がりをゆっくり進んでいるため、距離は時間ほどに進んではいない。

「アタシにも、湿気が感じられるようになってきましたよ。……足下もちょいと水っ気が出てきたようだし、温泉は近いようですね」

「ウチのご先祖はなんだってこんな隠し湯を……神社まで建てて偽装するなんて」

「武田の隠し湯……ってぇ話が、本当っぽくなってきましたね。隠し方が本格的ですから」

 さらに数分歩き続けると、通路が開けて空間に出た。一気に光が爆発した先には――

「うわーっ……」と、ヒカルが呆れたような声を上げる。

 空から見れば、山腹を半球にえぐり取ったように見えるだろう。そこは、まさに露天の大浴場だった。

 内側から見れば、半円にくりぬかれた風景が、さながら銭湯に描かれるペンキ絵のようではある。だがここにある雄大さは、絵とは比べるべくもない。山に挟まれ谷があり、川が流れ、遥かに霞んで平地の広がりがあり、覆い被さるような青空にはわずかな雲がアクセントをつけている。地平遥かには富士山すら見ることが出来た。

 風景の手前には、洞穴の幅めいっぱいまで広がった岩の湯船があり、切り立つ岩肌からお湯が注ぎ込んでいた。

 空から吹き込む風が、湯気を揺らめかる。湯船の手前は平たい石が敷き詰められていて、言うなれば洗い場を形成していた。

 空との境界である湯船のへりにひとつ、祠のような小さな構造物があった。ささやかながら屋根があり、木製の扉があり、しめ縄のような薄汚れた縄が飾られている。

「なんとまぁ、立派なことで……」沙弥もまた、呆れたような感心したような。

「すっごい! 露天風呂って僕初めてですー」

 ガン助は楽しそうだ。そしてメンドゥは無言無表情。

 湯船の反対側、風雨も吹き込まないであろう洞窟の一番すみ、数畳分の範囲に簀の子が敷かれており、その辺りは衝立ついたてで他の場所からなんとなく区切られている。

そこには古びた籠やタライ、木桶が置かれている。脱衣場としてあつらえられたとしか見えなかった。

「あっ、あそこで脱ぐんだ」とガン助が、その一角へ向けて小走りに駆ける。

「お父さん……お母さん……我が家は本当に、武田の隠し湯を守ってきたんですか……いったい何者だ、ご先祖……」

 予想外のことに茫然自失のヒカル。その背の荷物から、メンドゥがデッキブラシを抜き取った。ずかずかと湯船の方へ近寄っていくと、湯に浮いていた木桶に手を伸ばし、湯を石畳にまき始めた。そうやっていくらか床を湿してから、ブラシでゴシゴシと掃除し始める。ヒカルはその様子を見てようやく、メンドゥが草鞋を履いていることに気付いた。

「なにしてんだい、メンドゥ」と沙弥が尋ねる。

「昔……」今回は素直に、メンドゥは答えた。「湯治場とうじばで働いてた」

「昔取った杵柄きねづかってヤツか。それでさっき、道具を見てピンと来たんだね」

「お先に失礼しまーす」

 ヒカルと沙弥が首を巡らすと、ガン助が裸になって湯船に向かっていた。やはり全身が死者の青白さである。

「え、ちょっとガン助くん」

 血色は悪いものの、ガン助の堂々たる全裸っぷりに、ヒカルは目の遣り場に困ってしまう。

「ちょいとガン助、誰も入っていいとは言ってないよ」

「ええー、もう脱いじゃいましたよ」

「ちゃんと管理者の許可を取ってからだ。さて香坂さん、どうですかね」

「あ、その、えと、なんて言うか」

 大いにうろたえてから、ヒカルは肩を落として言った。

「……ま、いいんじゃないでしょうか」

「わーい!」

「掛かり湯、浴びてからにおしよ。ついでに、浮いてる枯れ葉やゴミかき集めときな」

 手桶で湯を汲んで、何度か身体にかけてから、結局は湯船に飛び込んだガン助。犬かきではしゃぎながらも、言いつけ通りに湯に浮いたゴミを集めているのがいじらしい。

「さて、霊感のある香坂さんとしちゃどうです? このお湯そのものから、なにか気配を感じたりしますかね」

「いえそういう力じゃないんで……あれ、でも……」

「なにか感じますか!」

「……うーん、お湯よりも、あの小さな祠……ですかねぇ、感じるものがあるとしたら。なんとなく、でしかないですけど」

「おっと、そういうことでしたか」

 自分でも湯船に近寄り、着物の裾が濡れないように気を付けながら、しゃがんで手を湯に浸す沙弥。

「うーん。ギリシャの泉のような、神々しい雰囲気があるわけでもないねぇ、変若水おちみずじゃなさそうだ。おかしいな、絶対になにかあるはずなのに……」

「その自信はどこから来てるんですか」

 トミスラヴが、この地に神性の秘宝を求めてやって来たことを知らないヒカルは、沙弥が確信を持っていることに納得がいかない様子だ。

「となると、手紙にあった霊験ってなぁ……。ちょいとガン助、湯加減はどうだい?」

「こんなに大きなお風呂に入るのは初めてですー。すごくあったかくて気持ちいいー」

「生き返ったりはしないかい?」

「ほわー。生き返ったような気分ですー」

「気分じゃなくて、もっとこう、

「って言いますと?」

「心臓が動き始めたとか」

 言われてガン助は、自分の心臓に手を当てたり、手首の脈を診たりする。

「特に動いてないみたいですよー」

「ちょっと待って、聞き捨てなりませんね」ヒカルが表情を暗くして沙弥の肩を掴んだ。「どういうことです、心臓が動いてないって」

「アラ、さっき言ったじゃありませんか。あの子は死体が動いてるタイプの〈キョンシーの不死〉ですから、心臓は動いてないし血も流れてないんです」

「あ、身体があったまったせいか、動きやすくなりました」

「やっぱり多少温めた方が死んでても動きはいいのか……でもその熱で腐敗したら困るからね、ほどほどにしときなよ、ガン助」

「はーい」

 ヒカルがドン引きしつつガン助を見やる横で、沙弥が思い切ったように立ち上がった。

「少なくとも身体に悪い湯ではないようですし、アタシらも、いっちょ湯浴みさせていただこうじゃないですか」

「はぁ。まぁご先祖様も、今更文句言わないでしょう……」

「それじゃ、行きましょうか香坂さん」

 ヒカルの手を取って、沙弥が脱衣所の方へズカズカと歩いて行く。

「わ、私もですかッ?」

「アタシもって言ったじゃありませんか」

「それって私のことですか! メンドゥさんじゃないんですかッ?」

「アイツは掃除したいようだからさせときましょう。ご両親が亡くなって以来、手つかずだったんでしょうから、時間もかかるでしょうしねぇ」

「うわーん! 人前で裸になんてなれませんよぅ!」

「女同士、裸の付き合いだっていいじゃないですか。ガン助はまだ子供ですし」

「メンドゥさんがいるじゃないですか!」

「アイツでしたら、こっちを気にしやしませんから、平気ですよ。そういうことすら、アイツにとっちゃもうメンドクセぇことなんですよ。それに、ご先祖が代々守ってきた温泉、味わってみなきゃ損ですよ。そうそう、こうしたらどうでしょう、アタシのコレでよけりゃ、襦袢をお貸ししますから、湯文字ゆもじになさったら」

「湯文字、ですか」

 昔は入浴時にも、専用の肌着を身に付けたまま湯船に浸かっていた。女性用のそれを湯文字と呼ぶのである。

「素っ裸がお嫌でしたら、なにか着たまま入れば問題はないってわけで。まだ籠は数があるようですからね、ホラホラ」

 あれよあれよという間に長襦袢一枚に着替えさせられ、同じく肌襦袢一枚になった沙弥と一緒に入浴することになったヒカル。イヤイヤ気味だった彼女も、いざ湯に浸かってみれば、ほうっと気持ちよさに嘆息する他ない。

 ガン助は入れ違いに湯から上がり、裸のままメンドゥの掃除を手伝い始めた。そのメンドゥ、沙弥の言葉通り入浴する二人には注意を払わず、ひたすら床掃除に励んでいる。たまに、手桶に湯を汲みに湯船へ近付くのだが、ヒカルがびくっと怯える様子に目もくれない。徹底して無視である。

「残念ながら、入った感じ、このお湯は変若水とかの仙水じゃなさそうですねぇ……手紙にあった〝霊験〟ってなぁ、傷の治りにいい泉質ってだけか。……そちらお湯加減はいかがですか、香坂さん」

 衣類を身につけたまま湯に浸かるのは初めてのヒカルだったが、その慣れないところは表に出さないまま答える。

「なんか、思った以上に気持ちよくて、不思議と悔しい気分です……景色もいいし。あっ、あれ富士山だ……ところでメンドゥさん、面倒くさがりの割には、勤勉なんですね」

「昔ナントカをやってた、ってのがアイツのスイッチみたいでしてね。たまにああして、昔やってたことを無心になってやり出すんですよ。先行きになにひとつ期待や希望を持ってないんで、過去がフラッシュバックするんでしょうかね」

「過去に生きているってこと……ですか」

「少なくともアイツぁ、現在すら見てないですからね」

「それにしても無心というか、なんというか。本当にこっちを見もしませんね」

「〈不死者アンデッド〉になると、三大欲求が失せちまうようでして。異性への興味なんかも失せますね」

「三大欲求。睡眠、食欲、それから」お湯のせい以上に顔を赤くして、「せ、性欲……ですか」

「左様で。眠れない食べられないってわけじゃないんですが、そうしなきゃ死んじゃうってぇ切迫感がなくなりますのでねぇ」

「不死身になるとお腹すかないんですか。ダイエットにいいなあ……」

「たまに『物足りなさ』が襲ってくるんで、そういう時はなにかしら口にはしますよ。もっともアタシにゃ、味も香りも分かりませんが」

「え? ……嗅覚がないって聞きましたけど、味も?」

「アタシの〈アキレスの不死〉ってのが、どうやら『肉体が外部からの刺激や影響を受けない』とか、『肉体の状態が固定されて、変化しない』ってことのようでしてね。傷つかない足が速いってのはいいんですが……拳銃の弾を食らうのも外部からの影響なら、舌が味を感じることも影響、刺激らしくて。味覚と嗅覚と痛覚が、アタシにゃないんですよ。触覚や視覚聴覚が残ってるのがせめてもです。ま、それがないとさすがに生きていけないんで、要は〈不死者アンデッド〉として生きるのに不要、不都合な感覚が消えたんでしょう」

「それは……私にはちょっと、どんな感覚なのか想像つきませんね」

「だからアタシがなにか食べるとしても、味も香りもしない、をモグモグやるだけ。説明も難しいですね。この一事いちじだけで、不老不死なんざクソッ食らえと思いますよ、ええ。オマケにね、熱だって外部からの刺激なわけで」

 沙弥はそう言うと、手でお湯をすくい上げ、顔にぱちゃっとかけた。

「実はこのお湯だって、アタシにゃ温度が分からないんですよ。温感もないんです。体温だって、いくら浸かってたって変わりやしない。あったかくはならないんです。それでも、ただの人間だった頃と同じように、たまにこうしてみたくなるのが、未練ですねぇ……」

 その言葉を裏付けるように、上気して頬にほんのり紅がさしたヒカルに対して、沙弥は先ほどまでと変わらぬ顔色で、汗のひとつさえ浮かべてはいない。

 ヒカルは言葉を失ったように、沙弥の言葉に聞き入っていた。

「ま、他の二人は味覚も温感も失っちゃいないようなんで、ホント、〈不死者アンデッド〉それぞれではあるんですが。アタシはこんな不老不死なんざ、願い下げですね」





 (続)

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