第3話

 問題はコーヒーだった。

 多喜修一は冷蔵庫の扉を支えたまま、頭を抱えた。

 いつも切らした事のないレギュラーコーヒー・モカブレンド八〇g(百円コンビニ仕様)が、今日に限ってない。棚には、小さなラミネートフィルムの茶色い包みがぺったりと潰れた姿で鎮座していた。その後、空っぽの冷蔵庫からカップごと放置されたドリッパーが発見された。これは三日前のものだ。中にはフィルターに包まれ、からからに干からびた出涸らしの残留物が残っていた。慎重なる検討の結果、腐敗、その他身体に影響を及ぼす品質劣化はないと推測された。しかし………、問題はこれに湯を注ぎ、一杯のコーヒーとして復元する行為そのものが、人としての尊厳を著しく阻害しまいか、という点だった。ことはプライドに関する考察へと及んでいたのだ。

 多喜は思案した挙げ句、ドリッパーの載ったカップを取り上げ、思い詰めた表情で熱湯を注いだ。背に腹は代えられない。アメリカンコーヒーより、もう一段階薄い茶色の液体は、素晴しい香気を立て多喜の眼前に再生された。安物のコーヒーフレーバーならではの強いモカの香りが、電磁誘導サージのごとく脳髄の奥を刺激した。

 起き抜けの頭が徐々に活性されていく。それに連れ、昨晩のマギー・リンの最後が甦ってきたが、多喜にはそれが遠い日の幻のように思えた。コーヒーの味が変わることはなかった。この二年、十数人の男女が、多喜の目の前でオレモア・ヴァンパイアの餌食となった。失った同僚の数を数えても、弔いにはならない。

 勝どき橋から近い、晴海二丁目の集合住宅から埠頭の景色を眺めながら、多喜は薄いコーヒーを啜った。


 曇天の景色を直線で分断する晴海大橋が見えた。二つの路線が平行に並んだまま向こう岸へ到達する。橋を渡ると豊洲である。運河には海上保安庁の哨戒艇が二隻、浮かんでいた。高架になった架橋には東京臨海新交通臨海線が走り、銀色の短い車両が行き来するのが見えた。

 多喜はマグカップを窓辺に据えると、部屋の方へ視線を向けた。掃除の苦手な薄汚い男所帯が、暗がりの中にぼんやり透けていた。不景気な世相が部屋の中まで沁み込んだような、そんな有様だった。

 数年前、アメリカの火星プロジェクトが頓挫した。火星のテラフォーミング関連株の暴落で、大手金融機関は火星関連の金融商品から撤退、利鞘の稼ぎやすいエネルギー市場へ資金投入した。結果、石油、ECOプラント市場で買いが集中し、価格が高騰している。全ての物価が上昇、世界的なコストインフレに突入した。

 日本政府の対応は、付け焼き刃に進んでいるらしい。省エネ対策と称して、照明に関する通電供給は、繁華街、公共施設、医療機関、高額納税者を除いては、午後六時以降から翌朝七時までに制限されていた。機械設備や電子機器など、生活必需品の為のプラグは残されていたが、照明に関しては一括、別回線に取りまとめられ、プロテクトされ、役人達に管理されている。以来、昼間の屋内はひどく薄暗いものとなってしまった。各家庭では、テレビを点けたり、電池式のランタンを用意したりして、陰気なたたずまいを少しでも払拭しよう苦心している。多喜は高額納税者ではないし、家族持ちでもないので、部屋は薄暗いゴシック調の闇に閉ざされるにまかせていた。

 多喜はテレビ脇のサイドテーブルからキャメルのパッケージを拾い、一本点けると、濃厚な煙を吸い込んだ。二口ほど吸って、顔をしかめる。煙草がちっとも旨くない。煙を塩辛く感じた。そろそろ止め時かもな。

 顎を擦ると、無精髭がざらざらと音を立てた。銜え煙草のまま空咳をすると、多喜は頭蓋内埋設装置インフォメーション・トラフィック・コンポーネントを起動させた。視界に起動画面が立ち上がり、抗ウイルスプログラムの自動更新が表示された。メールチェックとスパムメールの削除、まあ、ほとんどがスパムだ。いくつかの請求書、いくつかの中央管制室からの伝達事項に目を通した。

 多喜は(夜の盾)インフォメーション・アーカイブスにアクセスすると、昨晩から今朝方に掛けてのオレモア症関連のニュース報道件数を確認した。都心部に限定して検索してみる。機械の返事は即答だった。


(十二件)


 増えても減ってもいないという印象。これが一般報道というものだ。各項目の横にリードがついているが、多喜はいちいち開けてみたりしない。オレモア事件の概要など、皆、似たり寄ったりで、得るものがないからだ。

 次に、中央官制室が制御する昨晩の出動件数を確認した。


(二十七件)


 なるほど。一般の目に触れない処理活動が十五件あるというのが事実である。三田の工業大学での隔離措置などが、そうした諸々となっている。

 昨晩の報道トピックで(感染者一千人を超える)というコメントが出されていたが、これもまた一般報道の知見であろう。それはほんの氷山の一角だ。実際のところ、その二倍、あるいは三倍かも? 事実を知ったら、大衆の反応はどうなる? 考えたくないことばかりだった。

 はっきりしていることは、我々(夜の盾)は少なくとも一千体のオレモア・ヴァンパイアを殲滅処分してきたということだ。オレモアは我々人類の敵だ。しかし人道的見地に立てば、元は皆、同じ人間なのである。

 簡単な話で収まらないのが、オレモア症対策である。厚生労働省がお手上げなのも、わからんでもない。

 オレモア症が世間で話題になり始めたのは、二年ほど前の話だ。

 この原因不明の伝染性症候群は、エイズ以来の世界的な脅威として、我々人類の前に立ちはだかっている。危険な不治の病いだ。最初の発覚は、港区赤坂のホテル・オレモアで起きた傷害事件とされている。病名の由来もそこから取られたものだ。それが丁度二年前。都心部に広がり、世界の主要都市で少しずつ広がっている。感染者はもとより、感染後、発症とともに患者が凶暴化し、周囲に第二、第三の二次感染を誘発することが対処を難しくしていた。これがオレモア・ヴァンパイアと呼ばれる所以である。知的判断を喪失した後、吸血、捕食性が発現するのだ。

 東京都は世界最大の患者数を抱え、非常事態宣言の超法規的措置として、我々(夜の盾)が編成された。

 治療法を見つけ出せぬ以上、現存する患者の実行制圧によって、生存者の救援を供与する以外、道がない。発症患者の身体的変容もあり、政府筋によると、既に人としての対処の枠は出た、というのが一致した見解らしい。富裕層は安全な海外へ流出を始めていた。反面、格差の下方をなす一般市民が、オレモアの脅威に晒されている。

 (夜の盾)の正式名称は、内閣府所轄警察庁警備局警備課災害対策室附属オレモア症候群防疫対策チームである。オレモア症感染者の夜行徘徊抑止を主旨としている。(night shield) を略してNS部隊とも呼ばれる。俗説では(night shift)夜勤、が語源とも言われている。

 本来ならば人体、動植物、及び食品の検疫に関する内容は、厚生労働省所轄の検疫所が管轄すべき案件だが、非常事態宣言が発令された時点で警備局へと御鉢が回ってきたらしい。

 (夜の盾)に所属する我々は、名目上、警察庁の傘下に位置付けられるが、国家公務員でも地方公務員でもなく、特別司法執行職員、という役どころを担っている。警備局から民間警備会社、萱島総合警備保障に業務委託された形で運営が行われている。職員全員が契約雇用。なので給料は警備会社よりの支払いとなり、しかも出来高制の歩合払いとなっていた。

 主力装備である、汎用自律捜査機械VADS〔Variable Armed Detect System〕は、レイメイ・セキュリティ・システムズ株式会社からの試験導入のため、委託されているものらしい。(夜の盾)での運用効率を査定した上で、警察庁本体への導入が計画されているという噂だ。

 数年前の自分は、十数年勤め上げた職場を不本意にも解雇されたばかりだった。しばらくの間、個人で探偵の真似事をやってみたが、あまりに食えないので、夜間警備から日雇い人夫まで、あらゆる仕事を転々とした。要するに人生で一番落ちぶれた、そういう時期だったのである。そこに警備保障会社からの大量雇用の話。渡りに船で(夜の盾)に採用された。元警官という経歴も後押ししてか、今では(実行リーダー)という冠まで頂いている。

 しかし、この後に及んで、またしても警察のご厄介になるとは思わなかった。語弊はともかく。自分はどうやら公僕向きの人間らしい。


 多喜はまずい煙草をもみ消すと、マグを手に取り、一気に薄茶色の液体を流し込んだ。もう一度、空咳にむせる。脱ぎ捨てたブーツや、ビールの空き缶を避けながら、多喜は薄暗い部屋を抜け、洗面台へ向かった。小さな小窓から、ぼんやりした光芒が差し込んでいる。鏡の汚れを手のひらで乱暴に拭うと、髭面の四十男の疲れた顔が映っていた。コンバースのロゴ入り、汗滲みのあるTシャツの下に、鍛え抜かれた鋼の肉体が詰まっていた。静脈の浮く逞しい上腕が動き、短く刈り詰めた頭髪を掻き上げる。肉の薄い瞼の下で充血した瞳が光っていた。顎髭をこすると、寝汗の饐えた匂いがした。下顎と左右のもみあげに僅かだが、白いものが混じり始めていた。四十三歳、現役(夜の盾)特別司法執行職員は、疲弊を隠し、厳しい表情で自らを見詰めた。

 多喜はあくびを噛み殺すと、顎にシェービングクリームを擦り込み、おもむろに剃刀をあてた。


 多喜が渋谷に着いたのは、午前十一時を少し回った頃だった。

 通りには、無産階級の若者たちが暇そうにぶらついていた。クラクションが鳴り、信号待ちの車列がエタノール配合燃料の燃焼ガスを撒き散らす。

 昨晩の現場である、渋谷区宇田川町の風俗店(モンスターピンク)は、夜の喧噪とは裏腹に、陽の中で寂れ、くすんで見えた。立ち入り禁止のイエローテープとブルーシートが目立っていたが、既に道行く人々の興味からは外れていた。

 多喜は走らせてきたVADSを路上に乗り捨てた。自律型AIが即座に判断して、最寄りのビル側壁によじ登り、邪魔にならない空中で筐体を壁面固定した。  多喜は黒革のジャケットにチノパンというラフな出で立ちで、規制線を潜った。早速、警備に付いていた制服警官が寄って来ると、身分証の提示を求めた。多喜はズボンのベルトに止めたバッジを見せた。警官はおざなりに確認し、少々怪訝な表情で多喜を見返した。こいつの言いたいことはわかる。

(夜の盾)が、こんな真っ昼間に何の用? 

 そんなところだろう。無論、こっちにも法に定められた権利ってものがある。

 多喜はバッジを仕舞うと、二本指で敬礼の仕草を送って、シートをめくった。

 (モンスターピンク)の店内は、引越し後の内装工事でも済ませたように、きれいさっぱり片付いていた。昨晩の地獄絵図が嘘のようだ。それもそのはずである。あれから十二時間以上経過しているのだ。鑑識作業はとうに終わっている。オレモア症関連の現場は有害な法定伝染病の温床であることから、鑑識作業終了と共に、すぐさまクリーニングされることが義務付けられている。

 がらんとした現場には、数人の警察関係者しかいなかった。現場鑑識と科捜研のクリーン班が黄色の防疫スーツで後始末をしている。

 突入時に破壊した前後の出入口は、枠ごときれいに外され、荒らされた内装も全て撤去されていた。VADSが破壊したフロアと、点々と残る九ミリのホローポイント弾の穴だけが、昨夜の惨劇の現実味を物語っていた。床、壁、その他至るところに飛び散っていたおぞましい血飛沫は、その痕跡さえ残らぬよう化学的に払拭されていた。防疫上、必要な措置なのだ。現場維持よりもそれが第一に優先される。  裏口から流れてくる冷たい風が、張り巡らされたブルーシートを重そうに揺らしていた。

「あらま、夜勤部隊が、明るいうちから何してんのー?」

 聞き覚えのあるしゃがれ声が多喜を呼び止めた。振り返ると、腹の出たスーツの中年男が立っていた。

「ああ、磯部さん。お久しぶり」

 多喜は右手を上げ、気安い挨拶を交わした。

「あんたの現場やって聞いたもんでなー。待ってたら来るかなー思うて、ちょっと待ってたんや。多喜君、相変わらずみたいやね」

 大柄な中年男は多喜に人懐っこい目を向けると破顔して白い歯を覗かせた。鑑識課現場鑑識第2係、磯辺寛である。鑑識課主査で今年五十二歳の古株だ。

「マギーちゃんは、残念やったね」

 磯辺は声の調子を落とし、お悔やみを告げた。多喜は軽く肩をすくめ、

「(夜の盾)に事故は付き物ですからね。彼女も油断してたのかもしれません。人の振り見て我が振り直せ、ですよ」

「マギーちゃんは、署内でも一番人気やったからなー」

「ええ。同僚としても残念です」

 磯辺は眉をひそめると、両手を使ってまるっこいハート形のジェスチャーを描き、

「あの素敵なおしりが、もう拝めんのかと思うと僕はもう………」

「磯辺さん、それ、セクハラっすよ」

 多喜がたしなめると、磯辺ははっと我に返り、小さく咳払いをした。

「そうやね。不謹慎やね」

 多喜は塵一つない室内を見回し、冗談めかして言った。

「ウーム、相変わらずぴかぴかですね。舐めても大丈夫なくらいだ」

「当たり前やん。僕たち、掃除専門やさかいに」

「現場維持より、ですか? 鑑識の仕事も随分変わったもんだ」

 磯部はにやりと笑うと、嫌味の一発で反撃する。

「それ言うたら多喜君とかもあれやろ。(夜の盾)の皆さん、捜査権ないんとちゃうのー? こんなとこ、うろうろしてますけど」

 多喜も苦笑いだ。

「………どうもね。昔の癖が抜けないみたいで。しかし、我々も現場確認には参加出来るんですよ。作戦行動の為のリサーチ、って名目でね」

「それも超法規的措置とかいう奴かいなー? ま、多喜君の場合は、趣味ってやつやから。しゃーないなー」

「そうそう。しゃーないんです」

 と、多喜は小さく笑った。磯部は太い腕に食い込んだ腕時計を一瞥すると、多喜の肩を叩いた。

「もうお昼やん。ご飯食べ行こっか」


 磯辺が誘ってくれたランチは、現場すぐ近くのハンバーガーショップだった。ランチタイムの一番混雑する時間帯にぶつかって、店内のレジ周りには行列が出来ていた。ビジネス街に近いため、OLや若い会社員の姿が多い。ポップミュージックと女の子たちのさえずりが賑やかだ。多喜はあまり腹が減っていなかったので、飲み物だけと思ったのだが、磯辺がしつこくラッキーセットを勧めてくるので、仕方なくそれにした。どうやら磯辺はセットのおまけを子供にせがまれていたらしい。  並ぶこと十五分。ようやくラッキーセットを手に入れた二人は、二階のベランダ席に落ち着いた。少々寒いが致し方ない。喫煙者へのあからさまな迫害は既に公共ルールという姿で社会に根付いてしてしまっていた。

「はい、磯部さん、三番のおもちゃ」

 多喜は磯辺に、ビニールパッキングされたキャラクター人形を差し出す。

「すまんね、多喜君。これでコンプリートや。娘、喜ぶでー。ありがとうさんな」

 磯辺は含みなく喜んで、大事そうにおもちゃを鞄に仕舞った。その様子を見守りながら、多喜はコーラのストローを剥いた。

「で? どうなんです、最近は? 面白い話はないんですか?」

 多喜はプラスチックの固い背もたれに寄りかかりながら、それとなく磯辺に探りを入れた。深い意味はない。恒例のじゃれ合いみたいなものだ。磯辺は短い指でハンバーガーの包みを剥がしながら渋い顔をした。

「開口一番、きびしーこと聞くなあ。僕も一応、現役警察官なんですけど」

「毎度毎度の話でしょ? 守秘義務の話は、もう聞き飽きましたよ」

「まあ、言わせてーな。僕も立場っちゅうもんがありますからー」

「はいはい。そこは我々の超法規的措置ってやつがね。………頼みますよ」

 多喜は薄い唇をゆがめて薄ら笑いを浮かべた。磯辺は顔を曇らせる。

「二言目にはそれやからなー。切り札出すの、早すぎやっちゅーの。………まあ、ええけどね。さっきの現場やけど」

 多喜はコーラを啜りながら聞き返した。

「(モンスターピンク)?」

「そうそう、あれ、問題なんよー」

 磯辺はチーズバーガーに齧りつきながら声を潜める。多喜は無意識に首を寄せた。

「何か、あったんですか?」

 磯辺は齧ったバーガーを飲み下しながら、短い首を縦に振った。

「被害者の中にね。………警官がおってん」

「え? マジですか?」

「マジマジ。それも、僕んとこの若い衆なんよ。鑑識課2係」

「直属じゃないですか。そりゃ大変だ。どんと書類仕事が増えるでしょ?」

 今度は磯辺が諭す番だ。

「多喜君、不謹慎やで」

「失礼。で? 俺の知ってる奴ですかね?」

「多喜君は知らんやろうね。去年か、一昨年か、他所から転属してきた奴や」

「印象、薄い奴?」

「どうやろうね? まあ地味な男やったな」

 そこで磯辺は油の付いた指をナプキンで拭うと、自分の後ろ首からケーブルを引き出した。

「資料、欲しいやろ?」

 多喜は、にっと笑った。ケーブルを受け取ると、直つなぎで自分の首に有線した。磯辺も警察関係者なので、シンプルな外部記憶装置を埋設していた。通常なら静止衛星群シャングリラを経由したパケット通信を利用するところだが、ルータにアクセス記録が残るので現職警察官の磯辺としてはちょっと厄介な話になる。幾ら十年来の付き合いの多喜とはいえ、非警察職員への情報開示は違法だ。ケーブルを使った人体埋設装置同士のノードの有線接続だと、監視ソフトは回避出来るので、比較的足が付きにくい。

 磯辺の埋設装置から、データが高速転送された。

【転送中】

「着きました?」

「ああ、今届きましたよ」

 多喜の一次視覚野に、ディレクトリが表示された。

 現場写真係が押さえたjpegファイルが数百現れる。細分化された血まみれの犯行現場が、均等な格子状の階層にきっちり整理されていた。立体的に表現されたレイヤーがページ立ての電話帳のようにめくり上げられると、ファイルの一つが点滅してポップアップした。男の顔写真入りプロファイルがゆっくりとスクロールしていく。

「片山徹。こいつや。鑑識課第2係、三十六歳」

「へえ、凄い高学歴ですね。見掛けはチェリーボーイ風だけど」

 多喜は素朴な感想を述べた。

「そうや。秀才のおぼっちゃま君や。でもまあ、こうなると後の祭りやけどね………」

 画像が点滅して、レイヤー階層から選り抜きの現場写真がスライドショーされる。

 写真はいずれもストロボ光で照らされた味気ない順光写真だ。損壊の激しい遺体だった。ブルースーツの袖ごと、左手首から上腕骨までが欠損、傷口は複数の歯牙によって削ぎ取られた断面である。胸部、腹部に無数の掻き傷、深く切られた腹直筋からはみ出した臓物………。しかしながら最大の致命傷は胸部から切断分離された頭部欠損によるものだろう。

 多喜は現場に踏み込んだ時の記憶を辿っていた。壁の隅に転がっていた丸い物体。………あれだ。しかる後、男の頭部の写真も追って現れた。強い力でねじ切られたらしい。胸鎖関節から砕けた鎖骨が、首の皮に突き刺さったままぶら下がっている。プロファイルのチェリーボーイの面影はどこにもなかった。赤黒く膨れ上がったバスケットボールのような顔面から紫色の舌が突き出していた。

「ひどい状態だな。八つ当たりでもされたか?」

「警官嫌いのオレモアかいな? でも彼らにそんな理性、ないわけやしね」

 磯辺は腑に落ちぬ風で、鼻息を漏らすと、

「ようわからんのは、この片山君、かなりの堅物やったらしいんよ。現場で一緒になってた奴から聞いた話やと、こんな場所、よう来んのとちゃうかって」

「こんな場所って、キャバクラですか?」

「そうそう。片山君が風俗なんて、ありえへん」

 多喜は首をかしげた。

「ま、それはどうですかね。人には言えない趣味嗜好ってものかも」

「そうやろうかねえ」

 多喜は矛先を変えて、磯辺に投げ掛けた。

「オレモアの方はどうなんです? 何かわかりました? ていうか、詰まる所どこのどいつだとか?」

「そんな簡単にわかったら警察はいらんやろー、って言いたいとこやけど、今回は簡単やった」

「えっ? 身元割れたんですか?」

 磯辺は嬉しそうにうなずくと、

「科捜研からの報告や。このオレモア、右肘の裏にQRコードのタトゥーが付いとった」

 多喜はピンときた。

「どこかの研究職員とか?」

「大正解。さすがやねー、元捜査一課の刑事さん。その通りや。データ照合してみたら、簡単に個人情報が割れましたよ。奴さん、生化学の専門家らしいで。橘生化学研究所の職員さん」

「どこです? そこ?」

 多喜が何気にたずねると、磯辺は苛立ってまくしたてた。

「知らんがなー。あたしゃ鑑識ですって。そんなの君のITC使うたらピピピのピッでしょうが」

「おっしゃる通り」

 多喜はファンクションコントロールでG検索を立ち上げる。

 検索ウインドウが開き、意識すると橘生化学研究所、とタイプされた。

【検索を実行】


株式会社 橘生化学研究所(たちばなせいかがくけんきゅうしょ  英称:Tachibana Biochemistry research institute Co., Ltd.) 千葉県流山市。酵素・微生物とバイオテクノロジー産業のトップメーカーとして、トレハロースをはじめとする澱粉糖化製品、抗癌剤となるインターフェロンなどの医薬品原料、安定型ビタミンCなど化粧品原料、さらに光学フィルムや光ディスク用の機能性色素などの研究・製造・販売を中心とするグループ企業。 ………


「ま、取り立てて変わったところもなく。普通の研究所みたいですな。千葉の流山市にあるらしい」

 と、多喜。磯辺はチーズバーガーに食らいつきながらもごもごと答えた。

「流山? 案外近いねえ。………これがご本人様。拝んで見てみー。ほれ」

 ファイルレイヤーから一つが飛び出し、写真入りプロファイルがスクロールを始めた。磯辺が続けた。

「石見庸介、三十三歳。こっちは男前さんやで」

 なるほど石見庸介、鼻筋の通った色白の優男だった。目元涼しい醤油顔、という感じだろうか。ファイルが入れ替わり、オレモア変異体の現場写真が現れた。白いアルビノの巨体が血溜りの中に大の字に倒れている。肩口に二発の銃創。多喜が打ち込んだホローポイント弾の痕が見えた。右腕がクローズアップされると、肘の内側に小さなQRコードのタトゥーが映っていた。随分と旧式のコードを使っているものだ。しかしながらこのコード、レーザーマシン彫りだと二分で終り、痛みもなく、何よりリーズナブルである。お手軽さから、この方法を採用する企業や研機関は多いと聞く。守秘義務の強い職場では、手っ取り早く職員を識別出来る便利な方法だ。右腕を先端の方へ画像がトリミング移動して行くと、赤黒く血飛沫のこびりついた細長い指先へと至った。マギー・リンの頭を握りつぶした右手である。続いて腹部を通過し、頭部欠損した肩口へと移行した。これは黒沢の仕業である。ぬめる血溜りの床で、鼻歌を唄いながらタップを踏む変態野郎の姿が浮かび、多喜は不愉快になった。

 多喜は片山徹と石見庸介のプロファイルをファインダ階層に記録して、ITCの接続を閉じた。

 実世界の物理映像が一次視覚野に戻ると、大柄な磯辺がオレンジジュースをストローで啜っているところだった。

 多喜は自分の首筋から接続端子を引き抜くと、ケーブルを磯辺に返した。

 多喜はフライドポテトをひとかけら手にして、しばらく眺めた後、ケチャップの中へ沈めた。

「元化学研究員のオレモア・ヴァンパイアと、現職警官」

 多喜は無意識に呟いていた。

「気になる? 多喜君」

「まあ、そうですね。変な取り合わせだ。場所も変、時間も変。何にも確証はないですけどね………」

「やっぱ黒、ですか?」と、磯辺。

 多喜は顔の前で手を振って否定した。

「いやー、何とも。ただ気にはなりますね」

「僕が独り言呟けるのはここまでや。後はお好きに」

 磯辺は、食べ終わったチーズバーガーの包み紙を丁寧に折り畳みながら、上目遣いに多喜を見詰めた。

「職業病やね。いや、元職業病か」

「お恥ずかしい限りですよ」

「警官が懐かしいんとちゃう? ええ警官やったのにねー、君」

 多喜は目線を合わせず、キャメルを取り出すとおもむろに火を点けた。

「それはもうないですね。あの頃はまだ、社会正義なんてものを思い描いていたから。体制組織の中に、それはあり得ない」

 磯辺は顔をしかめ、首を振った。

「それが教訓? なんとも悲しい話やねえ」

 多喜は明るく笑った。

「そうでもないですよ。おかげ様で視野が広がりましたから」

 多喜は煙を吐き出しながら、トレイに載ったハンバーガーの包みを見詰め、磯辺に目配せした。

「磯部さん、ちょっと冷めちゃいましたけど、俺の分、食べません?」

「何や、多喜君、コーラだけかいな。食が細うなったんとちゃう?」

 多喜は苦笑いだ。あんな現場写真、脳髄で見せられて飯が食える方がおかしい。しかしながら磯辺は、さすがの現場鑑識三十年である。

「ちょっと胸焼けが、ね」

 そういう多喜に磯辺は確認するような目線を向け、すぐさま笑顔に変わった。 「しゃーないな。………言っとくけど僕、食いしん坊ちゃうからね。こんなの残したらバチあたりますよ。第三世界では今日も何千人という子供たちが死んでんのやからね。だから、エコ。エコでっせ」

 そういうとバリバリと包み紙をめくり、磯辺は冷めかけたチーズバーガーに食らい付いた。


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