第10話

 十月六日水曜の午後は、小雨模様だった。

 巣鴨パレスのすぐ裏手にある斎場で、石見庸介の葬儀が締めやかに執り行われた。

 出席したのは、妹の石見詩織ただ一人である。予想通り、育ての親の叔父夫婦は緊急の用件が持ち上がったらしく、出席していない。弔問客もいない。

 いわゆる密葬である。

 オレモア症患者の葬儀は、ほとんどがそうした形だった。都内の処分体は全てここに集められ、裏の斎場で焼かれる。故人と最後の対面などない。遺体が搬送された時点で納棺されており、釘打ちではなく、気密処理が施されている。特別仕立ての二回りも大きな棺。ダークスーツに簡単な袈裟を下げた僧侶がやって来て、軽く会釈をすると読経を始めた。それが終わると、すぐに火葬となる。産業廃棄物専用焼却炉さながらの高温焼却だ。恐らく、ダイオキシンさえ出ないだろう。

 死んで動かなくなっても、オレモア変異体は危険な病原体だ。

 形式は葬儀だが、あくまで完全処分が目的なのである。骨上げもないので骨壺もない。

 石見詩織はハガキ大の遺影と位牌を重ね持ち、焼香の煙が棚引く小さな式場に、ぼんやり座り込んでいた。小窓に雨粒がはじけるのが見えた。

 これで何もかも終わった。どこかほっとしたような、役目を果たしたような。

 導師入場から火葬まで、たったの四十五分だった。残ったのはこの古い時代から受け継がれた奇妙な因習、位牌という板切れだけだ。石見庸介という三十三歳の成人男性が、この物理世界から消えた。自分の血を分けた兄弟であり、最後の家族という関係性にも終止符が打たれたわけである。どちらかといえば愛情の薄い家族だったと思う。兄妹揃って似た才能を持ち、ライバル心を燃やした相手だったが、好意は持てなかった。本当にそう思う。昨日、巣鴨パレスで遺体に対面した時、不本意ながら取り乱してしまった自分が、今考えると何だか滑稽に思えた。兄の死は一体何だったのか? 悲しみではない。せいせいしたというものとも違う。自分と共に育ち、形成されていった相対的な存在が、すっぱりとそぎ落とされた、そんな感じだ。それは世界を認識するバランスであり、相互理解のための基準であり………。そうした様々なものだったのだろう。唐突に身軽になった自分は、その均衡を取り戻すまで幾許かの時間を要するはずだ。新たな、世界に向き合うための基準を見つけるまで。


石見庸介。 生物化学研究所(橘生化学研究所)の職員。オレモア症候群発症。(夜の盾)により処分される。享年三十三歳。


 これが事実。この物理世界で起きた、とても小さなニュース。

 新聞にさえ載らないだろう。

 石見詩織は位牌を見詰めた。達筆すぎて戒名が読めなかった。

 何の意味があるのかしら? 

 それにしても、四十五分とは。………あっけないものね。

 石見詩織が入口の方へ注意を向けると、通路の影に男の姿が見えた。

斎場の職員だろうか? 詩織は簡易のパイプ椅子から立ち上がると、少し身繕いして答えた。

「あ、時間ですよね。私、そろそろ出ますから………」

「いや、そのままで」

 男は右手を上げ、詩織を制した。影の中から一歩踏み出すと、黒革のジャケットを着た短髪の男だった。スポーツマンタイプの中年。四十代前半だろうか。男の顔は浅黒く、引き締まった精悍な風貌だった。どちらかというと、いい男である。だが甘さはない。少し強面なのかしら? 詩織は品定めしている自分に気付き、恥じた。

「あなた、どなた?」

 詩織は黒髪のナチュラルボブを傾け、男の様子を伺った。男は式場に一歩踏み込んだが、硬い表情のまま距離をとっていた。

「私は、………(夜の盾)です」

「(夜の盾)?」

 男はばつが悪そうにたたずんでいたが、意を決して言葉を発した。

「一昨日、渋谷で、あなたのお兄さんを処分した者です」

 詩織は一瞬わからず、理解して言葉にならす、じっと男の顔を見詰めた。

「庸介さんは残念でした………」

 男はお悔やみの言葉を口にしかけて、やめた。詩織の美しい顔が、もの凄い形相に歪んでいたからだ。殴られるか、引っ掻かれるかと身構えた。男は、それを受けるのが当然の報いと考えた。しかし、詩織は胸元まで赤くなった顔を鎮め、一つ溜息を吐き、目を逸らした。涙はなし、だ。

「それは、………どうも。ご面倒様でした」

「いえ、仕事ですから」

 気まずい空気が流れた。男は何か言いたげだったが、タイミングを逃しているらしい。詩織は目線をそらしたまま呟いた。

「御焼香してもらってもいいですか。弔問客も誰もいませんから」

 男ははっとして、鉢に近付いた。

「すいません。気が付きませんで。それでは………」

 抹香をつまみ、手を合わせた。

「ありがとうございました」

 二人して頭を下げた。詩織は小さく咳払いすると気を取り直したように、声のトーンを上げた。

「事件の現場や斎場で警察の方にはお目にかかるけど、(夜の盾)に会ったのは初めてです。私、病理医なんですよ。だから死人には結構詳しいんです」

 笑えない冗談だ。男は無理に口元を引きつらせた。

「遺族のことを考えると、我々はお呼びでないというか。言うなれば死神みたいなものですからね」

「いいえ、人類を守る立派なお仕事でしょ?」

「どうですか」

 詩織がたずねた。

「あなた、お名前は?」

「多喜と言います。多喜修一」

「私は………」

 と、言いかけて、詩織は口をつぐんだ。

「当然調べてますよね。だからいらしたんだし。でも一応。石見庸介の妹、詩織です」

 詩織は右手を差し出して握手を求めた。こぼれる白い歯が眩しい。

 多喜はここに着いてから初めての笑顔を浮かべると、そっと握り返した。詩織は多喜の手を握ったまま言った。

「多喜さんは私に用事があるようだし、私は煙草が吸いたいんです。そろそろ出ませんか?」

「もう、いいんですか?」そう、多喜が気遣う。

「ええ。兄とはもう十分」


 詩織と多喜は斎場を出ると、巣鴨駅の方まで戻ってカフェバー風の店に入った。時間はまだ午後三時を過ぎたところで、いわゆる節電時間帯である。この店は繁華街から少し離れた場所にあるせいか、照明の通電エリアに入っていなかった。薄暗い店内にはムードのある銀色の燭台が無数並べられていた。まさしくゴシック調。十七世紀室内絵画の趣だ。

「何だか、陰気なお店ですね」

 辺りを伺っていた詩織が、椅子を引きながら囁いた。

「すいません。他に開いてる店がなくて」

 多喜が弁解がましい苦笑いを浮かべる。

「いえ、構わないですよ。葬式明けの私たちにはぴったり」

 そう言って詩織がにこりと笑う。

 木製の分厚いテーブルに着いた。表面のニスは大方剥がれ、無数の焼け焦げが渦巻き、それがさらに磨き込まれて艶光りしている。二人して灰皿を引き寄せると各々が煙草を取り出した。喪服に身を包んだ詩織の姿は、オレンジ色の光の中で妖しく輝いた。多喜は兄、庸介のプロファイルを思い出して納得した。美男美女の、幸薄い兄妹というわけだ。石見詩織についてはVADSが検索プロファイルから引き上げていた。無論、犯罪歴などないので、警察のファイルでは見つからない。出生届、学歴、賞罰、社会保障番号などの一般記録である。兄の死にいささかの動揺もない様子だが、そこは人間の愛憎。人それぞれだ。記録や資料では容易に見つからない。さて、何が出てくるのか? 

「ああ、………美味しい」

 詩織は深々と吸った煙を上品に吐き出した。彼女の横に置かれた、あまりフォーマルとは言えないトートバッグの口から、庸介の位牌が覗いている。多喜は詩織の様子を伺いながら、おもむろにキャメルに火を点けた。

「私みたいなのと、良く来てくれましたね」

 そう多喜が呟くと、詩織は首を縦に振った。

「早くあそこから出たくて。嫌でしょ、巣鴨パレス」

「同感ですね」

「それに警察官は良く知ってますけど、私(夜の盾)には知り合いがいませんから」

「興味が?」

「そうですね。特別司法執行職員(夜の盾)。なんか正義のヒーローっぽい、じゃないですか?」

 多喜は煙草の灰を払いながら首を横に振る。

「いやぁ、ただの汚れ役ですよ。皆さんの家族だった人を処分するんですから」

 多喜は言葉を呑み込み、そして続けた。

「………一昨日は、あなたのお兄さんを」

 詩織はしばし沈黙したが、首を傾げて、

「それは仕方のないことよ。あの病気の決定的な治療法を見つけ出せないのは、私たち医療関係者の責任でもあるわけだし」

「なるほどね。………それにしても気丈な方ですな、あなたは。随分と落ち着かれてる」

 詩織は胸に手を当てた。

「私?」

「ええ」

 詩織はまだ幾らも吸っていない一本をもみ消すと、新しい細身のシガレットを取り出した。

「兄とは、昔から折り合いが悪くて」

 そこでウェイターが注文を取りに来た。詩織はビニールカバーに挟んだ古くさい手書きのメニューをめくり、多喜を見た。

「何にします?」

 多喜がホットコーヒー、と言いかけたところで詩織が意地悪く遮り、

「勤務中だからどうの、ってのはなしにしましょう。だってあなた、(夜の盾)でしょ?」

 彼女は茶目っ気のある表情でウインクした。多喜は笑った。

 結局、詩織はジントニックを、多喜はライトビールをオーダーした。

 注文はすぐに運ばれ、ウェイターは突き出しにナッツの入った紙のケースを二つ置いていった。

 少しグラスを傾け、喉を潤したところで詩織が口を開いた。

「本当いうと話し相手が欲しかったんです。あんな辛気くさい場所、五分と居たくないから。多喜さんが来なかったら、誰でもいいから携帯であちこち呼び出してたでしょうね。今日はあなたが犠牲者ってわけ」

「へえ? そうなんですか?」

「私、案外しつこいんですよ。あ、でも、今の誰でも良かった、ってところは取り消しますね。多喜さんは、おじさんだけどハンサムだし、………うん。私、満足してます」

 多喜はにんまり微笑んで、人差し指を振った。

「おじさん、が余計ですよ」

 詩織は二本目のシガレットを吹かしながら、多喜の目を見た。

「私の知っていることをいくつか確認してみたいんですけど、いいですか?」

「どうぞ」

「オレモア変異体の処分現場は何度か見た事があります。病院でね、応援に入ったことがあるんですよ。多喜さんたち(夜の盾)の出番は、鬼退治のとこまでですよね。後は警察の仕事。鑑識課と科捜研と、所轄警察の皆さんがやって来る」

「そうですよ。なぜかというと………」

 その後を詩織が継いだ。

「捜査権がないから」

 多喜はうなずいた。

「ご名答。でも、我々には作戦行動の為のリサーチ活動が許可されている」

 詩織は眉をひそめた。

「それって、何が違うんです?」

 多喜は少し声を落として、

「我々がその活動によって得た情報を証拠として提出することは出来ない。情報は警視庁や所轄の警察が引き上げ、検討材料とされる。つまり(夜の盾)が裁判所に呼ばれることはないってことですよ」

 詩織はグラスを置くと腕組みした。

「まあ。美味しいところは全部警察に。嫌な仕組みですね」

「実際、そんなリサーチ活動する(夜の盾)は、ほとんどいませんしね」

「でも、あなたがいるわ」

 多喜はライトビールをあおった。

「まあ、そうですけど」

「多喜さんは、その………何に引っ掛かってるんですか?」

「さて、そう言われると根拠のないことばかりでしてね」

 詩織は、テーブルに身を乗り出した。

「あら、研究の世界では、根拠よりも勘が重要視されているんですよ。推測あっての発見ですもの」

 多喜は煙草を消すと、両手の指を組み合わせた。

「それでは、少し聞いてもらえますか。………私が引っ掛かってるのは、現場の状況なんです。憶測ですけどお兄さんは誰かと会おうとしてたんじゃないか、ってね。私はそう思うんです」

 詩織は少し意気消沈した。

「庸介の交友関係ってことですよね。それじゃ私は力になれないかも」

「最近はあまり、兄妹仲は良くなかったですか?」

「最近というか、生まれてこの方というか。………私の斎場の様子とか、今あなたとこうしてることとか。大体、察しが付くでしょう」

 多喜は小さくうなずいた。片方の眉を吊り上げると、

「妹の誕生日に花を贈ってくるタイプじゃなさそうだ」

「そんな程度なら、………愛せたかも」

 詩織は乾いた声で笑った。

「とにかく私はあいつのことが嫌いでした。私が子供っぽいのかもしれないけど、許せなかった」

「ほう? ひどい確執ですね。………差し支えなければ」

 多喜が促すと、詩織は視線をさまよわせた。

「まあ、他人が聞けば下らない話ですけどね。プロファイルでご存知だとは思いますけど、兄と私は同じような道を目指していたんです。で、勝ったのは兄。とりあえず社会的地位と収入面ではね。兄は大成功した」

「橘生化学研究所でしたかね。良く知らないんですが、業界では上位に?」

「ええ、もちろん。大手ホールディングス会社の参画企業です」

「どちら?」

「O&Iホールディングス」

 多喜は目を丸くした。

「それはそれは、………国内業績第二位の財閥系ですか」

「研究費は無制限。その手の職を目指すものとしては理想の職場です。そこらの病理医とはわけが違う」

「あなたはそれを負い目に?」

 詩織は皮肉な笑みを浮かべた。

「普通に考えれば優秀で自慢の兄なんでしょうけど。庸介は性格的に………」

 そこで詩織が顔をしかめる。

「問題が?」

 多喜が詩織を覗き込むように問い詰めると、詩織は恥じて顔を赤らめた。

「彼の前では、どんな人間も下僕なのよ。誰でも人を見下すタイプ。兄妹の私には特にひどかったわ。わかります?」

 多喜は肩をすくめ、

「わかりますよ。自分も職場で似たような経験ありますから。………馬鹿馬鹿しい話だと思いますが、軽いものなら嫉妬。最悪なら殺人にも至る、人間の根源的な業に根ざした感情だ。相互理解を阻むには一番の近道でもある」

 そこで多喜はにやりと笑った。

「要するに庸介さんはクソヤロウだった、と」

「そう、………なんです」

 あまりに率直な多喜の感想に、詩織もつい口元がゆるんでしまう。

「フフッ。………多喜さんって面白いですね」

「ええ? そうかな? 言われたことないですよ」

 多喜は照れ笑いで頭を掻いた。

「庸介はいわゆる長男独特の天真爛漫さと、無神経さを兼ね備えた人間だった。うぬぼれも人一倍強くて、自分のために誰もが献身すべきだ、そういう自己中心的な優越感というか、全てが利己主義に貫かれていましたね」

 多喜はうなずいて、詩織の話を概要した。

「他人には無頓着なくせに、ちょっとでも自分が傷つくと、がたがたうるさいタイプですね。自分のためにだけ神経質な奴。………いるいる。想像出来ますよ。自慢話とか大好きでしょ? ………お兄さんは、真面目にこんなことを言うんじゃないかな。まず僕の気持ちを優先してくれよ、とか」

 両手を振り回し、芝居がかったセリフの多喜に、詩織は目を丸くした。

「全く、その通りよ」

「いるなあ、そんな奴」

 多喜は少々呆れ気味にビールをすすった。やれやれ、ただの兄妹喧嘩か。さほど根の深いものでもなさそうだ。空振りか? そう思ったところで詩織が言葉を続けた。

「どうして長男って、そうなのかしら?」

「誰でもってわけじゃないでしょう」

「あら、私が知ってる長男男は皆、共通しているわ」

「そりゃ、男運がないのかな? ………あ、ちょっと失礼ですかね?」

「いいえ。いいんです。本当のことですから。ちなみに多喜さんは? お名前には一が付いてましたっけ?」

「私? 修一ですけど? ………ああ、安心してください。私は次男坊ですよ」

「ええ? 一なのに?」

「さあね。親が付けた名前ですから。理由は知りません」

 詩織は不思議そうな顔で多喜を見詰めた。

「お兄さん? それともお姉さんかしら?」

「兄ですよ」

 多喜はたずねられる前に、淡々とプロファイルを述べた。

「ここ十年ほど会っていませんね。どこで何をしてるんだか。親は五年前に二人とも他界しました。どちらも自然死」

「まあ、それは良かった、………っていうと変ですか?」

 二人は顔を見合わせ笑った。

 多喜は二本目のキャメルに火を点けると、たずねた。

「自慢ついでに、仕事の話は出なかったですか?」

「もちろん。電話してくればいつも。私が嫌がるほどに余計に面白がってましたし」

「庸介さんの研究は何をなさってたか、聞いてますか?」

 詩織は少し考えると、そらんじた言葉を思い出すように答えた。

「確か、………そう。(人工DNAの生化学的応用)です」

 多喜は顔をしかめると、変な匂いでも嗅いだような表情になった。

「何です、それ?」

「さあ、詳しいことは喋れないみたいで。守秘義務があるらしいんです。自慢話は聞くけど、内容はわからずでしたね」

 詩織は人差し指を頬に添えると、

「最近、新しいプロジェクトチームを立ち上げたと言ってたのが、今年の六月でした。室長になったと大喜びで。二ヶ月くらいは意気揚々と自慢話を聞かされましたよ。世界に先駆ける画期的な研究だとか、何とか」

 多喜はうなずきながら、頭蓋内で記録中のITCに、そっとインデックスを付けた。

「でもここのところ、夜中に酔っ払って掛けてきたりして、俺は騙されただの、陰謀だの、戯言を言い始めたんです。まあ、私はいつもの、庸介お得意の被害妄想くらいに考えてたんですけど。結局、九月の終りが最後になっちゃいましたね、兄と話したのは。今思えば、ひどく怯えていたような気もします」

「そして一昨日の晩、庸介さんはオレモア・ヴァンパイアに」

 詩織はうつむいてうなずいた。

「そうですね」

 多喜は煙をゆっくり吐き出しながら、探るように聞いた。

「詩織さんは、何か庇ってますか? 庸介さんのことで」

「あら、どうして?」

「私の経験から言わせてもらうと、何かに失望した人間から連絡があった時、最後まで秘密を守れる人間を見たことがない。庸介さんは明らかにここ数ヶ月、新しいプロジェクトに失望していたはずだ。それをあなたに伝えたいがために連絡して来たんでしょう?」

 詩織は多喜の目をじっと見詰めると、小さく首を横に振った。

「多喜さんは庸介たちの守秘義務が良くわかってないんですね」

「というと?」

 詩織は多喜に顔を近付けた。

「庸介は喋らないよう義務を守っていたのではなく、喋ることができなかったんです」

「………?」

「PTSDプロテクトはご存知?」

「いいえ」

「PTSD(Post-traumatic stress disorder)、心的外傷後ストレス障害を利用した抑制装置のことです。庸介は研究所に入所するときに、脳内にこの埋設装置を施術されているんです。先端技術を扱うの企業では良く使っている手なんですよ。個人の良識なんかで機密が守れるはずないから」

 多喜は鑑識課の磯部主査のことを思い出し、耳が痛かった。 詩織は続けた。

「研究員の思考を邪魔するようなものでは意味がない。そこで考えられたのが、決して情報を外に持ち出せない方法」

「でも、考えることは制御出来ないでしょ?」

「そう。そこよね、問題は。だったら外部化出来ないようにすればいい。考え、研究する場所を、トラウマで特定してしまう。PTSDプロテクトは一種のストレス反応を人為的に脳内に作り出す技術なんです。彼らは研究所内の特定の環境でしか、その思考を形に出来ない。その環境から一歩外に出ると、もちろん頭の中で考えることは出来るけど、それを言葉にしたり、文字にしたり、情報開示に繋がることを思うだけで、扁桃体が興奮し、激しい身体的苦痛が想起されるんです」

「なんて………非人道的な。例えばですけど、その記憶のアウトプット、………それを無理矢理続ければ、どうなるんです?」

「後遺症としてストレスホルモンによる海馬の萎縮、脳機能の低下など諸々。廃人は覚悟しておかないと」

「もの凄い話だな」

「もちろん、誓約書は一人一人にあるんですよ。そこは個人の自由ですから。まあ、それに見合うだけのペイがなされている、そういうことでしょ」

 多喜は溜息を吐いた。

「なるほど。そりゃ、幾らあなたに伝えたくても無理な相談だ」

 詩織はジントニックを手にしたまま、結露した硝子の表面を指でなぞった。

「庸介は何か伝えたかったと、あなたは思っているのね」

「恐らく」

「理由を聞かせてもらえます? ………ああ、そうだ、多喜さんも守秘義務、みたいなものがあるのかしら?」

 多喜は片方の眉をつり上げてみせた。

「まあ、あるといえばありますけど。我々(夜の盾)が裁判所に出向くことはないんでね。おまけに非人道的な心理プロテクトもされてない」

 詩織はにこりと微笑んだ。

「好都合ですね」

「いやいや、ご都合主義ですよ」

 多喜は周りを伺うと、詩織の方に顔を近付け呟いた。

「渋谷の現場では、おかしな遺体が出ましてね。現職の警察官、片山徹、鑑識課第2係、三十六歳」

「それはお気の毒に。兄の犠牲になったんですね」

「まあ、そうなんですが。だが、この片山徹という鑑識の男、捕り物に巻き込まれたわけじゃない。最初から店の中にいたんですよ」

 詩織は顔を曇らせた。

「あら、お楽しみでしたか?」

「私も初めはそう思ったんですが、片山という男の評判が随分と堅物らしくてね。それで片山のマンションの現場検証にも立ち会ったんですよ。詳細は省きますが、そこで我々は庸介さんの携帯番号を見つけたんです」

「じゃあ、二人は知り合い?」

 多喜は詩織の様子に落胆した。

「それは私が聞きたいところでね。ご存じない?」

「ええ。庸介の知人なんて、紹介されたことありませんもの」

 開き直ってる風でもなく、嘘をついているようでもない。本当なのだろう。そこで多喜は自分の持っている情報を開示した。

「二人は大学在学中の先輩後輩の関係でしてね。東京大学理学系研究科生化学専攻・宮島研究室の出身だ。友人かどうかはともかく、どこかで接点があったかもしれない」

「二人は待ち合わせして、その店に現れたということですか?」

 多喜はあごをさすりながら考え込み、首を傾げた。

「ここに来るまでは、知人がどうかが問題でしたけど、………あなたの話を聞いてしまったからな」

「え?」

「PTSDプロテクトですよ。話したくても話せない。非人道的な守秘制御下にあったとなると話が違ってくる。庸介さんはその危険な拘束を背負いながらも、話さなければならない事情があった。よほどのことですよ。何か重大な秘密かもしれませんね」

 詩織が顔をこわばらせた。

「政府の陰謀?」

 あまりに短絡的な結論を真面目に喋ったのが、少し可笑しかった。可愛いところがある。多喜は乾いた声で笑った。

「まあ、そんなだったら凄い事ですけどね。それはさておき。庸介さんは頭のいい人だった、でしょ?」

「とりあえず、頭だけは」

「心配事にさいなまれた結果、自分の古いアドレス帳を開いたんでしょうな。自分の携わっている事に精通し、しかも謎解きに強い人間を探したはずだ。大学ネットのプロファイル検索で卒業後の就職先を調べたはず」

「ヒントから謎解きする職業と言えば………」

 詩織の言葉を多喜が繋いだ。

「警察官。更に分野からすれば科捜研、もしくは鑑識課」

 詩織は納得した。

「片山徹さん。まさにぴったりですね」

 多喜はうなずいた。

「理屈は通ってますよ。お兄さんはかゆいところに手の届かない、遠回しなヒントを片山に検証させようと、あの場所で待ち合わせしたのかもしれない」

 詩織は鼻の頭に皺を寄せた。

「よりに寄って渋谷の風俗店だなんて。まあ、単細胞の庸介なら、すぐはまっちゃいそうだけど」

「場所も何かのヒントかもしれません」

「多喜さん、庸介を買いかぶり過ぎだわ。言ってもあいつはロクデナシよ」

 多喜は肩をすくめた。

「そうでしたね。でも可能性はある」

「少し面白過ぎない、かしら?」

 そう、詩織が茶化した。多喜も言い返した。

「秘密を抱えた生化学者が警官と待ち合わせしたら、オレモア・ヴァンパイアになった。それだって十分面白過ぎる」

 多喜はフィルターぎりぎりに迫った煙草を灰皿でねじ消した。詩織は頬杖をついて多喜の仕草を眺めていた。

「どれも可能性の域を出ない話ですね。でも、………確かに興味深い」

「ご清聴、どうも」


 多喜は二本目のライトビールを我慢して、石見詩織を巣鴨駅まで送った。まだ小雨は降り続いており、肌寒かった。

 詩織は多喜の方に傘を傾けながら言った。

「兄のこと、少し多喜さんに話したら楽になりました。どう考えたらいいものか、わからなくて。嫌いな人間が死んでも、涙って出るんですね」

 多喜は目尻に皺を寄せ、温かく微笑んだ。

「それが人情ってやつですよ」

「何だか浪花節みたい」

「浪花節だよ、人生は。………ってそんな唄、ありましたかね?」

 詩織はハハハッと声を上げて笑った。

「やっぱり多喜さん、面白いです。………また私と会ってもらえません? 私仕事以外の友達って少なくて。美味しい日本酒のお店、紹介しますから。私の仕事の愚痴とか、聞いてくださいよ。………いいでしょ?」

 詩織の下から見上げる探るような視線に、多喜はちょっとどきまぎした。

「ええ、それはこちらこそ喜んで。お兄さんの事件のこともあるので、こちらからお願いしようと思ってたくらいでね」

 詩織はぱっと大きな笑顔を見せた。まるで陽が差したようだった。

「良かった。………これ、私のアドレスと番号です」

 詩織は品のいい小振りな名刺を多喜に渡した。ホワイトパールの用紙に小さめの月と星の形がエンボス加工で浮き出しになっていた。多喜は名刺を受け取ると、その表裏を眺めてから、おもむろにペンを取り出し、自分の携帯番号を書き込んだ。そして詩織に手渡す。

「これが私の番号」

「暗記の達人、なんですか?」

 不思議そうな顔をして受け取る詩織に、多喜は言った。

「覚えるのは、埋め込み装置に任せてあります」

「やっぱり特別仕様なんですね。あなたたちは」

 詩織はまじまじと多喜の顔を見詰めた。

「皆さんの税金が投入されてるんですよ」

 多喜は右手でピストルの形を作って、こめかみを撃ってみせた。それから、にこりと笑うと、

「美人のお誘いとあらば断れませんね。それに女性の愚痴を聞くのも結構得意でして。………あ、でも私、日本酒は苦手なんです」

「まあ、はっきりしてますのね」

 濡れそぼる傘の下、二人の小さな笑い声が立った。

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