頂いたレビューからのスピンオフ日記です。←なに
阿瀬みち「夏のはじまりを切り取って。」(青葉の風吹く頃には) - カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883203998/reviews/1177354054883233380>異性の一人称を書かれる上で心がけていることなどはありますか?
>いつもとても自然に読めるので、どんな秘密があるんだろうと気になっているんですが……。
というお尋ねを頂いたので、それについて自分で考えてみました。城島リーダーと同い歳のオッサンだけど。
自分の執筆時を振り返って見ると……
なんも考えてないな。
いやそれじゃ返答にならない。実際、その時その時で「こうすべし」と心がけているものは存在しないのだが、すでに「習い性」になっていて、意識しなくても常にそうなっている、ということは幾つかあるなと気が付いたのでした。
それに触れてみると、次のようなことです。
1)筆者は、執筆時は役者、読み返したら演出家・監督
2)その人がどんな人間かは意識するが、性別は特に意識し(てい)ない
1)について。
自分では、小説を書く際に、「今、書いている人物」の内面に入り込み、その人がどう考えているか、心を動かしているか、が反映できるようにしています。役者としてその人の役柄を演じる感覚です。
「女性の人物像」を考える/なりきるための材料は、これまでの見聞や体験から必死こいて引っ張ってくるわけですが。
作品の世界観によって違いはありますが(コメディ要素のありなしなど)、こうすることで、デフォルメが過大になったり、ご都合主義な人物像に陥ったりはしにくいようです、実感として。
大げさである方が作品として都合がよい(ギャグとか)場合はありますが、それは人物というよりキャラクター性を演じることになるんでしょう。
ただ、演技に身が入るあまりに物語の全体像やプロットから逸脱してしまうこともちょいちょいあるので、役者として書きながらも、書いてきたことに演出家・監督として目を光らせ、おかしなところや不都合があれば、微調整していくことも必要です。まさしく劇団ひとり。
2)について。
性別というのは、その人を構成する重大な一要素ではあるけれど、その人「以前」にあるわけではない、という感覚が自分の中にあるようで、実際に書いていて、女性だ男性だとかを意識することはあんまりないようです。
これは、今回考えてみて初めて自分でも気付きましたが。
変な言い方になりますが「女性」や「男性」を描こうと思うことはあっても、「女性性」や「男性性」を描こうという意識はないのですね。
「これこれこのような人物。女性」「あれがああなってそんな人物。男性」という感覚で人物を作っていて、性別はその人を形作る土台にはなっているけれども、描くのはあくまで「そうして出来上がった、『これこれこのような』の部分」なので、改めて性別を意識することはない、ということです。
もちろん、「これこれこのような」は性別からの影響を受けますが、それは設定の範囲なので、執筆時にはすでに影響は強くなくなってます。
結果として、男性から見た際の「アイコンとしての女性性」は欠落しているんだと思いますが、それがかえって、女性の側から見たらナチュラルな女性像に近いと見えているんではないかなと。
逆に男性目線だと「面白みがない」女性キャラクターを描いているんだと言えるかもしれませんな。