夜の盾

梶原祐二

第1話

はじめに。


 この小説は2007年辺りに書いていたと記憶しています。「月の王冠」の一つ前に書いた作品。丁度現実の科学の世界ではヤマナカファクターが大流行で、幹細胞に関する色々な文章が出回っていた頃でしたね。小保方さんのSTAP細胞よりもずっと前の話です。

 そのころの自分は、都会的な会話劇を基調としたサスペンスを目指していて、オカルトやホラーなど、縁遠い存在でした。そんな時、ふとトニー・スコット監督のデビュー映画「ハンガー」を見直した折、こういうバンパイアものもありだなあ、と感服したのでした。原作はホイットリー・ストリバー。「ウルフェン」の作者ですね。

 自分はゴシックホラーというものに全く興味がないことを思い、ドラキュラもの、というか、不老不死を科学的に考えるストーリーもいいかな、それもホイットリー・ストリバー風に。という、何となくの思い付きが始まりでした。

 あの有名なSF映画の金字塔、「ブレードランナー」の元々の脚本でも、不老不死のテーマが扱われていたと聞きます。時の権力者というのは、いつの時代でも、自分の不老不死を夢見るものらしく、人魚の肉だの、仙薬だのを求めていたらしい。

 現代にそれを考えるならば、幹細胞の研究かな、と思い至り、そのテーマをストーリーに組み込むべく、かなり賢くない自分の頭で、一生懸命、文献を読み漁ったのを思い出します。

 ま、それよりも何より、後になって驚いたのは、この小説の社会状況の設定が、図らずも現実となったことです。小説では、火星のテラフォーミングが失敗したせいで、その関連株が暴落、世界的なコストインフレに突入しており、その後のエネルギー関連の物価高で東京都内では、節電のため、計画停電が行われる、というものでした。意外にも、その数年後、東日本大震災による電力危機がおき、現実にそれを目の当たりにすることとなりました。

 小説では、ゴシック、がテーマでしたので、蝋燭の灯る『薄暗い昼』を思い描いたのですが、実際の計画停電は『真っ暗な夜』だったわけで、現実は想像よりも厳しい、と痛感しました。

 時間軸の設定は「月の王冠」と同じく、架空の70年代、80年代を通過した近未来、少し前倒しに科学技術が到達した世界です。「月の王冠」との直接の繋がりはありませんが、「月の王冠」の最後の章で扱われる科学技術が実用化した、十数年先の世界でもあります。


 と、いろいろな背景はあるものの、基本的には、SFのイマジネーションを持つ、単純なアクションスリラーです。いつもながら言いたいことは特にありません(笑)

 深読みすることなく、楽しく読んでいただければ幸いです。


2016年 5月     梶原祐二














灰は灰に、塵は塵に。
















 茜色の夕暮れが迫っていた。秋。十月。

 高層建築のまっすぐなストライプの下に社会があった。

 生と死、そして、その中間にあるもの。無秩序という名の混沌が再構成されると、街に変わった。

 油臭いアスファルトに、色とりどりの落葉が舞う。


 夕方六時の渋谷駅は人いきれに淀んでいた。一日の疲弊を引きずるダークスーツの男たち。華やいだ歓声を上げる気ままな若者たち。その二つの勢力が路上に溢れ、クロスした横断歩道で攪拌される。鳴り渡る盲人用電子シークエンスのメロディが、耳障りなほどに外れ、路上に木霊していた。

 私鉄線側のバスターミナルを降りた女は、足早に通りを駆け抜けた。高いヒールが臆する事なく路面を踏みしめ、慣れた足取りで闊歩する。

 女は仕事場へ急いでいた。薄手の地味なコートを羽織ってはいたものの、襟から覗くスパンコールが目立っていた。アップにした赤みの強いヘア。ハンドバッグを握るパールカラーのネイル。

 会社を出たのは丁度五時。最寄り駅のトイレで着替えた。

 月曜日の夕方から、彼女の名はレイコになった。もちろん本名なんかじゃない。水曜日はマサミで、金曜日はカオリに変わる。

 彼女は四つの顔を持つ女だ。昼間は中堅電気メーカーで事務職をこなし、夜は週三日のアルバイト生活。それぞれ違う店で、それぞれ違う顔を演じている。

 しかしながら彼女の生活は、それでも精一杯のものだった。派手な生活を求めているわけでなく、まして遊び人ということもない。若い女が一人、この東京で生きて行くには、そうするしかないのである。

(格差社会、ってやつかしらね)

 と、彼女はひとり心の中で呟く。子供の頃からそういうものだと思っていた。彼女の親も同じ事をした。もちろん、おばあちゃんだって。

 世界は不均衡なものだが、人間はどんなものにでも慣れて行ける。まして、彼女は恵まれている方なのだから。

 お母さんが奇麗に生んでくれたおかげで、私は楽に稼げる。

 おじさんとお酒を飲んで、ちょっと騒いであげたらいいだけだもの。

 私はラッキーだ。ついている。

 母に感謝。

 山手線のガードをくぐる時、熱い蒸気をまき散らす中華料理店のガラスに、自分の立ち姿をちらりと眺める。切れ長のアイライナーにラメ入りリップグロスが引き立った。

 うん、私、今日もいけてるわ。

 ハチ公口側に抜けたところで、ビル側壁を覆うオーロラビジョンが目に入る。高さ十五メートルに引き延ばされた六時のニュースだった。細面のイケメンキャスターの顔がパースペクティブに歪んで見えた。


(オレモア症候群、感染者一千人を超える)


 見出しはこんな風だった。彼女はうんざりした様子で首を振る。じっと見上げているうちに、眉根に縦皺が寄るのがわかった。

 最近ろくなニュースをやってない。もう病気なんて、うんざりよ。

 東京都に合囲地境戒厳令が発令されたのは半年前だ。

 三ヶ月間は夜間外出も禁止されていた。(夜の盾)の殲滅作戦が功をなして、ようやく解かれた。現在(夜の盾)には超法規的措置が認められている。人道問題がどうのと、叫んでいた市民団体もいたけれど、いつの間にか収まった。結局皆、我が身が可愛いのだろう。私たちの日々の安全は、(夜の盾)の警邏活動如何に掛かっているのである。

 正直言うと、彼女はその二ヶ月が家賃滞納で冷や汗ものだった。それも相まって、今は出来るだけ稼いでおかなきゃ、と考えていた。

 彼女の会社で男性社員がひとり、オレモアに襲われた。オレモアは吸血鬼だ。噛み付かれたらまず助からないそうだ。その男性社員は二日後に発症して(夜の盾)に処分された。会社でお別れ会をした。好きな男の子じゃなかったけど、ちょっとだけ泣いた。

 オレモア・ヴァンパイアの恐怖は現実のものだ。

 遠くの国で起こっている紛争とは違う。

 女は頭を振るって、気持ちを立て替える。でも、私も生きて行かなきゃならない。この世知辛い、世界恐慌の渦巻く東京に、すがれるものなどないのだから。


 横断歩道を渡ったところで右に折れ、若者の群れる界隈を抜けると、さらに細い路地に入った。並びの店の背を向かい合わせにした、暗い通りだった。空はオレンジ色に染まっていたものの、光はその場所を避けるように頭上をかすめている。狭い道幅に塩化ビニール製のビールのダースカートンが積まれている。

 使用人専用の裏通りだった。下水の臭いがどこからか這い上がってくる。女は通りを覗き込んだ。

 いつもより少し闇が暗いような、そんな気がした。

 あんなニュース、観たからよ。

 女は一人肩をすくめた。ハンドバッグからメンソールのシガレットを取り出し、安物のライターで火を点ける。一息吸って気分を落ち着けた。

「ああ、もう」

 彼女は小さく悪態を吐き、コートの袖口のほつれを気にした。

 深呼吸すると、暗がりに踏み出した。

 通り過ぎる裏口から、微かな明かりと笑い声が漏れてくる。いつもと変わらない。いつもと同じだった。女は落ち着きを取り戻し、歩調を早めた。彼女の勤める店は、通りの丁度真ん中辺りだった。二軒向こうの扉が開き、顔見知りのウェイターが手を振った。

「よう、また遅刻かい? ママにどやされるぜ」

 女は苦笑いして、吸い込んだ煙を上品に吹いてみせる。ウェイターはもう一度手を振ると扉の奥に消えた。再び暗がりが辺りに満ちる。

 一瞬のことだが、闇に目が慣れるには少しばかり時間がかかる。彼女はその場に立ち止まった。扉の隙間から漂ってくる軽音楽に耳を傾けた。ボサノヴァの軽快なリズムが脈打っている。女はメンソールシガーを路上で踏み消した。

 唐突に生臭い風が女の頬を撫で下ろした。女は顔をしかめた。

 やあね。下水の臭い、かしら? 

 女は身を固くし、目を凝らした。奥の明かりが、なぜだか急に見えなくなった。目は十分に慣れているというのに。だとすれば………、

 何かがそこに、あるのだ。

 女はハンドバッグをきつく握りしめ、そして闇に問うた。

「ママ、なの?」

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