とりあえず何か言葉にしたいと思ったもののその日にはまったく言葉にならず、下手に言葉にして、逆に言葉足らずになるのがあまりにももったいない。
とにかくそこには本当にその世界があって、俳諧師は本当にそういう”人たち”であったのかなと思わされるほど、和風スピリチュアル空間に没入する気分でした。幻想と創造の言霊を目の当たりにした気分。
まさに言葉は力、世界を生み出す力を持っているのかもしれません。
NHK教育のビットワールドや天てれで毎週やってほしい・・・
あと、とっつあんの胸毛はちょっとショックでした。うわぁん!美少年だと思ってたのにー!
【読了後】
5・7・5の俳句(俳諧)を題材とし、芭蕉門下の俳諧師たちの言霊を宿した少年少女たちの、超常バトルと青春物語を同時に味わえる良作。
実に大きなエネルギーと可能性を秘めた物語で、俳句を趣味とする身としてはたいへんに面白く、楽しく読めた。三冊分にもなろうかという長い物語だが、一読するだけの価値はある。
(しかしながら、多少の俳句に関する知識が前提となっているきらいもないではない)
いわゆる「超常能力バトルもの」とカテゴライズされるだろうが、バトル要素は控えめで、むしろ登場人物たちの青春譚としての魅力が際立つ。「野武士の彼女」のキャラ立てなど秀逸で、物語冒頭の、主人公との邂逅の場面などを、彼女の側から見てみたいと思った。そうした願望を抱かせるほどに、作者は魅力的なキャラ作りに成功している。
そうした作者の手腕は、全編における登場人物の描き分け、キャラ立てにおいても見事に発揮されている。言霊の“宿り手”となった人物たちに加え、言霊の俳諧師、季節の女神といった面々まで含めれば、登場する主要な人物(人格)は20近くにもなる。これを普通に小説として描いてしまっては、読者も、作者ですらも混乱を来すだろう。だが本作においてその混乱はない。なぜなら作者は、ある特殊な手法を用いて、“宿り手”と“言霊”をほぼ混乱なく読者に提示することに成功しているからだ。作者の実力の高度なことは、その手法を実践してのけたことで窺い知れる。
(この手法について触れることもある意味では弱いネタバレになるので、レビューの最後の最後で触れることにする。自分でそれを見極めたいと願う未読者はそこまで読まれないことを)
編集者的な存在から適切なアドバイスを受けてブラッシュアップすることが出来れば、商業出版物になっていてもおかしくないだけの可能性を秘めていると思えた。逆に言えば、そうしたブラッシュの余地、改善できる箇所がまだ残されている、ということでもある。いつか、改作され穴をなくし、更に魅力を増した今作をもう一度読んでみたいと、切に願っている。
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【読了前に書き付けた最初のレビュー】
※)まだ数章のみしか読んでいない段階ですが
俳句をいちおうの趣味とし、小説を書く身で、このアイデアが結びつかなかったことに、今、歯噛みしています。
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【作中の特殊な手法について】
読了さえしたら、多くの人がピンとは来ているだろうと思う。
本作では、言霊以外の登場人物たちの、「実名」がまったく登場しないのである。宿り手となった彼らは、宿った言霊の名を由来とするあだ名のみで呼ばれる。一人称パートのみならず三人称パートでも。
これにより、宿り手と言霊の関係性がはっきりし、「この人に宿る言霊は誰だっけ?」と迷うことがない。見かけ上、言霊と宿り手を同一視して読むことが出来るのである。思いついてもなかなか実行できるものではない。
最高すぎるだろ。なぜ野に埋もれているんだ。
レビューが常軌を逸して長くなったので、こんなレビュー、読んでる暇があったら、作品を読んでください。後悔はないはずだ。
「人気のタグ」機能してなさすぎじゃね、と思いながら、「高校生」タグの中に、季語と俳句を武器にして、必ず君を守り抜く! というとち狂った(いや失礼。これは、褒めている)としか思えないキャッチコピーを見て、何言ってんだこいつ、と思いながら一話を見る。
思った以上に硬質な文章で、歴史的で、何か俳句の神髄みたいなことを言い合っている。こりゃあ、ちょっと無学な俺には難しいかなと、思い始めたところで――いや、ここからは、君自身が体験すべきことだろう。
とにかく俺が言えることは、この話は、ぜったいに、百パーセント、まちがいなく、面白い、ということだ。
そんなわけで、「序」を壮絶な気持ちになりながら、そう、正直に言えば、これはヒント、あるいはネタバレになってしまうからあまり言いたくないのだが、爆笑しながら読み終えて、そうして俺はレビューにとびついた。たった一話を読んだだけで、俺はとにかく何かを言いたかった。精神に生じた、この、爆発的な気持ちを、とにかくどこかにぶつけたかった。
それぐらい面白い。マジで。信じてくれ。俺のことなんて信じられないというのなら、俺は松尾芭蕉に誓ったって良い。
とにかくすごい。じっくり先を読ませていただきます。
と書いたのが昨晩のこと。
朝、どうしても気になって、先を読み、俺の直感が間違っていなかったことが分かる。
それで、ですね。この良さを伝えたいのだが、全然違う話をしてもいいだろうか。ダメだよな。でもするんで、ちょっと長くなるけど聞いて下さい。
ニンジャスレイヤーという作品がある。たぶん、良くご存じのことだろう。知らないものは幸いで、ネットで無料でいくらでも(有限ではあるが(なぜ無限の可能性を想定すると思ったのか))読めるし、物理書籍もアニメも漫画もあるので、好きなところから始めていただきたい。他人の作品のレビューで俺は一体何を言い出しているのか?
さて、このニンジャスレイヤーを初めて俺が読んだとき、重金属酸性雨が降る「ネオサイタマ」を舞台として、「マルノウチ・スゴイタカイビル」の惨劇の復讐の為に、暗殺拳「チャド―」を使うニンジャスレイヤーが戦う、というこの話、まあ、笑った訳ですよ。で、いいセンスだなと思ったわけです。
「『外国人が抱くであろう忍者と日本のイメージ』について日本人が持つイメージ」という入れ子構造をうまく表していて、しかもサイバーパンクとして良くできていて、そのギャップが笑えるなあ。面白いなあ。と思っていた訳です。
ところがね。物語を読み進めていくうちに、この入れ子構造が、いつしか破壊される瞬間がやってくる訳ですよ。というか、その入れ子構造が持つ「ギャップ」による面白さ、もっと言えば、「笑える」部分が、物語と文章の強度によって破壊され、笑えなくなる瞬間がやってくる。その時には、構造的な面白さがどうこう、といった賢しらなことは何一つ言えなくなって、ただ物語と文章の強度に蹂躙される(良い意味で)ときがやってくるんですよね。
(チャドー。フーリンカザン。そしてチャドー)
というフレーズを読んで、ああ、フジキドがピンチだ! 頑張れ、ニンジャスレイヤー!!これは反撃の狼煙だ!!!
とか。
マルノウチ・スゴイタカイビル!
というフレーズを読んで、怒りと悲しみがないまぜになった、復讐者の強い決意を感じるとか。
そうなっちゃうんですよね。それほど物語の力は、強い。
話が長くなって恐縮ですが、何しろレビューも一万字書けるシステムなのでまあ、長さ自体を責められる言われはない。
で、実は本作、言霊の俳諧師も、そのくらい、強力な物語です。物凄く強い。頑健、と言ってもいい。
最初笑った俺は、繋離詠を読むころにはもう、手に汗を握っている。
それだけ強靭な物語なのだ。是非体験していただきたい。
追記:いや、ほんともう、手に汗は握ってるんだけど、「絶対防御詠」をタイトルにするのは、ズルすぎる。一瞬過去に戻った。
追追記:終わってしまった……。
「最後まで、ちゃんと王道・異能バトルもの」だし「ちゃんと俳句」なので、信じて読んでいただきたいですね。