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一人称話者における小説に対する自覚と無自覚

……なんてものがある、ということを昔から考えておりましてな。_(´ㅅ`_)⌒)_ 書くことのリハビリとしてそんなんをつらつら覚え書きしてみる。


さて本題。
一人称小説において、話者(つまり一人称の当事者、主体者)が、『これは小説の文章である』ことをどれだけ自覚しているかによって、文章は変わるということなんだけれども。

自分以外にこんなこと言ってる人は今まで見たことないので、ピンと来る人もいないかもしれませんが。_(´ㅅ`_)⌒)_ いや違う言い方で言及されてるのかな。



端的に言えば、

『よう、俺、山田達郎。高校二年生。仲間内じゃタツローって呼ばれてるぜ』

なんて具合に、自己紹介から始まるようなスタイルは「小説(あるは“物語られるもの”)であることに強い自覚がある」と言える。言い方を変えれば、こうした話者は、小説であることを前提として知っている(メタ視点がありえる)。

こういう作風だと、一人称話者から「読者」へ向けた説明文なんかも、特にひねりを入れることなく盛り込んでも不自然にはならない。

反対に、小説であることに無自覚とはどんな具合かというと、読者への説明的な説明がなかったり、小説・物語的な形式よりも自然さ、日常っぽさ(日常系という意味ではない)が先に立つようなものか。ちょっと具体例を挙げることが難しい。




自作で例えれば、掌編集『みひらき物語』の一人称は自覚的であることが多い。短い中で小説として成立させるためには、どうしても自覚度が高い方が良いという技術的選択だ。特に『創作者の憂鬱』はかなり自覚度合いが高い。短編だと『壷中天』が高い。べらぼうに高い。ただしクライマックスでその自覚はちょっと揺らぐ。ある意味では、その「自覚の揺らぎ」を演出に利用していると言えなくもない。

自覚が低い例は、短編『昇る日』だろうか。あれは自覚度30%未満という感じだ。
『∠Cを~θの悲劇』も低めだが、『昇る日』ほどではないし、第一章と第二章とで話者が違うため、作品内で自覚度合いが異なってきている。第一章の話者のほうが自覚度合いは低く、第二章はより高い。




自分の中で書く際には、特徴として、自覚が高いほど叙景・叙事が、低いほど叙情がそれぞれ詳細になる、ということがある。
小説であることを自覚する話者は「読者の手前、説明しとかないとな」という意識が立つので、読者向けの文章や構成にしやすい。

対して無自覚な話者は、他人に語っているわけではないので自分の心の動きに応じた言葉を紡ぐ。自作例として挙げた2作品で、登場人物のフルネームがほぼ登場しないのは、他人に語ることを意識していない話者にとっては、「フルネームなどいちいち意識しない」からである。また、叙情というか、話者の感性をベースにした表現が増えるので、前述の自覚が低い例として挙げた二作品のレビューに、「繊細」という評価が共通しているのはそういう理由もあろう。


自覚の度合いは文体にもやや影響する。自覚度が高い場合、しっかりした「文章語」として書くことが多く、無自覚な場合はより話語(話し言葉)や俗語口語に近付いていく。「文章であることを知っている話者」でなければ「文章語」にはならない、と考えるからだ。

例えば個人的に、無自覚な話者で敬体の「である」は使わない。「である」は文章語の最たるもの、みたいなイメージがあるから、無自覚な話者に使わせると矛盾を感じてしまうのだね。



_(´ㅅ`_)⌒)_ こんなこと考えてしまうから筆が重いのだろうなぁ俺。



さてこの文章、特に着地点を考えていないのだが_(´ㅅ`_)⌒)_ どうすべかね。うまくまとめられれば、『カクヨムでヨミカキ』に項を立てるのもいいんだが。

なにやらよく分からんかった……な人はコメント欄で質問をどうぞ(だいたい来ない

13件のコメント

  • いろいろ拝読していますが、初めてコメントさせていただきます。

    自覚と無自覚の書き分けの感覚、わかります。とはいえ〈小説であることへの自覚〉という表現を得るまで、もやっとした感覚に過ぎませんでした。
    若干うるさいかと察しますが、思い付いたことを列挙させてください。

    歴史小説での台頭を目論んでいます。
    史実ベースの歴史小説では「何を語るか」の骨組みは既にあるので、「どう語るか」を常に考えます。歴史の教科書や学術論文みたいな「説明・解説」にしないために、視点人物や一人称話者は「生身の言葉で時代を語る」自覚的な存在として機能させるよう心掛けています。

    最近、幕末ものを書いたとき、例えば冒頭の沖田総司の章で「時は元治元年6月(1866年7月)の一夜、おれ、沖田総司(21)と同僚の斎藤一(21)は武装し、浅葱色の羽織を着て、尊攘派の企てを阻止するため池田屋事件の現場へ向かっている』という情報を、だらだらした説明にならないよう文中に組み込むにはどうすればいいか、かなり試行錯誤しました
    もう一方の話者、斎藤一はスパイとして時代を見聞きしているので、彼自身の本質的な視点が客観的でした。しかし、スパイ業務に苦悩する場面では視野狭窄を起こし、執筆の勝手がガラリと変わったのですが、〈『壺中天』での「自覚の揺らぎ」の演出〉の説明を見て納得しました。
    私は無意識のうちに話者の自覚度を変えて、その演出効果を狙っていたようです。そうした書き分けを意識できるようにならないと、上達しませんね。今一度、自分の原稿を振り返ってみます。
    『壺中天』、昭和の文学作品のような宋代の民間話本のような独特な雰囲気が素敵でした。

    個人的には、ブログみたいな文体の「自覚度の高い女性一人称」がとても書きにくいです。等身大のはずが、書きにくいんです。話者である彼女の中に入り込んでいると、呼吸のリズムが違う感じでひたすら苦しく、その上、苦手な恋愛ものとなったらもう全然ダメです。
    自覚度というキーワードで、自分が何に苦手意識を持っているか分析できました。

    〈「である」は使わない〉、わかります。
    カクヨム小説では、話者や視点人物の語彙や言葉遣いではあり得ない文体(小学生はそんなしゃべり方しないでしょう、みたいな)に、よく出くわします。文章自体がうまくても、登場人物が年齢不詳になっている作品は、話に入り込めません。
    普通の口語体なら逆接は「~だが」より「~だけど」だろうし、生身の言葉に近いのは「俺は刀を抜き、晴眼に構えた」より「俺は刀を抜いて晴眼に構えた」かなと思います(あるいは「刀を抜く。構える」だけ)。
    細かいんですが、文体と話者の性格の一致度は気になります。

    街コンのときは『さよなら、海鳴りの島、父のいた学び舎』へのレビューをありがとうございました。今さらですが、お礼申し上げます。本当に嬉しかったです。
    松枝蔵人先生からいただいた同作へのレビューに一人称についての言及があったので、引用します。

    〈〝無邪気〟に語る一人称の貴重さ。〉
    〈〝邪気〟にみちた一人称が氾濫する中で、これはすがすがしい一編。〉

    一人称の「邪気」って何でしょう?
    作中の話者を差し置いて、作者自身がしゃしゃり出て語ることかな、と思ったのですが(体裁としては話者の「俺」で話が進んでいても、無自覚なはずの「俺」がぶれてメタ視点になるなど、作者自身の都合が見え隠れする作品がありますよね)。

    もう1点、レビューから。これは鈴川くんという若い作家さんの短編『僕の好きな人。』に対して、浅原ナオトさんがつけたレビューなんですが、

    〈久しぶりに一人称小説を読んだ気がする。もちろんそれは単に「一人称で書かれた小説」という意味では無い。視点人物と一体化して、視点人物の感じることを視点人物の感じるままに、鮮明に違和感なく書けている小説を読んだということ。〉

    『僕の好きな人。』は、今の鈴川くんにしか書けない、無自覚な一人称小説だと感じました。ほかの作品も素敵なんですが、『僕の好きな人』は勢いと迫力が違います。


    物凄く長くなりました。
    考察の一助になれば幸いです。引っ掻き回しただけかもしれません。お邪魔いたしました。
  • _(´ㅅ`_)⌒)_ やや、これは氷月さん、おいでませ。Twitterの方もフォローはさせていただいたんですが、直接のやり取りは初めてでしたねそういえば。

    小説に対する自覚、やはり言語化までされずとも、肌感覚では感じられるもののようですね。一定の「書き慣れ」は必要なのでしょうけれども。


    歴史小説は難しそうですねえ。三人称も多かろうと思いますが、個人的にあの「高い視座」からの文章というのがちょっと(書くのが)苦手なもので、あの分野でがんばってる方はすげぇなと思います。
    この「三人称における視座の高低」も、一人称の自覚度と並んで文体の重要なファクターとしてあれこれ考えてる要素でして、そのうちこれもなんか触れようかな_(´ㅅ`_)⌒)_ 


    なんとなくですが、自覚度が高いか低いかの違いは、作者である我々の性質が、舞台や映画における「監督・演出家」に近いか、あるいは「役者」に近いか、ということと関連するような気がしています。
    これは、作家が「監督・演出」ですと、登場人物(=役者)から一歩離れたところから全体を監修して書き進めますが、「役者」だと、今書いている場面や人物にいちいち強く感情移入・没入しながら書いていく、というような感覚です。

    で、この感覚はコメントの〈話者や視点人物の語彙や言葉遣いではあり得ない文体〉というところにもちょっと関わるなあ、とコメントを読んでいて気が付きました。以前、そうした作品に触れたことがあるのですが、そうした文章的な齟齬以外はすごく良く出来ていたのです。小説全体の総合力と、部分部分での人物性のズレ方がとても不思議だったのですが……(これだけ総合力高くて何故これくらいのところがダメだったのだろう、という不思議さ)

    監督と役者という作家の立ち位置の違い、そうした原因として考えられそうです。

    自分なんかは「役者型」なので、たとえ人物がJKといえどもすっかり中に入り込んだつもりで書くので、語彙とかもそこに合わせるように心がけていますが、そういうタイプじゃない書き手の場合には、そうしたところに気が回るまでなかなかいかない、ということもあるかな、と。

    ふむふむ_(´ㅅ`_)⌒)_ ちょっとコメントいただいたおかげで少し整理が進みそうな感じです。

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    余談的な方で_(´ㅅ`_)⌒)_ 『さよなら、海鳴りの島、父のいた学び舎』は実に良かったです。ラストはまるで慟哭のように「聞こえました」。まさに耳にしました。あれはなかなか書けるもんじゃないと思います。

    松枝蔵人氏が「無邪気な(邪気のない)」と評するのも、感覚的には分かるうような気がしました。
    別の、俗な言い方をしてみれば「読者への媚び」が、構成にも文体にもなかった。伝えるべきことを丁寧に無駄なく、過剰になることもなく並べていったという印象です。潔さを感じます。しかもそれは、諦めの産物ではない。
    読者への「配慮」と、「媚び」って違うじゃないですか。そういう違いを先生は看破しておられたのかなぁ、と外から見ていて思いました。


    そして_(´ㅅ`_)⌒)_ 浅原ナオト氏。拙作にも、作品の構造上の意味合いまで喝破した上、簡にして要を得たレビューをいただきましてな……ううむ、やはりあの人、タダモノではない……ご紹介の一文だけ取れば、俺が書いたこととほぼ重なっているように思えます。感性が近いのでしょーか。
  • しつこく現れました。
    媚びませんが、たまに懐きます。


    三人称の長編歴史小説を徹底指導された際、作者である私の「立ち位置」について、しばしば指摘を受けました。

    「その皇帝を説明する地の文は主人公の視点・思考を介さず、もっと離れて、当時の一般論として書くべし」
    「年号は読み飛ばされるから、ここは神の視点で何年何月と言うのではなく、主人公の肌感覚で『伯父の死から何年、あの日と同じ寒い季節』とすべし」

    私も「役者」型なので、視座を高くする場合にも、「後世の我々」まで引いたアングルでは物語から離れすぎるようです。「当時の客観論・一般論」に寄り添った高さ、立ち位置でないといけない。司馬遼太郎にはなれません。


    私が浅原ナオトという人物を知ったのは、久保田先生の近況ノートがきっかけです。「誉められてる。なんか悔しい」と。
    ゲーセンでハイスコア狙い→ファミレスで無駄に熱い議論→カラオケでアニソンとロック、という大学時代みたいな遊び方をしたら楽しそうな人です。

    以前「理想のレビューとは?」について客観型と主観型に分けて論じたとき、浅原さんは典型的な客観型、私は変種の主観型という結論に至りました。分析的な理系脳の浅原さんは、並外れてクレバーでマニアックですよね。マニアックは誉め言葉です。

    書き手としての浅原さんは「監督・演出」型ではないかと感じます。
    舞台演劇風の『おまえはすでに死んでいる。』は話者がショーの進行役を担う格好だし、『僕とぼくと星空の秘密基地』は大人になった「僕」が子ども時代の「ぼく」を俯瞰して自分語りをする構成で、そうした作風の傾向から、作者は物語から引いたところにいる気がします。全体として、浅原さんの一人称小説は自覚度が高い印象です。


    余談ながら。
    私の書く文章の本体は「肉声」です。書き出しや締めの一文は、口を突いて声として出てきた言葉だし、校正でも必ず音読して、スムーズに発声できる文章になるまで変えたり削ったりします。
    小学生のころに毎日続けた国語の教科書の音読が、私の言語感覚の根底にあるからだと思います。方言と標準語の使い分けや切り替えも当時からです。
    音読できる、グルーヴを感じられる文章が好みです。

    お邪魔しました。
  • 奇しくも私がレビューしたお二方がなにやら楽しそうなお話をなさっているようなので、私も参加させてください(笑)。

    一人称、たしかに難しいですね。長大な一人称小説である「地球獣ボコイ」を書いている本人なのですから、身にしみて感じています。(お二人の熱のこもったレビューは拝見して励みにしております)

    語り手が対象をどのようにとらえ、どのように感じ、どのように反応していくかを、つねに読み手に納得できるように語っていかなければならない、ということでしょう。

    するとどうしても語り手の行動に制約がかかり、周囲で生起する事象に対して受け身になるか後追いになりやすい。けれども、語り手の生き生きしたキャラクター性を担保するためには、独白や思考の流れをたどる行為は避けて通れない、と。

    そのような困難さを日々感じながら進めており、もうすでにこのまま押し通す以外ないなあというところまで来てしまっているのですが、これはこれで、特異な生い立ちをした10歳の女の子が間近に見聞した革命戦争というくくりができればまとまるかな、と思っています。

    私は小学校四年生で漱石の「坊ちゃん」を読み、惚れ惚れしてこんな文章を書ける小説家になりたいと思い立った人間ですが、あの「坊ちゃん」こそ見事な手本となった〝一人称小説〟だと思います。

    「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている……」そんな書き出しだったと思います。流麗な文体で、毒舌にみちた批評や突き放した他者への批判を繰り広げる。にもかかわらず、それが同時に自己批評になっており、度しがたい居直りとなり、それがまた読者には颯爽とした主人公像を印象づける、という二重、三重のしたたかな〝一人称〟を形成しているのです。

    私が若い頃、『私小説』というのはもっぱら批判の対象とされていた感があります。甘い自己憐憫と甘い自己処罰の欲求を無批判に垂れ流す小説、とされていたわけです。時代は変わっても人間の表現意識にそうは違いが出てくるわけもなく、そのような〝甘さ〟に淫した語り口は一人称小説に限らずいくらでも見受けられます。

    堅苦しく〝文学〟などという言い方をしなくても、作者の中から〝モノ〟の手触りを獲得したうえで吐き出された言葉でつづられたものでなければ、それは〝作品〟ではなくレポートか作文でしかないのです。

    それはずいぶんレベルを下に下げた議論なのですが、〝読むにたえない〟とか〝小説になってない〟と印象される文章というのは、このような咀嚼、自己批評という手続きをすっ飛ばして書き散らされた言葉が羅列されている場合がほとんどであるように思われます。

    〝モノ〟というのは、それ自体に光沢や色合いが感じられ、作者にも読者にもひとしなみに手応えを感じ取れるもの、という意味です。〝モノ〟であれば、だれもがそこに反応を起こし、共通な何かの感興を誘い出されるはずなのですね。そういうモノを提出する、届けることで、ようやく作者が作者として認知され、存在を許されるというほどのものなのではないでしょうか。

    お二方の議論はそこから先の一人称の技術論まで踏み込まれてのお話ですが、長大な一人称で書いている私としては、そこはしっかり前提として、無条件に押さえているつもりだという点をまず申し上げたかったのです。すくなくとも、語り手の「コトコ」はどんなに難しい言葉や言い回しを使おうが、一言たりとも彼女らしさは失っていないはずだと思っています。いかがでしょう?
  • 久保田様 はじめまして。
    大変興味深いテーマで議論というか意見交換されているのを見て、図々しくも書き込ませていただきます。

    私ももっぱら一人称視点で物語を書いており、皆さんの指摘していること、留意していることなどとても身に染みる思いです。特に語り手の自覚度合、監督型と役者型の分類、視点の位置の話は興味深いです。
    さらに一人称小説の興ざめするポイントなども、もやもやと感じながら書いていることがハッキリと示されたように感じました。

    もともとのテーマである一人称の語り手の自覚、ですが私は語り手の時間軸に合わせて書いているような気がします。つまり現在進行形でセリフを語り考えているのか、それともすべてが終わった、またはある程度終わった時点で回想的に書いているのか、という感じです。

    現在進行形は読み手を意識せず、目の前の事象に集中して主人公が対処します。この場合は無自覚な感じが出るのかと。
    逆に事象の通過後はいろいろなことが終わった後で、事象の背景やその他の登場人物の行動の理由なども整理された後なので、ちょっと三人称的に、神の視点的に語ることができ、読者を十分に意識することになる書き方になるのかと。

    理想としてはこの二つを混ぜ合わせ、現在進行形のドライブ感と、読者にわかりやすい解説・説明ができる感じ、が両立できればいいなと考え試行錯誤しています。

    なんか議論のレベルが高くて、見当違いの投稿でしたらすみません。
  • 師匠 内容及び論点があまりに高度で、私如き修行中の弟子に書けることなぞございませんが、二点置いて行かせて参らせ候。

    1.これはぜひ、近況ノートで終わらせずに記事として仕立てて頂きたい→ただし懸念が一点。記事投稿の場合、この場で起きているような非常に興味深い議論をレビューや応援コメントでしか実現できない点が残念。

    2.皆様が論じておられる書き手目線からの諸々を、一般の読み手目線に転換した時、それぞれの拘りの書き方や表現方法はどのように映るのか。読み手にとってそうした工夫や拘りはエンターテイメント要素としてどれだけ効果的なのか、そうした検証も併せて読みたいと思いました。
  • Σ_(´ㅅ`_)⌒)_ 賑やかになってまいりました!

    これはまたガッツリ書かねばならなさそうなんで、もうちっと時間が……(昼夜反っくり返り生活につきこれから就寝予定のクズです)

  • ミーハーな余談だけ置きに参りました。

    松枝先生がカクヨムにいらっしゃることを知ったのは、松枝先生が久保田先生の『カクヨムでヨミカキ。』につけたレビューを、トップページの新着一覧でたまたま目撃したからです。
    だから、松枝先生が「奇しくも私がレビューしたお二方が」という書き出しでコメントされているのを見た瞬間、何だかもう言葉にならなくて……!

    松枝先生の『瑠璃丸伝』を高校時代に読んだことが今の私の作風に大きな影響を与えているし、私が歴史学に進むきっかけにすらなったので、この記事のコメントの流れが嬉しすぎるというか幸せというか、本当にありがとうございます!

    『地球獣ボコイ』のワガハイが生意気でイキイキしてかわいいのは、そういうルーツだったんですね。ボコイに登場するアレンジ版幕末維新の偉人たち、すごく好きです。


    小説を書くにあたっての「心技体」のうち、「技」を教わる機会は作り得ても、「心」と「体」の感覚を語っていただく機会は貴重です。
    またこちらに伺います。しっかり学ばせていただきます。
  • えれぇコメント増えててガクブルしておりますが。こんばんは筆の重い久保田です。
    この場は議論とかではなくブレストみたいなもんだと思うので、その方向でまた思ったことなんかを、レスも交えて。




    氷月さんの話題で、文章の視座・カメラアイの高低(人物との距離感)というのは、本当に難しいですよね。世間的には「神視点」とかそういう言い方もあるようですが。
    個人的に、ミステリ小説という至極私的な距離感が基本形の小説で基礎を作ってしまったもんで、高い視座というのが、読むならともかく書く分にはどうもキツい。(苦手を意識しつつ書いたのが、応援コメントをいただいた『桶ひとつ』だったりします)
    レビューをもらった側として、浅原氏評はけっこう同感です。引いた視線が持てる人ですかねぇ。ちなみに氷月さんからはたくさんレビューをもらって、「作品の中に入って遊べるひとだ」という印象を持っていました。主観型、という自己分析に近いかもしれないですね。

    書くものが「肉声」というのは納得というか、実は同じかもしれません。自分は小説を書く時に、頭の中でだけですが「朗読しながら書いている」ところがありまして。頭の中で読み上げたものの書写、とでも言いますか。
    自分の場合は勉強なんかしなかったので、幼少期から舞台芝居の近くで育ってきたせいでありましょう。役者型になったのもそれが理由で。ということは、氷月さんの場合「内から」そうなり、自分は「外から」そうなった、とでも言い換えられましょうか。(言い換えてどうなる)

    そして二つ目のコメント――なにかこう、『縁』ってあるものですねぇ。合縁奇縁。ひとつの作品が、誰かの人生の羅針盤になる。なんともはや、素敵な話です。




    そして松枝先生(←あっ)、ご無沙汰しております。アッチの方は遅滞申し訳なく……(ショボショボ)

    >どうしても語り手の行動に制約がかかり、周囲で生起する事象に対して受け身になるか後追いになりやすい。けれども、語り手の生き生きしたキャラクター性を担保するためには、独白や思考の流れをたどる行為は避けて通れない<

    この部分は首肯しきりです。一人称の場合、主体者が語り部という「機能」を果たすと同時に、キャラクター性という「人物」も描かねばならないタイヘンさがありますね。『ボコイ』はさらに、コトコの年齢が低いことなどで、先の話題にしたような制約もまたかかるわけで。
    しかしあの作品の場合、誰もが知っている維新史をベースにした異史ということで、これは前にどこかで触れたことですが『読者と作者の共犯関係』によって、共同作業的に紡がれる作品になっていると思います。そのことがひとつの愉悦に感じられるのがいいですね、やっぱり。

    拙作『無制限アンデッド』でも「吾輩」が登場しますが、登場させるかどうか迷っていたあのキャラは、『ボコイ』のワガハイを見て、「ああ、エンタメとはかくあるべし」と踏ん切りがついて登場することになったのでした。やるなら大胆に! ということで。松枝さんの域とは遠いですが、エンターテインするということについての「気付き」、思い切りを知った作品です>『地球獣ボコイ』

    >作者の中から〝モノ〟の手触りを獲得したうえで吐き出された言葉でつづられたものでなければ<
    ここも非常に染み入ります。ちょっと簡易な方へ転換しつつ、自分の言葉で言い換えますが、『しょせん物語られるものは“ウソ”なのだが、それならそれで“だまし通せるウソ”でありたい』と思います。それには、本物と見まがうばかりのニセモノが必要になるわけで、それを忘れたくはないなと。(でもって、「だます対象」を特定の年齢や階層に区切っていないので苦しむわけですが……)
    情報としても、人間の感情としても、「ホンモノから生まれるウソ」で紡いでいきたいですね。

    そしてもちろん、『ボコイ』はその点も踏まえ、しっかりした土台で描かれたエンターテインメントであると思います。



    関川二尋さんはコメント欄では初めてですが、拙作『無制限アンデッド』に整ったレビューをいただいていまして、その節はどうもありがたい限りでございました。

    一人称の時制の問題もありますね。ぱっと思い浮かぶのは、戦前から昭和前半のミステリー小説であったような、
    「あのおぞましい事件の真相について、間近で見てきた私が書き残しておかねばなるまいと思った」
    「その時は知らなかったのだ、些細なこの出来事が、後に続く連続殺人の端緒であったことを……」
    といった体で書かれる一人称推理小説でした。これなんか完全に「物語は終わった」ところで「文章」が始まっているものですね。

    自覚度が高い場合、言葉が文章語に近付いていく。それは「文章として書き起こす」という行為と結びつくので、当然ながら、その行為のための時間が必要になる……と考えれば、なるほどそういう考え方もありですね。それは考えてなかった。ふむふむ。なにやら新しく発展しそうな感じがします。

    確かに、無自覚の場合には「現在進行形」の度合いが高いですね。これも分かりにくい言い方ですが。



    そんでもってはるさん、1はやるの難しいですな……
    ちょっと余談の方向へずれますが、あんまり『文章そのものの書き方』っぽい記事は、やりたくないのですよ。それくらいのことはもう世の中に、カクヨムにさえあふれかえってますし。そして個人的経験として、そういうのって小説の“面白さ”に対して、実作上はほとんど役に立たないんです。
    道具の使い方で頭を膨らませる前に、どんな道具が必要なのかを知る方が重要だと思っていて、それだから、「とにかくたくさん読む」ことをオススメしているわけなんです。「読む」ことはつまり、それだけたくさん“面白がる”ことに繋がるので。

    しかしまぁ2はちょいと面白そうではありますね。書き方ではなくて「読み方」の方になるわけですが、ふむ。面白そうだけど……難しい! やっぱり難しい!
    まぁ「読み方」ってのも、数を読む内に自然と身につくものではあろうかと思いますが。うーむ。どうすべ。






    ところで松枝さんのコメントを読んで、エンターテインメント作品について、ぼんやり思っていたことがちょっと言語化だけされてきました。それは、
    「娯楽として消費されるものと、その上で受け手に残り続けるもの」
    という、二つの「結果」があるのではないか、ということです。
    どっちが良い悪い望ましいということではなくて、読まれた結果論として、そういう二種類に道が分かれてしまうのではなかろうか。そう感じていたのですが、「モノ」のお話を見て、作る時点でもその別はあり得るのかな、また“選ばれる”時点でもすでに分かれているのかもしれない、と思い始めまして。
    (Web小説におけるピンキリの違いみたいなところも絡む発想)

    これは実作者としてあるいは読者としての興味や思考ではなくて、完全に傍観者というか観察者というか、外から見たもの(あえて言えば評論家的観点)なので、創作の話題とはちょっと違うのですが。なんとなくブレスト的に、ここに記すだけ記してみようと思います。

  • レポートです。
    と呼ぶには形式が砕けていますが、自分なりに考えをまとめました。下書き共有機能を使うほうがスマートだろうかと考えつつ、結局ここに書き込みます。



    1. 小説を書くことの前提について

    モノを書くことと電子媒体を使うことが直結しているのが「今」という時代です。読者の前に言葉を吐き出す行為は、私が古本屋を巡り巡って松枝先生の『瑠璃丸伝』を買い集めたころよりずっと簡単になりました。
    そのぶん、松枝先生のおっしゃる〈咀嚼、自己批評という手続きをすっ飛ばし〉た文章が「小説」と称して、web上で多くの人目に触れるようになりました。

    小説を公開することが容易になっただけで、小説を書くこと自体が容易になったわけではない。
    そこに勘違いがあってはならないと、今、改めて認識しています。


    作者は、作中で起こる出来事を「設定」するだけでは不十分です。想像の世界、〈ウソ〉の世界において確かに体験し、自分の五感でつかんだモノを表現しなければならない。基本中の基本ですが、他者から厳しい指摘を受けなければ気付けないものです。
    昨秋、以下のように指摘されました。

    〈読者は登場人物とともに歩みます。人物に共感し、感情移入しながら。歩けば埃が立つ、触れればひんやりと感じられるような小説(になるよう見直してください)。〉

    〈常に今目前にしている彼らの視覚聴覚など五感を駆使して描いていただきたい。映画は映像によって一瞬にして現在の情況を読者に見せます。小説は読者に映像を想像させるように書かなければなりません。想像力を刺激する描写。今、登場人物たちはどこにいて何をして、どんな風景を見ているのか? 今が昼なのか夜なのか? 黄砂が舞って視界はどうなっているのか? 歴史小説こそ、そのような皮膚感覚を大切にしたいものです。〉

    微に入り細を穿って情報を書き込めばいいわけではありません。指摘を受けた時点では、私が小手先で書いた文章は視覚情報が過多で流れが鈍く、アンバランスで、グルーヴがありませんでした。
    語りの流れを止めず、同時に、必要な五感情報を的確に提供する、リアリティのある情景描写をする。そのバランス調整の難しさを痛感します。



    2. 一人称小説に関する読者としての分析と自己分析

    一人称話者の〈自覚度〉について、作者にその肌感覚が存在するのは事実として、読者にもその演出効果が感じ取れるのか。「役者」か「監督・演出」か、作者の立ち位置は読者にもわかるのか。
    やってみようと思います。

    カクヨムで出会ったエンタメ長編作家の中で特にうまいと感じ、作品単位ではなく作家単位で好きになったカスイ漁池氏と浅原ナオト氏を例に挙げます。
    「一人称話者の主人公がヒロインにどぎまぎしながら返答する」シーンを比べます。


    【例 1】カスイ漁池『罪人のレプリカ』

     ああ、もう、頭が煮えるようだ!
     ぐるぐると着地点を見失って回転する思考の中、僕はこの場を切り抜ける妥協点を、ようやく発見した。なんとか顔を上に向け――ああ、全身が熱い、燃えるようだ――ぎこちなく、言葉を返す。
    (「第一章 第二節 12 呼び名の難易度」より)

    カスイ漁池氏は「役者」型かと思います。「体感」の描写が分析的で正確なので、カスイ氏が書く超常現象はひどくナチュラルで、読者の感性にしっくりと馴染むのです。
    自覚度が高めの、素知らぬ顔で凄いことや愉快なことをする、そんな文章を書く傾向にあります。読者に語り掛ける雰囲気があり(特に『感染性バスジャック症候群』)、読者は舞台演劇を「観ている」感覚に陥ります。


    【例 2】浅原ナオト『僕とぼくと星空の秘密基地』

     ここだ。ぼくが佐伯さんを好きになったのはここ。(中略)
     不思議なときめきに胸を支配され、ぼくは少しどもりながら答える。
    (「2-1」より)

    浅原ナオト氏は、主人公の行動や思考を一歩引いて描写する傾向があります。上に挙げた作品は、大人になった話者が子ども時代の思い出を語る形式なので(「ここ」は「この場面」の意)、その傾向が特に明白です。浅原氏の作品からは「監督・演出」型の作者の立ち位置を感じます。
    代表作『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』は、性的マイノリティであることを隠すため「客観的・分析的で周囲から一歩引いた」主人公の性格が文体と完全にマッチし、絶大な説得力を実現させた作品です。


    見解が正しいか否かは本人に確認するまでわかりませんが、私は御二方の全作を読んだ結果として、以上のように分析しました。〈自覚度〉というキーワードが与えられれば、読者も演出効果を感じ取り、説明できるのではないでしょうか。
    ただし、分析を受ける作者および作品がしっかりとした基礎力を備えていることが前提です。

    次に自己分析です。前掲と同じく「ヒロイン(時尾)にどぎまぎしながら返答する」シーンです。


    【例 3】拙作『幕末レクイエム』

     永倉さんの言葉に、皆、どっと笑った。冷やかされている。いつの間にか顔が熱い。どうしていいかわからない。
     何も言えずにいるうちに、(中略)時尾と二人、取り残された。どうしよう?
    (「三 斎藤之章 漆」より)

    私は話者と一体化する「役者」型です。ここでは話者の口下手に引っ張られる形で、狼狽するあまり一文が短く拙くなりました。
    私は、基本的には読者・観客を想定しない語り、つまり無自覚な一人称を書く傾向があります。口を突いて出てくる「肉声」を大事にします。「~だと思う」等の婉曲な表現(他者を意識した言い回し)を切り捨て、言い切り型の〈潔い〉文章を好みます。

    無自覚傾向の役者型の私の課題は、客観的事実を記述する場面(つまり読者を意識して自覚的に語るべき場面)でそれまでの文体との乖離が起こること。この乖離を演出効果として使いこなせるようにならなければいけないこと。これは三人称における「視座の高低レベルの調整」の問題とも直結すること。

    また「be動詞の文章」が多くなりがちな書き癖は改善すべきと、前段のアドバイザーから指摘されました。「be動詞の文章」は私小説のような内省的な文体になるから、私が目指す方向性とは合わない、とのこと。
    「~している」「~している」が連続する文章、「~だ」「~である」ばかりで構成される文章は躍動感に欠ける。動きのある文章を編むには「be動詞」ではなく「動詞」で表現する、と教わりました。
    指摘を受け、一行でも一字でも削ぎ落とすよう心掛けています。そうすることで不必要な「be ~ing」がずいぶん減ってきました。


    余談ながら、自分の文章が〈熱量がある、テンションが高い〉のだと、カクヨム上で関川さんたちから指摘されて初めて知りました。
    読者が感じ取る印象に、作者は時として無自覚です。他者からの分析は非常に勉強になります。


    分析はあまり得意ではありませんが、いろいろやってみました。

    物凄く勘が鋭く弁の立つ読者として、里宇都志緒さんがおられます。「読み方」の件に関しては、里宇都さんのエッセイやレビューが考察の一助になると思います。里宇都さんのレビューにうかがえる「遊び」には、私は到底かないません。



    久々におなかいっぱい学んで考えて、すごく楽しいです。この記事のコメント欄、永久保存版です。
  • 前回は〝一人称〟(の小説作品)についてざっと私見を述べさせていただきました。久保田さんからそれぞれについてのご回答というべきものも出されたので、私の言い足りなかったところなど、補足的にもうすこし言及させてください。

    〝モノの手触りを獲得した言葉〟という、わかるようでいてわかりづらいかもしれない言い方についてですが。

    わかりやすく例を挙げます。白い紙の上に一本の線でちょっとイビツな形の半円が描かれている。特徴的な突起や陰影がつけられていないにもかかわらず、〈あ、オッパイだ〉と受け取ることができる。それは、描き手がその一本線に〈オッパイ描くぞ〉という意志をこめ、ブレのない筆使いをしているからでしょう。

    しかし、描き手はさらに、形が認識されるだけでは不満で、柔らかさとか、弾力とか、肌のなめらかさといった質感まで表現したい。そこに至ってようやく〝うまい絵〟になるわけですね。

    さらに達人なら、そこに描いてあるはずのない、周囲のたたずまいとか、空気感、はたまたそのオッパイの持ち主の表情やキャラクターまでも、見る者にいやおうなく想起させてしまうことでしょう。

    われわれが一流の画家から受ける感興というのは、そういう表現意識に裏打ちされた技法の集積からくるわけです。〝モノの手触り〟というのはそのような感興を誘うものだと思ってください。

    ところが、優れた技法には模倣者がかならず現れる。あちこちから技法を学び、見た目には見事な筆致のものを仕上げることが可能になる。では、オリジナリティの有無は何が根拠になるのかといえば、過不足のない技法、要素が〝作品〟というものの成立にむかって一点に収束しているかどうか――表現意識の完全な実現に全体が寄与しているか否か、なのです。他のに似ている、影響を受けている、は関係ない。作者がすべてを統御していれば、すくなくともオリジナリティは担保されています。

    あとはオリジナリティの次元の問題で、モネやゴッホでは、さらに透徹した表現意識のとてつもない高さ、個性がダイレクトにこちらに伝わってきて、圧倒し、感動させるわけです。そこまでいかなくても、オリジナリティの実現はつねに目指されるべきです。想像力とは全身全霊を捧げる行為……というようなことを大江健三郎が言っていた気がします。

    これらを小説の場合に当てはめると、〈オッパイの認知〉はちゃんと書かれた通りに受け取られる文章であるかどうか、〈質感まで表現〉は緊張感、スピード感、魅惑といった雰囲気が伝えきれているかどうか。そして〈達人の域〉というのは、まるでキャラが生きてそこに実在しているかのように感じられたり、状況の切迫に胸が苦しくなったり、読後の余韻が深い解放感につながるというようなところまで行く場合でしょう。

    しかし、われわれ小説書きが使えるのは、かなり手あかがついたりくすんだりしている言葉のみです。色使いや筆のタッチが活かせる絵画と比べると、適当な喩えではないかもしれませんが、黒のボールペン一本なのです。ではどうやって描くのか?

    次の例は、久保田さんのフィールドに踏み込んでしまうのでうかつなことは言えないのですが、あくまでも私がとらえた見方ということでご容赦。

      《五月雨や 大河を前に 家二軒》

    蕪村の有名な句です。五月雨から大河とくることで、天を埋めつくして小止みなく降る雨と増水した川の流れの巨視的な光景が浮かびます。大河と家の対比からは、一転して悲しいほどのスケール感の違いが伝わります。

    しかし、ここまでなら凡百の詠み手でもなんとかたどり着けそう。蕪村のすごいのは、「家二軒」としたことですね。一軒では、心細さは出せても、それは集落から離れた場所にたまたまあった不運さとか、住人の孤独癖とか他の雑感が入りこんでくる。逆に、大河と無謀に雄々しく対峙しているとも取れてしまうかもしれない。

    でも、〝ニ軒〟だと共通の不安感が漂ってくる。そして、避難しようかと相談するわけでもなく、それぞれがひっそりと胸に不安を抱えつつそれぞれの日常生活を淡々と営んでいる。「五月雨」という、毎年巡りくる季節の宿命として。

    わずか17音を構成する言葉の連なりでこれだけのスケール感を表現し、そこに人の息遣いや人生の移ろいまで表してしまう。これは、読んだ私のたまたまの感想ではなく、〝モノの手触りを感じさせる言葉〟として、作者によって確固として対象化された言葉であるからこそこちらに喚起させることができるイメージであるはずです。

    詩歌は言葉による純粋芸術(を目指したもの)なので説明はわりと簡単なのですが、小説、さらにエンターテイメント小説というのは恐ろしく雑多な言葉の集積です。切れ味鋭い短編なら、どの言葉ひとつ抜けても成立しない、全体が全体に奉仕する言葉の連なり――ユニットというのもありうるでしょう。しかし、状況や過程を表すのにどうしても説明的な、つまり世間的な了解に依拠した言葉が入りこんで来ざるをえない。そのために、叙述が言い訳的になったり、文章を平板化させてしまうことになるのです。「ここは鼻をつまんで我慢して通ってください」ではいけない。

    地の文であれ、セリフであれ、説明ではなくいかに生きた人間の心から出た肉声として感得させられるかどうか――小説の叙述の問題というのは、まず第一にそれなのです。〝神視点〟でも実はまったく同様です。姿は見えなくても、そう言い切ることを作品全体が要請しているなら、それはやはりつづられなければならない言葉なのですから。

    私も実は、前回カッコつけて言い切ったほどの自信はありません。「おいら」は本当に自分の言葉で語りつくしているのか、ですね。氷月さんが挙げられていた司馬遼太郎で言えば、初期の短編や直木賞を獲った「梟の城」あたりまでの瑞々しさはすぐに薄れていき、「竜馬がゆく」ではキャラクターの魅力がエピソードを繋いでいるだけになり、「坂の上の雲」では魅力的なキャラクターは狂言回しにすぎなくなり、「翔ぶが如く」に至っては、西郷の雇われ弁護士の言説を延々と聞かされているようです。〝神視点〟の叙述というのは、それがないと作品がまとまらなかっただけで、それを書きたくて小説を書いたなんてことはないはずです。

    私が「ボコイ」を書く上で多くを依拠している司馬さんをくさすつもりは毛頭なく、では自分はどのレベルで書こうとしているのかと自問しているわけです。司馬さんはあんなに素晴らしい文学的感性を持ちながら、それを犠牲にしてまで誤った歴史認識やまかり通る(当時の)権威主義に対抗しようとなさったのでしょう。それは彼が避けて通れなかった時代の要請であり、戦後の社会悪を追及した松本清張とのニ大巨頭が背負った共通項だったのだと思います。

    でも、やっぱり司馬遼太郎の諸作はどれも書き出しが素晴らしい。それはたぶん、新作を書き出すときの心構えはつねに自分の作品にあこがれを抱く文学青年と同じだったからでしょう。そこにはまちがいなく〝モノとしての手触りのある言葉〟を書き連ねたいという願いがある。読まれてない方は巻頭の部分だけでも参考になさるといいと思いますよ。

    もっとも基本的なところで作家としての態度が問われる話題だったので、ちょっと熱くなりました。ですが、だれにでもわかりやすくて耳障りのいい了解のできた説明的な言葉は、やはり小説のツールではありませんね。読み出した読者を強引に作品世界に引きずりこみ、抜けられなくなるような言葉で書かれたものを目指すこと――「軽くてどんどん読める」と言われた「聖エルザ」を書き始めたときからの私の変わらぬ信条です。
  • 三日四日と間が空いてしまい申し訳ないことです。神奈川から東京へという程度ですが数日帰省しておりました。
    お二方のコメントそれぞれに、あれこれ想起するものあり刺さるものあり……で、かえってなかなかレスポンスがまとまらず(四方八方へ話題が散っていく
    あと毎晩酒に逃げているのもよろしくない
    今も呑んでますがグビグビ

    最後の松枝さんのコメントの前にお一方、ご新規さんがコメントしてくれていたのですが、さっくり削除されてしまっております。『作者のこだわりはどうでもよろしい、読者に喜んでもらうのみ』といった主旨のもので、ひとつの提起としては面白い話題だったので残念。
    ただ、細かな技術的話題が「こだわり」と見えたのでしょうが、ここでの技術とは、「読者に面白いと思ってもらえるものを作る」ために奉仕するものであって、決して読者を置いてけぼりにした作者のためのものではないことは、理解して欲しかったとは思います。
    (この「面白い」にも fun やら interest やら種類があって……とやり出すとまた止まらない)



    で、ようやくなのですけれども。

    とりあえず、蕪村のスケール感は大好物です。実家から岩波文庫の蕪村集を持ち帰ってきましたw

    そして松枝さんの俳句の例えから、実は俳句の「季語」が〝モノの手触りを獲得した言葉〟なのかも? とも思いました。
    季語というのは、現代においてはちょっとズルい言葉ともいえ、「この言葉はこういうモノや情景を指しており、それゆえにこれこれこのような季節感が含まれた言葉である」という前提を持っているわけです。すごく荒っぽく言うと「この季語が出てきたら、こういう季節感を感じるように」というお定まりのパターン化がされている。17音に多くのものを詰め込むための「自動化」された部分とでも言いましょうか。
    しかし、そのズルさ便利さは、実際にその言葉が季節の中で用いられ、人々の共通認識となっているからこそ獲得できたものです。この「季語として成立するに足るバックボーンの積み重ね」の部分に、〝手触りの獲得〟までの過程を見たように思いました。


    ひとまず
  • またまた松枝です。

    どうも私が強引に自分の関心事に話を持っていったために、肝心な〝一人称論〟の論点がずれてしまい、議論が止まってしまったようなので、これは私自身が戻すべきかなと、しつこく顔を出したわけです(汗)。

    久保田さんはこのノートばかりが膨れ上がってしまうのをお気になさっているようですが、どこまで書けるのかこの際やってみましょうよ。「カクヨムのノート1ページにどれだけ入るのか?」少なくとも最長記録を目指しましょう!(笑)


    元々のテーゼ
     >一人称小説において、話者(つまり一人称の当事者、主体者)が、『これは小説の文章である』ことをどれだけ自覚しているかによって、文章は変わるということ<

    第二のテーゼ
     >自覚度が高いか低いかの違いは、作者である我々の性質が、舞台や映画における「監督・演出家」に近いか、あるいは「役者」に近いか、ということと関連する<


    第一のテーゼに関しては、話者の立ち位置がどこにあるのかの問題なので、これはやはり文体の選び方の問題かな、と。久保田さんは「自覚の度合いは文体にもやや影響する」とおっしゃっていますが、このおっしゃり方だと、最適と判断して駆使していた(あるいは感覚的にそのように書き出してしまった)文体が、〝このままではこの論理展開は説明できない〟とか〝この感情の交錯は表現しきれない〟というような限界が執筆中の作者に突如痛感されることがある、ということではないかと思います。


    ……と、実は、ここのところから以下で、5人の一人称が交錯する自作の「聖エルザ」を例にとって〝自覚度〟の検証とストーリー展開の関係などを論じてみたのですが、どうもまたもや久保田さん、氷月さんたちの議論を外している気がしてきました。

    たぶん、第一のテーゼについては上記のような解釈でいいと思うのですが、第二のテーゼは方法論的な議論というより、「自分はどうしてもこのような書き方になってしまう」という実感にもとづく話題になっているのを、私が見過ごしていたようだと気づきました。

    これでは議論を元に戻すことにはならないので、思い切って書き直すことにしました。削除した分は保存したので、いずれ私のほうのノートへ移すとかするかもしれません。ツイッターでやっている「聖エルザ」の回顧企画ではたぶん言及しきれない切り口でしょうから。


    ということで〝演出家型〟か〝役者型〟か、ですが、私はどうやら登場人物に完全なフリーハンドを与えて語らせたり振る舞わせたりした経験がほとんどないようです。〝役者型〟というのは、おそらくその人物なり、その人物が語り手である物語それ自体に、自己実現というべき行為をさせようとする、しようとすることを許してしまう、という作家の資質のことでしょうか。

    であれば、氷月さんが愛読してくださった「瑠璃丸伝」の翔子という語り手に、期待感も込めてそれをやらせようと試みたことはあります。彼女はほぼ語り手という立ち位置でしたが、物語を主導させることはついにできなかった気がします。もちろん私の技量の限界ではあるのですが、あれだけの長さ(文庫7巻)を書いてしまうと、「こうは書けないのだな」という私の資質による傾向があることも否定できないと思います。

    また、それと同時に、私が前々回のコメントで言っている「語り手の行動に制約がかかり、周囲で生起する事象に対して受け身になるか後追いになりやすい」という宿命を負う一人称キャラが、どうやったら爽快なほどの自由さを発揮し、物語を主導できるのかという課題が浮かび上がってきます。

    ひとつの例証になると思われるのは、このサイトの多数の作品で試みられている、一人称キャラが読者の(あるいは作者自身の)欲望や要請を実現させるように書かれる行き方ですね。〝俺TUEEE!〟と言い表されるタイプのものでしょうか。このやり方が有効になるのは、おそらく叙述の半分以上が陶酔的な自己言及か、周囲に対する独断的な観察である場合だと思われます。これもたしかにひとつの方法論なので、徹しきって作品として成立させればある種爽快な読み物になることでしょう。もちろん、主人公の語り口に「坊ちゃん」のようなしたたかさ、しなやかさが必要とされるとは思いますが。

    そこまで行かなくても、一人称主人公のみずみずしい感性の染みた言葉で塗り上げられた魅惑的な世界の実現というのは誘われますね。文章をつづるという行為自体にそもそも自己表出、自己実現の願望があるからなのですが、それを〝肉声〟というか実感にもとづいて力強くやれるかどうか、このあたりが資質の分かれ目なのかな、と思います。客観、理性でどこからもツッコまれない文章を書こうとしてしまうのは、ある意味で臆病さの表れでもあります。もっと大胆に!果敢に!――とは、ほぼ毎日自分に言い聞かせている言葉なのですが。

    ついでに申しますと、作者として〝演出家型〟であろう私は、たしかにガッチリと組み上げられた作品を造形することに快楽を感じるわけですが、それと同時にキャラにもリアルさを持たせたいし自己実現もさせたい。とりわけ「マチウ」はそのつもりで書いています。ブランカを飛び出したカナリエルはもちろん、ロッシュはその途上にあり、ゴドフロアはつねに荷物を背負いながらそうしようと苦闘するでしょう。ではマチウは……と考えるとボーゼンとなりますが。くれぐれも説得力は失わせたくないものだと思います。となると、やはり私はシナリオも手がける〝映画監督型〟なのかもしれません。演技にもやたらに口を出すタイプのね。そのへんのこだわりについては、私の近況ノートのほうにも言及があります。よろしかったらご覧ください。
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