第14話

 詩織を連れ、その場を離れたのだが、彼女は一時的なショック状態で口も聞けない様子だった。渋谷にはいたくないというので、彼女のマンションのある築地まで送った。

 多喜は詩織が少しでも落ち着けるようにとファミレスに入り、コーヒーを注文した。

「ドリンクバーじゃなくていいですか?」

 多喜は詩織にたずねたが返事がない。無言で小さくうなずいただけだった。

 びしょ濡れになった多喜を気遣って、ウェイトレスがタオルを貸してくれた。多喜はジャケットを脱いで頭を拭きながら、詩織に言った。

「安心なさい。誰も追い掛けちゃ来ないですよ」

 ようやく口を開いた詩織の声は、絞り出すようだった。

「………ごめんなさい」

 ふと目をやると、肩が震えている。

「私、喧嘩とか見るの初めてで。動転しちゃいました………」

 多喜は小さくうなずいた。

「まあ、普通そうでしょ。そうでないとおかしい」

「あなたの周りは、いつもあんな風ですか?」

「え?」

 詩織は目を伏せた。

「暴力が、いっぱい」

 多喜は頭を掻きながら渋々うなずいた。

「ウーン、そうですね。さっきのは、まあ、ほんのオードブルですけど」

「私、メインまで身が保たないです」

 詩織は言いながら途中で気が付いて、震えた声でちょっと笑った。多喜はそれを見逃さなかった。

「あー、やっと笑った」

 詩織の顔に少し血の気が戻った。

「私、恐がり過ぎですか?」

 多喜は片方の眉を吊り上げると答えた。

「そんなこと。………私の見立てで言わせて貰えば、あなたも十分勇気があると思いますよ。あそこに付いて来ようっていうだけでね。………その位が丁度いい」   詩織は照れくさそうに笑った。

 ウェイトレスが大きなマグカップでアメリカンコーヒーを運んで来た。詩織はクリームと砂糖をたっぷり入れ、多喜はそのままのブラックで頂いた。雨で冷え切った身体に、小さく火が灯ったようだ。

 二人は黙ったまま、ファミレスコーヒーの、それなりの味わいを堪能した。

 詩織はシルバーメタルのレインコートを脱ぎ、薄手のセーター姿になっていた。前髪が濡れ、額に貼り付いている。

 しばらくして詩織は大きなマグカップを、コツンとテーブルに置いた。

「落ち着きました」

 多喜は灰皿に手を伸ばした。キャメルのパッケージを取り出すと自分で一本抜き、詩織にも勧めた。

「どうです?」

「ありがとう」

 詩織は多喜のキャメルを取った。二人してライターの火を回して、旨そうに一服した。

「さてと」

 多喜は一つ咳払いした。

「拾得物の、レクチャーをお願い出来ますかね?」

 多喜はジップロックを取り出し、密封された証拠物件を広げた。

 ジップロックの厚口ビニールの中に、茶紙のメモが見えた。プリントアウトの切り抜き。書き込まれた石見庸介の筆跡。

 詩織はビニールを指でなぞりながら、しばらく考え込んだ。それからおもむろに口を開くと言葉を紡いだ。

「さっき、少しだけ話しましたけど」

 彼女はもう震えてはいない。

「この四つの記号はヤマナカ・ファクターと呼ばれるものです。それぞれを、Oct3/4(オクトスリーフォー)、Sox2(ソックスツー)、Klf4(ケーエルエフフォー)、c-Myc(シーミック)と読むんです」

 詩織は一つ一つの記号を指差しながら、ゆっくりと説明した。

 多喜は少し困った顔をして、

「最先端の生化学の話ですか?」

「いいえ、この発見は随分以前のことで、二〇〇七年に京都大学山中教授のグループが突き止めたものですね。iPS細胞はご存知?」

「名前くらいなら」

 多喜は嘘をついた。

「人工多能性幹細胞とか、誘導多能性幹細胞とか呼ばれるものです。人間の身体はおよそ六〇兆個の細胞から出来上がっていますけど、そもそもはたった一つの受精卵が分裂、増殖を繰り返して出来上がったものです」

 多喜は黙ってうなずいた。

「細胞は分裂を繰り返すごとに、その能力を専門化していく。結果、心臓は心臓に。肺は肺に。決まった姿に出来上がります。でも一旦出来上がった組織の再生能力は極めて限定的で、もうそれ以外のものに変わることは出来ない。こんな風に細胞が専門化することを分化というんです。わかります?」

 多喜は、おぼろげな学生時代の記憶を辿っていた。

「それって、あれですか。トカゲの尻尾の話でしょ?」

 そう、多喜が口を挟んだ。詩織は静かにうなずいた。

「そうです。我々人間が手足を失っても、どうにも出来ないけど、どうしてトカゲの尻尾やイモリの手足は再生出来るのか?」

「聞いたことあるな」

 詩織は続けた。

「分化の固定された細胞から組織を作り出す事は出来ません。分化細胞は遺伝情報がメチル化やヒストン修飾されて、読み出しが固定されているからです」

「コンピュータプログラムのプロテクトみたいだ」

「近いイメージですよ。それが出来るのは最初の受精卵、全能性のある幹細胞だけなんです。幹細胞を分化制御すると、臓器や身体の各部位を再生することが出来るんです」

「再生医療の切り札という奴ですよね。確かES細胞でしたっけ? しかしそれは倫理問題がネックだったのでは?」

「ええ。受精後の胚盤胞をほぐして取り出すES細胞は、キリスト教圏では随分なパッシングを受けて宙に浮き上がってしまった。人になる可能性のある細胞を掻き潰すわけですからね。で、それを覆したのがiPS細胞」

 多喜は身を乗り出し聞き入った。

「人間の血液や骨、皮膚にも再生能力はあるんです。そこに注目したのがiPS細胞。分化の終わった皮膚の繊維芽細胞に、ここに書かれている四つの初期化因子を組み込むと、ヒストン修飾やDNAのメチル化の固定が解除され、分化した細胞が受精卵の状態に戻るんです」

 多喜は渋々首を縦に振った。

「なるほど。人間の皮膚から作れば、倫理問題はなさそうですね」

「そう。この技術を使って移植臓器を分化させるとして、移植を受ける当事者の皮膚細胞から初期化されるので、共通の遺伝子を持ってるわけですよ。つまりES細胞のように核移植をしないでも、拒絶反応が起きないんです」

 多喜は納得した。

 テーブルに広げたジップロックのメッセージに目を戻すと、多喜はc-Myc(シーミック)の消し線を指差した。

「これについては?」

 詩織は少し頭を整理した。

「この四つ初期化因子の働きから説明しますね。当事者の皮膚細胞、つまり繊維芽細胞に初期化が働く時、まずKlf4、c-Mycが細胞の分裂限界を取り払います。これがいわゆるヘイフリック限界ですね。分裂限界の解除とは細胞の癌化を意味します。そこでOct3/4、Sox2の働きで多分化能を獲得し、癌化を逃れて万能細胞に向かうんです」

 多喜は眉をひそめた。

「結構危険な賭けですね」

「ええ。とくにc-Mycは癌誘発遺伝子として有名なもので、現在ではiPS細胞の初期化にはc-Mycは使われていません。初期化の効率は落ちますが、これがなくてもiPS細胞は作れる」

 多喜は思い出したように言った。

「確か、あなたが調べた庸介さん検索履歴でも、ヘイフリック限界について触れてましたね」

 詩織は小首を傾げ、答えた。 「あれは少し違う話なんですよ。あれは分化細胞に含まれるテロメアという構造体の複製限界による細胞死、アポトーシスと言うんですけど、それを人工DNAを使って書き足し、再生しようという研究です」

 多喜は頭を掻いた。

「iPS細胞には分裂限界がない。ですよね? テロメアを再生しても分裂限界を越えられる。つまり、どちらも細胞死の限界、ヘイフリック限界を取り払おうという研究じゃないのかな?」

 詩織は否定した。

「テロメア研究は、どちらかというと癌抑止の研究なんです。ヘイフリック限界の解除はイコール、癌化への道。だからテロメアの長さを自在にコントロールすれば、癌化した細胞にアポトーシスを与える事が出来る。そういう研究だと思います」

「iPS細胞にも、癌化の危険があるわけですか?」

「そもそもiPS細胞を作る際に、四つの初期化因子を繊維芽細胞に送り込む方法として、レトロウイルスベクターを使うんです。これがかなりのくせ者なんですよ。レトロウイルスベクターが持つ遺伝子はDNAではなくてRNAなんです。繊維芽細胞に到着し、細胞の中でRNAをDNAに読み替えて組み込まれる。その位置はランダムに決まるので、そもそもの繊維芽細胞の重大な遺伝子が破壊される可能性もあるわけです」

「それが癌化の引き金に?」

「そうですね。体内に移植した際、テラトーマと呼ばれる奇形腫をつくる性質を持っています」

 ふうと多喜が溜息をついた。カップに残ったコーヒーを啜り、呟いた。

「こんなに頭を使ったのは、学生の時以来だな」

 詩織は多喜の様子を見て、面白そうに微笑んだ。

「でも、ちゃんとついて来てますよ。多喜さん」

「そりぁ、どうも。あなたの説明が巧いんですよ」

「いえいえ」

 そこで多喜は煙草をもう一本点けた。詩織にも勧める。

 詩織が話を続けた。

「ともあれ、このiPS細胞の応用技術は、精密な分化制御にかかっているんです。つまり、自己増殖が抑制出来る。周囲に浸潤しない。本来の臓器から転移しない。これが腫瘍化抑制の三大テーマです」

 多喜は詩織に問うた。

「その技術、現在はどうなんです?」

「残念ながら、まだ確立されてません」

 そこで多喜は、自分のくわえ煙草の立ち上る紫煙を見詰めた。

「あ、これも癌の誘発要因でしたかね?」

 詩織は肩をすくめた。

「多少はあると思いますよ」

「詩織さんは構わないんですか、医学に携わる身として?」

「医者の不養生、です」

 二人は少しだけ笑った。

 詩織は表情を固くすると、ジップロックを指差しながら言った。

「でも、これはわからないですね」

 詩織が指した先に(五番目は?)と庸介の書き込みがあった。多喜は首をひねりながら、

「これは誰かが何か、発見したということですかね?」

「さあ」

「想像の域を出ませんな」

「そうですね」

 多喜は一つ咳払いすると、ジップロックの下の癖字の書き込みを読んだ。

「(クラブ・ブルー・プラネット)塚本 武・コーディネーター。………こいつに聞いてみるしかないか」

 詩織は怯えた顔をして、多喜の顔を見詰めた。また怖い目に会うの? そんな顔だ。

「でも何を聞くんです? それにこの人、誰です?」

 多喜は笑った。

「ご心配なく。それは、俺たちの仕事ですから」

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