……なんてものがある、ということを昔から考えておりましてな。_(´ㅅ`_)⌒)_ 書くことのリハビリとしてそんなんをつらつら覚え書きしてみる。
さて本題。
一人称小説において、話者(つまり一人称の当事者、主体者)が、『これは小説の文章である』ことをどれだけ自覚しているかによって、文章は変わるということなんだけれども。
自分以外にこんなこと言ってる人は今まで見たことないので、ピンと来る人もいないかもしれませんが。_(´ㅅ`_)⌒)_ いや違う言い方で言及されてるのかな。
端的に言えば、
『よう、俺、山田達郎。高校二年生。仲間内じゃタツローって呼ばれてるぜ』
なんて具合に、自己紹介から始まるようなスタイルは「小説(あるは“物語られるもの”)であることに強い自覚がある」と言える。言い方を変えれば、こうした話者は、小説であることを前提として知っている(メタ視点がありえる)。
こういう作風だと、一人称話者から「読者」へ向けた説明文なんかも、特にひねりを入れることなく盛り込んでも不自然にはならない。
反対に、小説であることに無自覚とはどんな具合かというと、読者への説明的な説明がなかったり、小説・物語的な形式よりも自然さ、日常っぽさ(日常系という意味ではない)が先に立つようなものか。ちょっと具体例を挙げることが難しい。
自作で例えれば、掌編集『みひらき物語』の一人称は自覚的であることが多い。短い中で小説として成立させるためには、どうしても自覚度が高い方が良いという技術的選択だ。特に『創作者の憂鬱』はかなり自覚度合いが高い。短編だと『壷中天』が高い。べらぼうに高い。ただしクライマックスでその自覚はちょっと揺らぐ。ある意味では、その「自覚の揺らぎ」を演出に利用していると言えなくもない。
自覚が低い例は、短編『昇る日』だろうか。あれは自覚度30%未満という感じだ。
『∠Cを~θの悲劇』も低めだが、『昇る日』ほどではないし、第一章と第二章とで話者が違うため、作品内で自覚度合いが異なってきている。第一章の話者のほうが自覚度合いは低く、第二章はより高い。
自分の中で書く際には、特徴として、自覚が高いほど叙景・叙事が、低いほど叙情がそれぞれ詳細になる、ということがある。
小説であることを自覚する話者は「読者の手前、説明しとかないとな」という意識が立つので、読者向けの文章や構成にしやすい。
対して無自覚な話者は、他人に語っているわけではないので自分の心の動きに応じた言葉を紡ぐ。自作例として挙げた2作品で、登場人物のフルネームがほぼ登場しないのは、他人に語ることを意識していない話者にとっては、「フルネームなどいちいち意識しない」からである。また、叙情というか、話者の感性をベースにした表現が増えるので、前述の自覚が低い例として挙げた二作品のレビューに、「繊細」という評価が共通しているのはそういう理由もあろう。
自覚の度合いは文体にもやや影響する。自覚度が高い場合、しっかりした「文章語」として書くことが多く、無自覚な場合はより話語(話し言葉)や俗語口語に近付いていく。「文章であることを知っている話者」でなければ「文章語」にはならない、と考えるからだ。
例えば個人的に、無自覚な話者で敬体の「である」は使わない。「である」は文章語の最たるもの、みたいなイメージがあるから、無自覚な話者に使わせると矛盾を感じてしまうのだね。
_(´ㅅ`_)⌒)_ こんなこと考えてしまうから筆が重いのだろうなぁ俺。
さてこの文章、特に着地点を考えていないのだが_(´ㅅ`_)⌒)_ どうすべかね。うまくまとめられれば、『カクヨムでヨミカキ』に項を立てるのもいいんだが。
なにやらよく分からんかった……な人はコメント欄で質問をどうぞ(だいたい来ない