第2話

 視界右上方に目をやると、時刻がライムグリーンで蛍光表示されている。


【AD.2038_10/04 mon. PM07:08:52,53,54,・・・・】  


 オレモア・ヴァンパイアが立てこもって約一時間。生存の可能性は絶望的。

 (夜の盾)特別司法執行職員、多喜修一は、くすんだ集合ビルのファサードから、風俗店の裏路地を見下ろしながら渋い顔をした。

 目線を時計から反らすと、表示はぼやけて遠のき、多喜は代わりに左端にならんだファンクションコントロールに注意を向けた。

 (外部アクセス)を選択する。アイコンが二度点滅して、視界内にウインドウが小さく展開した。並んだモニタそれぞれが動画を表示させている。多喜が目線を向ける毎に、一つずつが素早く展開しては閉じていく。

 【カメラ7】と【12】を選択。二つの画面が多喜の視野を邪魔しない位置に落ち着き、その他、インフォメーションサービスは、かすんだ背景へと退いた。


【カメラ7】

 路地入口付近だ。パトカー数台に特殊護送救急車が一台見える。立入禁止の黄色い規制線が張られ、野次馬と報道関係者の整理に交通課の制服警官が追われている。

【カメラ12】

 感度増幅した粗い映像が取って代わる。多喜は現場の裏口にズームした。半開きになった戸口から、淡紅色の室内光が溢れ出している。所轄の第三方面本部より生活安全課の捜査員たちが到着したようだ。少し離れた場所で官給品の9ミリの自動拳銃を構え、緊張した面持ちで気配を伺っている。

 多喜は頭蓋内の一次視覚野で展開する、埋設装置インフォメーション・トラフィック・コンポーネント(Information Traffic Component)の中継を横目に、メンバーからの連絡を待っていた。

 五十二分前、渋谷区宇田川町の風俗店(モンスターピンク)がオレモア・ヴァンパイアに襲撃された。周辺の監視カメラの記録によると、発症は店に入る直前に始まったらしい。固定式監視カメラに、スパンコールドレスの赤毛女が惨殺される一部始終が記録されていた。

 オレモア・ヴァンパイアは、そのまま店に傾れ込んで、一通り荒らし回っていた。

 つい先ほど、VADS(ヴァズ)がエックス線で拾ったフロアのスティル写真をjpegで寄越してきた。惨憺たる状態。怪物は極度に興奮しており、錯乱状態のまま目についた客を手当たり次第にミンチにしている。なんて野郎。明日の鑑識作業は最悪だろうな。多喜は自分の鼻の頭に、ゆっくりと皺が寄るのを意識した。

 多喜は三田の工業大学で発症寸前の学生の隔離措置を終えたばかりで、立て続けのスクランブルとなった。渋谷駅前までVADSの走行モードで十二分。追っ掛けで、黒沢とマギー・リンが合流した。渋谷の現場は、この三人で仕切ることとなった。

 唐突にシグナルが鳴って(音声受信)の表示が灯った。

 感度の悪い接話型マイク特有のノイズが走り、耳障りな男の声が届く。

【sound only】

「第三方面本部の吉川だ。(夜の盾)NS078号、多喜修一か?」

 横柄な口ぶりである。しかし役職を語らないところをみると、まあ主任クラスというところだろう。歳だけくってるが、上がりの遅い不良在庫だ。

「はいはい、そうですが。こちらは多喜です、どうぞ」

 くだけた口調で返してやると、吉川と名乗る男は、むっとした息遣いで沈黙した。つかの間空白があって、それから言葉が多喜の頭蓋に流れ込んだ。

「到着から四十分経つぞ。突入はまだなのか?」

「あー、今、準備してます。もうしばらくですから。店の防犯カメラが二台とも潰されてましてね。今VADSが室内の断層を撮ってるんですが、そいつを3Dグラフィックに起こしまして、突入ポイントを検討しようって寸法ですよ」

 多喜の、のんびりした口調に、吉川は痺れを切らした。

「手順はわかっている。だが周りを見てみろ。野次馬も群がっておるし、報道関係者も大勢だ。つまりだ。第三方面本部としては、オレモア処理の手際の良さをアピールせねばならんということだ。第四の新宿署に今月は6ポイントもリードされているんだぞ。これが挽回のチャンスなんだ」

 どうやら、恒例の検挙率競争の話らしい。全く、おかしな話である。検挙数ゼロこそ、警察の望むべきところではないのか? どちらにせよ、(夜の盾)はエリアに関係なく活動している司法機関下請けなわけで、どこかの本部に肩入れするなど、まるで発想すらない話である。

「わかりますけどね。こっちも善処してますんで。まあ、所轄は黙って高見の見物、ってところでどうです?」

「貴様、司法執行職員の分際で、どういう言い草だ!」

「そんなにお急ぎなら、ご自分で突入なさったらいかがですか? 主任殿」

 多喜は嫌味たっぷりな口調で言い放って、通話を切り上げた。

 やかましい木っ端役人め。

 所轄が担当現場をなすり付け合う。そんな、ご時世なのである。

 以前なら、管轄エリアの事件に他所が口出ししようものなら、シマ荒らし、なんぞという言葉が飛び交い、これはどちらのヤマだのと、そういう勇ましいやり取りがあったものだが、しかしオレモア症対策に限っては、その範疇にない。

 【カメラ12】の生活安全課の連中を見るがいい。

 眉毛は八の字に曲がり、顔の真ん中にクエッションマークが見て取れる。なんで俺たちが? そんな表情だ。皆、正義感はあるが馬鹿じゃない。

 オレモア症対策は(夜の盾)におまかせ、そういうことなのである。

「多喜、誰からだ?」

 共有リンクに黒沢が割り込んだ。同時に【カメラ4】が起動して、現場の一軒隣りの店舗にいる黒沢昭二を捉える。自分から中継シグナルを送り始めるとは、相変わらずの変人ぶりだ。背の高いごつごつとした男の暗い横顔が見て取れる。能楽面の痩男によく似た貧相な面立ち。黒沢はぴったりしたダークグレイの対衝撃抗圧力NBCスーツのまま、カメラに向かってピースサインを決めた。

「ああ、第三のおっさん。なんか主任っぽかったな」と、多喜が返した。

「知り合いか?」

「いいや。知らねえ。急げってさ」

 黒沢は傍らにいるVADSの筐体を叩き、

「急ぐっていってもな。俺たちゃ、こいつのご神託待ちだし。どの道、生存者なんていないんだろ?」

 多喜は同意した。

「いつもの検挙率競争さ。知ったこっちゃない」

 【カメラ4】の中で黒沢VADSが二番脚を持ち上げて、水平軸でエックス線スキャニングを掛けているのが見えた。

 多喜は屋根に登ったマギー・リンを探した。隣接したファッションビルの屋上【カメラ8】をズームさせると、側壁に燃え立つ大型ビジョンを背景に、マギー・リンのコンビが見えた。不格好な関節筐体に七本足の生えた多脚構造物は、店舗の垂直方向透視画像を記録中だ。好対照をなす細身のマギー・リンは、NBCスーツがぴたりと決まって、フルフェイスのマスク片手に、おかっぱ頭をさらさら風になびかせている。

「あたし、今日の歩合がまだなのよね」

 マギー・リンのややハスキーな声が脳髄に届く。

「あんたたち、だらだらしてんだったら、あたし、突入さしてもらっていいかな?」

 黒沢の茶々が入った。

「おっと、マギーちゃん、今日もバリバリ?」

 マギー・リンはその言葉を軽く無視して、多喜にたずねた。

「多喜は一仕事終えたんでしょ?」

「ああ、さっきね。三田方面。学生お一人様拘束」

「発症前だった?」

「寸前かな。だけど流血騒ぎはなし」

 マギー・リンは肩をすくめた。

「スマートに決めたというわけね。さすがは多喜」

「今日はツイてた」

「それで? 黒沢、あんたは?」

 マギー・リンにようやく話を振られると、黒沢はにんまりとほくそ笑んだ。

「俺か? そりゃ、もちろんちゃんと稼いでるぜ。代々木公園に追い詰めて始末した。しかも同時二匹の処分さ」

 黒沢はちょっと自慢げにカメラに向かって二本指を振って見せる。

「すごいじゃない。どこにそんな情報が転がってんのさ?」

「色々と。俺様には、コネクがあんのよ」

「昔の仕事仲間?」

「内緒、内緒」

 多喜はITCのニュース・トラックバックを確認して、黒沢の記事を辿った。 「明治通りから延々追いかけたのか。しかし被害も凄いな」

 諭す多喜の言葉も、黒沢には何処吹く風だ。

「ああ、被害ね? それはまあ、所轄の仕事なんじゃないの。親子のオレモアだったんだ。最初は母親が発症して、子供を人質に逃げ始めた。そのうちに頭がいかれちまったんだろうな。娘を喰らいだしてよお。………ま、そこで俺様はこれ幸いとSMG(サブマシンガン)を取り出して、二匹同時処分に至った。とまあ、そういうわけ」

 マギー・リンが嫌悪の声音を上げた。

「たまんないわね。それで? あんたは、その足でここにもやってきたと?」

「モチよ」

「いかれてる。何を生き急いでんのか知らないけど………」

「人生の目標は、それぞれよぉ。色々とカネが掛かるもんだ」

 黒沢の嫌らしい笑い声が頭蓋を揺らしたところで、VADSからのコールサインが一次視覚野を刺激した。

 高性能AIは、微かに微笑みをたたえたバリトンヴォイスで、三人の(夜の盾)に着信した。

「ご歓談中、失礼致します。エックス線によるリモートセンシング解析の結果が出ました」

「待ってましたぁ」

 黒沢が嬉しそうに膝を叩く。

「ITCに転送」

 インフォメーション・トラフィック・コンポーネント、通称ITCはハイパー・テレターミナルを採用しており、高速で安定したパケット通信が可能である。VADSの解析した処理情報は、高軌道上の静止衛星群シャングリラを経由して、瞬時に(夜の盾)の頭蓋内埋設装置へイメージングされる。

 三人の一次視覚野には半透明の直方体が横長に描き出されていた。三機のVADSを使って異なる角度からのエックス線断層を拾い、放射線の浸透速度を計算してポリグラフィック演算を掛けると、目に見えない内側の様子が切子細工のように浮き上がった。グラフィックイメージがゆっくりと回転を始める。

 白い輪郭をなしているのは店内の間取りだ。六坪ほどのスペースに、バーカウンターと数脚の客席が手狭に並んでいる。

「見辛いな。階調を反転してくれ」

 多喜がVADSに指示すると、印象がリバースし、物質密度の高いものほど黒く描き出される。目測の物理映像に近い感じに変わった。

「結構悲惨だわね………」

 映像を視認したマギー・リンが声を潜める。転倒したテーブルの下に、頭部の切断された骨格が黒っぽく映っている。その脇にも二人、損壊の激しい人体が投げ出されている。バックヤードでしゃがみ込んでいるのは恐らく従業員だろう。折り重なるように三人の骨格が脈絡なく積み上げられていた。

 そして、店内の中央付近にぼんやりと浮かんだ灰色の影。

 この影こそ、惨劇の正体。オレモア症候群患者、オレモア・ヴァンパイアだ。滲んだ影の引き延ばされた輪郭を、多喜は一つ一つなぞらえることが出来る。

「VADS、サーモグラフを載せられるかしら?」

「了解」

 マギー・リンの要望にVADSは即座に応じた。三人が見ている透過性グラフィックスの上に熱映像の虹色の動画が被さった。赤の高温部から低温のブルーに連なる色鮮やかな階調画像である。ITCの視界左隅に赤く【LIVE】の文字が浮かんでいた。

 遺体と思われる損壊した人体は、既に温度が下がり始めていた。大量の失血。生命活動の停止。さっきまで中央でぼんやりしていた邪悪な影は、サーモグラフの揺れ動く輪郭を得て店内をうろつき回っていた。鮮やかな色彩の滲む動画は、両手を前にだらりと垂らし、オランウータンに似た歩行動作で周囲を伺っている。散々に客を血祭りにした挙げ句、腹でも減らしているのか、新鮮な生き血を嗅ぎ分けようとしていた。

 そこで黒沢が、間の抜けた声で指摘した。

「おい、カウンターの下、何かいないか?」

 多喜は我に返って、映像に注目した。エックス線透過映像の時はわからなかったカウンターの右隅に、紛れもない熱源が見てとれた。摂氏三十七度前後。生命の宿る人体を表す数字だ。しゃがんだまま息を凝らしている、そんな風に見えた。

「生存者がいる?」

 マギー・リンが声を上げた。

「やばいな。喰われちまうぜ」

 さすがに黒沢の声にも緊張が走った。多喜が即断した。

「突入しよう」

「インターセプターか?」

 黒沢が奪還フォーメーションを口にした。

「それだ。俺は正面から。黒沢とマギー・リンは裏口。VADSで動きを封じたら、マギー・リンが被害者の確保」

「了解」二人の返事が同時に揃った。

 多喜の短い指示で、迷いもなく三人の動きが決まる。知覚の反応を先読みしてITCが表示インフォメーションを整理すると、視界が広がった。

 多喜は素早くフルフェイスの防護ヘルメットを被り、ビルの四階にあたるファサードから、連なった風俗店の屋根へと跳躍した。夜の闇に黒い人影が舞う。軽く七メートルはある間隔を、スーツ下に装着したBEX(ベクス)アタッチメントが軽々とクリアさせた。人間の身体能力の最大二〇倍を引き出す外部骨格装置だ。多喜は煤け、黒カビに覆われた屋根に着地するや否や、弾みに乗ったまま三歩で店の正面に飛び降りた。きらびやかなネオンサインが、多喜のフェイスプレートに映り込んで流れる。

 待機させていたVADSが、七つの脚を歩行モードにして待ち構えている。制服警官たちは要領よく規制線を巡らせて、野次馬を十分な距離まで退けていた。

 よし、いいぞ。

「裏に回ったぜ」

 黒沢の声が頭蓋に届き、【カメラ12】を覗くと、黒沢、VADS、マギー・リンの姿が見える。多喜は携帯した9ミリの自動拳銃センチネル92型を引き抜いた。

「場所が狭いからな。ホローポイントを使えよ」

 と、多喜が二人に注意を促す。黒沢が不満そうな声を上げた。

「何だよ。派手に行こうぜ」

「同士討ちは、ご免被る」

 そこでVADSの指向性高感度センサーが、店内から引き裂くような甲高い悲鳴を拾った。

 女の声だった。

「ああ、もう最悪………」マギー・リンの悪態が聞こえる。

 多喜はITCで二人にシンクロタイミングを送った。

 カウント。5・4・3・2・1、

 状況開始。

 店正面のVADSがレーザーカッターで入口を粉砕した。その脇を擦り抜け、多喜が進入する。

 踏み込んだ瞬間、足下がぬるりと滑った。危うく倒れそうになり、気合で踏ん張る。

 淡紅色の照明が照らし出す薄暗い店内に、一面、血飛沫が飛び散っていた。壁には引きずり回された身体の痕跡が生々しく染み付いていた。床を覆うねばついた黒い滴りの中に、遺体が折り重なるように沈んでいる。手足が千切れ、臓物が引きずり出され………。壁の隅に転がっている丸い物体は恐らく切断された頭部だろう。今、このフルフェイスのマスクを外したら一体どんな臭いがするか、想像は容易かった。

 多喜は吐き気を押さえながら、まっすぐに正面を見据えた。

 そこに白い悪魔の姿があった。身の丈三メートルの無毛の白子アルビノ。引き延ばされた頭部と耳。長い顎。生気のない赤い目玉。それがオレモア・ヴァンパイアだ。症候群発症者のむごたらしい成れの果てである。うつろな赤い瞳孔が多喜を見返した。

 オレモア・ヴァンパイアは長い前肢で何かを抱えていた。白くて柔らかそうな何かが、むなしく抵抗していた。よく見るとそれは、小柄な若い女だった。服が千切れ、半裸のまま血だるまになっている。女は背後からがっちりと羽交い締めにされ、身動きもままならない。怪物の喉元からフイゴに似た音が漏れていた。ぎっしりと並んだ歯牙の隙間から白濁した涎が滴り落ちる。女のすすり泣きが聞こえたところで、多喜は我に返った。

 この、化け物め! 

 多喜はセンチネル92を構えた。足を踏みしめ、目の高さにきっちり構えた立射体勢から二発発砲する。白熱のマズルフラッシュと、消音器の付いていないでかい破裂音が轟く。オレモア・ヴァンパイアの肩口左右に一発ずつ、見事ヒットした。ホローポイント弾のマッシュルームングが怪物の体内に運動エネルギーを叩き込み、効率よくダメージする。怪物が甲高い奇声を上げた。それを合図に店の裏口が派手な音を立てて破壊されると、黒沢VADSが突入した。怯んだオレモアが手を滑らせ、女を取り落とした。血溜まりに滑る若い女。オレモアが拾い上げようと下を向いたところで、VADSがその頭部をマニュピレータで掴んで後ろ向きにひっくり返した。すかさずマギー・リンが飛び込み、ぬかるんだ床を滑って女をキャッチする。暴れ回るオレモアを、VADSの電動アクチュエータが容赦なく締め上げる。が、暴れ方も半端ではない。壁が砕け、ガラスが飛び散る。VADSのオフベージュの筐体が、床の跳ね返りで真っ赤に染まっていく。黒沢はVADSによじ登ると、オレモアの長い頭部に狙いを付け、自動拳銃を発砲した。

「死ね! 死ね! 死ね!」

 轟音が轟き、黒沢のセンチネル92の連射が、怪物の頭部を粉砕した。

 飛び散った肉片がフロアを滑り終えたところで、オレモア・ヴァンパイアの動作が沈黙した。怪物の白く長い指先が小刻みに震えていた。

 硝煙の霞が漂う中、三人が顔を見合わせる。ようやく静かになった店内にはお洒落なボサノヴァが掛かっていたらしい。多喜はそこで初めて気付いた。聞き覚えのある曲だ。確か『イパネマの娘』? 

「みんな、無事だな?」

 多喜はITCに映し出される二人の【Life activity】をモニタリングしつつ、声を掛けた。

「ああ、大丈夫だぜ」と、黒沢。

 マギー・リンは、救出した若い女をソファに寝かせると立ち上がった。血糊で貼り付く形のいい尻を払いながら、

「うわー、スーツべたべた。気持ち悪い」

 その様子を多喜がたしなめた。

「対NBC(核生化学)スーツだぜ。染み込みゃしないさ。それよりマギー・リン、被害者は無事か?」

 マギー・リンは気絶した若い女の濡れ縺れた髪を払った。

「どうかしらね。全身血まみれだけど。この状態じゃ何されたか、わかんないわよ」

 多喜も渋い顔でうなずき、自動拳銃をホルスターに仕舞った。

「そうだな。とりあえず施設に隔離手続きを。VADS」

「了解」

「それから、………第三の吉川主任にもう入っても大丈夫だと、伝えといてくれ」

 マギー・リンと多喜は現場を荒らさないように気遣いながら、引き上げの準備を始めた。(夜の盾)の司法執行活動はここまでだ。後は所轄の第三方面本部が引き継ぐ。ここからが吉川主任の出番というわけだ。

 被害者の若い女は、入口に待ち構えていたVADSに渡された。マニュピュレータで器用に抱き上げ、特殊護送救急車へ移送した。

「さて、そろそろ引き上げるぞ。………おい黒沢」

 多喜が黒沢の姿を探すと、床の上に大の字になったオレモア・ヴァンパイアの屍を、跨ぐように見下ろしていた。自動拳銃のホローポイント弾が粉砕した、丁度頭のあった辺りに立ち、鼻歌まじりにステップを踏んでいる。


 I'm sigin' in the rain.

 Just sigin' in the rain. ………


 黒沢は古いミュージカル映画の主題歌を口ずさみながら、タップを踏んでいたのだ。床の上に残った肉片を踏みつぶしながら。血溜まりが小さな飛沫を上げ、黒沢のブーツに赤い水玉模様を描いた。能楽面の痩男に似た顔が満面の笑みを浮かべている。多喜は怖気立った。

「いい加減にしろよ。悪趣味が過ぎるぞ」

 黒沢は嬉々としてタップを踏み続ける。

「いいじゃねえか。俺様は楽しいんだよ」

「恨みでもあんのか? ちょっとお前、異常だぜ」

「別に何にもねえさ。俺様を異常者呼ばわりするんじゃねえ、多喜。オレモアなんてな………」

 黒沢はでかい塊をブーツで踏んだ。肉片は黄色い液状のものを吹き出し、嫌らしい音を立てて潰れた。

「ただの虫けらだ」

 マギー・リンがつかつかと歩み寄ると、黒沢を突き飛ばした。よろけた拍子に足下が滑って、黒沢が床にひっくり返った。黒沢は仰向けに倒れたまま、けたけたと笑い出した。ITCを通して突き刺さる黒沢の笑い声は、脳髄を揺さぶる雑音だった。マギー・リンが怒声を上げた。

「しつこいんだよ、この変態野郎………」

 最後まで言い終わらぬ間に、その言葉は封じられた。怪物の長い右腕が、突如マギー・リンの頭を掴んだのだ。延髄の反射動作。ラザロ徴候。あっという間に右手が頭部を締め付け、防護ヘルメットの潰れる乾いた音がした。彼女のスレンダーな肢体が一度硬直した後、痙攣を起こした。黒沢は呆然として、床の上から見上げていた。多喜が咄嗟にVADSに命じた。

「延髄を潰せ! 早く!」

 VADSの三番脚が振り下ろされ、オレモアの首の付け根を床下までめり込ませた。オレモア・ヴァンパイアの右腕が力を失い、ぐにゃりとマギー・リンの身体が落下する。不自然な形に投げ出された手足が、糸の切れた人形のようだった。防護ヘルメットのフェイスプレートが蜘蛛の巣状の亀裂で白くなっていた。内側にめり込み、全体が五本の指の形に押しつぶされている。

 ああ、マギー・リン。

 ………これが特別司法執行職員の最後である。

 油断したのはお前の不覚だ。しかし、………今日は星回りが悪かったか? 

 多喜はマギー・リンだったものを見下ろしたまま、両手を固く握りしめた。

 畜生! 

 ヘルメットの中で、多喜の顔が怒りに歪んだ。

 無言のまま多喜は黒沢を振り返り、BEXアタッチメントで二〇倍に増強された爪先蹴りを見舞った。黒沢の身体が壁際に吹っ飛んだ。

「………痛てえじゃねえか。何しやがんだよ………」

 逆様に転がったまま、黒沢が悪態を吐いた。プロテクター越しの蹴りなど、いかほどのダメージにもならんだろう。

 どうしてこの馬鹿野郎が、目の前のマギー・リンの代わりでないのか。多喜は自分の中に、言い知れぬ殺意が沸き起こるのを、懸命に押さえ付けていた。

 深呼吸を一つし、胸中で別れの言葉を呟く。

 多喜はITCのファンクションコントロールから(通信回線)を選択し、(夜の盾)中央管制室にアクセスした。

「状況終了。渋谷区宇田川町にて、特別司法執行職員マギー・リン殉死。AD.2038_10/04 mon. PM07:32 以上だ」


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