第17話

 十月九日、午後三時。

 石見詩織に多喜から連絡が入った。至急の用件で会いたいという。

 詩織は午後のシフト休憩の間に病院を抜け、セントルークスタワーに向かった。急いで化粧を直し、コートを羽織ると、出掛けに二度鏡を覗いた。ピンクベージュのロングニットにミニ丈のシフォンスカート。いそいそと用意している自分にふと気付く。多喜と会うことが、すごく楽しみになっている。まるで初恋の高校生のよう。詩織は少し火照った頬を両手で打つと気持ちを鎮めた。多喜に貰ったポケットの中の小さなナビゲーションチップを改め、病院を後にした。


 隅田川に面した聖路加セントルークスタワーは、中央付近で通路が架橋接続された四十七階建てのツインビルだ。一、二階が商業施設、三階から四十六階までがオフィス、四十七階が展望レストランになっている。(ちなみに展望室は無料である)詩織の職場からは徒歩五分ほどで、たまに同僚の女の子たちと食事に来たりすることがあった。国際病院の角の横断歩道を渡ると、建物の前の大きな広場に出た。真っすぐに進んでオープンテラス式のコーヒーショップに向かう。多喜が鉢植えの観葉植物の側で手を振るのが見えた。黒い皮革ジャケットにチノパンという、いつもの格好だった。勿論、チノパンは清潔だったし、シャツも臭くない。きっと同じ格好の服装をいくつも用意しているタイプだわ、映画みたいに。そう詩織は都合良く理解した。服装に無頓着な男は、西に傾き始めた太陽が眩しいのか、目をすがめ、詩織に手を振った。詩織も大きく振り返すと、ついつい小走りになる。

「ああ、多喜さん。………遅くなりました」

 息を切らせながら詩織が言った。耳元で星形のピアスが揺れている。多喜は彼女に椅子を勧めながら、

「ご免なさいね。変な時間に呼び出しちゃって。仕事、大丈夫ですか?」

「今、シフト休憩の時間なので。大丈夫ですよ。ちょっと気分転換もしたいところでしたし」

 詩織はニコニコしてしまう自分を押さえられなかった。

 多喜は彼女に好みを聞き、シナモン入りのカプチーノを買って戻った。外の席で寒くありませんかと多喜がたずねると、詩織は今日は暖かくて気持ちがいいですと答えた。

 一息吐いたところで詩織は目を細め、たずねた。

「それで? 急にどうしたんですか?」

 多喜は既に飲み終えた自分のカップを弄びながら、口を開いた。

「昨日の夜、例の(クラブ・ブルー・プラネット)を訪ねましたよ」

「歌舞伎町の?」

「ええ。塚本 武という男に会って来ました」

 詩織は真顔で聞き返した。

「兄のメモにあった名前でしたね。それで?」

「その男、青龍会の幹部候補でしてね」

 詩織の表情に、ぽかんとした疑問が浮かんだ。

「青龍会って、何ですか?」

「ああ、………」

 と、多喜は苦笑いして、誰でもわかる話ではないことを思い出した。

「歌舞伎町に拠点を置く、組織暴力団です。いわゆる………」

「ヤクザさん、ですか?」

 詩織が小声で囁く。多喜はうなずいた。

「それです。それと、もうひとつわかったんですが、(クラブ・ブルー・プラネット)はO&Iホールディングスのグループ会社でしたよ」

「やっぱり。出て来ましたか。親会社が」

「管理運営とセキュリティを青龍会が取り仕切っている」

 詩織は目を丸くした。

「まあ、ホールディングス会社って、繋がりが広いんですね」

 多喜は首を横に振ると、渋い顔をした。

「いやあ、どうですか? ここに限っては異例かもしれませんよ。どうやら青龍会が絡んでいるのはそれだけでなく、何かもっと他の、特別な事業の中繋ぎをしているらしいんです」

「特別な事業?」詩織はおうむ返しにたずねた。

 多喜は声をひそめ、呟いた。

「トランスヒューマン協会。聞いた事ありませんか?」

 詩織は眉間に皺を寄せる。

「いいえ。初耳です」

 多喜は納得した様子で、

「でしょうね。ネットワークでは近付けない領域のものらしい。システムがイントラになってましてね。存在は確実なのですが、内容の方は全く。ホールディングス上層部のやり取りの間で、(協会)という言葉が幾度となく現れてくるんです」

「トランスヒューマンって………どう言う意味なんですか?」

「我々の同僚………というか、(夜の盾)のAIシステム、VADSによるとですね、トランスヒューマンという言葉は二十世紀の中頃に、極偏った連中が考え出した古い哲学思想なんだそうです。人間を超える、次の段階を目指すというような」

「超人思想論? ニーチェですか?」

 多喜は苦笑いした。

「その辺はどうも………。私みたいな人間は、哲学なんて縁がないもんでして………」

 詩織はうなずくと、簡単にニーチェを概要した。

「『ツァラトゥストラはかく語りき』。人間関係の軋轢に怯えない、確立した意思でもって行動せよ、とまあ、そんな話だったような気がします。私も、うろ覚えですけど。個人主義の推奨みたいですね」

 多喜は頭を掻きながら顔をしかめた。

「ウーン、AIの話じゃ、そんな感じじゃなかったな。科学やテクノロジーの積極的な導入で生命観をシフトしよう、っていう風な。人間は人間以上の存在になるためにこれらの科学技術を使用すべきであり、使用できると考えている、………とか何とか」

 詩織は面白そうに笑った。

「楽して超人、ですか。変わってますね」

「連中の、会のロゴタイプを見つけたんです。………Hに+」

 多喜はテーブルの表面に、指で字をなぞって見せる。詩織はじっと見詰めて呟いた。

「人間以上、ですね」

「AIも同じ意見でしたよ」

 多喜と詩織は黙ったまま、吹き抜けて行くビル風を感じた。多喜は両手の指を組み合わせた。

「青龍会は目的もわからぬままに動かされている。そう感じましたね。特に塚本という男はO&Iホールディングスとトランスヒューマン協会の関係を、逆転した風に捉えていましたし。実際そうなのかもしれません」

「トランスヒューマン協会が実権を?」

「ええ。トランスヒューマン協会が提起し、O&Iホールディングスがその実現のため、参画企業をコーディネートする。その管理、進行役が青龍会。実務レベルでは思想や哲学は関係ないですからね。ちなみに会の理事長、誰だと思います?」   詩織は首を横に振った。

「O&IホールディングスのCEO、大木戸雅治ですよ」

 多喜は小さくうなずいた。詩織は無意識に声をひそめていた。

「多喜さんは協会を、危険な思想集団だと考えているんですね?」

「この思想は多分に差別主義を内包している。権力者の抱く危険な幻想ですよ。そいつらには金も力もあって、政府にさえ影響力を持っているでしょう。こいつは既に公安が動く類の案件だ」

「何て恐ろしいこと」

 詩織は怯えた声で呟いた。

 多喜は黙って、詩織の目を見詰めた。鳶色の瞳に暗い影が浮かんでいる。

 塚本の一件を、詩織に黙っているわけにはいかない。多喜は渋々、腹を決めた。多喜は自分のカップを握りつぶすと、話を切り出した。

「我々が塚本 武に揺さぶりを掛けたのは昨日です。そうしたら今朝方、芝浦埠頭で水死体が上がった。間違いなく本人。塚本でした」

 詩織はカップを取り落としそうになった。

「うそ………」

「塚本は知らないながらも、何かを私に語ってしまったのでしょう。自分でもわかっていない何かを」

 詩織は青ざめた顔で言葉を失い、スタイロフォームのカップを握りしめた。

「私たち、大変なことに首を突っ込んでしまったんじゃ………」

 多喜は神妙な顔で呟いた。

「心配しないで。あなたの警備は万全です。あなたに渡したナビゲーションチップがあなたの場所を特定し、二十四時間態勢で静止衛星が追尾している。数台のVADSを常時、百メートル以内に配備しています」

 詩織は不安に駆られたのか、そわそわと辺りを伺った。

「多喜さん、私たち、大丈夫ですか? 何だか凄く恐いんですけど」

 泣きそうな詩織を、多喜は懸命になだめようとした。

「あなたは常に、高速スタティック測位でGPS追尾されてますから………」

「大丈夫だって、言って下さい!」

 詩織が真剣な表情で声を荒げた。

 多喜は言葉を詰まらせた。

 彼女の期待に応えたい。多喜は自分の内側で起きた、小さな発火を意識した。  多喜は詩織の手を握ると、硬い表情で約束した。

「大丈夫。あなたは私が守ります」

 手のひらに詩織の暖かい指先を感じながら、多喜は思った。

 大きな暗い影が二人に圧し掛かってくるのを実感した。この愛おしい、可憐な証人を、自分は守り切れるだろうか? 生存の確率は五分と五分。自分が石見庸介の葬儀に出向かなければ、詩織と知り合うこともなかったのである。詩織の協力を得て、事件は急速に核心へ近付いたが、そのせいで彼女の存在を相手に知られてしまった。多喜はそこに重い責任を感じていた。

 詩織に兄の後追いなど、絶対にさせない。

 させてたまるか。


 多喜は通りに目を向けた。佃大橋を潜り、繋がった並木通りに大きな搬送用トランスポータがゆっくり停車するところだった。深いオリーブグリーンのボディ。陸自の車両らしい。頑丈な固定パネルで多脚戦車を搭載していた。この築地の総合医療エリアには、なんとも似つかわしくない眺めだった。

 多喜はITCでVADSに問いかけた。

(こんなところに陸自かい?)

(アルヴィン社製、MLT8000Jを搭載しているようですね。通称(オニグモ)と呼ばれている多脚戦車です)

(能書はいいよ。陸自だったら公道の走行ルートを交通課に提出するはずだ。チェックしてくれ)

 車両はセントルークスタワーの真正面に止まった。並木の間からオリーブグリーンの車体が覗いている。油圧シリンダの駆動音がして、車体の下から設置脚が現れた。ゆっくりとアスファルトを掴むと、車輪がいくらか持ち上がった状態で固定される。パネルを留めていたロックボルトが外れ、パシッというガス圧の抜ける甲高い音が立った。

「何かしら?」

 詩織も気付いて路上に目を向けた。

 そこでVADSがアクセスしてきた。

(走行ルートの提出はありませんね。気をつけて、多喜。装備は?)

(NBCスーツだけは下に着てるよ。後は9ミリのセンチネルだけ)

(すぐ側に自分の機体が一台あります。いつでも防御に入れます)

 突如、ガスタービンエンジンの排気音が響き、ナフサの燃えるオイルライターのような臭いが立ち込めた。搭載車両が身動きした。暗色の迷彩を施した多脚戦車が、トランスポータの荷台から足を下ろした。複合装甲の強固な爪先が、アスファルトの路面を砕いた。

 (オニグモ)の通称通り、不気味な八本足の戦車は、その重量を感じさせない軽やかな駆動で伸び上がると、二列に並んだ赤い目玉で辺りをセンサー探索した。

 詩織が小さな悲鳴を上げた。

「何ですか、あれ?」

 多喜は詩織の手を引いて立たせた。周囲の客も気付き始め、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。

「さあ、行きますよ。走りますから」

「え? どうして………」

 (オニグモ)は並木をへし折り、花壇を蹴散らすと、セントルークスタワーの広場に乱入した。多脚を踏みしめる度に舗装タイルが砕け、腹に響く振動が下から突き上げた。

「走って!」と、多喜が叫ぶ。

 正に蜘蛛の子を散らすように、オープンテラスの客が逃げ惑った。(オニグモ)はボディ左側面から小型砲台をせり出した。APFSDS弾(装弾筒付翼安定徹甲弾)が、コーヒーショップめがけて発射される。多喜と詩織の頭上を掠めて弾頭が通過した。耳を聾する大音響。テナントが大破した。圧縮された空気が、粉々になった硝子片を辺りに撒き散らす。黒煙が立ち、ねじれるようにオレンジの炎が舞い上がった。

 多喜と詩織はつまずきながらも全力疾走した。考えている暇などない。(オニグモ)は車両頭部を廻らせた。赤い目玉が二人の後ろ姿を見つけ、ロックオンする。ぴったりと詩織をマークしているようだ。

 (オニグモ)は三〇ミリのGAU-8機関砲で周囲を掃射した。油圧系で回転する砲身が低く唸りスピンする。建物の窓が割れ、外壁が砕け散った。詩織が恐怖に駆られ、悲鳴を上げた。

「VADS、何やってんだ!」

 思わず、多喜が怒声を上げた。

「お待たせしました」

 VADSの穏やかなバリトンヴォイスが届いた途端、ビルの側面上方から単分子ワイヤーにぶら下がった機体が急襲した。(オニグモ)に組み付くと、VADSは三番脚に装着された二〇ミリガトリング砲で車両頭部を至近距離から攻撃した。鋼、劣化ウラン、チタニウム合金、セラミック、繊維強化プラスチック、ラバーゴムを積層させた複合装甲は、強靭で簡単に打ち抜くことが適わない。(オニグモ)は一度よろけたが、アクチュエータでVADSを引き剥がすと、三〇ミリGAU-8機関砲を筐体に押し付けた。

 VADSの冷静なコールが多喜に届いた。

「おっと、この機体はやられますね。多喜、D-6装備を射出します。回収してください」

 三〇ミリの弾頭重量三六〇グラムの焼夷榴弾が、毎分一八〇〇発で高速発射され、VADSのチタン合金製筐体を紙屑のように粉砕した。筐体が形を失う寸前に、D-6装備が射出された。アルミ合金製のトランクが緩衝材ごと舗装タイルの上に落下する。落下と同時に緩衝材の梱包が解かれた。だが勢いに押され、防護ヘルメットが舗装の上を弾み、(オニグモ)の足元へと吸い込まれていく。多脚戦車の足元でヘルメットはケブラー繊維とフェノール樹脂の断片へと還元された。

 多喜は舌打ちした。

「ヘルメットなしかよ」

 茫然自失した詩織を一瞬だけ手放すと、多喜はアルミ合金製のトランクを回収した。そのまま多喜は詩織の手を引き、ビル裏手の植え込みを突っ切った。木立の影に隠れると、建物の遮蔽物が電波干渉したのか、(オニグモ)は一瞬二人を見失ったらしい。恐怖のあまり平静を失った詩織は過呼吸に陥っていた。今にも悲鳴を上げそうである。多喜は後ろから羽交い絞めにして彼女の口を塞いだ。

「いいですか。私が何とかします。だから落ち着いて!」

 詩織は激しい息遣いをようやく和らげ、小さくうなずいた。多喜は声を殺して詩織に指図した。

「ポケットの中身」

「………何ですか?」

「ナビゲーションチップですよ。パターン解析されたらしい。………そうなんだろ、VADS?」

 機体を失ったVADSは、静止衛星群シャングリラから二人を観測していた。 (ご名答です。あの多脚戦車は、高速スタティック測位のマーキングシグナルを追い掛けています。精度の高さが仇になりましたかね?)

 詩織は急いで、コートのポケットから小さなボタンほどの発信装置を取り出した。彼女は震える声でたずねた。

「だ、誰と、………話してるんですか?」

「AIシステムですよ。ついさっきまで、あそこで粉々になっている機動兵装の中にいたんですが、今はどうやら衛星から我々を監視しているらしい。ネットワークのあるところ、至るところに偏在する、我々の(相棒)です」

 多喜は詩織の手からナビゲーションチップを奪うと言った。

「あの多脚戦車はこの発信パターンを追い掛けている。だからこれさえ頂けば、あなたは安全だ」

 多喜は詩織を立たせると、ビルの裏口からエントランスの中へと押し込んだ。詩織は振り返って叫んだ。

「多喜さん、あなたは?」

 多喜はちらりと目を上げた。

「私は、大丈夫ですから」

 そう言うと多喜は、トランクを手に植え込みのある中庭を駆け抜けた。(オニグモ)は再びナビゲーションチップの発信パターンを捕らえた。方向を変えると、狭い中庭に突入した。ビルに隠れた詩織には目もくれない。

 多喜は中庭から裏路地に出て、隅田川方向へ走った。道路脇の植え込みをよじ登り、フェンスを飛び越えると、中央区立明石町河岸公園だ。

 多喜はアルミ製トランクを開いてD-6装備を取り出した。フェアチャイルド・アームズ社製V.A.R6000だった。5.56ミリNATO弾仕様の可変アサルトライフルである。擲弾発射のためのグレネードの機能も併せ持つ優れものだ。ともあれ、あの多脚戦車にどのくらい有効なのかが微妙なところだが。

「VADS、あの戦車は有人操縦されているのか?」

「違いますね。遠隔操作でもありませんよ。単純な思考プログラムで発信パターンを追い掛けているだけです」

「じゃあ、遠慮はいらないってことだな」

「現在、応援を要請中です。到着まで約十五分。多喜、頑張ってください」

「お前、あっさりやられたくせに、何だよ………」

 その言葉を言い終わる間もなく、(オニグモ)がフェンスをねじ切って公園内になだれ込んだ。土煙を巻き上げ、八本足の多脚戦車が西日にシルエットを浮かべた。派手な轟音に、公園内の市民が危険を察知し、逃げ出した。子供が一人、自転車で転んで泣きべそをかいた。戦車はふいに立ち止まって興味を示した。

 くそっ、巻き込んじまうな。

 多喜は咄嗟に声を上げ、(オニグモ)に手を振った。

「ほら、そこのダニ野郎。こっちだぜ。俺が相手だ!」

 多喜の声に反応し、(オニグモ)が頭をもたげた。

 多脚戦車の反応は早い。三〇ミリの機関砲を多喜に向けると、いきなり乱射した。しかし、多喜も私服の下には対衝撃抗圧力NBCスーツを着用しており、BEXアタッチメントを装備しているのだった。人間の身体能力の最大二〇倍を引き出す外部骨格装置は、多喜の身体を軽々と空中に跳躍させた。三五〇〇グラムはあろうかという可変アサルトライフルと予備弾を抱えたままである。(オニグモ)の掃射が黒御影石で削り出したイルカのオブジェを粉砕した。多喜は可変アサルトライフルを連射モードにして(オニグモ)の頭部を狙い撃ちした。5.56ミリNATO弾が毎分九〇〇発、発射される。だが、複合装甲の強度は目を見張るものだった。中間のセラミック層が砕けることでエネルギーを吸収し、アラミド繊維が内側への飛散を防いでいるのだ。

 丈夫に出来てやがる。

 (オニグモ)はボディ左側面から、再び小型砲台を迫り出した。APFSDS弾で一気に方を付けるつもりらしい。多喜は素早い切り替えしで、戦車の動きを撹乱した。(オニグモ)は懸命に多喜に照準しようと追尾した。大型多脚戦車の欠点はボディ本体が高いということだろう。ガッツさえあれば、あっという間に背後が取れる。つまり、足の下を潜ればいいのだ。多喜は八本の危険な足回りを、並外れた敏捷さで潜り抜けた。がら空きの背後に出る。(オニグモ)は振り返ろうと左側面を多喜に向けた。無防備な小型砲台がこっちを向いている。多喜は可変アサルトライフルをグレネードモードに変形させると、擲弾を見舞った。小型砲台の隙間から打ち込まれた擲弾は、内側でAPFSDS弾を誘爆させ、装甲の一部が吹っ飛んだ。

 よっし、初弾ヒット! 

 多喜はすかさずモードを切り替えると、窒素ガリウム系緑色半導体レーザーポインタで狙いを定め、NATO弾を三点バーストで撃ち込む。(オニグモ)は慌てて、歩行脚を持ち上げ、装甲の割れ目を防いだ。間髪を入れず三〇ミリの機関砲が唸りを上げる。多喜は反射的に飛び去った。芝生が飛び散り、赤レンガの舗装が剥ぎ取られていく。

 多喜は川岸に向かって芝生の斜面を駆け下りた。ナビゲーションチップの発信パターンに引かれ、(オニグモ)も追い掛けてくる。さっきの誘爆で回路のどこかがやられたのか、三〇ミリのめくら撃ちが始まった。多喜はコンクリートで出来たモニュメントの背後に身を伏せた。

 馬鹿なAIめ。そのうち弾を撃ち尽くしちまうぞ。

 だが、モニュメントは猛烈な火力の前に土塊のように粉砕されて行った。弾が尽きるか、先にモニュメントがなくなるかの勝負である。コンクリートの中の鉄筋が辛うじて残骸の飛散を防いでいた。無論、多喜は弾切れまで待つ気など更々ない。弾帯が途切れ、次の装填までの僅かの隙を逃さなかった。多喜はアサルトライフルをストラップで背負うと、一瞬で高い跳躍を決め、(オニグモ)の側壁に飛び付いた。三〇ミリの機関砲に組み付き、整備ハッチを開いた。油圧式のギア機構が見える。多喜は黒皮のジャケットからキャメルのパッケージを取り出すと、中身ごとギアに突っ込んだ。(オニグモ)は身をよじって多喜を振り落とそうともがいた。

「さあ、撃ってみやがれ」

 機関砲は再装填の手続きを終え、発射を試みた。ギアがキャメルのパッケージを巻き込んだ。どこか奥の方で不具合が生じ、三〇ミリの弾丸がジャミングを起こした。弾は再装填されず、機関砲は沈黙した。これで火器兵装は制圧だ。

 そう油断した、その時だった。(オニグモ)は一番脚を持ち上げ、多喜の身体を引っ掛けると、勢い良く弾き飛ばしたのだ。

 しまった! 

 身体は宙を舞い、半壊したモニュメントを突き抜け、時計塔の外壁に叩きつけられた。衝撃でタイルが粉々に吹っ飛んだ。何とか頭は庇ったものの、対衝撃抗圧力NBCスーツでも防げぬ強い衝撃だった。多喜は瓦礫の下で咳き込み、血反吐を吐いた。息が出来ない。多喜は必死の形相でもがいた。

 油断大敵だ。マギー・リン、俺もぬかったぜ。

 多喜はふいに一週間前のマギー・リンの最後を思い出していた。(オニグモ)が物凄い勢いで近付いてくるのが見えた。だが思うように身体が動かない。一瞬、多脚戦車の足の下で潰れる様を想像した。くそ、これで俺も最後か。

 悪態を吐いたのは自分のつもりだった。

 だがITCに着信したのは女の声だった。

「畜生、これで最後か、とか思ってる?」

 呆気にとられた多喜の目の前に、赤く塗装を施されたVADSが乱入した。二番脚にロケットランチャーを構え、(オニグモ)に多脚戦車用スタンガンを二発見舞った。発射された弾丸は滞空中に展開すると、巨大な十字架のような物体となった。ヒットすると同時に鈎爪が戦車に組み付き動作を封じる。スタンガンは見事二発とも命中。運動エネルギーを効率よく叩き込むと、(オニグモ)を十メートルほど吹っ飛ばした。

 そこに聞き覚えのある声が届く。

「待たせたな、多喜。今、返り討ちにしてやるからな」

 黒沢だった。黒沢VADSが飛び込んできて、スタンガンで動けなくなった(オニグモ)に駄目押しで二〇ミリを浴びせた。多喜は瓦礫から這い出しながら考えた。

 あの女の声、どこかで聞き覚えがある。誰だっけ? 

 多喜は朦朧とした意識のまま、二体のVADSと(オニグモ)の攻防を眺めていた。複合装甲の前にVADSの二〇ミリはまるで無力だった。スタンガンで動きは封じているものの、(オニグモ)が動作を止める気配は微塵もない。(オニグモ)は自由な三本の脚を巧みに使って体勢を立て直した。

「おっと、危ねえ!」

 黒沢は叫ぶと、敏捷に間合いを取った。

 (オニグモ)は強引に爪先をスタンガンの鈎に挟み込むと、力任せに引き下ろした。二番と五番脚を犠牲にしてスタンガンの鈎が外れた。胴体の接合部から外れた二本の多脚が勢い良く舗装路に倒れ込み、地響きと共に土煙を上げた。

「何よ、こいつ! 気に入らないわね」

 赤いVADSが憤慨する声が聞こえた。一次視覚野のモニタに、赤いVADSの搭載カメラはリンクしていなかった。表示は【no passenger】、搭乗者なしである。

模擬人格構造物か。多喜はそこでようやく思い当たった。

 まさか、マギー・リン? 

 そこで不意に多喜は我に返った。

「黒沢、マギー・リン、あいつを川に向かって押してくれ!」

 二人の返事が重なった。

「了解」

 いつものコンビネーションだ。  

 黒沢VADSと赤ラメ塗装のVADSは(オニグモ)の東側に回り込んで、二〇ミリガトリング砲を連射した。毎分六千発をスピンアップする、一〇〇グラムタングステン合金弾がヒットする。貫通力はなくとも、(オニグモ)は、じりじりと川岸へ押されて行く。芝生の植え込みを越え、煉瓦舗装路に押し出した。

 手すりまで後三メートル。

 多喜はポケットから、ボタン大の小さなナビゲーションチップを取り出した。それから(オニグモ)に向かって声を掛ける。

「おい、こっち見ろよ!」

 二列に並んだ赤い目玉が、ぎろりと多喜を睨んだ。

「取って来な、ワン公」

 多喜は勢い良くナビゲーションチップを投げた。隅田川の暗い川面を、チップが石きりのように跳躍する。

(オニグモ)の赤い眼球が吸い寄せられるように川面を覗いた。多脚戦車は舗装路を踏み切ると、手すりを越え、隅田川へダイブした。

 馬鹿なAIめ。  

 墨田川の河畔は意外に深く、(オニグモ)の車体がどっと沈んだ。多喜がグレネードの擲弾で破壊した左側壁から勢い良く水が流れ込む。たちまち防水性を失った電子回路がショートし、白煙が立った。悲しいかな、装甲がなくなれば、そこらの家電製品と何ら変わらない。

 動作停止。

 多喜は、西日の当たる河川敷にしゃがみ込み、沈んで行く(オニグモ)を眺めた。遠くから救急車両の近付くサイレンが聞こえた。

 多喜は救援隊の二人にITCで呼び掛けた。

「黒沢、ありがとな。やばかったぜ。それからマギー・リン、………お帰り」

 マギー・リン模擬人格構造物は、生意気な口を効いた。

「一週間のご無沙汰かしらね、多喜。ちゃんと働いてた?」

「まあ、ぼちぼち」

 多喜は苦笑いを浮かべ、痛みに顔をしかめた。

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