第18話
聖路加セントルークスタワーの現場には、とりあえず黒沢を残した。現場検証と警察対応のためである。
多喜と詩織は、マギー・リン模擬人格構造物が操る赤いVADSに乗り込み、黒沢の指定した北新宿へ移動した。ナビ・インフォメーションに従い、中野坂下に繋がる目抜き通りを西に折れ、新宿税務署手前を狭い裏路地へ入る。
そこは関東エリア随一の外国人居住区、百人町であった。
百人町の由来は、内藤清成が率いた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに因んでいる。百人組、と呼ばれた江戸の警護を担当する鉄砲隊は、その鉄砲術において関東一、二を争う腕前であったという。
第二次世界大戦前には有数の高級住宅街であった時期もあり、戦後は音楽、楽器の街として知られた。その命脈は今もなお続いており、ライブハウスやジャズ喫茶というアナクロな文化が継承されている。東京都から広域避難所の指定を受け、土地整備が進行していたが二〇二〇年を境に頓挫。再び寄せ場の様相を帯び始めた。現在は警視庁第四本面本部が最重要拠点としてマークする、アジアマフィア黒社会、最大の温床となっているわけだ。
ここが黒沢のルーツ、脱ぎ捨ててきた過去だった。しかしながら今尚、そのコネクは健在であるらしい。黒沢はその場所をアジトと呼んだ。
目印はアジア的に賑やかな漢字の広告、雑貨商のウィンドウだった。その脇の小さな板戸を開け、細長く地下に下る急勾配の階段を見付けた。多喜が先頭に立ち、詩織が続く。底まで降りると、横に伸びる赤ペンキ塗りの通路に出た。三つ並んだ裸電球は暗く、闇にうっすら壁面が浮かんで見えた。一つ目の扉からは広東語のラップミュージックが聞こえてきた。ミディアムテンポで打ち鳴らす、PCM音源のスネアドラムが黒い扉を揺さぶっている。
足元に注意しながら進み、三つ目の扉に(STAFFORD)のロゴタイプを見つけた。アルミ製粘着デカールが貼付けてある。多喜はその何度となく上塗りした複雑なマテリアルの扉を確認すると、足元の小さな開閉口に目を向けた。大昔の牛乳配達用の受け取りポストである。多喜は薄暗がりの元で小さなメモ用紙を千切り、筆記具で(C.F.Martin)と記した。黒沢に教えられた合言葉だった。言われた通り、小さく折り畳んでポストに落とした。
数秒の間を置いて、ポストはガチンと内側に閉じた。
沈黙の一時、多喜は広東語のラップミュージックに耳を傾ける。奇妙にエキゾチックな雰囲気が耳に残った。ようやく扉の向こうに気配がし、チェーンの音、機械式の錠前が外れる音が複数聞こえ、扉がそろりと外側に開いた。
現れたのは顔の浅黒い、若い女だった。
「と、まあ、そんなわけで今、往生こいてるってところ。ご理解頂いた?」
多喜は革張りのソファにもたれ、後ろ首からぶら下がったアウトプット用の有線ケーブルを弄んだ。詩織は言葉の通じない南方アジア系女に出してもらった救急セットで、多喜の傷を手当てした。
「大筋は、わかったわよ」
マギー・リン模擬人格構造物がモニタから返事を返す。
緊張した詩織の指がバランスを失って、ぐいと傷口を刺激した。
「痛たたっ………」
多喜が痛みに身をよじると、詩織が詫びた。
「ご免なさい。………まだ手が震えて」
すかさず、模擬人格構造物が二人を冷やかした。
「多喜も美人女医の完全看護とは、隅に置けないわね」
「言ってろ」
多喜はそうぼやいて、ソファに胡座をかいた。
黒沢のアジトは窓のない2LDKで、意外に広かった。キッチンを隔てたリビングダイニングは八畳ほどの広さがあり、黒いフローリングにオレンジ色の壁紙が四方を覆っている。壁面には黒沢お気に入りのヌードグラビアから雑誌の切り抜き、領収書、覚え書きに至るまで、表面が鱗状に波立つほど無数に張りめくらされていた。中央にはオットマン付きソファが。濃いバーントアンバーのイタリアンオイルドレザーの高級品だ。小さな、いかにもモダニズム的な硝子テーブルを挟んで、正面の壁に有機ELモニタがぶら下がっている。配線の繋がった床の上のスイッチングハブには、多喜の後ろ首から引き出されたケーブルが有線されていた。
モニタは外部入力にチャンネルされ、多喜の一次視覚野に届くITCの受信情報をリンクしていた。所轄の取り調べを受ける黒沢の姿を捉えた【カメラ4】。マギー・リン模擬人格構造物のアクセスは【sound only】とだけ表示された。これで脳をネットワークしていない詩織を含む、四人のインタラクティブアクセスが可能になったわけだ。
「あたしがお釈迦になってた一週間、色々あったみたいね」
マギー・リン模擬人格構造物は、皮肉なユーモアを交えて言葉を交わした。
「そうだぜ、マギー・リン。そういえばお帰りなさいだな。気分はどうよ?」
黒沢は【カメラ4】の中の動きと、まるで違う返答を返していた。どうやら所轄での受け答えは、分離した下位サブルーチンに任せてあるらしい。
マギー・リン模擬人格構造物は少々声色を荒げた。
「気分はどうよ、じゃないでしょ、黒沢。あんたのせいでこうなってんだから」 「………面目ねえ」
黒沢の声音がトーンダウンする。
そこで多喜が助け舟を出した。
「まあまあ。あの後、こいつはこいつなりに反省してたんだぜ。俺なんか泣き言を聞かされちゃって、………いい迷惑さ」
「それを言うなって、相棒」
あわてて黒沢が多喜の言葉を遮る。
「フン。ま、別にどうでもいいけど。後で多喜にゆっくり聞かせてもらうわよ。さて、………私はどうなのかな? あんまり普通なんで良くわかんないんだけどさあ。身体がなくなった分、身軽になった感じ。あんたたちは、どう? あたし、マギー・リンみたいかな?」
多喜は静かにうなずき、片方の眉を持ち上げた。
「生前の素敵なお尻は拝めないけど、赤いVADSの動きはそのものだったぜ。その減らず口も相変わらずみたいだし」
「あら、ありがと」
そこで多喜は眉間に皺を寄せると、マギー・リン模擬人格構造物に問うた。
「つまるところ、今のお前の存在はVADSのAIシステムと大差ないわけだろ?」
「そうね。チタン合金ケースの小さなプリント基板にすっかり収まってるわけだし。おまけに並列したバックアップもある」
多喜は引っ掛かった疑問に、答えを探していた。
「VADSに、たずねてみたんだよ。お前は(強い人工知能)か、とね。そしたら軽くはぐらかされた。スペックとして、そのようには補償されていません、だと。なあ、マギー・リン、お前はどうなんだ、そこんところは?」
マギー・リン模擬人格構造物は、舌打ちするようなクリック音を鳴らした。
「あたしは、あたし。これが超高度な対話サブルーチンだとしても違いはわからないわ。プログラムされたマギー・リンのパロディだとしてもね」
多喜は首をひねった。
「キャラクター付けされた対話サブルーチンは、意識と区別が付かないってことか?」
模擬人格構造物は面倒くさそうに鼻を鳴らし、
「何だっていいんじゃないの? 少なくとも私は困ってないからさ」
と、マギー・リンそのもののように答えた。
「ねえ、それで? そこの別嬪さんが渋谷のオレモアの………妹さんなわけ?」 詩織は、はたと手を止め、有機ELモニタを見詰めた。どうやらAIと喋るのは初めてらしい。恐る恐る言葉を発した。
「石見………詩織です」
「ああ、どうも。あたし、マギー・リン。模擬人格構造物よ。よろしくね。詩織姐」
多喜は、女二人の様子を黙って見ていた。それから指を組み合わせると、静かに口を開いた。
「石見庸介は、死ぬ間際、二人に何かを伝えようとした。恐らく研究の守秘義務に関わることだろう。で、調べ始めた途端、俺たちは命を狙われた」
「訳知りっぽいヤクザも、土左衛門になっちまったしな」
そう黒沢が補足する。黒沢は一旦言葉を切って、それから多喜に聞いた。
「石見庸介がやってた研究ってのは、何だよ?」
「馬鹿、そいつがわかりゃ世話ねえんだ」
多喜がたしなめる。
そこで詩織が話を継いだ。
「生前の庸介の身辺を探ってみたんですけど、iPS細胞やテロメアの加減制御に関する応用研究の片鱗がありましたね」
マギー・リン模擬人格構造物が声をオクターブ上げた。
「何々? 何の事? 日本語で言ってくれる?」
詩織は照れ笑いを浮かべると、一言に要約した。
「細胞再生に関する何か。だと思います」
黒沢が溜息を吐いて、お手上げした。
「簡単に言われても、さっぱりだな」
多喜は顎をさすりながら呟いた。
「独りよがりの庸介ですら、おののくような研究、なんだろ………」
模擬人格構造物は客観的な事実を挙げた。
「詩織姐には、庸介の心理プロテクトの隙を付く遠回しなヒントが届いた。片山には直接会おうとコンタクトをとった。この違いはどうかしらね?」
詩織は小さく首を振った。
「ヒントとは言っても、結局、私は謎を解いてないですからね。庸介は私に、ただ会いたくなかっただけかも? 元々、仲のいい兄妹じゃありませんし」
そこで多喜は観点を変えてみた。
「こうは考えられないか? 自分が端からオレモア・ヴァンパイアになるとわかっていたら、どうだ?」
多喜は巣鴨パレスで安楽死させた江波ハルを思った。紙のような肌、赤い目玉………。不治の伝染性症候群。
「丸腰の詩織さんが、ヴァンパイアになった自分から逃げるのは無理な相談だ。だが警官なら、訓練された警官なら切り抜けられる、そう踏んだのかもしれない。自分がヴァンパイアに変わってしまう前に、片山徹に事実を伝えるつもりだったのかもしれない」
多喜は肩をすくめた。
「死を前にして、PTSDプロテクトも何もないだろ?」
模擬人格構造物は反論した。
「庸介は待ち合わせ場所の前で発症しちゃったんでしょ? 伝える時間はあったかしら? 仮に聞いたとして、どんくさい片山君はあっさり殺されちゃったわけだし。真実は闇の彼方ね」
そこで黒沢が動揺した声音を上げた。
「でも待てよ、ンじゃ何か? 石見庸介は研究でヤバいことを知っちまって、口封じにオレモア症に感染させられたってことにならねえか?………オレモア症って、一体何なんだよ?」
一同は、そのおぞましい可能性に沈黙した。
オレモア症に故意に感染させ、口封じする。今まで思い付かなかった可能性である。
危険な伝染性症候群の応用研究となれば、それはテロ行為だ。世界有数の持株会社がオレモア症候群に、どう関わっているというのか?
マギー・リン模擬人格構造物は、有機ELモニタに、H+と表示した。
「トランスヒューマン協会、やっぱりこいつが一番怪しいわよ。限りなく黒に近い灰色。大木戸雅治の身辺を洗う必要があるわね」
多喜は同意した。
「そうだな。………協力してくれるか? マギー・リン?」
模擬人格構造物は即答した。
「オーケイ、あんたの頼みなら」
そこに黒沢が割り込んだ。
「おい、俺は? 俺にも声掛けてくれよ」
多喜は皮肉っぽく笑った。
「言っとくが黒沢、一銭にもならんぜ」
黒沢は照れ隠しに冗談めかした。
「わかってるよ、お前の好きな………あれだ、社会正義の為、だろ?」
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